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それでも

 教室に入って、席に座る。けだるさに抗いきれなくて、机に顔を伏せた。

 昨日は一睡もできなかった。彼から折り返しの電話が来るかもしれない。そう思いながら、じっと電話を待ち続けた。さすがに、二回連続で彼から電話がなかった時点で、それ以上かけ続ける気にはなれなかった。何度も何度も電話を掛けた履歴が残るなんて、そんなのは耐えられなかった。

 でも、彼の声を聴きたくて。彼とのまだ確かにつながっているはずだと祈りながら、私はベッドの中でスマホを見続けた。

「おはよー……ってどうしたのその顔!?」

 元気よく教室に入ってきた美鈴がぎょっとした声を出す。それくらいに、私は憔悴して見えるというのだろうか。

「おはよう……ふぁ」

「どうしたの、寝不足?クマすごいよ?」

「うん。ちょっと眠れなくて……」

 あくびが漏れる。体が重い。眠い。

 目をしぱしぱさせてると、美鈴は私の背後に回って、首に腕を回してくる。ふわりと、花の香りがした。美鈴が使っている柔軟剤のにおいだろうか。

「どう、少しは落ち着いた?」

「んー……暑い」

「だよねぇ」

「でもありがとう」

 人のぬくもりは重要だ。それは、ささくれだった心を癒してくれるもの。でも、私の心は少しも落ち着いてはくれなった。

 あの関係に、スマホごしのあのつながりには、そういう当たり前のかかわりはなかった。名前も知らない、顔も見えない、当然相手と触れ合うことなんてない。そんな無機質な関係で満足していた自分が憎くてしょうがなかった。美鈴のぬくもりが体に満ちるほどに、彼との関係の浅さを突き付けられているようで嫌になった。

 それでも、美鈴の気遣いはほんの少しだけ私の気持ちを和らげてくれた。

「じゃあ、私からもお返し」

「うわぁお、暑いねぇ」

 きゃっきゃとはしゃぐ美鈴を抱きしめ返しながらも、私は彼のことで頭がいっぱいだった。

「ねぇ美鈴」

「どうしたの?」

「その、ね……」

 抱きしめたまま、美鈴の耳元に顔を近づける。内緒にするような話だと理解した美鈴が真剣な顔になって私を見る。

「生徒会の、裏業務?のことなんだけれど」

「あぁ、あの電話の……もしかして、やる気になった?」

 ああ、そうだ。美鈴は私が電話番号を渡したと嘘をついたと思っているんだった。

 私は、確かに電話番号を目安箱に入れた。それから、彼と電話をしていた。あれ以外に、彼とつながる理由が見つからない。

「やる気になったというか、本当に目安箱に入れたの。一週間くらいしたころかな、本当に電話が来て、その、会長じゃなかったんだけど」

「……へぇ。女子はみんな会長だと思ってたよ。それで、会長にしてもらいたいって話?須藤先輩って格好いいからね。萌も惚れちゃった?」

「そうじゃなくて……その、何度もその人に電話をしていたんだけど、昨日、つながらなかったの。折り返しの電話もなくて、ひょっとしてダメなことをしちゃったんじゃないかって……」

 口にするほどに、不安が膨れ上がる。あの時間は、電話の向こうの彼という存在は、全部夢だったんじゃないか――そんなことを思った。だって、あの時間の証拠は、スマホにしか存在しない。電話帳、通話記録。たったそれだけしか、彼がいた証拠はないのだ。

 私の中から、彼が消えて行ってしまうような気がした。私の中で像を結ぼうとしていた彼が、蜃気楼のように消えてしまう気がした。心の中で手を伸ばしても、彼は遠ざかるばかり。

「……ん?」

「どうかした?」

 しきりに瞬きする美鈴がじっと私の顔を見る。長い睫毛が何度も揺れる。

「電話を、したの?萌から?」

「そうだけど……?」

 それの何がおかしいのか――深刻な顔をした美鈴を見て、ズキンと心臓が痛んだ。

「あのね、悪いことは言わないけど、その相手と電話をするのはすぐにやめたほうがいいよ」

「どうして?なんでそんなことを言うの?」

 自分でも驚くほど強い声が出た。私の明確な拒絶に、けれど美鈴が引くことはなかった。

 すぐ目の前にある美鈴の顔は、ただ一途に私を気遣っていた。心配していた。でも、彼のことを否定するのは、許せない。

「あのね、生徒会の裏業務は、役員から一方的に電話がかかって来るだけなの。一度か二度、それで終わり。こっちから掛けても絶対に電話には出てくれないんだよ」

「でも、彼は……」

「その相手はさ、本当に生徒会役員だったの?」

「ううん、違う。生徒会の人たちが見える状態で電話しても、彼とつながったの。役員じゃない」

「だったら、その人は役員でもないのに目安箱から勝手に漁ったのかな?そうして、萌の電話番号を手に入れた。裏業務のことを知っていれば、悪いことを考えて目安箱を漁って萌の電話番号を手に入れる可能性だってあるんだよ。萌のことを探ってくるような言葉はなかった?」

