25 狐塚に駆ける
千本幟がはためく仄暗い豊川稲荷の参道で、月花博紀と及川祐希がサッカークラブや部活の話で盛り上がっていた。藤城皐月がぼんやりと二人を眺めていると、入屋千智が皐月の手を引いて二人から距離を取り、そっと耳打ちしてきた。
「私、さっき奥の院の方を見て回ったんだけど、狐塚へは行ってなかったの。一人で細い道を奥に入って行くのって怖くて……。霊とかそういうのが怖いんじゃなくて、変な人がいたら嫌だなって」
確かにあそこで変な奴に出くわしたら逃げ場がない。千智がここまで人を怖がるのには訳があるに違いない。千智の博紀に対する警戒心も、直紀のクラスで男嫌いと思われているのも、過去の何らかのトラウマが遠因になっているのかもしれない。
そう考えると、こうして千智が自分に懐いてくれていることに親愛を超える情を感じないわけにはいかない。皐月は芸妓の明日美や幼馴染の栗林真理にさえこんな気持ちになったことはなかった。
「さっき俺が『もう帰らない?』って言った時に『いいよ』って言ったけど、もしかして本当は行きたかった?」
「うん……。また今度連れてってくれるって言う話だったけれど、またって日が本当に来るのかどうかわからないし……」
「そんな……」
キャップのバイザー越しに見える千智の瞳に微かな光が揺れていた。そんな顔を見たら、居ても立っても居られなくなる。
「行こう」
「えっ?」
「今から狐塚に行こう」
「うんっ!」
皐月はなんのためらいもなく千智の手を取った。木漏れ日のかすかな光に照らされていた千智の顔が月の下にいるように明るくなった。一気に気持ちが昂った。
「祐希っ! 千智と狐塚に行ってくるね! すぐ戻る」
祐希と博紀が振り返るのを見て、皐月は千智の手を引いて狐塚の方へ駆け出した。
「あの二人、いいね。アオハルだよ」
祐希には手を引かれる千智の姿がとても眩しく見えた。夢見心地になっている祐希とは対照的に、博紀は呆気に取られていた。
「私も狐塚に行きたいな……」
皐月たちを目で追いながら、祐希は誰にともなくつぶやいた。だが、博紀からは言葉が返ってこない。
「私も連れてってくれないかな? 狐塚」
今度は博紀を見てきっぱりと言った。
「皐月たち、追いかけますか」
「そうだね……でも二人の邪魔しちゃ悪いから急がなくてもいいんだけど」
「俺、自転車出しますよ。後ろに乗ってください」
「二人乗りなんてダメでしょ」
「真面目なんですね。人なんてどこにもいないから、少しくらいならいいでしょ」
博紀が自転車を取りに行き、祐希のところまで戻ってきた。
「これ、ママチャリだよね。意外〜。博紀君ってもっと格好いい自転車に乗りそうなイメージだけど」
「一応シティーサイクルですよ、これ。キャリアー後付けしたからママチャリっぽいですよね。でもこのほうが荷物がたくさん載って便利なんです」
博紀が自転車に乗ると、祐希は後部の荷台に横向きに座った。
「そんな乗り方、危ないですよ」
「じゃあ、危なくない運転してよ」
祐希に上目遣いで命令されると、博紀は頬を赤く染めた。
「わがままですね、及川さんって」
「わがままな女の子って嫌い?」
「い、いや別に……よっぽどわがままじゃなかったら大丈夫です」
「ふ〜ん」
ドギマギしている博紀を見て祐希はいたずらな目をして微笑んだ。
日が傾いて薄暗くなった杉林には相変わらず妖しい気配が立ち込めていた。樹々は参道なんかお構いなしに生えている。皐月と千智は道の真ん中に生えている杉の樹を軽やかにかわしながら、薄暗い境内を駆け抜けた。
千智の手を引いても重さを感じないのは、千智の走るのが速いからだ。参道の両側に立ち並ぶ千本幟が視界の端を流れていく。右へ分れる細い参道の先はもう暗くなっていて、先がよく見えなくなっていた。
参道の左手には供養の法要を行う宝雲殿、修行僧の道場だった万燈堂、弘法大師をお祀りする弘法堂が鎮座している。土蔵造りの大黒堂もあるが、今日は見なくてもいい。また千智と二人でゆっくり歩けばいい。今は脇目も振らず狐塚へ走るのが楽しい。
奥の院の手前にある霊狐塚の石碑まで来て、皐月と千智は足を止めた。
「ここからは歩こう」
皐月はまだ手を離していなかった。手を繋いだままでいたかったので、千智から嫌そうな雰囲気を感じるまでは、このままでいようと思った。
左へ奥に入って行くと、狛犬ならぬ狛狐の先に石造の鳥居がある。その奥へ向かう細い参道の最奥部が霊狐塚だ。今まで見てきた境内の森よりも樹々は細いが密集しており、明かりが欲しくなるほどに暗い。
「何、ここ。さっき来た時よりもずっと怖い」
「さすがにビビるね」
千智の手を握る力がきゅっと強くなった。手が汗でしっとりしてきた。走っている時は手をつないでいても手を伸ばしていたが、歩いている今はお互いすぐ隣にいる。
千智のそばにいると汗の匂いに混じって不思議な匂いがしてくる。それは明日美の放つ大人の香りとは違い、少女特有の甘い匂いだ。
手をつないだまま皐月と千智は森の奥へ続く参道を歩いた。二人とも何も話そうとはしなかった。皐月は千智の手の温かさだけを感じていた。