61 親の前で泣く
入屋千智との電話を切り、藤城皐月は階段を下りた。居間では母の小百合と同居人の及川頼子が素麺を食べ始めていた。
「遅いよ! もう2分たった。麺が伸びちゃうよ」
「別にちょっとくらい遅れたっていいじゃん。それにママたち、もう食べてるし」
「せっかく頼子が作ってくれた素麺が美味しくなくなっちゃうじゃない」
「まあまあ小百合、そんなに神経質にならなくてもいいのよ。皐月ちゃんだって、都合ってものがあったんだろうし」
「どうせ電車の動画でも見てたんでしょ」
「違うよ。友達と電話してたから、すぐに切れなかっただけじゃん」
少しイラっとしたが、目の前の素麺を見てすぐに気持ちが切り替わった。
「何、この素麺。超うまそー」
いつもの素麺と違ってつけ汁で食べるのではなく、ぶっかけ素麺だった。麺の上には豚のバラ肉と大根おろしが盛られていて、さらに貝割れ大根や紫蘇、分葱が薬味として散らされている。麺つゆには胡麻油が合わせられていて香ばしい香りが食欲をそそる。
「いっただきま〜す!」
生の玉葱が食べられない皐月には火の通っていない分葱も苦手な野菜だが、この料理では余裕で食べられた。大根おろしのさっぱり感と豚バラと胡麻油のこってり感が絶妙で、箸が止まらない。
「そんなに美味しそうに食べてもらえると嬉しいわ。ところで友達ってスマホの写真の女の子?」
「えっ、そうなの?」
ぎょっとして麺を食べる箸が止まった。皐月は食べていたものを慌てて飲み込んだ。小百合も驚いていた。
「そうだけど……頼子さん、よくわかったね。エスパーみたいで怖っ!」
「嬉しそうな顔してたからね、皐月ちゃん」
「頼子、よくわかったわね。私なんて全然気付かなかった」
「年頃の娘と暮らしているとね、気取るのが上手になるのよ。超能力じゃないから安心してね、皐月ちゃん」
今まで気付かなかったが、頼子と比べると母の小百合は相当鈍いんじゃないかと思い始めた。小百合が敏感なのは嗅覚だけだ。
「それでさ、今日その千智って子をうちに呼ぼうと思うんだけど、いい?」
「もちろんいいに決まってるわよ。ちゃんと私たちに紹介してくれるんでしょうね、その千智ちゃんって子」
小百合があまりにも嬉しそうな顔をしているので、皐月の警戒レベルが跳ね上がった。
「ちゃんと紹介するからさ、あまり大げさなことはやめてくれよ」
「あんたが家にガールフレンド連れてくるなんて初めてじゃない? これを喜ばずにいられますかって〜の」
「今までだって、真理がしょっちゅう来てたじゃん」
「真理ちゃんは兄妹みたいなものでしょ。何言ってんの、あんたは」
皐月は栗林真理のことを幼馴染から女の子へと意識し始めたのに、小百合にとっては真理は自分の子供のように思っているらしい。
「小百合。私、あとでケーキ買ってこようか?」
「4つ買って来てもらおうかしら。私たちの分も含めて」
「だからそういうのやめてくれって言ってんじゃん!」
手にしていた箸を箸置きに置いて皐月が怒った。
「小百合、はしゃぎ過ぎよ。皐月ちゃんたちを二人にさせてあげなさい」
「私たちは別室で食べるのよ。ケーキ買ってこようとか、実は頼子の方が舞い上がってるんじゃないの?」
「てへっ、バレた?」
「もう、喋ってばかりいないで素麺食べろよ。伸びちゃうよ」
皐月の一声で三人は食べることに戻ったが、すぐに小百合が話し始める。
「ところで、うちのどこで会うつもりなの? あなたの部屋じゃ狭すぎるでしょ」
皐月が友達を家に呼ぶ時、今までは祐希の部屋だったところで遊んでいた。住み込みの人が誰もいなかった頃は部屋が余っていたので、贅沢に一部屋を遊び部屋として使っていた。
「この部屋でいいよ。ケーキ食べたらすぐに出かけるから」
「あら皐月ちゃん、ケーキ食べる気満々だったのね。よかったわ」
「あんたもそんな、逃げるようなことしなくたっていいのに」
「だって遊ぶとこなくなったじゃん」
「そんなこと言うんじゃありません!」
いつもよりも強く母に叱られ、皐月は自分の失言に気がついた。
「ごめんね、皐月ちゃん。私たちがこの家に来ちゃったせいで」
「そんなつもりで言ったんじゃないんだけど……」
本気で申し訳なさそうな顔をしている頼子を見て、皐月の顔から血の気が引いてきた。
「この部屋で遊ぶか、よその家で遊べばいいでしょ。これまではたまたまお弟子さんがいなくて、空いていた部屋を使わせていただけなんだから。あんたがそんな風に偉そうなことを考えてるなら、最初からあんたに部屋なんか与えなければ良かったわ」
「まあまあ、小百合もそんな言い方しちゃだめよ。狭い部屋に押し込められた皐月ちゃんが一番辛いんだから」
「ごめんなさい。俺、自分のことしか考えてなかった。頼子さんや祐希のことまで気が回らなかった」
小百合から頼子に視線を移した瞬間、皐月の目から涙があふれ出した。
母に叱られたことのショック、頼子たちの境遇に思いが至らなかったことへの迂闊さ、頼子の優しさに触れたことへの安心感、そして自分の不幸にあらためて気付いた惨めさ……。
「皐月ちゃん、泣かなくてもいいのよ。私、ここに来て幸せなんだから。皐月ちゃんもいい子で良かった。皐月ちゃんと会うまでは上手くやっていけるか自信がなかったの」
「私の子だからいい子に決まってるわ」
声を出さないよう我慢をしていたが嗚咽が漏れてしまった。
「ケーキ食べた後出かけるんだったら、パピヨンに連れて行ってあげなさいよ。コーヒーチケット使ってもいいし、何頼んでもツケておいてくれればいいから」
「……うん、わかった」
テーブルの上に何もないので、皐月は涙を手でぬぐった。濡れた手を服で拭くと、母に窘められた。