「そんな言葉は一つもなかった。ただ頑張って、応援してるって。それだけ」

「本当に?」

 強く、強くうなずく。彼は、決して悪意を持って私と電話をしていたわけじゃなかった。彼は、いつだって真剣に私に大切な言葉を送ってくれた。

 私とは違って、彼は私の正体を探るようなことはしなかった。

 あとは、と唇を指で触りながら美鈴は虚空を見つめる。はたと何かに気づいた美鈴が、やや恐怖に瞳を揺らしながら口を開く。

「……萌が目安箱に電話番号を入れたことを知っている人は?」

「私と、一応は美鈴も当てはまるのかな。あとは電話番号を受け取った生徒会の人だけ……」

 違う。もう一人いる。あの日、職員室から出てきた誰か。目安箱に電話番号の紙を入れてすぐに逃げるようにして背中を向けたから、相手のことは見ていない。

 でも、その人なら、裏業務のことを知っていれば私が目安箱に電話番号を入れいた可能性に思い至るかもしれない。そうして、私のメモを目安箱から取り出して……っ。

 ぞわりと、全身に鳥肌が立った。恐怖で悲鳴を上げてしまいそうだった。

 違う、そんなはずがない。だって、それじゃあどうして彼が私の電話番号を知っているの?彼はただ真摯に私とやり取りをしていた。そこによこしまな感情はなかった。

 ……本当に?

 私が、見抜けなかっただけじゃないの?救われた気分になって、目が曇っていたんじゃないの?彼が自然に私の情報を聴いていたら、意識せずに答えていなかっただろうか?そんなことが、本当になかっただろうか。

 記憶の中、のっぺらぼうの彼が笑う。顔が真っ黒に塗りつぶされた男子生徒が、大きく口を開いて笑っていた。

 馬鹿だな――と。

「違う……違う。そんなはずがない」

「落ち着いて。誰か、心当たりがあるの?」

「もう、一人。いるかもしれない。電話番号を入れたところで、職員室から誰かが出てきたの。目安箱にメモを入れているところを見られたくなくて逃げだしたから顔はわからないけど」

「そいつが萌が苦しめてるんだね。甘い言葉をささやいて、情報を抜き出そうとしてるんだ。許せないよ。職員室ってことは教師の可能性のほうが高いのかな?でも時間によっては……」

