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藤城皐月物語 1  作者: 音彌
第1章 夏休みと子供時代の終わり
35/104

35 抱擁

 栗林真理(くりばやしまり)藤城皐月(ふじしろさつき)に体を預けた。

 皐月は左手を髪に添えて真理を抱き寄せた。こんなふうに身を寄せ合うのは、二人がまだ小さかった頃まで(さかのぼ)る。凛子(りんこ)の仕事で真理が皐月の家に預けられていた幼少期、真理が寂しくて泣くので皐月はずっと真理にくっついて慰めていた。それに……。


 気付くと皐月は真理の左肘に右手を添えて抱擁していた。

「大丈夫。真理は自分のできる範囲で頑張ればいいよ。俺も力になれることがあったら何でもするからさ」

「ほんと?」

「ああ。とりあえず夏休みの宿題くらいは手伝ってやるよ」

「ありがとう」

 この家に来て初めて真理が笑った。真理に手を引っ張られて部屋を出ると、また違う曲が流れていた。

「もう帰って。今から宿題やるから」

「一人で大丈夫か?」

「大丈夫。慣れてるから」

 真理はすっかり元気を取り戻したように見えた。

「明日の午後には自由研究を持ってくるから。ところでこれ、なんて曲?」

「『風と共に去りぬ』っていう映画のテーマ曲。お母さんがこの映画好きなんだって。私は見たことないけど」

「これもいい曲だね」

「また音楽聴きにおいでよ。皐月がいても勉強の邪魔とか思わないから、子供の頃みたいに気軽に遊びに来てほしいな。その時はおやつの差し入れがあると嬉しい。あと、できたら家に来るのはお母さんのいない時にして」

「わかった。真理も遠慮せず、(うち)に晩飯食べに来いよ」

「うん。ありがとう」

「家に来たら余計に寂しくなるなるなんて、そんなこと絶対に思わせないから」

「うん。その言葉、信じる」


 皐月は真理の家を出た。渡り廊下から豊川駅を見下ろすと、名鉄の豊川稲荷駅も見える。毎日この駅から電車に乗って名古屋の中学へ行くのも悪くないのかもしれない。

 真理のマンションのエントランスを出て、豊川駅に向かって歩いた。駅の東口はシャッターが下りた西口の商店街よりも人気(ひとけ)がなく、駅まで誰とも会わなかった。

 東西自由通路を上り、広いコンコースに出ると豊川稲荷への観光客を歓迎する狐の像があった。皐月はこの安っぽい狐の像を見て、今日の狐塚での出来事を思い出した。

 さっき真理を抱き寄せた時、入屋千智(いりやちさと)の手を取って狐塚へ走っていた時と同じ匂いがした。幼馴染とばかり思っていた真理に初めて女を感じた。

 胸の中に真理がいた時、皐月は千智のことが頭をよぎったが、これは自分でも背徳行為だと思った。この時、皐月は千智の汗で湿った手の感触を思い出し、真理の手にも触れたくなっていた。

 真理は手を触れても拒否はしなかっただろう。だが真理の顔を見て、皐月は自分が今何をしているのかに気付き、ギリギリのところで冷静さを取り戻した。


 東西自由通路の西口を出て、すぐ右にある木の下のベンチに腰掛け、スマホを取りだした。黄昏時の豊川稲荷で撮った入屋千智や及川祐希(おいかわゆうき)の写真を眺めながら、どうして真理の写真を今まで撮っておかなかったのだろうと、今さらながら思った。

 今は夕日の中で皐月の胸をときめかせた千智の写真よりも、自分にすがるような真理の顔をもう一度見たいと思った。今すぐにでも真理の部屋に戻って、もう一度会いたい。真理の言った「皐月ん家に行ったら後で余計に寂しくなりそうだから」がそっくり自分に返ってくるとは思わなかった。

 この切なさを振り切ろうと、皐月は立ち上がってシャッターの降りた夜の商店街に駆け出した。

 一秒でも早く自分の部屋に戻りたかった。徹夜になってでも自由研究を完成させるつもりでいた。学校一の才媛・栗林真理の名に恥じないレポートを書き上げてやろうと思った。そして、恐ろしくも魅力的な女神・荼枳尼天(だきにてん)を知ってもらいたいと思った。

 皐月は自分のわけのわからない気持ちを何かに没頭することで振り払おうとした。


 家に帰ると母の小百合が帰りの遅くなった皐月を心配していた。

「遅かったわね。どうかしたの?」

「真理とちょっと話していた。そしたら重大なことに気がついちゃって……実はまだやってない宿題が一つあったみたい。だから今日は徹夜をしてでも片付けなきゃならなくなった」

「明日やればいいじゃない?」

「こんなの勢いだから、今すぐにやりたい」

 二階に駆け上がり、自分の部屋に入ると襖が開いて祐希が顔を出した。

「おかえり。お風呂先に入る?」

 ずっと真理のことを考えていたから、急に祐希の顔が出てきてびっくりした。

「今から夏休みの宿題をやらなきゃならないから、今日は入らないかも。入るとしたら終わった後かな」

「まだ宿題終わっていなかったの?」

「ちょっと忘れていたのがあってさ。真理に言われて初めて気がついた」

「じゃあ邪魔しないように気をつけるね」

「そんなの全然気にしないで普通にしててよ。俺はヘッドフォンして音楽聴きながらやってるから」

「あんまり無理しないでね。ちゃんと寝なきゃだめだよ」

「ありがとう。起きてられないくらい眠くなったら寝るよ」

「じゃあがんばってね」

 祐希が初めてこの家に来た夜だというのに、この日は祐希と部屋でゆっくり話もできなくなった。でもそれで良かったのかもしれないと思った。今の自分には祐希よりも真理の方が大切だから。


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