ここから
彼女との電話で、僕は変わった。
紫藤はたぶん、電話の相手が僕だと知らない。でも、気になってはいるみたいだった。
全校集会が終わってすぐ、ポケットの中でスマホが振動した時にはひどく驚いた。バイブ設定にしてあるのは電話のみ。そして、こんな時間にわざわざ電話がかかってくる心当たりなんてなかった。
いや、画面を見るまでもなく、たぶん彼女だとわかっていた。だって、他に電話でやり取りする相手なんていないんだから。
マナーモード設定にしておいてよかったと思い、こんな時間にかけてくるなんてどういうことかと困惑しつつ、僕は駆け足で生徒の集団を外れて校舎の陰に向かった。日差しがさえぎられて影の中、僕は画面に出ている電話番号に胸を高鳴らせる。予想がついていても、いざ彼女からの電話となると緊張した。
何かあったのだろうかと心配になった。それから、はたと思い至った。彼女は、電話の相手を、僕の正体を調べようとしているんじゃないかって。それ以外に、この時間に電話をしてくる意味は思い浮かばなかった。
彼女は、どこまで気付いているのだろうか。僕が生徒会とは関係なく彼女と連絡を取っていることに、すでに気付かれてしまっているのかもしれない。あるいは、今こうして電話に出てしまえば、彼女は気付いてしまう。だって、今もまだグラウンドでは生徒会の人たちが片付けをしているのだから。そこに電話をしている人影がない時点で、これが僕の勝手な行いだとばれてしまう。
ここで、電話に出なければいい。そうすれば、また、いつものように何気なく彼女と、生徒会の裏業務をよそって電話を続けられる。
でも、僕は、彼女と話したかった。ただ一度でも、彼女との時間を失うのはためらわれた。
じっとりと湿った汗をぬぐい、通話ボタンをタップする。耳に押し当てながら、早鐘を打つ心臓を片手で抑える。
『……ごめんなさい、こんな時間に』
彼女は、どこかためらうように言葉を選びながら僕に声をかけてくる。どことなく、後ろめたさを感じる声だった。
「うん、大丈夫だよ。何かあったの?」
なんてことないと、そんな軽い調子で彼女に返す。張りつめていた糸が切れたように、小さな吐息が漏れる音が聞こえた。電話の向こう、スマホに口を近づけてかすかにほほ笑む彼女の姿が見えた気がした。
彼女からの返事はない。雲の切れ間から顔をのぞかせていた太陽が消える。一層薄暗くなった後者の影の中、わずかな肌寒さを覚えた。
何を、考えているのだろうか。やっぱり、僕の正体を考えているの?それとも、また別のこと?何か、すぐにでも電話をしたくなるようなことがあったの?
紫藤がいるかもしれない方向へと駆け出したい気持ちが胸にあふれる。このまま走って行って、電話をかけている彼女のところへ向かいたい。
彼女は、膝を抱えてうずくまっているかもしれない。トイレの個室で、震えているかもしれない。苦しくて、つらくて、だから僕に電話をしてきたのかもしれない。
それなのに彼女が僕のことを探っているだなんて、少しでもそんな疑いを持ってしまった僕が許せなかった。
彼女のために、何かをしたい。ただこうして電話をするだけではなくて、もっと、彼女の力になりたい。
でも、できない。なれない。
この距離が、僕たちの限界。保育園の知り合いなんていう薄っぺらいつながり以上に希薄な、電話越しの関係が僕たちの距離。
電波の壁を破ることは、僕にはできそうもなかった。
「大丈夫?」
わずかな申し訳なさと、それを塗りつぶすほどの心配を込めて尋ねる。返事は、今度はすぐに帰ってきた。
『うん。大丈夫』
