15 男子小学生の遊び
小百合寮の近くに月極駐車場がある。昼間は車が出払っているので、近所の子どもたちにとってはいい遊び場になっている。
藤城皐月は及川祐希がセーラー服から私服に着替えてくるまでの間、駐車場の塀にゴムボールを投げながら待つことにした。
軟球ではなくゴムボールを投げるのは、投げそこなった時に器物を破損させないためだ。低い万年塀の向こうには鄙びたバーがある。そのバーの壁がトタンでできているので、うっかりボールをバーにぶつけてしまうと壁を壊しかねない。
皐月はスポーツの中では野球が一番好きだが、まだ本格的に野球をやったことがない。人を18人も集めるのは大変だし、そもそも友達の間で高価な道具の必要な野球は人気がないからだ。野球観戦はそこそこ人気があり、皐月を含めたまわりの男子は地元の中日ドラゴンズのファンが多い。
皐月のクラスでは野球よりもサッカーの方が人気がある。それはクラスで人気者の月花博紀がサッカークラブに入っているからだ。博紀は異様に女子にモテるが、男子の間でも人気がある。クラスの男子の多くは博紀と仲良くしたがっている。
「野球少年、お待たせ!」
祐希が私服に着替えてきた。ベージュ地の花柄ブラウスのキャンディスリーブが高校生らしくてかわいい。デニムの膝上のスカートとスニーカーがラフな感じで格好いい。私服の女子高生を前にして、皐月はちょっとドキドキしていた。
「一球投げさせてよ」
祐希に見惚れていると、意外なことを言われた。皐月は野球をやりたがる女の子を初めて見た。
「塀の上の壁にぶつけないでね」
「大丈夫だよ」
祐希はワインドアップの堂々たるフォームだった。左足を前に出し、右足を上げるのを見て左利きだと気がついた。皐月には棒立ちで軽く投げているように見えたが、ボールはうなりを上げていた。球速は皐月よりずっと速かった。
「あ〜気持ちいい!」
「凄ぇ……。祐希はなんでそんなに速い球が投げられるの?」
「カッコ良かった? 部活でソフトボールやってたんだよ。ライト守ってたの」
皐月は祐希にボールの投げ方を教えてもらいたいと思ったが、球速で負けて悔しくて言葉が出てこない。
「あ〜あ、皐月が野球好きなのを知ってたら、グローブを捨てなかったのにな……」
「捨てちゃったの? もったいない」
「引っ越し前に断捨離したの。部活はもう終わったし、今後ソフトボールをすることもないからね」
皐月は引っ越しの少ない荷物を見た時から、祐希たち母娘が大切な物をたくさん捨てて来たんだろうと思っていた。
「どこか行ってみたいところってある?」
「この近くだと豊川稲荷が有名なんだよね。まだ行ったことないから行ってみたいな。連れてってよ」
豊川稲荷はさっき入屋千智をデートに誘ったところだ。偶然の一致に皐月は思わずビクッと反応した。
「お稲荷さんでもいいけど、つまんないかもしれないよ?」
「えっ? つまらないの?」
「俺はよく遊びに行ってるから、好きだし楽しいけどさ……。あそこって普通は年寄りがいくところじゃん。それに案内できるような知識なんて何もないし……。祐希のこと退屈させちゃうかもしれないよ?」
この時の皐月は豊川稲荷が寺なのか神社なのかさえもわかっていなかった。坊主がいるから寺だとは思うが、鳥居もあるしお稲荷さんだから、神社のような気もしていた。
「歴史とか、そういうのは別にいいよ。私はお寺の雰囲気が好きなんだから。それに皐月がどこでどんな風に遊んでいるとか、そういうのが知りたいな。小学生男子って興味深いよ」
「そんなのが面白いの?」
「そういうのが面白いんじゃない。楽しみだな〜」
祐希は楽しそうに微笑んでいたが、皐月には期待が少し重かった。それに高校生の女子と何を話していいのかさっぱりわからなかった。
皐月は家の前を通る時に玄関を開けて、ボールを下駄箱に置いてきた。祐希は玄関先に張り出した松の枝を見上げていた。
「この家って素敵ね。これからここに暮らすんだな……」
祐希はすがすがしい顔をしていた。その表情に最初に見た時に感じた影のようなものは全く見られなかった。
「嫌じゃないの?」
「なんで? 楽しみだよ、すごく。前に住んでた家は狭くてボロかったから、こんな立派な家に住めるなんて、ありがたい話だなって思ってる」
かつて旅館だった建物だから立派ではあるが、昭和の古い建物だ。皐月は友達の家に遊びに行くたびに自分の家の老朽と比べて惨めな気持ちになっていた。
「祐希。あまり期待し過ぎると、現実を知ったら悲しくなるよ」
「皐月は自分の家を過小評価してるんだね。私は生まれて初めて自分の部屋を持てることが幸せなんだから」
祐希は新生活に期待に胸を膨らませているようだ。皐月には祐希がどんな生活を送ってきたのかわからない。せめて自分と一緒に暮らしていこうとしている人には気分よくなってもらいたいと思った。