16. 竹香の幸せ
数日後、竹香のもとに、軟膏のはいった小さな黒い瓶が届けられた。
誰からかしら。
手に取ってみていると、洗濯部の仲間からが集まってきて、
「誰かと付き合っているの」と冷やかした。
考えられるのは、中柿おじさん。でも、この黒い瓢箪のような形の小瓶は、見ただけで、とても高価なものだとわかる。おじさんには到底買えないだろう。
だから、誰がくれたのか、心あたりがない。
「つけてごらんよ」
仲間に言われて、試してみると3日ほどで効果が出てアカギレがよくなってきた。すごい。みんなもほしいというので分けて使ったら、すぐになくなった。
その数週間後、竹香に異動の内示が出た。
洗濯部から配置換えになり、あの芍薬麗園の主任に抜擢されたのだ。
芍薬麗園、
わたしが、主任ですか?!
芍薬麗園で働くのは願ってもないことで、それも主任なんてうれしすぎる。花は大好きなのだけれど、特別に詳しいというわけではないので、抜擢された理由がわからない。
「コネかい?いや、それはないよね。あったら、もっと早く異動したさ」
「真面目によく働いていたのが、認められたんじゃないかい」
「とにかく、昇進だ。おめでとう」
とみんなが口々に言ってくれた。
竹香は小菜と楽しく遊んだあの庭が、仕事場になるのかと思うとまるで夢のようだ。
もしかして、小菜の作戦が成功して、ついに皇帝に見初められ、妃に選ばれたのだろうか。そして、わたしにこの仕事をくれた、としか考えられない。
でも、それはないだろうと竹香は首を傾げる。小菜が新しい妃になったら、すぐに連絡が来るはずだし、そういう噂は流れてきてはいないのだから。
芍薬麗園に行ってみると、しばらく手入れをしていないらしくて、庭のあちこちに落ち葉がたまっていて、池にも浮いていた。切り取ってやらなければならない古葉がたくさんあった。
まずは掃除から始めよう。こういう片付けは得意だと竹香は張り切った。
新しい仕事について3日、かなりきれいになった芍薬麗園に、あの離山がひょっこり現れた。
「ずいぶんきれいになりましたね」
その顔は先日のように青白かったが、口元がやさしく微笑んでいた。
「新しい仕事はどうですか。気にいりましたか」
「はい、とても」
「それはよかった。やはり竹香さんが適任でした」
「もしかして、このお仕事は、離山さまがくださったのですか。あの軟膏も」
「そうだとしたら、……ご迷惑でしたか」
彼の顔から、明るさが消えた。
「いいえ」
自分の声に問い詰めるような響きがあったのかもしれない、と竹香の心が騒いだ。
「違います。この庭は大好きなところなので、とてもうれしいのです。でも、わたしに、こんな大役が務まるでしょうか」
「もう庭が、こんなにきれいになったではないですか。これ以上、向いている人はいません」
「わたし、花のことをよく知りません」
「それは心配しなくてよいですから」
離山が入口のほうを向いて手を上げると、家来が本を3冊抱えてやってきて、それを腰かけ石の上に置いて去って行った。
「これで、勉強するといい」
竹香はさっそく本を手取ってみた。一番上のは古い書物で、むずかしい言葉が並んでいた。次のには絵図がはいっていて、努力をすれば読めそうだと安心したが、一番下のはもっと絵図が多かった。
「はい、勉強します。ありがとうございます」
竹香が離山を見上げて、これなら読めそうですというように絵図の多い本を見せた。
恥ずかしい。
離山さまのような秀才になら、字がかりの本だって、読むのなんか、さぞかし簡単なのだろうな。
「本がもっと必要でしたら、言ってください」
「はい」
「意味がかわらないところがあったら、質問してください」
「はい」
高級役人になると、大きな家を与えられ、人の配置換えもできる力があるし、ほしいものは本でも薬でも、何でも手にはいる。だから、人間は役人になりたくて、その難しい試験をバスするために、徹夜の勉強を続けると聞いている。
「離山さまは、たくさん勉強されたのですか」
「えっ。何ですか」
「役人になるために、たくさん勉強されたのですか」
「しましたよ。はい、たくさん勉強しました」
離山は少し辛そうな顔をした。
勉強ばかりしていたから、こんなに痩せているのだろうと竹香は思った。
「大変でしたか」
「はい」
「優秀な方でも、勉強は大変なのですね」
「大変なのは、そこではなかったけれど」
「どこですか」
「どこだろう。忘れました」
「頭のよい方が、忘れることがあるのですか」
「あります。忘れたいこともあります」
へーっ。
竹香が奇妙な声を出してから、それに気づいて赤くなった。
「どうかしましたか」
「すみません。離山さまなら、絶対に何も忘れないと思っていたのですが、同じだなって、思っちゃいました」
「何がですか」
「わたし、しょっちゅういろんなことを忘れます」
「人は、だれでも忘れますよね」
と離山が笑った。
「それに、忘れたいこともあります」
「忘れたいことは何ですか」
あーっ、
竹香はまた叫んでしまい、失敗したという表情をして、あわてて手で口を抑えた。
「ああ、忘れたいことはもう忘れてしまって、もう覚えていないです」
離山が、おもしろい子だという顔をして、「そうですよね」と微笑んだ。
竹香は芍薬霊園の仕事が大好きだったから、早朝から暗くなるまで働いた。時々、青い装束を見たような気がして、腰を上げると、その姿は消えていた。
気のせいかしらとおもったが、時には青い装束が近づいてきた。
やはりその影は離山で、一言二言、声をかけてくることもあった。
「庭はどうですか」
「新しい花が咲きました。とてもかわいいです」
会話といっても、そんな程度である。
そんなある日、離山が庭にはいって来た時、竹香は用意しておいた小さな包みを手渡した。
これ、どうぞ。
「なんですか」
「ささやかなお礼です」
彼が包みをあけると、竹の葉に包まれた餅がはいっていた。
「ナツメ餅ですか」
「そうですけど、よくわかりましたね」
「ぼくの一番好きな食べ物です」
「そうなのですか。よかったです。ほしかったらもっと作りますから、たくさん食べて、もっと太ってください」
「もっとほしいです。たくさん食べて、太ります」
竹香はうれしくなって微笑んだ。
「わたし、たくさん作ります。わたしの友達にも、これが大好物という人がいて、……」
離山は竹香の次の言葉を待ったが、その言葉は続かなかった。
「その人が、どうしたのですか」
「いいえ、忘れました。その人のことは、もうどうでもいいんです」
「どうでもいいことは、ないでしょう」
「その人はちょっとだけ離山さまに似ているところがあって。ああ、雰囲気だけ、です。あとは全然似ていません。年齢だって全然違いますから。あちらのことは、もう全部、忘れました」
離山の顔が夕陽に照らされて、いつもより青白く見えた。
「離山さま、そんなに悲しい顔をしないでください。もう、よいのですから。その人からは、いろいろ学ばせてもらいましたから」
「何を学んだのですか、その人から」
「……人生……」
「もっと聞かせてくれませんか」
「離山さまは、なにをお知りになりたいのですか。もっと聞かせたら、どうなさいますか」
「聞かせてくれたら、……空を飛んでみせます」
竹香がはははと笑った。
「離山さま、気になさらないでください。わたしは大丈夫ですから。都に来てからは、楽しいことばかりで、こんなお仕事もいただいて、わたし、幸せなのですから」