たったそれだけ。拒絶されているように思えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
もっと、話してくれてもいいんだよ。胸の中にある苦悩を、つらさを、僕に向かって吐き出してくれたっていいんだよ。
だって、これは生徒会の裏業務じゃないから。あの枠の中にいる必要なんてないんだ。
でも、彼女はまだ、これが生徒会の業務だと思っているかもしれない。いいや、さすがに偽りに気付いたかもしれない。
「それならよかった。無理をする必要なんてないんだよ?ただ、君が君らしくいられるだけでいいんだ」
するりと励ましが口を出る。僕は、こんなに平然と歯の浮くようなセリフを口にできる人間だっただろうか。
その言葉は、今ではひどく空っぽに聞こえた。こんな言葉じゃ、彼女は励まされないかもしれない。彼女を励ますには、もっと言葉を尽くさないといけないかもしれない。
言葉の一つも、帰ってこなかった。少しだけ画面を見てから、僕は通話を終える。
終わりが、近づいてきている気がした。この偽りで仮初の関係の終わり。
どうか、どうか、それを口にしないで。このままでいさせて。この関係を、距離を、壊してしまわないで。偽りだなんて、呼ばないで。
暑いのにひどく寒かった。見上げた空から再び太陽が顔をのぞかせる。けれどすぐにまた雲に隠れてしまいそうだった。
湿気の乗った風が運ばれてくる。空を覆う雲は、心なし黒っぽい。
雨が来そうだった。夏の雨。
彼女との電話の後とは思えないほどの重い足取りで、僕はクラスメイトの後を追って教室へと足早に進んだ。
午後になれば雨が降り出した。
真っ黒な空の涙は、瞬く間に地上を染めている。アスファルトは黒く濡れ、窓ガラスに張り付いた水滴のせいで外の風景がぼやける。
ほうきを杖のように持ちながら、ぼんやりと外を眺める。午後の授業も終わり、掃除が済めばもう帰るだけ。
傘を持ってきていなかったから濡れて帰ることになる。家まで走れば十分ほど。確実にずぶぬれになる。でも、学校に残る気にもなれなかった。
降り続ける雨のせいか頭の奥が痛かった。それに、ほこりを吸ってしまったのか喉も痛かった。
教室の中はいつもよりものんびりとした空気に包まれていた。いつもはせかせかと掃除を進める部活動に所属している生徒も、今日は慌てた様子がない。雨だから外で練習できなくて急ぐ理由がないのだ。
心なしか教室が色あせて見えた。気力が不足していた。頑張ろうと、そんな気持ちになれない。なったところで何かが変わるわけではないけれど。
無趣味な僕は、どれだけ気力が充溢していてもせいぜいそれを勉強に向けるくらいしか能がない。彼女との電話のおかげで一学期の成績は良かった。一時期はよくわからない生徒会長に絡まれたせいで不安だったけれど、中学生活は順調だった。
でも、彼女との関係は微妙だ。進歩がないというのは、後退と同じなのだ。
紫藤にだって、友人関係がある。人づきあいがある。ともに時間を過ごすことで仲良くなっていって、その分だけ僕との関係は相対的に仲が悪くなる。
実際に仲が悪くなっているわけではない。けれどこう、マンネリ化しつつあるんだ。彼女の声を聴けばうれしい、彼女も、僕の言葉で声が高くなる。電話の向こうに笑みが幻視できるほどの気力が、声に乗って伝わってくる――そんな空気を、感じられなくなっていた。
少しずつ、僕と彼女の関係は終わりに向かっていく。か細い線は、今にも切れそうだった。
心が動かなくなったとき、ううん、電話を掛けることの面倒くささがわずかな感動を上回ったとき、彼女から電話はかかってこなくなる。
その時、果たして僕はどうするのだろう?彼女に電話をかけるのだろうか?僕から?
