60 初めての電話
藤城皐月はメッセージアプリから通話に切り替えて、入屋千智と話し始めた。
「もしもし? 聞こえる?」
「聞こえま〜す」
「よかった。ちゃんと使えてる」
「初めて先輩と電話で話すね」
「なんか照れるね。……それはそうとさっきの話だけど、暑いから会うのは涼しいところがいいかなって思ってさ。涼しいとこで、どこか行きたいところってある?」
無計画な行動のせいで、先のことを何も考えていなかった。
「藤城先輩っていつもどこで遊んでいるの?」
「エアコンが効いているところだったら、自分ん家か友達ん家かな。一人だったら検番か喫茶店に行ったりもするけど」
「ケンバンって何?」
「芸妓組合の事務所っていうか稽古場っていうか、そんなところ。ちょうど学校の帰り道にあるし、検番にはママとお母さんがいるから自分の家みたいにお茶飲みに立ち寄ったりしてる」
「ママとお母さん?」
「ああ、ママが自分のお母さんで、お母さんはママの仕事の元締めの超ベテランの芸妓さんのこと」
「ああ、そういえば前に教えてもらったね」
皐月が祐希と千智と初めて会った日に、自分の母のことをママと呼んでバカにされたことがある。あの時はうまく切り抜けたが、皐月にはトラウマ級の出来事だった。今でも思い出すと「わ〜っ!」と叫びたくなる。
「私、本物の芸妓さんって見たことない。その検番って、普通の人じゃ入れないところだよね」
「まあ職場だからね。でも俺みたいな芸妓の子供は小さい頃から京子さんに面倒見てもらってきたから、検番は第二の家って感じなんだ。同じクラスに俺と一緒に検番で預かってもらってた幼馴染もいるよ。千智さえよかったら、芸妓さんを見に検番に行ってみる?」
「え〜っ、さすがにそれはちょっと気が引けるかな……。綺麗な芸妓さんは見てみたいけど、子供の行くところじゃないような気がする」
「別に綺麗な人なんてあまりいないけどな……まだ化粧もしてないし、着物も着てないし」
皐月の脳裏に明日美の姿がよぎった。明日美に千智を見せびらかしたいような、千智に明日美を見せびらかしたいような浮ついた気持ちになる。そして、二人の反応を見比べてみたい。
「それよりも先輩の家に行ってみたいな。祐希さんの家でもあるし」
「じゃあ、とりあえず家に来てもらおう。後のことは家で考えよっか」
「うん」
皐月は自分の部屋を見て、この部屋に入れるのかと心がざわついた。
「祐希はまだ学校から帰っていないと思うけど、家には俺のママと祐希のお母さんがいるよ。大丈夫?」
「別に大丈夫だけど、どうして?」
「いや……人の親って緊張するかなって」
皐月は自分が緊張しているのを千智のせいにした。母親に好きな人を見られるのは、自分の裸を見られるよりも恥ずかしい。
「私なら藤城先輩に恥をかかせないよう振舞えると思うよ。検番の芸妓さんに会うのはちょっと怖いけど」
「うちのママも祐希のお母さんも一応芸妓なんだけど」
「あっ……」
千智の反応にウケて皐月が笑うと、皐月以上に千智が大笑いした。
「皐月〜、ご飯できたよ〜」
階下から母の小百合の声が聞こえてきた。千智とはまだ話の途中だ。
「あと3分待って」
「だめ。あと1分」
アメリカ映画にそんな言い回しがあったかな、と思い出しながら通話に戻った。
「お昼御飯ができたんだって。じゃあ駅で待ち合わせようか。名鉄の豊川稲荷駅ならわかる?」
「うん」
「じゃあ駅の前で待ってるよ。時間は1時半でいいかな?」
「1時30分ね、わかった」
「それじゃあ、また後で」
これで千智を家に呼ぶことが確定した。この後、親に伝えることを考えると緊張して、さっきまであった食欲がどこかへ消えてしまったような感じになった。