 私に目安箱にメモを入れた時間を確認した美鈴は、そのまま熟考を始めた。

 私はそっと美鈴に抱き着くのをやめて離れながら、恐怖でいっぱいだった。亀裂が走って今にも崩れそうな足場の上に立っていたことにようやく気付いたような気持だった。

 今後次第で、そのまま落ちるか、逃げ出せるかが決まる――。

 でも。私にはどうしても、電話の彼が悪い人だとは思えない。

 色眼鏡で見ているというのは否定できない。でも、私の目に、耳に、狂いはないはずだ。

 彼の言葉に嘘はないはずだ。でも、私は今、彼の言葉を疑っている。

 疑いたくない――そう、心が叫ぶ。彼の言葉に嘘なんてなかった、それでいいじゃないか、そう叫ぶ自分がいる。

 泣きそうだった。でも、こんな、教室のど真ん中で泣くことなんてできない。

 強く、強く目を閉じて、私は祈り続けた。

 ポケットの中にあるスマホが震え出すことはなかった。


 一学期最後の日。

 私は、スマホの入ったポケットを強くつかみながら時間が過ぎるのを待っていた。

 五十過ぎの担任の男性教師が、何度もハンカチで額をぬぐいながら連絡事項を続けている。

 えー、と詰まるたびにいら立ちが募る。どうしてもっと早く進められないのだろう。

 じれったさにやきもきしながら時計を見る。さっきからまだ一分くらいしか経っていない。ああもう。

「それでは、問題を起こさず夏休みを過ごすように」

 その言葉を見越していた委員長が号令をかけて、一瞬で一学期が終わる。

 夏休みの予定を話し始める美鈴たちに断りを入れて、私は一人教室を飛び出した。

 向かうところは決まっている。

 途中で担任を追い抜いて職員室のほうへ早歩きで向かう。

 すでに下校を始めた三年生の流れに逆らうように北館に入る。一階、職員室の手前にその部屋はある。

「生徒会室」

 確認するように、あるいは意気込むように口の中で言葉を転がして、私は扉をノックする。

『どうぞ』

 部屋の中からは、女子生徒の声が聞こえた。たぶん、副会長の声。

「失礼します。1年2組の紫藤萌です」

 生徒会室は思っていたよりもずっと狭く感じた。教室が小さいことはわかっていたけれど、壁際にある棚と、部屋の大部分を占拠している二つの長机のせいでやけにスペースがない。

 部屋の中にいたのは二人。窓際奥に会長が、そして一応は下座?に副会長。

 格好いいという言葉が似あう二人の視線が私に集まって、ひどく居心地が悪かった。

 自然と手はポケットの上に向かう。

「紫藤さんね」

 凛と背筋を伸ばした副会長の西願寺先輩が、私の名前を繰り返す。それから会長へと視線を向ける。副会長とは対照的に、会長の須藤先輩はだらしなく上半身をテーブルに投げ出し、肘をついてぼんやり私を見て告げる。

「俺が呼んだわけじゃないぞ」

「あら、そうですか。それで紫藤さん、今日はどのような御用でしょう?」

「あ、あの、電話の……裏業務の話です」

 なるべく声を潜めて告げる。すぐ後ろは扉。その向こうからはざわめきが聞こえてきていて、時々私の背後を人が通過する足音が聞こえてくる。

 先生に知られてはいけないだろう裏業務のことを聞いた会長は、だらしなく頬杖をつくのをやめて改めて私の顔をじっと見てくる。

 ううん、たぶん違う。会長の視線は、私の口元ただ一転に集中していた。

「あの……」

「聞き覚えはないな。松永と池辺のどっちかか?」

「さぁ?風呂敷を広げすぎなのですよ。管理できなくなっていたら駄目でしょうに」

 面倒くさそうにがりがりと頭を掻いた会長が席の一つを指し示す。いわれるがままそこに座る。

 ギィ、とパイプ椅子が軋む。すぐそばにいる副会長からの視線が落ち着かない。

 後ろで一つにまとめた黒髪が揺れる。視線が、再び会長のほうを向く。

「……さて、紫藤だったか?要件は裏業務の依頼だな?」

「いえ、違います」

「ん……、じゃあクレーマーか?」

「クレーム、というのも少し違うと思います」

 何をどこから話すべきか。頭の中で言葉がぐるぐると回っていた。一応流れを考えてきたはずなのに、会長と副会長の前にいると思うと、うまく言葉が出てこなかった。

 でも、聞かなきゃいけない。ううん、聞きたい。

 膝の上にのせていた片手でポケットの上を軽くなでる。そこにあるスマホは、もうずっと彼につながらない。

 昨日、もう一度だけ電話をかけても彼にはつながらなかった。

 今の私の手の中にある彼の情報は、電話番号のみ。あとは、私の電話番号の情報を目安箱に入れたメモから得ただろうということだけ。

「あの、私、電話をしていたんです」

「……ああ、そっちからの電話には出ないぞ。いちいちそんなことをしていたら生活もままならんからな」

「それは、知ってます。友人から聞きました。でも、彼は私の電話に出てくれたんです」

「……松永くんでしょうか?彼、前に一度やらかしていましたよね?」

「あの時きっちり絞めただろ。そもそもあれはあいつが気になってる女が電話の相手だったからで、この一年とは接点がないだろ」

「……それもそうですね。紫藤さん、もう少し詳しく聞かせてくれるかしら?」

 副会長にこわれるままに、私は彼とのやり取りを話した。

 五月に目安箱に電話番号を入れて、その一週間ほど後に初めて電話をもらったこと。そのあと自分からかけたら彼は普通に電話に出てくれたこと。一日から、長い時で十日以上の期間をおいて、彼に電話をしていたこと。必ず電話に出て、励ましをくれたこと。全校集会のあとすぐに電話をしたら彼が出てくれて、彼が生徒会役員の誰でもないと分かったこと。それから、一週間ほど前、初めて彼が電話に出てくれなかったこと。それから、三回かけても、電話が通じないこと。

「友人に聞いたら、それは生徒会の裏業務じゃないといわれて……でも、彼は確かに私を励ましてくれていたんです。そこに、悪意なんてなかったと思います。私のことを聞き出そうとか、そんな感じは全くありませんでした。でも、友人は『怖いからもう電話をするな』って。目安箱から私の電話番号を盗んだ人かもしれないって……っ、そんなはず、ないのにっ」