たぶん……いや、絶対に電話はかけないと思う。だって、気力が足りない。拒絶される可能性がある以上、僕は覚悟を決めることができない。
ああ、僕は本当に、ダメな奴だ。
窓ガラスにうすらと映った僕の目は死んでいた。ハイライトの消えた瞳をした少年が、窓の外からじっと僕を見つめていた。雨に濡れたその顔はゆがんでいて、口元が小さくゆがんで見えた。まるで、嘲笑われているような気分だった。
雨の中、一人家まで走る。傘を持っていないから、友人と一緒に帰ることもできない。本当に散々だった。
どうして雨なんて降ってしまうんだろう。雨のせいでスマホをカバンにしまわないといけない、そんなことがたまらなく嫌だった。
こうしている間にも、彼女から電話がかかってくるかもしれない。もし打ち付ける雨の音で着信音がかき消されたら?僕が出ることができなかったら?僕を支えにしてくれている彼女はどうするんだ。
いいや、わかってる。紫藤は、僕がいなくたって生きていける。今では、すっかり僕のほうが依存していた。このぬるま湯のような時間が、ストレスの少ない、電話越しの、名前も知らないという関係が、たまらなく楽で心地よかった。
ああ、楽だった。だから、僕はずるずると今日まで何も変えずにやってきた。
どこかへ移動することも、顔を合わせることも、世間話も、電話をかけることもない。ただ与えられる餌をついばみ、そのお返しに言葉を投げ返すだけ。そんな状態が、楽じゃないわけがなかった。
雨音が強くなる。ひどく息が切れていた。
中学に入ってからめっきり休みの時間に外で遊ぶようなことが減ってしまって、体力が落ちている気がした。中学からこんな状態なんてかなりまずいとは思うけれど、状況を改善する気力なんてない。そもそも、体育の授業だって面倒で適当に受けているくらいだから、プライベートの時間でランニングをしようなんて思えない。そんなことができる奴は、かなり奇特な人間だ。
僕は違う。いいや、僕こそが奇特な人間なんだ。まだ中学生なのにくたびれ切っているせいか、母さんには「金曜日の朝のお父さんみたいね」なんて言われてしまう。お父さんがかわいそうだ。
ぬれねずみになりながら家にたどり着き、どっかりと玄関に腰を下ろす。制服はすっかり濡れていて、ひどく重かった。
べっとりと体に張り付く服が不快で、けれど脱ぐ気力もなかった。
だから、玄関マットに座ったまま、ぼんやりと入ってきた扉を眺めていた。
雨音をかき消すようにスマホが鳴り始める。けだるい体に鞭を打って、カバンへと手を伸ばす。もどかしく思えるほど、視界がスローモーションに見えた。
色あせた灰色の世界。教科書やノートをすべておいてきたおかげで空っぽのカバンへと、手をかけて。
その瞬間、ぐらりと体が傾いた。
どちゃ、と水気を帯びた音が聞こえた。
体から、力が入らなかった。
寒かった。気持ちが悪かった。司会は相変わらず色あせたまま。すぐ目の前にあるはずのカバンがひどく遠かった。電話の音も、ぐわんぐわんと頭の中で異様に響いて、頭痛が一層ひどくなる。
頭の中では、彼女の言葉がぐるぐると回っていた。あるいは、僕が彼女に投げかけた言葉が回っていた。
電話に、出ないと――でも、体は動かなくて。
そのまま、気付けば僕は目を閉じていた。
暗闇の中、途切れたスマホの着信音が残響し続けていた。
ベッドの中で目を覚ました。薄暗い自分の部屋の中。
暑くてタオルケットから抜け出そうとして身をよじって。
瞬間、襲ってきた激しい頭痛に苦悶の声が漏れた。
視界はセピア色。喉も痛くて、体は重い。
ぶるりと体が震えた。暑いのか寒いのかよくわからない。
風邪を引いたんだ――そう思いながらそっと視線を動かす。濡れた服からパジャマに代わっていた。母さんが着替えさせてくれたんだろうか。玄関で倒れたから、ひどく驚いただろうな。
心配をかけた申し訳なさは、けれどすぐに吹き飛んだ。
電話のことを、思い出したんだ。彼女からかかってきたであろう電話。僕は、それに出ることができなかった。
彼女は、大丈夫だろうか。自分の事を棚上げして、僕は彼女のことを心配する。
