45 夏休み最後の夜
藤城皐月が風呂に入っていると、及川祐希が帰ってきた。頼子が何か怒っているような声が浴室まで聞こえてきたが、どんな話をしているのかまでは聞き取れない。
親に叱られているところなんて人に見られたくないと思うと、やはりあらかじめ風呂に避難しておいて良かったと思った。皐月は他人の家族と同じ家に一緒に暮らすことの複雑さを感じないわけにはいかなかった。
風呂を出て、エアコンで涼しい居間でお茶を飲みながらインスタの鉄道写真を見ていると気持ちが鎮まってきた。この部屋には祐希も頼子もいない、自分一人だけの世界だ。眠くなるまで居間でゴロゴロとした。
自分の部屋に戻ると、エアコンがついていないので蒸し暑くて気持ち悪かった。部屋を隔てている襖の隙間から光が見えるので、祐希が部屋にいることがわかった。一応挨拶をしておこうと思い、襖をノックすると返事があった。そっと襖を開けると、エアコンの冷たい空気が流れ込んできた。
「おかえり。帰ってたんだね」
「ただいま。お風呂に入っていたみたいだから、声をかけられなかったよ」
皐月も自分の部屋のエアコンの電源を入れた。
「明日から学校だね。高校って楽しい?」
「楽しいよ〜。小学生の時よりも楽しいかな。皐月は学校楽しい?」
「そうだね……まあつまんなくはないかな」
「皐月って好きな子いるの?」
「え〜っ、そんなのいないよ。なんでそんなこと聞くの?」
「好きな子ができると学校って楽しくなるよ」
「そんなもんかね…」
祐希が恋バナをしたがっているのがわかる。しかも自分の好きな人のことを聞かれたがっている。
「こっちの部屋においでよ」
どうせさっき一緒にいた男の話をしたいのだろう。なんか面倒だな……と思いながらも、誘われるままに祐希の部屋に入って畳に腰を下ろした。皐月は幼い頃から芸妓の明日美に「女の子の話は聞いてあげなさい」と言われてきた。気が進まないが、今日は試しにその言葉を実践してみようと思った。
「じゃあ、祐希が高校楽しいのは好きな人がいるから?」
「そうだよ」
「そっか……。じゃあ明日が待ち遠しくてしかたがないね」
「うんっ!」
嬉しそうな顔をして、もっと聞いてくれという感じを出している。そんな祐希を見ていると、皐月は年上なのに祐希のことをかわいいなと思った。でも祐希の嬉しそうな表情は、隣の席の筒井美耶が自分に向けられた顔とは何か違うし、昨日出逢った入屋千智とも違う。この違和感が皐月をモヤモヤとさせる。
「そういえば千智からメッセージ届いてた?」
「うん、来てたよ。知ってたんだ」
「先に俺のところにメッセージが来てたんだ。祐希によろしくって書いてあったから、自分でメッセージを送ればいいじゃんって返しておいた」
「そんな言い方したらだめでしょ」
こういう言い回しはだめなのか、と皐月は反省した。女子と話すのは簡単だけど、上手く話すのは難しい。皐月は女子相手でも男子のように話してしまう。
「なんかね、千智って祐希が高校生ってことで、メッセージを送るのに躊躇してたんだって。別に祐希だったら遠慮したくてもいいのにね」
「うん。それは千智ちゃんの言葉から何となく伝わってきたから、いつでもメッセージちょうだいねって書いておいた」
「ありがとう」
「千智ちゃん、明日学校行くの楽しみって言ってたよ」
「そっか。それは良かった」
口が滑った。ここで「良かった」はない。こんな言い方をすると、千智が自分に学校へ行きたくないと言ったことがバレてしまうかもしれない。
「千智ちゃんは皐月と会えるのが楽しみなんじゃないの?」
「だったら嬉しいな。俺も千智と会えるのは楽しみだよ。でも学年が違うから会えるかな? だいたい一学期の間、俺は千智のことを全然知らなかったくらいだし」
皐月の不安は杞憂だった。祐希は皐月の小さな失敗に気付かなかった。それよりも皐月は何カ月もの間、あんな美少女の存在に気付かなかったことが不思議でならなかった。
「そのうち千智ちゃんのこと、どんなに人混みに紛れていてもすぐに見つけられるようになるよ」
祐希は自分と千智をくっつけようとしているのだろうか。そう思うと皐月はこれ以上祐希の相手をするのが苦痛になってきた。そもそも祐希の恋バナだって聞きたくなかったし、明日美のアドバイスなんて一度くらい無視してもいいや、とやさぐれた気分になってきた。
「言うの忘れてたけど、頼子さんが祐希に、風呂に入るようにって言ってた。祐希の後に頼子さんが入るんだって」
祐希を急かすように言い、皐月は自分の部屋に戻った。さっき真理の家で少し眠ったはずなのに、皐月はもう眠くなっていた。
真理は睡眠が受験勉強の妨げになると言って悩んでいた。眠気をどうしても我慢できないと言う。塾の子たちは睡眠時間を削って勉強しているから背が低いと言っていた。皐月も眠いのを我慢して勉強するのは荼枳尼天の自由研究で懲りた。
祐希が風呂から上がって来るまでに眠れたらいいなと皐月は思っていたが、あっという間に寝落ちした。