 涙がにじむ。鼻の奥がツーンとした。気付けば声は大きくなっていて、叫ぶような状態だった。息が切れて、大きく呼吸を繰り返す。そうしても、心臓は少しも落ち着いてくれなかった。

 ひどく深刻そうな顔をしていた会長が、人差し指を伸ばす。

「……まず誤解を解いておくと、だ。うちの裏業務には、生徒会役員以外の手も借りている。俺が個人的に手を借りている相手だ。俺が信用できる奴にしか業務は回してない。ただまあ、生徒会書記の阿呆はやらかしてくれたけどな」

「ああ、さっきおっしゃっていた、気になっている人が相手で、っていう……」

「まあな。ただ、あの後俺と彩夢(あやめ)でしっかり躾けたから同じことはしていないはずだ。ほかのやつも、たぶん問題ない。少なくとも俺を相手に業務違反を隠しきれるやつはいないな」

「でも、彼は普通に電話に出てくれて……っ」

「とりあえず落ち着きましょう?」

 机に両手をつき、身を乗り出して叫ぶ。少し会長がのけぞる。

 そっと肩に手を置いた副会長が、私を椅子に座らせる。有無を言わせぬ力に、茫然と副会長を見つめる。

 鋭い目が私を見ていた。あるいは、私を通して、私と電話をしていた彼を見ていた。その縁は、彼を責めていた。彼は、責められるような人じゃない――言葉は、副会長の気迫に飲まれて、喉に引っかかって出てこない。

「紫藤さん。電話の相手について、何か情報はありませんか?例えば声の印象、話していた内容、なんでもかまいません」

「ええと、声は少し高めで、最初のころは同級生かなって思いました。あとは……一番最初に電話をくれた時にはすごく勢いがあって、ええと、『頑張ってください!あなたならきっとできます』って……ああ、その時に生徒会だって、そういっていた気がします」

「……あ?」

 何かが引っかかったように声を出した会長が、あごに手を当てて考え始める。上を向き、腕を組み、首をひねり、窓の外を見る。立ち上がってカーテンを開く。その先には、緑が生い茂る裏庭が広がっている。そこに生えている木の枝を見上げていた会長ががりがりと後頭部の髪を掻く。

「……会長、何か気が付いたことがあるのでしたらおっしゃってください」

「あー、いや……んー?」

 表情を無数に変えながら、会長は副会長の言葉を無視して、長机を回り込んで私のほうへ近づいてくる。すぐ近くで顔を覗き込まれる。近い。格好いい……でも、彼じゃない。この人は、電話の相手じゃない。

「会長?近いですよ」

「おお」

「あの、もしかして彼がだれかわかってんですか?教えて下さい。お願いします!」

「いいえ、ここは私たちが――」

「いや、いいぞ」

 にぃと笑って会長が告げる。副会長の目が吊り上がる。なぜかぶるりと体が震えた。副会長のほうから冷気のようなものが漂ってきている気がした。

「落ち着けよ」

「私は落ち着いていますよ。それで、会長も業務違反をしようというのですか?互いに名前を教えない、相手を詮索しない。これが絶対だと、会長も口を酸っぱくしておっしゃっていましたよね?」

「まあ言ったが……ただこれはなぁ」

 眉間に深いしわを刻んだ会長は、副会長から視線をそらして、私に向かってパチンを手を合わせる。

「すまん、俺のミスだ」

 会長の後頭部が見える。頭を、下げている。

「え、いや……どういう、ことですか?」

「そうですよ。会長、ミスをしたというのはわかりますから、まずは話してください。紫藤さんの一件を解決に導き、それから、これを機に再発防止に努めてください」

「あー、そろそろ俺も引継ぎを視野に入れるころだろ?んで、一年の中に業務を引き継げる奴がいないか探してたわけだ」

「会長の趣味に合った女子生徒を探していたのではなく、ですか?」

「いや、違ぇよ。彩夢、お前いつも俺のことを、女を求めて校内を闊歩するナンパ師だとでも思っていたのか?」

「違うのですか?」

「違うにきまってるだろ!……悩みを抱えこんでいるやつと、業務を受け持てそうなやつを探すために決まってるだろ」

「それで、後継者とやらは見つかったのですか?今はほとんど三年生ばかりですよね?」

「あー、業務が必要そうなやつは見つけたな。んで、せっかくだからそいつに電話をさせてみたわけだ」

 言いながら、会長が私を見る。どこか晴れ晴れとした顔で胸を張って、そして。

「電話をしてすぐ、逃げられた。いやぁ早い逃げ足だったな――痛ってぇ!?」

 バシィーン、とすごい音がした。いつの間にか手にスリッパを握っていた副会長がそれで会長の頭をひっぱたいた。なんか、私の中の会長の副会長のイメージがガラガラと音を立てて崩れていっている気がする。