電話をかけてきてくれたのは、やっぱりつらかったからだろうか。苦しかったからだろうか。それとも、ただ僕と話したかっただけだろうか。そうだといいな。
ノックの音がする。返事をして、ひどく喉が枯れていることに気付いた。
渇きが襲ってくる。開いた扉の先から、母さんが部屋に入ってくる。部屋の電気がつく。
まぶしくて目を閉じて。その動きでわずかに頭が揺れて頭痛が強まる。
「よかった、起きたのね」
「うん。……熱?」
「そうよ。38.5℃。安静にしておきなさい。何なら食べれる?」
「んー……喉が痛い」
「そう。じゃあゼリーとかがいいかしら」
言いながら、母さんが僕の前髪を軽く流して、額に触れる。ひんやりとしていて気持ちがよかった。それくらいに、僕の体は熱かった。
「少し熱が上がっているかもしれないわね。朝から頭が痛いって言っていたでしょう?体調があまりよくないところで雨にあたって体が冷えたせいで熱が出てしまったんじゃないかしら」
言いながら、脇に体温計が差し込まれる。金属の測定部分がひどく冷くて、ぞわりと背筋に変な感覚が走った。
「……かな?」
「そうよ。……ゼリーの買い置きなんてあったかしら?」
「麺類でもいい、かな。冷たいやつ」
「ならうどんはあったはずよ……8度9分ね。もうしばらく寝てなさい」
「……うどん」
お腹は減っていないけれど、こういう時は食べ始めば意外と食べられる。僕は病人でも食事はできるタイプだった。
はいはい、と言いながら母さんが部屋から出ていく。その背中を見送って、僕はそっと目を閉じる。
瞼に突き刺さる光を感じながら、僕はすぐに眠りに落ちていった。
目が覚めた。まだ、母さんが戻ってきていない。天井の光から目をそらし、部屋の中を見回す。目的のものは見当たらない。
ぐっと眠ったおかげか、さっきよりは少し体に力が戻っていた。
ゆっくりと体を起こせば、頭が小さく痛んだ。でも、動けないほどじゃない。
上半身を起こして、勉強机の上に置かれている筆箱が目に付く。その隣には黒のスマホ。ぬれてしまったカバンから出したであろうものが適当に置かれていた。
ベッドの端に手をかけて、足を外に出す。枠を支えにして立ち上がり、机へと向かう。
体がぐらぐらと揺れている気がした。司会の色もどこかおかしい。暑いのに寒くて、喉は痛い。
何とか勉強机の前にたどり着いたところで安堵して、足から力が抜けた。
倒れこむ表紙に押し倒してしまった回転いすがガタンと大きな音をたてて床を転がった。
カラカラとキャスターが音を立てる。
机の天板を支えに体を起こし、スマホを回収する。
開いて、そして絶望が心に広がった。嫌な予感が、していたんだ。
紫藤からの着信履歴があった。それも、2つ。
すぐに折り返さないと――いつになく行動的になった僕が通話ボタンを押そうとしたところで扉が開いた。
「蛍!?」
僕の名前を呼びながら飛び込んできた母さんと目が合う。ぎょっと目を見開いた母さんが大股で歩み寄ってきて僕を見下ろす。
「何してるのよ」
「何って、スマホをとろうとしたんだけど」
言いながら、自然と視線は倒れた椅子に向かう。キャスターが小さな音を立てて最後に少しだけ揺れた。
「……熱があるうちは休んでいなさいよ。もちろんスマホを触るなんてダメよ」
「でも……っ」
「でもじゃありません。使おうとするならスマホは没収させてもらうわ」
言いながら、母さんが僕の手からスマホをひったくる。守るように体で抱え込もうとしたけれど、熱で本調子じゃない状態では満足に動くことはできなかった。
画面に視線を落とした母さんが眉を顰め、それからわずかに好奇心に満ちた目で僕を見る。
「……誰かに電話をするつもりだったの?ひょっとして彼女とか」
「違うよ。学校の知り合い」
知り合い――言ってから、その言葉が違和感となって僕の中で膨らむ。
友人ではない。友人以下、でも知り合いでもない気がする。だって、中学校では僕と彼女は知り合ってもいないのだから。まともに顔を合わせたことなんてない……ううん、電話の相手が彼女だと気づいたあの一度だけ。そういえば、あの時彼女は僕が保育園のころ一緒に遊んでいた相手だと気づいたのだろうか。
