わたしは
生徒会裏業務という話を聞いたのは、中学校で同じクラスになった新しい友人の美玲からだった。
美玲はこの学校に三年生のお姉ちゃんがいるらしくて、姉経由でその話を聞いたのだという。
生徒会から電話が掛かってきて、事情を聴かずに励ましてもらえる。顔が見えなくて、悩みを打ち明ける必要もない。ただ、勝手にかかってくる電話から励ましの言葉を聞くだけ。
最初は、バカみたいだと思った。そんなことをしたってなんの意味もないと思った。
でも、あまりにも強く美玲が進めてくるから、取り合えず一度だけでも試してみようという気になった。
生徒会の裏業務を受けるための方法は二種類。
一つは、人づてにその業務のことを聞いて、生徒会室の前にある目安箱に学年と性別、電話番号を書いた紙を入れるだけ。もう一つは、学校で生徒会の人に話しかけてもらうこと。
当然、私が選んだのは前者だ。そんなことのためにわざわざ落ち込んでいる姿を見せてほかの人に見られたら嫌だ。
柱に背中を預けながら、さりげなく周囲を確認する。手の中には電話番号を書いたメモが入っている。
大事なスマホの番号を、あるかどうかもわからない業務のために差し出すなんて、自分がおかしくなってしまったように思っていた。でも、そのスニーキングをしているうちに、なんだかどうでもよくなった。
生徒会は職員室のそばにある。職員室、生徒指導室、そして生徒会室の順番だ。どうしてこんな順番なのかすごく気になる。おかげで人目が気になって仕方がない。生徒会の目安箱に入れているところだって、できれば誰にも見られたくはなかった。
誰もいない瞬間を見計らって、生徒会室の前に走る。小さな赤いポストの見た目をした目安箱にメモを入れるのと同時に、がらりと職員室の扉が開いた。
くるりと振り向き、そそくさと職員室から離れる。大丈夫、顔は見られていなかった。誰に見られたかを確認する余裕もなかったけれど、大丈夫。
心臓がバクバク言っていた。喉から飛び出してしまいそうだった。握りしめた手のひらは汗でじっとりと湿っていて、ハンカチで手のひらを吹いた。
一仕事終えた私は達成感と不安をないまぜにしながら教室へと戻った。
それから一週間、音沙汰もなく日々は過ぎていった。
電話番号を入れてきたと話せば、最初の数日、美玲は私にどうだったかと話を迫った。けれど数日もするうちに飽きたのか、あるいは嘘だったと思ったのか、何も言わなくなってしまった。
それから、さらに三日。家で宿題をしているときに、電話がかかってきた。
最初は、お母さんが大声を出すのが面倒で電話で私を呼んでいるのかと思った。私がスマホを持ってから、お母さんは時々そうして私を呼んだから。
今日は、少し違った。画面に見える番号は、見覚えのない相手のものだった。登録しているということもない。そもそも、このスマホにほとんど電話番号の情報は入っていない。今時電話で連絡を取ることなんてほとんどないし、SNSでつながっていれば事足りる。おかげで最近では家の固定電話の番号も思い出せない。
小学生の頃は、いざという時のために必死に覚えていたものだったけれど。
不安と、少しの期待で胸がいっぱいになりながら通話ボタンを押した。
髪を耳にかけて、スマホを耳にあてる。
「もしもし」
しばらく待っても、電話の向こうから声が聞こえてくることはない。いたずら電話?携帯電話で非通知ってできる者だったっけ?こっちに番号が見えていたらだめでしょ。
「あの?」
そんなことを考えながら、相手の言葉を待つ。たまたま電波が悪いのかもしれない、なんて思いながら。
果たして、電話の向こうで息をのむような音が聞こえて。
『あの、生徒会です!頑張ってください!あなたならきっとできます!』
生徒会だ――本当にあったんだ、そんな思いは、けれど続く言葉に吹き飛んだ。
頑張ってください。あなたならきっとできます。
根拠も何もない言葉だった。向こうは、私のことなんて何もしらない。ただの興味本位だったと、そう告げる気にはなれなかった。
その言葉は、じんわりと私の心にしみこんでいった。