「おい、お前それスリッパ」

「自業自得でしょう?……それで、その生徒が紫藤さんの電話の相手だと?」

「……まあ確定だろうな。タイミングとかもろもろは全部合致してるし、あいつには相手からかかってきた電話には出ないとかいうあたりも教えてなかったからな」

「そのあたりの説明もなしに、無理やり電話をさせたと。それは逃げますよ」

「いや、素質はあったんだよ。じゃなきゃ生徒会室までついてこないだろ」

「どうでしょうね。また『人を救わないか?』とかおっしゃってたぶらかしたのでしょう?」

 ぐ、とうめき声をあげた会長が窓外を向いて口笛を鳴らす。これは、ヴィヴァルディの四季だろうか。

 パシン、と副会長の手の中でスリッパが音を鳴らす。会長の背筋が一瞬にして伸びた。

「……それで、その人は誰なんですか?」

 早く、早く教えてほしい。彼のことを、知りたい。もう一週間も声を聴いていない。

 彼に会いたい。あって、話をしたい。世間話であってもいい。私を励ましてくれなくてもいい。ただ、彼とつながりたかった。

「……いいぜ、ついて来い」

 今度は、副会長は何も言わなかった。ただ、これ見よがしについたため息に会長が小さく肩を震わせた。

「次はありませんよ?」

「……おう」

 すっかり手玉に取られている会長を追って、私も生徒会室を後にした。

 会長と一緒にいるからか、生徒の視線がすごい。すでに下校した生徒も多くてだいぶ数は少ないけれど、それでも向かう先々で視線が向く。特に女子の目が痛い。私を、会長の恋人だとでも思っているんだろうか。

「人気者ですね」

「まあな。二年会長を続けてるのは伊達じゃないんだよ」

「二年?」

 今がちょうど二年目だとすれば、一年の後期から会長だったということだろうか。この中学校では四月末に前期生徒会役員選挙があるから、二期目、一年生にして会長……それはすごい。

「上級生で会長に出願した方はいなかったんですか?」

「ああ、いたぞ。ただ俺が勝った。まあこの俺と応援演説者の彩夢がいれば二年だって相手になるはずがないわな」

 カラカラと笑う。会長に負けた相手が可哀そうだと思ったけれど、この二人に負けたのであればあきらめもつく気がする。それくらい、須藤会長と西願寺副会長には強いリーダシップがある。人を惹きつけてやまない不思議な魅力があった。

 それは整った容姿だけじゃなくて、もっとこう、魂からにじみ出るようなものなんだと思う。

 歓声を上げる女子生徒に手を振りながら、会長は一年生の教室が入っている東館に入っていく。グラウンドから野球部の掛け声が響く。昼食もそこそこにさっそく練習を始めているみたいだ。

「……あの、まだその人は教室にいるんですか?」

 彼は一年生。そして、下駄箱の様子からいってすでに全クラスが下校している。だから、すでに帰ってしまっている。もしすでに下校していたら、私は彼といつ会うことができるのだろうか。あるいは、会長の気が変わって合わせてくれないかもしれない。そうしたら、私はこの一週間ずっとそうしていたように、鳴ることのないスマホを見てずっと過ごすことになるのだろうか。

 音が鳴ってはすぐに止まって、SNSの通知だったことに肩を落とす。そんな時間を過ごすことになってしまうのだろうか。

「あいつのことだから、ぶっちゃけ教室にいなくても問題ないんだよ」

 言いながら、会長は1組の教室に入る。そこにはすでに生徒がまばらに残るばかり。

 会長の姿に気付いた女子生徒が歓声を上げる。その声に驚きをあらわにした男子が大きく目を見開いて会長を見て、それから私に視線を動かして首をひねる。

「……いませんでしたか」

 後頭部を掻く会長を見ればはずれだったのは明らかだった。気付けばポケットの上、スカートを強く握りしめていた。

 手のひらの中が熱い。

「まあ安心しろ。たぶんまだ帰ってねぇよ。邪魔したな」

 ひらひらと手を振りながら、会長は廊下を歩きだす。

 少なくとも1組の生徒だということはわかった。隣のクラス。男子の人数は20人もいない。その中には小学校の知り合いもいるし、さらに消去法は進む。たぶんこれでもう対象は10人くらいに絞られた。ここまでくれば、私でも見つけられる。