「彼女ならまだしも、ただの友人だっていうなら熱が下がってからでもいいでしょ?」
「なんで彼女ならいいの……」
「そりゃ、登校の約束とかをしているかもしれないでしょ。それにしても、電話でやり取りしているのね。てっきりSNSばかりだと思っていたわ」
「まぁ、いろいろあるんだよ」
ふぅん?と小さく首を傾げた母さんがスマホの電源を切ってポケットにしまう。そうして、僕のスマホは強奪されてしまった。
紫藤に電話をできるのは、果たしていつになることやら。
早く電話を返さないといけないと思う一方、自分から電話をせずに済んでよかったなんて、そんなおかしな感情が僕の中で芽吹いていた。
ああ、そうだ。僕は面倒だったんだ。ただでさえ体調が悪い中、そのことを彼女にばれないように電話をせずに済んで、内心ではひどく安堵していた。これで、電話をできない理由ができたんだから。
母さんに支えられながらベッドに向かって、頭を揺らさないようにゆっくりと横になる。
「……あ、うどんをゆでたままだったわ!」
焦りをにじませた母さんが部屋から出ていく。勢いよくしまった扉のすぐ先から、「もうご飯だから起きられるならゆっくり来なさい」という声が響いてきた。
せわしない母さんの大声のせいで、ずきずきと頭が痛んだ。
もう一度体を起こす。その面倒くささをぐっと噛み殺しながら、僕は恐るおそる頭を持ち上げた。
1日安めば体調はある程度回復した。
ピピ、と電子音を響かせる体温計を脇から抜けば、37.1℃。明日は学校に行けるだろう。
でも、少しも学校に行く気にはなれなかった。
僕の前にはスマホがある。もういいでしょ、と言って母さんが返してくれたそれには、3つ目の着信履歴があった。
紫藤からの電話。何度もかけてくれたという事実に安堵する一方、僕の手はベッドの上に置いたスマホに伸びることはない。座ったまま、触れられないスマホをにらむ。喉に手を当てる。
「あ゛ー……はぁ」
まだ、喉に違和感があった。こんな声じゃあ、彼女を心配させるばかりだ。それどころか、彼女に僕の正体がばれてしまう。
彼女は僕を――紺野蛍という人間のことをどうとも思っていない。それどころか、嫌っているだろう。階段前で彼女が告げた言葉は、まだ僕の中で存在感を主張している。
『バッカじゃないの』
見下したように、吐き捨てるように、彼女はそう告げた。それは、弁当を手にしたまま会長に引きずれる無様な姿に関してだったと思いたい。
彼女と僕のつながりは、保育園卒園を機に途絶えた。その関係は、今も元には戻っていない。クラスが違う異性ともなると、部活動とか委員会で一緒にでもならない限り接点はできない。普通に話しかければいいのかもしれないけれど、もし声で電話の相手が僕だとばれたらと思うと、彼女に話しかけるのはためらわれた。
別にばれたからなんだっていうんだ。むしろ今もまだ彼女が電話の相手の正体に気付いていないというほうがおかしいはずだ。
彼女は馬鹿じゃないんだ。僕だってすぐに気付けたんだから、彼女が僕に気付けるチャンスはいくらでもある……っていうほど多くはないのかもしれない。そういえば、僕は再会したあの日、彼女の前で一言も声を出していない気がする。これでは比較対象なんてないだろう。
声……声が、問題だ。
喉元に触れていた手を放し、その指先をじっと見つめる。わずかに腫れているような気がした。実際、まだ喉に違和感があるし、声がおかしい気がする。
「……はぁ」
漏らしたため息もなんだか音が濁っている気がして、僕はますます気力を失った。
まだ、彼女に電話をかけることはできない。
まだ、まだ――そもそも、僕が自分から彼女に電話をかけるようなことがあるのだろうか。
どうでも考えばかりがぐるぐると頭の中をめぐる。こんなことにエネルギーを使っていてもしょうがない。
スマホを手に取って、枕元に置く。そのまま、ごろりと転がって目を閉じる。
寝すぎていたせいで眠れる気はしなかったけれど、少しだけ心は落ち着いた。