86 少年時代の終わりと思春期の始まり
藤城皐月は及川祐希に出会った時、ときめきのような感情の高ぶりを感じた。祐希と出会う前に学校のプールで入屋千智と出会った時もドキドキして、気持ちが高揚した。
プールからの帰りには検番で芸妓の明日美とも会った。皐月は小さな頃から明日美が大好きで、大人になったら結婚したいと思っていた。そんな明日美と久しぶりに会えたのが祐希や千智と出会った同じ日だった。
その日の夜、幼馴染の栗林真理が母の小百合に呼ばれて、家で一緒に祐希たち家族の歓迎会をした。祐希が現れたせいなのか、真理と皐月の関係がただの幼馴染から異性に変わった。
一日でいろいろなことがあり過ぎて、皐月は自分でも祐希に対する感情がなんなのか、よくわからなくなっていた。
夜の豊川駅で祐希が恋人と一緒にいるところを見たこともあった。その直後、祐希の部屋で恋バナまで聞かされた時はあまりいい気分ではなかった。祐希がいくら魅力的でも、恋人のいる女の人に入れ込んだりしたら悲劇的な未来しか待っていない。
「それよりさ、入屋ってまだ下にいるの? もう祐希さんと遊びに行っちゃったの?」
月花直紀は兄の博紀のことで千智に謝りに行っていたので、まだ戻ってこない千智のことを気にしていた。
「うん。もう遊びに行ったんだって」
「そっか……」
「なんだ。祐希さん、もういないのか」
直紀だけでなく博紀まで残念そうな顔をしている。
「なんなら今から追いかけるか? それだったら付き合ってやってもいいぜ」
「いや、いいよ……」
皐月は本気で博紀に付き合うつもりでいた。いっそ博紀の手を引っ張って、博紀を放っておいてでも祐希と千智を追いかけたいぐらいだ。
男同士で遊んでいるのも楽しいけれど、女の子と遊ぶことの楽しさが皐月にも少しずつわかってきた。そしてそれは皐月だけでなく、ここにいる悪ガキたちもみんな同じはずだ。
「入屋って、俺たちのこと避けてるのかな?」
直紀が悲しそうな顔をしていた。
「千智はただ単に祐希と街歩きをしたかっただけじゃないかな。外はまだ暑いけど、それでも少しは過ごしやすくなってきたんだし」
「俺、学校でも避けられてるみたいだから……」
「今日こうして一緒に麻雀して遊んだんだから、大丈夫だろ」
直紀は教室での千智の変化をずっと気にし続けていた。皐月は千智の口から真相を聞いているので、ここで直紀をフォローすることもできた。だが、皐月は知らないふりをするつもりだ。
「皐月君は入屋さんと祐希さんがいなくなって寂しくないの?」
「ん? そりゃまあ、少しは寂しいけどさ……。同じようなこと、さっきも下で頼子さんに聞かれたぞ。なんなんだよ、俊介まで」
「だって入屋さんって、祐希さんじゃなくて皐月君と遊びに来たんでしょ? それなのに皐月君のことほっといていなくなっちゃうなんて、おかしくない?」
「ははは。俺、振られたのかな。麻雀に付き合わせたのがいけなかったかもね」
「そんなこと言われたら、押しかけてきた僕たちが悪いみたいじゃんか」
「あ、ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。ただいきなり男子四人に囲まれて、そのうえ慣れない麻雀なんてやってたら疲れるだろ、千智だって」
罪悪感は皐月だけでなく今泉俊介も感じていたようだ。だから俊介は千智を楽しませようと頑張っていたのか、と今さらながら皐月は俊介の行動を振り返り、感謝した。
「やっぱ僕たち、デートの邪魔しちゃったんだよね」
「そんなことねえよ。気にすんな」
「気にするよ。だって皐月君って、入屋さんと付き合ってるんでしょ?」
「いや……付き合うとか、まだそういう段階じゃないから」
今朝、俊介と千智のことを話していた時にはそんな話じゃなかったはずだった。どうして俊介がこんなことを言い出すのか皐月にはよくわからなかった。
「でもお前、入屋さんのこと好きなんだろ?」
博紀の話し方はいつものようなからかう口調ではなく、穏やかだった。皐月は博紀に誰が好きかを聞かれたのは初めてだった。博紀は自分がモテ過ぎるので、他人の恋愛には無関心だと思っていた。
「まあ好きだよ、そりゃ」
「その好きってのは恋愛感情じゃないのか?」
「だからまだそういう関係じゃないって。俺たちまだ知り合ったばかりだぞ」
「でも入屋さんを部屋に連れ込んでた。それにさっき手を繋いでいただろ」
「目がいいな、お前」
「お前らって、狐塚に行く時も手を繋いでたよな」
「見てたのか」
「ああ。あの時のお前らを見て、付き合ってんだって思ったんだ。恋人同士でもないのに、手を繋ぐのははおかしいだろ?」
「なんだ、恋人同士じゃないと手を繋いじゃ悪いって言うのか」
皐月は弄んでいた麻雀牌を自摸和った時のように卓上にパアンと打ちつけた。大きな音に直紀と俊介がビクッとした。これは雀荘だと怒られるマナーの悪い行為だ。
どいつもこいつも今日は変だ。そして自分もどこか変なんだろうな、と皐月は思った。少なくとも千智がこの家を出て行ってしまったことに少なからず動揺しているのは確かだからだ。
「今日はさ、女子がいたからちょっと空気がおかしいんだよ。俺と違って、兄ちゃんも俊介もマセているからさ。ちょっと頭がおかしくなってるんだよ」
「なんだよ、人のことキチガイみたいに言うなよ」
直紀に諌められると素直になる博紀を皐月は好ましく思っている。四人でいるといつも博紀が場を乱し、直紀が場を平らにする。
「今日は珍しく四人揃ったんだからさ、久しぶりに四人ベースやろうよ。俺、そろそろ体動かしたくなってきた」
「いいね。博紀君がサッカーやるようになってから、四人でやる機会がなくなっちゃったよね。久しぶりだ」
『四人ベース』というのは場所によっては『がんばこ』と言ったり『天大中小』という名前だったりする。日本スポーツ協会で紹介されている天大中小の遊び方とは違って、皐月たちのはテニスボールでやり、もっと激しくてスピーディーだ。狭い路地でも手軽に遊べるので皐月の町内では人気の遊びだが、学校の友達にはあまり知られていない。
直紀の提案で麻雀はお開きとなった。皐月は麻雀牌やノートPCを片付け、直紀たちに食器を片づけてもらうことにした。
「階段急だから気をつけろよ」
「お前ん家の階段、怖えんだよ」
「でも面白い。僕は好きだけどな」
外はだいぶ日が傾いていた。小百合寮の前は狭い道なので、建物で日陰になっていて、過ごしやすくなっていた。
地面に線を引き、四人ベースの準備が終わった。男四人だけの今まで通りの幼馴染に戻った。
それでも皐月は今までの自分とは大きく変わってしまったと感じている。直紀や俊介はよくわからないが、博紀も自分と同じで、女の子を異性と感じ始めているのだろう。
ここにいる四人はみんな背が伸びた。だから道路に引かれた田の字のラインが狭く感じる。やっぱり今までとは違うんだな、と皐月は少し寂しくなった。
明日からまた博紀はサッカーに戻るだろう。俊介や直紀は皐月の家に祐希が来たことで、今までのように気軽に遊びに来てくれなくなるかもしれない。どのみち中学に上がれば一緒に遊ぶことはなくなるだろう。
そう考えるとこの遊びも今日が最後かな、と皐月は少年時代の終わりと思春期の始まりを感じた。