13 女子高生が家にやってきた
豊川駅前の大通りと豊川稲荷表参道の間には車がなんとか通れるくらいの細い路地がある。そこに藤城皐月の家がある。
皐月の家は小百合寮という置屋で、芸妓の百合が切り盛りをしている。百合は皐月の母の芸名で、本名は小百合だ。
小百合寮はかつて旅館だった建物で、昭和時代に建てられた木造二階建ての和風建築だ。中庭にある松の枝ぶりが良く、板塀から道にはみ出している。この松枝が庇のようになっているところが皐月のお気に入りだ。
皐月は検番の稽古場で明日美と幸せな時間を過ごしていた。柔らかい体にもたれかかって二人で話をしているところに、母からメッセージが届いた。
「早く帰って来い、だって。引っ越しが終わったみたい」
「皐月、行っちゃうんだ。寂しいな……」
「俺も寂しいよ」
明日美は皐月を抱き寄せて、頬にキスをした。明日美はなかなか唇を離さなかった。明日美の吐息で皐月はとろけそうになっていた。
この日の明日美は妙に優しかった。甘えて抱きついても、明日美はなすがままにさせてくれた。Tシャツ越しの体が温かかった。
「また遊びに来て」
「うん。また来る」
皐月は検番を出て、小百合寮の見えるところまで戻って来た。だが、そこから先に進めなくなってしまった。自分の家なのに緊張で鼓動が速くなり、立ち止まると足が重くなって動けなくなった。
皐月の心を掻き乱しているのは新弟子の及川頼子ではなく、娘の祐希だ。
女子高生は皐月にとって未知の存在だ。幼馴染の栗林真理や芸妓の明日美、学校のプールで出会った入屋千智とはタイプが全然違う。女子高生はアニメや漫画でしか見たことのないキャラクターなので、これから対面すると思うと期待と不安で気持ち悪くなる。
小百合寮の玄関の格子戸は開け放たれていた。遠慮がちに中を覗くと母たちはいなかった。
小さな声で「ただいま」と言いながら玄関から入ると、三和土には母の趣味とは違うパンプスと、駅でよく見かける高校生女子が履いているローファーが並んでいた。皐月はそれらの靴から離れたところでスニーカーを脱ごうとしたが、足が少し震えて上手く脱げなかった。
二階に人の気配がするので、急勾配で段差の大きな階段を這うように上ると、母たちの声がはっきりと聞こえてきた。聞き慣れない声は頼子の声だろう。
皐月は階段を上り切ってすぐ右手にある自分の部屋に荷物を置いた後、渡り廊下を足音を立てずに進んだ。襖と窓が開け放たれているおかげでいつも暗い廊下が明るかったが、かえって蒸し暑くなっていた。
かつて祖母が使っていた部屋が頼子の部屋になる。頼子の部屋に行くと、小百合と頼子が部屋の片づけをしていた。
「こんにちは」
皐月は小さな声しか出せなかったのが恥ずかしかった。母の「おかえり」より先に頼子が「こんにちは」と返事をしてくれた。
「紹介するね。これが息子の皐月。小学六年生」
「はじめまして。及川頼子です。この家で小百合ちゃんのお世話になることになりました。これからよろしくね」
頼子は立ち上がり、皐月に微笑みかけた。笑顔の優しい人で、この人となら上手くやっていけそうな気がした。頼子のことを普通のおばさんっぽい人だと想像していたが、思ってたよりずっと綺麗な人で、検番で見る芸妓たちと比べても見劣りしなかった。
この部屋に頼子の娘はいなかった。少しホッとして気が緩んだ瞬間に、隣の部屋から人が入ってきた。その人は窓の外の明るさで逆光になり、黒い影にしか見えなかった。
「彼女は頼子の一人娘の祐希ちゃん。高校三年生ですって」
目が慣れると、祐希の顔がはっきりと見えた。皐月はこの時の衝撃を一生忘れないと思った。
「はじめまして、祐希です」
澄んだ優しい声だった。皐月はこういう声を今まで学校の教室では聞いたことがなかった。小学生女子はみんな低い地声で話すからだ。
祐希は夏休みなのに制服を着ていた。その地味なセーラー服は皐月の見たことのないものだった。地元の高校の女子生徒がおしゃれに着崩したブレザー姿を見慣れていたので、知らない制服を着た祐希が転校生のように見えた。
祐希の艶のあるボブの黒髪が窓から吹き込む風になびいていた。顔にかかった髪を指でかきあげた時、石鹸のような香りがした。
皐月は想像していたよりも魅力的な祐希に心を奪われてしまったが、祐希の笑顔に、頼子には見られなかった暗い影を見たような気がした。
ユーキと言えば同級生にもそんな名前の奴がいたな、とつまらないことを考えているうちに、皐月は落ち着きを取り戻してきた。冷静になると、気付かなかったことが少しずつわかってきた。
今日から新たに女の人と一緒に暮らすことになるということで、皐月は一方的に淡い期待を抱いていた。だが、それは浅はかな妄想だ。
祐希たち母娘は望んでこの家に引っ越しをしたわけではない。頼子は離婚をして今まで住んでいた家を捨てて来たのだ。だから、祐希たち母娘にとってこの引っ越しに心弾ませる要素があるわけがない。
祐希からはすでに憂いを含んだ表情が消えていた。皐月は自分の子どもじみた期待が恥ずかしかった。