 それでも、早く彼の声が聴きたくて。私は会長の後を親鳥を追う雛のようにちょこちょことついていく。

 後者の裏を回り、グラウンドの北側に向かう。そこにあるのは部活棟。運動部の生徒……また絞り込めた。私がもし1組の男子を全員知っていれば、すでに彼が誰だかわかっていたかもしれないのに。

 心の中で自分に文句を言う。少しずつ、足が重くなっていく。

 期待と不安が胸の中で渦巻いていた。もし、この先に彼がいなかったら?私は、この夏をどう過ごせばいい?

 ねぇ、あなたは誰なの?どうして、電話をするのは無理だと会長の前から逃げてもなお、私を電話越しに励ましてくれたの?

 その答えが、この先にある。

 空は青一色。照り付ける日差しでじわじわと汗が浮かぶ。下着が透けていないかと服を確認し、胸元を握りこんでいるこぶしに気付いた。

 ドクン、ドクンと心臓が強く鼓動を刻んでいた。口から、飛び出してしまいそうなほど。

 野球部を横目に、会長は迷いのない足取りで歩いていく。部室棟の前に差し掛かり、けれど歩みは止まらない。外付けの階段を、通り過ぎる。

 野球部、サッカー部、テニス部、陸上部――一つ、また一つと部室の扉を超えている会長を見ながら、私は呼吸も忘れて歩き続ける。視界に影が落ちる。大きく枝を広げた桜の木が、夏の太陽の日差しを和らげてくれていた。

 やがて、並ぶ部室の扉の終わりが見えてくる。一階にある最後の部室――バレー部、その部室を、けれど会長は素通りする。

 そうして、会長の足は止まって。

「よお」

 誰もいない部室棟の陰に、声をかける。

「……暇なんですか?」

 その陰から、声が聞こえた。違和感がある。私の知っている声よりもずっと低くて、聞き取りづらい。大人の声。

 でも、彼の顔が見えていないからこそわかった。ずっと、そうして話をしてきたんだから。電話越しのそれと違って聞こえるのは、たぶん肉声だから。

 ――彼だった。私の電話の相手が、そこにいる。ずっと、誰なのか知りたかった相手が、数歩先にいる。

 頭上、桜の木の枝にとまったセミがやかましく鳴き始める。その音で我に返った私は大きく息を吸う。

 ほら、と会長がどこかいたずらめいた顔で私を手招きする。

 胸元を、強く握る。制服にしわが寄るとか、そんなことは気にならなかった。

 地面に縫い付けられたように重い足を、一歩、踏み出す。

 桜の葉のすきまから降り注ぐ日差しが目にささる。眩むようなその光に目を閉じて。

 会長の隣に並ぶ。

 目を、開く。

 その先に――彼が、いた。

「……え?」

「……紫、藤」

 部活棟の陰、地面に座り込んで膝を抱えていた彼が、会長から私へと視線を動かす。零れ落ちんばかりに見開かれた目に苦しみが浮かび、視線が下を向く。

 知っている顔だった。少し前に、見たことがあった。ううん、前から知っている人だった。

 同じ保育園だった男子。

 五月、会長に引きずられている姿を見た相手。そう、だ。五月、確か、私が電話をしてもらった、次の日だ。

 あの日、彼は会長に引きずられていた。当時まだ漠然と電話の相手が須藤会長だったらいいのになんて思っていた私は、会長の手を煩わせる彼に無性にいら立って、そのいら立ちを吐き出した。

 馬鹿みたいだと、そう思った。小学生からまるで成長していないような彼の姿が不快だった。電話の相手と比較して、あの人はこいつとは違うなんて、そんなことを考えていた。

 なのに。それ、なのに。

「……紺野?」

 紺野蛍。保育園のころに時々遊んでいた相手が、そこにいた。

 彼は、私のイメージとはまるで違った。強く膝を抱き、困ったように目じりを下げた彼の顔は、その姿は、想像なんてできなかった。視線を揺らして、責めるように会長を見る彼は、私の空想の中にある彼とは似ても似つかない。

 ずっと柔らかく笑っているような、そんな姿を想像していた。

 それは、違った。

 あたりまえだ。私はずっと、彼が生徒会役員だと、あるいはその関係者だと思っていたんだから。だから、彼の思いを理解できない。業務でないのに私との電話を欠かすことのなかった彼の気持ちが、私にはわからない。

