21 ママ
総門の正面にある山門は豊川稲荷で最も古い建物で、戦国時代に建てられたものだ。だが、山門の左右にある阿吽の仁王像は昭和に作られたもので、意外にも新しい。
藤城皐月は今でこそ仁王像を芸術作品として見られるようになったが、子どもの頃はこれらの仁王像が心底恐ろしくて、山門をくぐれなかった。
「怖くて門をくぐれなかったなんて、皐月ってかわいかったんだね」
「かわいいって何だよ」
皐月は及川祐希の言葉にカチンときた。
「褒められてるんだってば、藤城先輩」
「そんなのわかんねえよ」
そんな文化的価値のある山門をくぐり、隣にある手水舎で手を清めることにした。
入屋千智がさっき今風で微妙だと言ってたのは恐らく目の前にある法堂という名の本堂と、左手の参道の向こうにある寺寶館のことだろう。この二つは現代的な建造物で、古色蒼然とした木造建築の中では白壁が眩しすぎ、伽藍全体としてのバランスがおかしい。
本堂には本尊の千手観音が祀られているが、豊川稲荷は大本殿の荼枳尼天の方が圧倒的に有名だ。皐月は本堂にお参りする人をあまり見たことがない。大抵の参拝客は大本殿の方に行く。
「昔は本堂も木造で古くていい感じだったって親が言ってた。老朽化で建て直したんだって。江戸時代からの建物だったから維持してもらいたかったんだけど、大人の事情で仕方がなかったのかな」
「親なんて言っちゃって。ママって言ってもいいんだよ」
「ママが言ってた!」
開き直ってママと言ってみたものの、顔が赤くなってしまった。皐月は恥ずかしくなると顔が赤くなる自分の体質が嫌いで仕方がなかった。
(クソっ! ムカつくな……)
笑う祐希とは対照的に、千智は優しい笑顔で皐月のことを見ていた。千智と目が合うと、収まりかけた顔がまた紅潮してしまった。
「祐希さん、笑い過ぎ」
千智に諌められ、祐希はようやく笑うのをやめた。
「ごめんね。皐月、怒った?」
「当たり前だ」
「ごめんね〜」
祐希が肩に触れてきた。皐月は明日美以外の女性にこんなことをされたことがなかったので、一瞬ドキッとした。だが祐希には明日美ほど色気がないので、すぐに気持ちが鎮まった。
「もういいよ」
皐月は自分から体を離して、先に手水舎を出て大本殿の前の大鳥居へ向かって歩き出した。
豊川稲荷大本殿は参道からゆるやかな坂を上がったところにある。平地にあって一段高いところに本堂があるだけで威厳を感じてしまうのは設計者の演出の巧みなところか。
坂を登り切って大本殿を見ると、木造建築なのに高さが30メートルもあり、その大きさに圧倒される。これなら日本中から参拝客が訪れるというのも頷けると、改めて感じ入った。
皐月にとって豊川稲荷はあまりにも身近だったせいか、ずっと過小評価をしていた。だが、こうして他所から来た人を案内することで再評価することができた。そしてそれは千智にしても同じだったようだ。
「初詣に来た時は人が多すぎたから何とも感じなかったけど、改めて見ると大きいね。豊川稲荷の近くに住んでいるのに、ここがこんなにすごいお寺だったなんて全然知らなかった。さっき一人で見て回っていた時は旅行気分だったよ」
「そうそう。なんか観光客になったみたいで楽しいよね。私もいつか二人を鳳来寺に案内したいな」
大本殿の前にある香炉の所で祐希と千智が嬉しそうにはしゃいでいた。子どもの頃からそんな場所で好き勝手に遊んでいたとは、自分たちはなんて贅沢なことをしていたのか。
「俺たち近所の子供たちって豊川稲荷の境内で自転車レースしてたんだ。大本殿の前からスタートしてこの坂道を下るんだけどさ、普通では絶対に出せないくらいスピードが乗るんだよね。石畳の参道って滑りやすいから結構怖かったんだ」
「よく罰が当らなかったね」
思ったよりも祐希の反応が薄かった。皐月としては豊川稲荷で一番の思い出なのに、と悲しくなり、愛想笑いでごまかすしかなかった。
気がつけばいつの間にか祐希と千智は二人で話をするようになっていた。もうくだらない身の上話は必要ないのかもしれない。
皐月は他愛もないことで話がはずんでいる二人をただ眺めているだけだった。祐希と千智が楽しそうにしていることに安心する反面、疎外感を感じ始めていた。
豊川稲荷には「カップルが豊川稲荷に来ると別れる」というジンクスがある。女神の荼枳尼天が嫉妬して恋人同士を別れさせると考えられているが、そんなくだらないことをするのは眷属の女狐なのかもしれない。
ここは女性同士で仲良くしてもらって、自分はガイドに徹した方がよさそうだ。いつの日か祐希や千智を案内しようと二人でここに来ると、恋人同士と思われて仲を引き裂かれるかもしれない。
皐月はこの日結ばれた千智や祐希との縁を切られたくないと思うようになっていた。優しい千智のことは大好きだし、すぐにからかってくる祐希のことも嫌いではない。