たくさん、不安があった。悩みがあった。心配事があった。それは将来のことであったり、友人関係のことだったりと、大小問わず様々で、中には他の人にとっては悩むまでもないようなことで。
けれどそれは、確かに私の心にのしかかって、不安を生んでいた。
そんな思いが、きれいさっぱり吹き飛んでいた。
すがすがしさに胸が包まれていた。それから、熱を持った渦が体の奥から生まれた。
認めてもらえた。不安を、否定することなく、それでもできると、そう言ってもらえた。
うれしかった。うれしくて、うれしくて、気づけば涙が頬を伝っていた。
「ありがとう、ございますっ」
心から、そう告げた。電話越しなのに、無意識のうちに深く頭を下げていた。
スマホを耳から話し、まだ続いていた通話を切って。ふと、焦燥に駆られるようにスマホのロックを解除して、電話の履歴を開いた。
その一番上に、確かについさっきに記録が残っていた。
あれは、夢じゃなかった。
頭の中、ありふれた励ましの言葉が響いていた。もう、どれだけそういう言葉を聞いていなかっただろうか。そんな簡単な言葉さえもらえていなかった。
でも、もう違う。
胸に満ちる温かさを抱きしめながら、私はその番号を電話帳に移した。それから、少し迷って、その番号の名前をセットする。
生徒会でも、誰かとか、そんな名前じゃない。
私の不安を吹き飛ばしてくれた感謝を込めて電話帳に刻んだ。
私を照らしてくれる「ひかり」と。
これなら、仮に誰かに見られたところで気にならない。
ちなみに、ひらがなにしたのは、入力していた時に、ひかり、という丸みを帯びた形が愛らしく思えたからだ。
その電話帳に刻まれた名前に、番号に、私は口元が緩むのを抑えられなかった。
祈るようにスマホを胸に抱きながら、私はごろりとベッドに転がる。
うれしくて、幸福で、本当に胸がいっぱいだった。
また、明日から頑張ろう。そう思いながら、私は目じりをそっとぬぐった。
朝。教室で美鈴と話ながら、私は頭の中でずっと昨日のことを考えていた。
本当にあったよ。すごく効果があった――そう、話したかった。
けれど話せなかった。すでに美鈴は、私が生徒会の裏業務に本当に電話番号を渡したとは思っていないみたいだったし、話を蒸し返す気にはならなかった。
それに、話さなかったんじゃなくて、話せなかった。
もし話してしまえば、価値が消えてしまいような気がした。あれは、私のためだけに贈られた言葉。たとえ用意された言葉であったとしても、私一人に向けられたものだった。だから価値があった。
それを話してしまえば、昨日の出来事は陳腐なものに成り下がってしまう気がした。言葉にしてしまえば、この夢から覚めてしまうんじゃないかと思った。
美鈴の話を聞きながら、そっと胸に手を当てる。
トクトクと、心臓がやさしく鼓動を刻んでいた。心なし、その鼓動は早い。
活力が体に満ちていた。今なら、なんでもできるような気がした。
「……どうしたの?なんかすごく楽しそうだね?」
「そう、かな?」
「そうだよ。普段はむっつりしてる萌のそんな顔初めて見たよ」
いわれて、慌てて顔に力を込めた。私は今、どんな顔をしてたんだろう。
「……おかしな顔じゃなかった?」
「ううん、すごく素敵な顔。こう、幸せで仕方がない、みたいな、花が咲くような笑顔だよ」
そっか。わつぁいは今、幸福なんだ。
その言葉は、ストンの私の心の奥に落ち着いた。
私は今、幸福だった。肩にのしかかっていた悩みから解放されて、すがすがしい気持ちだった。
ああ、この自由は、幸福以外の何ものでもない。それもこれも、あの電話のおかげ。電話の向こうの、あの人のおかげ。
トクン、と胸が高鳴る。耳の奥、まだ彼の声が響いていた。
間違いなく、男の子の声。それもやや高めの、ひょっとしたら私と同級生かもしれない。
……会長じゃ、ない?ふと、浮かび上がった疑問に首をひねる。
私は、電話の相手は何となく会長じゃないかと思っていた。でも、あの声は違う気がする。須藤会長の声をじっくり聴いたわけじゃないし、電話の向こうの相手と聞き比べすることもできないから確証はない。
でも、何となく会長じゃない気がした。もっと、慣れていない、誰かの声。
……誰、なんだろう?
