42 幼馴染の部屋にひとり
藤城皐月は一人で誰もいない栗林真理の部屋に入った。机や床の上には夏休みの宿題をやり散らかした跡があった。見た感じだと、やり終えた宿題を床の上にほっぽり出しているようだ。
読書感想文の原稿用紙もあった。皐月は真理が国語の勉強で塾の課題図書をたくさん読んでいるのを知っていたので、感想文まで手伝わなくてもいいと思っていた。
だが原稿用紙に書かれた筆跡を見ると、ずいぶん慌てて書いたように見える。こんなことなら自分が書いてやればよかったと思った。感想文の中身を読んでみたい衝動に駆られたが、部屋の物を勝手に触ったら殺すと言われたので、手をつけるわけにはいかない。
昼寝をするためにこの部屋に来たので、とりあえず真理のベッドにもぐり込んだ。蒲団に入ればすぐに眠れると思っていたのに、すっかり目が冴えていた。
それもこれも枕や掛け蒲団の残り香のせいだ。皐月は真理の匂いで抱き寄せたときの肌の温かさを思い出した。
眠れなくなったのはそれだけのせいではない。女子特有の匂いが狐塚で手を繋いだ入屋千智のことまで思い出させた。あの時の高ぶりが恋だったのかどうかはわからない。だが、皐月にとって初めて経験する感情だった。
千智の匂いは芸妓の明日美や真理の母の凛子の匂いとは違うが、真理の匂いとは少し似たところがある。皐月はこの香りの違いが明日美に対する恋心と、真理や千智に対する好意の違いのような気がしていた。
皐月は枕元にある本を手に取った。それは『100%ガールズ 1st season』という吉野万理子の小説で、それは真理の読書感想文に選んだものだった。真理の書いた感想文は読めないが、本を読むくらいだったら怒られないだろうと思い、暇つぶしにこの本を読み始めた。
この本は自分のことを「オレ」と言う、同性にモテるイケメン女子の話だ。男子にスカート姿を見られたくないという理由で、主人公の少女は遠くの女子校に通うという。
読み進めていくと、女子校の様子がリアルに描かれていて、それは皐月の全く知らない世界だった。真理はこんな学校生活に憧れていたのか……そう思うと真理が中学受験をすること、そして自分にも受験を勧めてくる理由がわかってきた。地元の稲荷中では考えられない世界が私立の中学にはありそうだ。
本を読んでいるうちに熱中してきて、妙な感情の高ぶりが鎮まってきた。すると今度は急に眠気が襲ってきて、まどろむ間もなく眠りに落ちた。
真理はリビングで黙々と自由研究を書き写していた。勢いに任せて書き飛ばしているせいか、手に力が入り過ぎてしまい、時々書く手を止めて掌をぷらぷらさせた。これは真理の勉強をしている時の癖だ。
頑張った甲斐があり、まだ日が高いうちに残りの宿題を全て終わらせることができた。皐月の書いた文章をじっくりと読んでいると、自分も豊川稲荷に連れて行ってもらいたくなってきた。
真理が皐月と豊川稲荷に行った最後の記憶は、まだこのマンションに引っ越す前の、皐月の近所に住んでいた時のものだ。あの頃は毎日のように皐月と遊んでいたのに、今では二人で会うことがほとんどなくなった。
一息入れようと思い、キッチンで豆を挽いてコーヒーを淹れた。後で皐月にも飲ませてやろうと思い、多めに作った。
真理のコーヒーの友はいつも母の凛子が焼いたパンケーキだ。凛子は余らせた果物の在庫処分で、よくパンケーキを作る。真理は凛子が客からもらってくる上質なお土産よりも、母の作るお菓子の方が好きだ。
動画サイトでボーカロイドのMVを見ながら休憩した後、自分の部屋に戻って久しぶりに受験勉強を再開した。皐月が気持ち良さそうに寝ていたので、起こさないようにカーテンを閉めて、机に備え付けてあるライトで手元を照らした。
メッセージの着信音で皐月は目を覚ました。スマホを見ると千智からだった。
真理の部屋の中はすっかり暗くなっていた。背後が明るかったので寝返りを打つと真理がデスクで勉強をしていた。
「もう宿題終わったの?」
真理は勉強の手を止めて、ゲーミングチェアを回して振り返った。
「よく寝てたね。宿題はみんな終わったよ。ありがとう」
「やれやれだな」
「お陰で楽させてもらえたよ。正直助かった」
声が柔らかかった。デスクライトに背後から照らされた真理、昨夜の小百合寮の玄関先で見た時のようにかわいかった。
「もう受験勉強してるの? 今日は休んじゃえばいいのに」
「さっきちょっと休んだよ。それより返信しなくていいの?」
「ああ、そうだね。返信しなくちゃね」
真理は机に向きなおして勉強の続きを始めた。もう少し何か話してもいいのにと思いながら、皐月も寝返って真理に背を向け、メッセージを読んでチャットに返信した。