 ……彼は、電話の相手が私だと気づいていたみたいだ。気付けなかった私とは違って、彼は別の悩みや苦しみを抱えていたんだろう。

 でも、それでも。

 私はこうして今、「彼」と会えた。彼と現実でつながれた。そのことが、ただただたまらなくうれしくて。

 私の頬を、涙が伝った。

「……どうして、泣くんだよ」

「嬉しいからに決まってるじゃない、バカ」

 胸が温かかった。どうしようもなくうれしくて、幸せで。

 張り裂けそうなその思いに背中を押されて、もう一歩前に出る。にじむ視界では、うまく彼のことを見られない。

 桜の枝の下、部活棟の陰。踏みしめた大地は少しじめっとしていて、ふわりと森の香りがした。雨上がりの腐葉土のようなにおい。

 制服が汚れることなんて、気にならなかった。それよりも、叱られるとおびえる子どものような彼をどうにかするほうが先だった。

 地面に膝をつけ、そっと腕を広げる。そうして、彼の体を両腕で包み込む。

 ガチガチに体が固まっているのを感じた。拒絶されているようで。

 でも、それもすぐに薄れた。

 どこかあきらめたように、彼は力を抜いた。その目はたぶん、相変わらず会長を見ていた。私とは、目を合わせてくれなかった。

「……なんで、バラしたんですか」

「どうせそのうちばれただろ。まさか俺に黙って業務を続けていたとか予想できないっての」

「業務を拒否したのに、おかしいですよね」

「いいや?」

 背中に、会長の視線を感じた。何度もうなずく気配を感じる。

 ぴくりと紺野の体が震えた。

 耳元で、吐息を漏らすような音が聞こえる。耳朶を震わせす彼の声に、心が震える。叫びたいほどの衝動に駆られて、代わりに彼を強く抱きしめる。

「……その下世話な視線をやめて下さいよ」

「いやだね。はぁ、ったく、松永の阿呆を見ている気分だよ」

「……誰ですか、それ」

「好きな女に自分が電話の相手だとばらした書記だ。お前は逆を行ったみたいだけどな。まあ生徒会役員になろうとするやつとお前では真逆だわな」

「はいはい、僕は根暗ですよ」

「違うよ」

「……え?」

 これは、否定しないといけない。根暗なんて、そんな言葉で勝手に自分を定義なんてしてほしくない。

 ためらいながらも彼から腕を離して彼の顔を見る。一瞬だけ目が合って、けれどすぐにうつむいてしまう。

 ああもう。

 紺野の顔を両手で抑え、私のほうを向かせる。本当は、私だって今はあまり目を合わせた訓なんてないのに。顔を見てほしくなてないのに。だって、たぶんひどい顔をしている。泣き顔なんて見てほしくない。

 それでも、紺野をここで放置するなんてありえない。そうすれば、今度こそ手の届かないところへ行ってしまうような気がした。

「紺野は、根暗なんかじゃない」

「こうして一人でじめじめとしているよなやつなんだよ」

「違う!」

 違う。紺野はそんな人じゃない。

「紺野は誰かのために強くなれる、すごい人なのよ!」

「僕は強くはないよ」

「強いの。だって、紺野は嫌な電話に出てくれた」

「違う」

「私のためだったんでしょ?私が応援を求めていたから、紺野は仕方なく電話に出てくれたんでしょ?」

「違う!僕は、僕はうれしかったんだ!」

 初めて、紺野がまっすぐ私を見る。私の目をにらむように見る。その目には、涙がにじんでいた。そして、私の目にも。

 動揺から、紺野の頭を押さえていた手を離してしまう。行き場を失った手は、やがて体の横に収まる。指先が小さく震えた。感動が、全身に広がっていく。

「嬉し、かったの?」

「ああ、そうだ、そうだよ!僕はうれしかったんだ。紫藤にありがとうと言ってもらえて、ただそれだけで満たされたんだ!空っぽだった自分の中に、何かが灯ったのを感じたんだ!だから、あれは全部自分のためだったんだ!」

「違う。自分のことしか考えていない独りよがりな言葉だったら、私の心には響かなかった。あれはみんな、紺野が私を――電話の向こうにいた紫藤萌っていう人間のことを思って口にした言葉だったんでしょ。たぶん、本当に、初めのころから」

「……二回目からだよ。会長に引きずられながら君の声を聞いたときに気付いちゃったんだ。気付かなければ、こんなに苦しくはならなかったよ。もっと早く終わりにできていた。こんな悩むことなんてなかったッ」