その日は、授業中にふと電話の相手のことを考えていた。おかげで授業の内容が全然頭に入ってこない。ノートに書いた内容を読み返して愕然とした。
このままじゃだめだと思った。頑張ろうという気になっても、電話の相手が気になって勉強に手がつかなかったら意味がない。
電話の相手を、知りたい。あの声の相手を、聞きたい。
そんな思いがむくむくと私の中で膨れ上がっていた。それは家に近づくほどに大きくなっていく。
ポケットにしまったままのスマホの重さが私を誘う。早く電話をするんだ。電話をすればきっともう少し情報が手に入るはず。
いいや、違う。
私はただ、もう一度あの電話の相手と話をしたかった。そうして、もう一度励ましてほしかった。あの感動を手に入れたかった。
だから家に帰ってひと心地ついたところで、私はスマホを手に取っていた。
震える指で起動して、電話帳へと移る。その中にある「ひかり」の名前、昨日の電話の相手をじっと見る。
突然電話をされたら驚くだろうか。生徒会の誰かなはずだし、ひょっとしたらまだ学校かもしれない。でも、昨日もそれほど遅い時間というわけではなかった。
時計を見れば、時間は昨日よりもだいぶ早い。でも、もう一秒も待てる気がしなかった。
気づけば、私はボタンを押していた。コール音が始まる。
心臓が早鐘を打つのを感じていた。緊張から片手を強く握り、肩に力を入れてその時を待った。
ワンコール、ツーコール――緊張が高まる。
電話なんてしなければよかった。やっぱり忙しいのだろうか。
むくむくと膨れ上がる不安は、けれどすぐに吹き飛ばされた。
通話がつながる。わずかな呼吸音が電話の向こうから聞こえる。その息遣いの一つに、心を動かす私がいた。
『どうしたの?』
声が、聞こえた。あの人の声。
まるで自分が自分じゃなくなってしまうような、そんな恐れを感じるほどの幸福感が胸の中で渦巻いていた。
「……もう一度、声が聴きたいと思って」
すごいことを言ってしまったと、一人で赤面した。幸い、この場には私以外誰もいない。私のこの言葉を聞いているのは、電話の向こうにいる彼だけ。
彼は今、どんな顔をしているだろうか。面倒な女だとか、そんなことを思っているのだろうか。それとも、私からの電話に動揺しているだろうか。喜んでいる……ということはないと思うけれど、そうだったらいいなと思う。
すごく、すごく長い時間が過ぎた気がした。けれどそれはたぶん一瞬だった。視線の先、枕元の目覚まし時計は一秒たちとも動いていなかった。
一瞬が永遠になって、そして、その時はやってきた。
『うん……大丈夫だよ。あなたならできる。陰ながら応援しているよ』
不自然さなんて、何一つなかった。まるで、私という存在を知っていて、私個人を励ますための言葉のように聞こえた。
うれしかった。すごくうれしかった。それ以外の言葉を見つけられないほどに、私は興奮していた。頭が彼の言葉でいっぱいだった。
少しだけ、不安のような、困惑のような感情が芽生るのを感じた。本当に昨日と同じ人かと、少しだけ疑った。だって、あまりにも自然すぎたから。昨日はもっと、勢いに押されるような、若い力強さのようなものがあった気がした。
でも、今日のこの言葉だって、私の心を強く震わせていた。
「うん、ありがとう、ございます。少しだけ元気が出ました」
元気と、感動と、同時に、少しの寂しさを感じていた。多分、もし電話の相手が目の前にいたら、私は彼に抱き着いていたんじゃないかと思う。それくらいに、動き出したい気持ちでいっぱいだった。彼への感謝の気持ちがあふれていた。
でも、どうだろう。もし顔が見えていたら私はためらってしまうのかもしれない。
顔が見えないから、想像は無限大に膨らむ。等身大の相手から、離れて行ってしまう。だからこそ、強い感動がそこにある。
