34 受験勉強
リビングに流れている曲がビー・ジーズの『愛はきらめきの中に』に変わった。
藤城皐月は栗林真理の言う通り、夏休みの宿題を肩代わりするのはやり過ぎかもしれないと思っていた。この日はいろいろあり過ぎて、まだ気持ちが高ぶっている。
学校では友達とクラスが別れると、それまでのように一緒に遊ばなくなる。もし真理と通う中学が別々になったら、二人の関係はどうなるだろう? 友達でなくなるということはないと思うが、疎遠になるのは間違いない。
新しい環境で新しい人間関係にさらされたら、誰だって自分のことで精一杯になってしまう。いくら真理が幼馴染とはいえ、名古屋の中学に通うようになったら、自分から真理と積極的に会おうとしない限り、もう会うことはなくなってしまうかもしれない。
「宿題の絵はやっぱり自分で描くよ。適当に30分で終わらせちゃう」
「なんだよ。せっかく俺が描いてやるって言ってるのに」
「絵は自由課題じゃなくて交通安全のポスターにする。これなら簡単だからすぐに終わるよ」
「そんな気持ちで描く絵なんて、つまんなくない?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないよ。それよりも皐月の描く狐塚の絵、見てみたかったな。明日やっつけ仕事で描かないで、皐月の納得がいくように描いてほしい」
「そうだね……絵を描きたいってのは本当だから、近いうちに描くよ。完成したら見てほしいな。宿題じゃないならCGでもいいか。なんか面白くなってきたかも」
リビングに流れている曲が『コンドルは飛んでいく』に変わった。
「受験勉強、頑張ってる?」
「うん」
「真理の部屋、見せてもらってもいい?」
「え〜っ! 部屋グチャグチャだよ」
「俺の部屋よりはマシだと思うけど」
「3分だけ片付ける時間ちょうだい」
「ダメ。1分な」
真理が部屋を片付けている間、皐月は少しだけ窓を開け、夜の豊川駅を見下ろした。この曲を聞きながら窓の外を見ているとどこまでも空を飛んで行けるような気がしてくる。
「お待たせ。入っていいよ」
部屋の中は真理が言うほどちらかってはいなかった。塾で使っているテキストやプリントが机の上に乱雑に積み上げられているくらいだ。母の凛子の影響か、真理の部屋も余計なものがあまり置かれていなく、全体的にすっきりとしている。以前来た時はこんな部屋じゃなかったような気がする。
「どうして私の部屋を見たいって思ったの?」
「受験勉強ってどんなことやってるのかなって、ちょっと興味があって。この前パピヨンで見た算数のテストがあったじゃん。どんな勉強したらあんな問題解けるようになるのか知りたいって思ってさ」
真理に見せてもらった塾のテキストはプリントを冊子にした手作りのようなものがたくさんあった。一冊一冊は薄いけれど、ジャンルが細かく分かれていて種類も多い。科目ごとにまとめたら相当な分量になるだろう。
「こんなにたくさんあるけど、全部やったのか?」
「さすがに無理。もっとも志望校次第では全部やる必要はないんだけど」
「真理の受ける中学だと全部やった方がいいの?」
「名古屋の中学だと、関西や関東に比べてレベルが低いから、全部やらなくても大丈夫。でも、全部やらなくていいとしても、今の私は必要な分量もこなせていないんだけどね。えへへ……」
この時の真理に優等生の面影はなく、低学年の頃ののんびりしていた頃の真理だった。
「何度も反復して知識を定着させなければいけないんだけど、そんな余裕全然ないし……」
「じゃあ、反復なんかしないで、一発で覚えちゃえよ」
「私はあんたと違って、頭が悪いから」
皐月は手元にあるテキストをパラパラと見た。算数と理科は皐月には難しすぎる。国語と社会なら何とかなりそうな気がしないでもないが、問われる知識が細かい。
「勉強、楽しい?」
「……楽しくはないかな。嫌いってわけでもないけど、寝不足になるのが辛いよね。お昼ご飯食べた後とか超眠いし」
「眠くても勉強頑張ってるんだ」
「そんなに頑張っていないよ。睡魔には敵わないから。だから成績だって全然上がらない」
皐月の知っている幼馴染の真理は、確かにそんなに頑張り屋というほどでもなかった。一緒に遊んでいても負けず嫌いなのは皐月の方だった。
皐月も飽きっぽい性格だが、すぐに疲れたり飽きたりするのは真理の方だった。そんな真理が勉強を始め、塾ではともかく、学校では無双するまでになっている。
「偉いな、真理は」
「どこが? 全然偉くないよ。このままじゃ絶対落ちちゃう。お母さんを悲しませちゃう……」
「凛姐さんはそんな人じゃないだろ。俺のママが凛姐さんから聞いた話だと、真理が夜遅くまで健気に勉強している姿を見ると『仕事頑張らなきゃ』って言ってたらしいよ。真理の受験がどんな結果であれ、褒められることはあっても悲しむなんてこと絶対にないって」
「この夏休み、勉強やり切ったっていう自信がないの。だから不安で……」
うつむき、うなだれて、手で顔を隠している真理を見ると、皐月は寄り添ってあげずにはいられなくなった。