2 幼馴染
夏休みも終わりに近づいていた。お盆を過ぎても夏の夜はまだ暑く、熱帯夜になることも珍しくない。
藤城皐月は母から食事代として千円札を一枚渡されていた。小学生の一食分にしてはもらい過ぎだと思うが、小学六年生にもなるとこの金額の意味がわかる。過分の夕食代には母の後ろめたさが上乗せされている。
皐月は芸妓をしている母の小百合と二人で暮らしている。以前は祖母や母の弟子の寿美も一緒に暮らしていたが、祖母は亡くなり、寿美は結婚して芸妓をやめた。
母にお座敷が入ると皐月は夜ひとりになるが、そんな食事の寂しさにはもう慣れっこになった。今では千円で好きなものを何でも食べられるので、かえって母にお座敷が入る日が楽しみになっている。
皐月はお金を手にしながら、これから何を食べようかと悩む時間が大好きだ。ラーメンでも回転寿司でも、どこで何を食べようが自由だ。コンビニ飯でもいいし、閉店前のスーパーの値引き弁当でもいい。菓子パンなどで安く済ませるのも悪くない。家に常備してあるカップ麺で食費をまるごと小遣いにする手もある。
だが、こんなセコいことをしなくても必要なお金はいつでも母からもらえる。母子家庭だからということで経済的に不自由させたくないというのが小百合の考えだ。皐月はそんな母の気持ちを汲んで、絶対必要なもの以外は買わないようにしている。
豊川駅前の商店街は夜が早い。アーケードの商店は夜の7時になるとほとんどの店が閉店してしまう。皐月は『パピヨン』という行きつけのレトロな喫茶店で夕食をとることにした。
この店の昭和モダンなファサードは皐月のお気に入りだ。はりぼて感のあるチープな造りだが、タイルの使いかたにセンスがある。店頭のすっかり古くなった食品サンプルが味わい深い。
店に入ると客はあまりいなかった。朝はモーニング目当ての常連客で賑わうが、夕方から夜にかけては暇になる。この喫茶店は豊川稲荷の参道の裏手にあり、参拝客が消える夕方になるとフリーの客が来なくなる。
パピヨンの朝は常連客に合わせて昭和の歌謡曲が流れているが、夜になるとジャズが流れる。皐月はマスターの影響で昭和歌謡をネットで動画を見て好きになった。だが店の雰囲気は夜の方が大人っぽくて好きだ。ジャズはマスターの奥さんの趣味らしい。
カウンターの奥にいるマスターに餃子と炒飯を注文した。
「お母さんにツケとく?」
「現金で払うよ」
マスターは皐月の抱えている小さな罪悪感を見透かしている。皐月は一度だけツケにしてもらい、食事代を丸ごと小遣いにしたことがあった。母には気づかれないと思ったが、そのことがいまだに心の片隅にひっかかっていて、ここに来るたびに後ろめたい気持ちになる。
皐月は、ツケにしたことを母は知っているのか、とマスターに聞いたことがあった。百合姐さんはいつもと変わらないよ、とマスターは言う。でも、その時のマスターの笑顔で皐月はかえって疑心暗鬼になってしまった。
一番奥のボックス席を見ると幼馴染の栗林真理がいた。真理は一人でサンドイッチを食べながら勉強をしていた。
皐月は真理がパピヨンに一人でいるのを初めて見た。真理とは長い付き合いのはずなのに、真理も一人で外食をしていることを知らなかった。真理の母も皐月の母と同じく芸妓をしている。もしかしたらは二人の母は同じお座敷に呼ばれているのかもしれない。
「今日は塾休み?」
真理は名古屋駅の近くにある中学受験塾に通っている。
「テストだったから、早く終わった。自習室に残って勉強して来ても良かったんだけど、今日はさっさと帰ってここで息抜きしたくなったの」
「息抜きって、今勉強してるじゃん」
「まあそうなんだけどね。でも私、パピヨン好きだし。それに形だけでも勉強していた方が落ち着くから」
「なんだ、勉強してるわけじゃないんだ。だったら邪魔しちゃおっかな」
真理の前の席に座ると、テーブルに広げていた塾のテストとノート、それと食べかけのサンドイッチの皿を皐月の前から除けてくれた。
二人が小さかった頃はよくお互いの家で一緒にご飯を食べたり、藤城と栗林の両家の四人で外食をしたりしていた。
皐月の母も真理の母もシングルマザーで、二人とも芸妓をしている。お互いの師匠は違うが、子どもが同じ年だという境遇が似ているので、親同士は今でも仲良くしている。
真理が中学受験塾に通うようになると、そんな家族ぐるみの機会も減ってしまった。塾の休みの日にはときどき藤城家に夕食をよばれに来ていたが、いつしか全く互いの家を行き来することがなくなった。真理は自分の家でひとりで買い食いしたり、レトルトや冷凍食品で済ませることを覚えた。
こんな風に真理と二人で外食をするのは初めてだ。皐月と真理は学校で同じクラスになっているにもかかわらず、教室では二人で話すことがほとんどない。真理は休憩時間にいつも勉強しているし、皐月は友達と遊んでいる。