でも、私は、彼を知りたい。もっと話していたい。もっと、言葉をもらいたい。励ましの言葉じゃなくたっていい。些細な会話でもよかった。
でも、さすがにそれはだめだ。名前も知らない相手と長話なんて、きっと私も彼も疲れてしまう。
終わりに、しないといけない。電話を切る――たったそれだけのことに、心が悲鳴を上げていた。目の奥が熱かった。
大丈夫、また電話をかければいい。さすがにこうして毎日はダメかもしれないけれど、声を聴きたいときには、電話をするんだ。だから、落ち着いて、私。
『ありがとう』
電話の向こうから、そんな声が聞こえた。どうして、あなたがありがとうなんて言うの?どうして、そんなにも私に感謝しているの?
わからない。声にこもっているその強い感情の理由が、わからない。
でも、彼が私を一人の人間としてみてくれている証なんじゃないかなんて、そう思った。ただの依頼者の一人ではなく、私という存在を尊重してくれている。あるいは、私と話せるというこのめぐりあわせに、感謝しているような。
『……はい』
それだけしか、言えなかった。私もお礼を言うべきだと思ったし言いたかったけれど、それ以上口を動かせば泣き出してしまいそうだった。
それでも、声は少ししっめぽくて。唇は小さく震えていた。
電話を切る。そうして、天井を見上げる。まぶしい光に目を細めながら、その奥に彼を幻視する。
ああ、こんなにも、私の心は幸福に満ちている。
なるべく、間隔を開けようとは思っていた。毎日毎日電話をして、重い女だと思われるのは嫌だった。
それでも、彼の声を聴きたくて仕方がなかった。辛いことがあると、彼に電話をしていた。
彼の声は、まるで麻薬のように私に多幸感を与えた。麻薬というのは少したとえが悪いかもしれない。けれど、気づけば私は、いつも彼のことを考えていた。
また彼と話をしたい。彼の声を聴きたい。彼とつながっていない。
ポケットに入れたスマホをそっとなでるように太ももに手を置く。このスマホを通じて彼と通じている。つながっている。この学校のどこかに、彼はいる。
彼に、依存してしまいそうだった。ずぶずぶと嵌ってしまいそうだった。
彼の甘い声は底なし沼のように尽きぬ幸福を私にもたらす。こんな些細なことで幸福を感じられる私は安っぽい女なのかもしれない。それとも、これだけ私を感動させらえる彼に力があるということだろうか。
人を救うことができる、人を幸せにすることができる力。
これほど素敵な力を、私は知らない。
月曜日。
私たちはずらりとグラウンドに並んで先生の話を聞いていた。
朝から行われる全校集会の間中、私は前に並ぶ生徒会役員の人たちの顔をじっと見つめる。生徒会役員は全部で五人。男子が三人、女子が二人だ。
正直、五人中三人はぱっとしない。須藤会長と西願寺副会長の強烈な存在感のせいで、三人はひどく気配が薄く感じた。
そんな男子二人を見る。見覚えは、あるようなないような、そんな感じ。ただ、声は思い出せなかった。そして、私は何となく、この二人は違うなんてことを思った。
彼らじゃない。そう思いながら、会長を見る。
会長は、自他ともに認めるイケメンだ。すごく格好いい。あんな人が私の電話の相手だった――想像するだけで心臓が高鳴った。
気づけば先生の話は終わっていて、生徒会役員の人たちが――会長が話を始めた。
違う――わずかな失望が心を満たす。違う。多分違う。ううん、たぶんじゃない。さすがにわかる。
会長の声は、ひどく低かった。私の知る電話の相手とは違う、似ても似つかない声。その声は低く、けれど不思議と良く通るずっと聞いていたくなる声だけど、私の心が揺れることはない。