 言いながら、ガリ、と喉を掻く。顔が苦渋に満ちる。

「変声期、か」

 背後、ずっと黙っていた会長がぽつりと告げる。

 変声期――じゃあ、その声は。

「ああ、そうだよ。風邪が治って、悩みながらも君に電話を返そうとしたんだ。君の声を聞きたいって、そう思ったんだ。でも、でも、この声が邪魔をした。この声じゃあ、君は不安に思うでしょ?それから、気付いてしまう。僕にたどり着いてしまう。関係が、壊れてしまう。だったら、電話なんでできるわけがなかった……っ」

 膝を強く抱きしめて、魂から吐き出すように叫ぶ。その悲鳴に、心が叫ぶ。

「どうして、気付いたら、ばれたらそれで終わりなんて言うの?」

「だって、僕がしていたのは、生徒会がやっている裏業務を駄目にするようなことだった。勝手にそれを私的に利用していたんだから。ばれたら関係はおしまい。僕は君をだまして生徒会の名前を使って君を手のひらの上で転がしていたクズなんだよ」

「紺野は私をだましてなんてないでしょ」

「だましたんだよっ」

「だましてない。だって紺野も私も『生徒会』だし。ちゃんと生徒手帳を読んでないの?生徒会に入っているのは私たち全員なんだよ?生徒会イコール生徒会役員じゃないんだよ?」

「そんなの屁理屈だ」

「屁理屈でも何でもいいの。紺野は嘘なんて言ってない。私は騙されてない。そもそも、騙されていたとしてもどうでもいいの」

 紺野を見る。もう一度、彼の頭を両手で挟んで、まっすぐ目を合わせる。

 手のひらが涙でぬれる。

「――私は、紺野の言葉で救われていたんだから」

 くしゃりと、紺野の顔が大きくゆがむ。とめどなくあふれる涙が、私の手に触れて軌道を変える。

 私も泣きそうで、でも、まだ耐えた。あと少しだけ。紺野に、私の感動を、私の幸福を、私の想いを、知ってもらわないといけないから。

「……ねぇ、紺野。好きだよ」

 そっと、彼の額に唇を落とす。さすがに、唇には無理だった。体勢的に、膝を抱えている紺野の唇を奪うことは難しい。

 ぼんやりと私を見ていた紺野からそっと手を離す。それでも、紺野はただ目を見開いて私を見ている。

 恥ずかしさをごまかすように笑う。

「……え?」

 茫然とした声。

「お熱いこって」

 口笛が聞こえてきそうな声。

 勢いよく背後を見る。そういえば、ここにいるのは私たち二人だけじゃなかった。

 急激に顔が熱を持つ。全身から汗が噴き出した気がした。ドクン、ドクンと心臓が高鳴っている。

「……見えました?」

「さぁなぁ?」

 にやりと笑った会長を、私は苦々しい顔で見つめるばかりだった。まあ、会長のおかげで私はこうして紺野と電話のやり取りをするようになって、こうして紺野を好きになった。

 それに今も、グラウンドにいる生徒から私たちが見えないように壁になってくれている。……野次馬根性が強すぎる気もするけれど。

「無気力少年にも、ようやっと火が付いたか?」

 私の背後を見ながら会長が楽しそうに笑う。答えは、すぐに分かった。

 そっと立ち上がった彼が、背後から抱きしめてきた。

 ためらうように空中で揺れていた彼の手が、私のお腹に回る。

 俺はお邪魔無視だな――そんな苦笑を浮かべた会長が、くるりと振り返ってグラウンドのほうを見る。

「ごめん」

 震える声が聞こえる。

「……うん」

 私の声も震えていた。

「ごめん」

「いいよ」

「電話、できなくてごめん。心配だったよね。心細かったよね」

「大丈夫」

 決して大丈夫と言えるような状態ではなかった気がするけれど、とにかく大丈夫だ。

 だって、私は今、こんなにも幸せなんだから。

 抱きついたまま声を押し殺して泣き続ける紺野の手を手のひらで包み込みながら、昔のことを思い出した。

 内気で、自分のことが言えずに、私に無理やり遊びに突き合わされて涙目だった紺野。まったく変わっていない。でも、そんな彼が、必死に私を励ましてくれた。エールを送ってくれた。その言葉は全部、今の私の胸にある。

 胸で燃える炎が、私の体に活力を満たしていく。

 この熱が、会長に無気力少年と揶揄された紺野に届けばいい。

 心からそう思いながら、青々とした桜の葉を眺め続けた。


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