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藤城皐月物語 1  作者: 音彌
第1章 夏休みと子供時代の終わり
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36 一つ屋根の下

 置屋(おきや)の朝は遅い。芸妓(げいこ)にお座敷が入る日は夜が遅くなるので、次の日の朝に早く起きると身体への負担が大きくなる。無理して早起きしても、健康だけでなく美容にも悪いので、子持ちの芸妓にとって朝の過ごし方は悩みどころだ。

 藤城小百合(ふじしろさゆり)は小百合寮という置屋を経営していて、ここで百合という名前で芸妓をしている。

 小百合寮では息子の皐月(さつき)の朝食を祖母に任せていた。祖母が他界し、小百合と皐月の二人になると日常生活に支障が生じることが増えた。

 小百合が朝の用意ができない時は、皐月に一人で喫茶パピヨンでモーニングを食べに行ってもらっていた。

 このことを小百合の周囲の人は何も問題はないと言ってくれていた。それどころかむしろ良い話だと受け止められることが多かった。しかし、小百合は皐月に対して罪悪感を感じていて、ずっとこの生活を変えたいと思っていた。


 これまでの暮らしは小百合の同級生の及川頼子(おいかわよりこ)が小百合寮に来たことで劇的に変わることになる。

 家事全般を頼子に任せることで、皐月には普通の家庭のような日常を与えることができる。小百合も今まで以上に仕事に集中することができる。小百合にとって、小学生の皐月を一人にすることに対する後ろめたさを払拭でき、精神的にも楽になる。

 この日、頼子は小百合寮で初めて朝食の用意をした。初日なので小百合も手伝った。この日の晩は芸妓の百合にお座敷が入っているので、早起きは体に良くなかったが、小百合は頼子との共同生活に気持ちが高ぶっていた。

 頼子も芸妓として働くことになっているが、頼子にはこの生活に慣れるまでお座敷を入れないよう調整するつもりでいる。

 食事の用意をしながら、小百合は頼子に今後は台所の権限を全て頼子に委譲する話をした。この時ばかりは友達同士でもお互いに緊張した。小百合は実際に頼子の手伝いをしてみて、厨房を完全に任せてしまった方が頼子が家事をやりやすいと判断した。


 頼子の娘の祐希(ゆうき)が階段を下りて台所に入ってきた。何か手伝えることはないかと言うので、居間のテーブルを拭いてもらい、皐月を起こしてもらうよう頼んだ。頼子が起きた時には祐希はすでに目が覚めていたようだ。

「祐希ちゃん、まだ気が張ってるのかな?」

「もともとあの子は人見知りなのよ。でも皐月ちゃんのお陰で、随分リラックスしているように見えるわ」

「祐希ちゃんにはここが自分の家だと思って欲しいんだけどね。また折を見て頼子から言っておいて」

「わかった。心配させちゃってごめんね」

「頼子も私たちに気を使わなくたっていいからね。皐月は女ばかりの環境で育ってきたから、頼子が思っている以上にこの生活に適応できると思うの。あなたの好きなように扱ってくれても大丈夫よ」


 小百合が茶碗とお椀の用意をしていた。ご飯と味噌汁をよそうのは皐月が起きてからだ。

「まだ小さいのに女慣れしてるってことかしら」

「女慣れっていうよりも男嫌いかな。父親を怖がっていたから、大人の男の人に対してものすごく警戒心が強いの。だからあの子って、たぶん男の子の友達とうまく付き合えていないと思う。女の子とはすぐに打ち解けられるんだけどね。この先、性格をこじらせて、いじめられたり恋愛依存症にならなきゃいいんだけど……」

「そういえば昨日も女の子と遊んでいたわね。でもかわいい男の子の友達も一緒にいたから、それは小百合の取り越し苦労じゃないかしら」

 台所には白木の折敷と黒い塗りのお盆が二枚ずつ二種類ある。それぞれに四人分のおかずとフルーツを並べる。

「母親が小学生の息子に願うことじゃないかもしれないけど、皐月には女の人と上手に遊べる大人になってもらいたいわ」

 頼子がお茶の用意をし、小百合はフライパンを洗い始めた。

「芸妓のあなたがそう言うと言葉に重みがあるわね。でもそんな高度な教育、ただの田舎のおばちゃんの手に負えるかしら。私から見た皐月ちゃんはいい子にしか見えないんだけど」

「あの子、寂しがり屋なのよ。これは私の責任なんだけど、育った環境が悪かったわね。甘えたい時に甘えさせてあげられなかったから」

「私が小百合の分も甘えさせてあげればいいのかしら?」

「皐月には祐希ちゃんと同じように接してもらえると、ありがたいな」

「私はそんなにいいお母さんじゃないじゃないけど、いいの?」

「私よりはマシよ」

 二人で居間にご飯のおひつと味噌汁の鍋を運び始めた。


 皐月の部屋の扉が開き、祐希が中を覗き込んでいる。朝食の準備ができたので皐月を起こしに来た。

「起きてる?」

 皐月からの返事はない。昨夜は遅くまで夏休みの自由研究の宿題をしていたようで、よく眠っている。祐希が寝たのは11時を過ぎていたが、その時まだ皐月の部屋の明かりはついていた。皐月が何時まで起きていたのか祐希にはわからない。

「お〜い、ごはんだよ〜」

「……ん? なんだ?」

「おはよう。起きた?」

 祐希の顔だけが浮いて見えた。夢か(うつつ)か幻か……寝起きの皐月にはまだ見慣れない女の子と、昨夜さんざんネットの画像で見た荼枳尼天(だきにてん)がクロスディゾルブしていた。

「あっ、そっか」

 皐月はようやく目が覚めた。

「朝ごはんできたよ。起きてすぐ食べられる?」

「目覚ましにシャワー浴びてくる。昨日、お風呂入らないで寝ちゃった」

「昨日は何時まで起きてたの?」

「1時をちょっと過ぎてたかな」

「だったらもっと寝かせてあげればよかったかな。ごめんね、起こしちゃって」

「いいよ。起こしてくれてありがとう」

 皐月は母の師匠の和泉(いずみ)の家に預けられていた時のことを思い出した。

 親しい人といながらも、どこか身がすくむ感覚。ここは他人の家でなく自分の部屋なのに、皐月はそんな寂しい気持ちになっていた。もう今までの世界とは違うのだ。


 皐月がベッドから起き上がると祐希はドアから離れ、階段を下り始めた。

(少しくらい待っててくれればいいのに……寂しいな)

 皐月が階段まで来ると、祐希はちょうど下り終わっていた。古い建物の階段は急なので、眼下に祐希の頭のてっぺんを見下ろすことになった。手摺を頼りながら階下へ下りて台所を覗くと、後片付けをしている頼子と、母親に寄り添っている祐希がいた。

「おはよう……ございます」

「皐月ちゃん、おはよう。シャワー浴びてくるんだってね。10分くらいしたら食べられるように用意しておくから」

「ありがとう」

 用意されている朝食を見るとハムエッグが見えた。家でこんなちゃんとした朝ごはんを見たのは久しぶりだ。


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