じっと、残る生徒会役員の男子二人を見る。やっぱり、彼らのどちらかが私の電話の相手なのだろうか。でも、なぜだかあまりピンとこなかった。
会長の話は続いていく。
会長に視線で尋ねる。私の電話の相手は誰ですか?当然、答えは返ってこない。
ぐるりと生徒を見回す会長の目が、一瞬私を捉えたような気がした。それは、気のせいだったのかもしれない。
何事もなかったように話し続ける会長を前に、私はただただ、彼の声を聴きたくて仕方がなかった。
早く声を聴きたい。ねぇ、あなたは誰なの?どこにいるの?
答えはどこからも帰ってこない。
集会が終わって、生徒がぞろぞろと移動を始める中、私は途中でその集団を抜け、廊下の柱の一つに身を隠す。陰に隠れながら、窓の外、片付けを続ける会長たちを見る。
気づけば梅雨はあけていて、厳しい夏の日差しが降り注いでいた。額ににじむ汗をぬぐいながら、生徒会役員五人がグラウンドに置かれているカラーコーンを集め、号令台を数人係で動かす。
その光景を見ながら、私はポケットに忍ばせていたスマホを取り出して、あの番号を見つめる。もう、すっかり覚えてしまった11文字。それを見るだけで心が高鳴る。
こんな時間に、スマホの電源をつけてはいないかもしれない。もしこれで電話が鳴ろうものなら、先生に怒られてしまって、二度と私と電話をしてくれなくなってしまうかもしれない。
でも、私は電話の相手の正体を知るために、柱の陰に隠れながら彼に電話した。
コール音が鳴り始める。役員の五人に変化はない。音がすることも、バイブすることもない。
電源を切っているのかと、落胆しながら電話を切ろうとして。
その時、電話がつながった。
『もしもし――』
声が聞こえた。彼の声。泣きそうになった。
外、活動を続ける生徒会の人達は片づけを続けている。誰も、電話なんてしていない。
「……ごめんなさい、こんな時間に」
『うん、大丈夫だよ。何かあったの?』
優しい声。顔は見えないけれど、すごく優しい顔をしているのだと思う。
そんな彼への手掛かりは、けれどすっかり消えてしまった。役員の人だと思っていた。それ以外はありえないはずだった。それなのに、電話の向こうの彼は、生徒会役員ではなかった。
あなたは、誰なの?――そんな疑問は、けれど口にすることはできない。それはタブーだと、そう思った。
だって、わざわざ匿名で連絡をするようなシステムになっているのだ。相手のことを何も知らないから、この関係は成立している。ただでさえ相手を探すためにこんな時間に電話をしてしまっているのに、これ以上彼とのつながりが切れるようなことはしたくない。
隣を生徒が歩いていく。背中を柱にぴったりとつけてやり過ごす。
緊張で心臓がバクバクと音を立てていた。電話をしているところを見られたら、めぐりめぐって彼に電話の相手がばれてしまうかもしれない。それでもいいかな、なんて思った自分をぐっと抑える。
背中に触れる柱はひどく冷たかった。
『大丈夫?』
「うん。大丈夫」
『それならよかった。無理をする必要なんてないんだよ?ただ、君が君らしくいられるだけでいいんだ』
自分らしくいる。それは、すごく難しい。人間関係なんて、相手との妥協ラインを探っていくようなものだ。相手はここまでなら許せる。だからここまで自分を出そう。そういうやり取りをして、言外に契約する。
難しい。でも、こうして彼に言われると、自然とできる気がした。
自分らしく、心が摩耗するほどの無理はせずに、ほどほどにやっていく。それは楽だ。
許しを与えられて、だからこそ、頑張ろうという気になる。私はたぶん、少しばかりアマノジャクなんだ。無理だと言われれば、やってみたくなる。ほどほどでいいと言われれば、無理をしたくなってくる。
彼は、こんな私のことをわかっているからこそ、そういう風に言ってくれるのだろうか?
自然と変わってきた彼の言葉をかみしめながら、私は別れの挨拶をしてスマホの電源を切った。
……彼は、やっぱり生徒会の人間じゃない。それが分かっただけでも、今日の収穫は大きかった。
でも、生徒会とつながりのある人のはずなんだ。だから、まだ彼につながる糸は完全に途切れたわけじゃない。
そうして自分を落ち着かせながら、私は今日の授業に臨んだ。
その日は、夏休みを目前にした平日だった。
学校から帰って家に着いて、雨に濡れた体を拭くこともせずに私は自然と電話帳の彼のページを開いていた。
ひかり、という文字を見ながら、彼と最後に話したのはいつだったかと考えて、思わず苦笑が漏れた。
一昨日、話したばかりだった。それも、学校で電話をしてしまったのだ。
集会の後に電話をして、それによって私は電話の相手が生徒会役員じゃないことを知った。
たった二日だというのに、まるでひと月くらい時間が経ったような気がしていた。
ワクワクしながら、私はスマホをタップする。耳に押し当て、コール音を聞いて待つ。
もう、電話を求める理由は完全に当初のものとは異なっていた。悩みから解放されるためではなく、ただ彼と話をするため。それでも頑なに生徒会の裏業務の形を踏襲していたのは、それを変えてしまったら今の関係が壊れるんじゃないかと不安だったから。
彼のおかげで、毎日が楽しかった。日々が充実していた。成績だってよかった。彼のことばかり考えているように思えていたけれど、彼との電話のおかげで、勉強机に向かう私がいた。
コール音が続く。今日は、彼はどんな言葉をかけてくれるだろうか。そう思いながら、待ち続けた。
果たして、コール音が終わりを告げることはなかった。彼は初めて、本当に初めて、私からの電話に出なかった。
現実を、受け入れられなかった。今日もこれから彼の声を、言葉を聞けるのだと、なんの疑いもせずに考えていた。
考えてみれば、この関係が終わってしまうのは当たり前だったかもしれない。だって私は一昨日、とうとう学校生活に電話を侵食させてしまったのだから。きっとあれで、私たちの縁は切れてしまったのだ。
違うと心の中で叫びながら、私は一度電話を切る。再び、彼の電話番号であることを確認する。間違えようがない。親と彼、三人分の番号しか入っていない電話帳で間違えるはずがない。
ひかる、と彼のことを表す名前をタップして、もう一度電話を掛ける。
コール音は終わらない。電話は彼につながらない。
一度、心を落ち着けるために深呼吸をする。
思えば、これまでがおかしかったのだ。だって、必ず毎回電話に出られるなんて、常に電話を手元に置いていないとできない。例えばシャワーでも浴びていれば、電話に出ることなんてできるはずがない。だから、大丈夫だ。たった一回、たまたまだ。
膨れ上がる後悔の念を、絶望を必死に押しとどめながら、私は一度スマホを机の上に置いた。
何もする気になれなくて、よろよろとベッドに倒れこむ。濡れた髪が顔についてひどく不快だった。
目が潤む。光がぼやける。
目元を腕で隠して、私は強く歯を食いしばった。
嘘だと、言って。彼に嫌われたなんてことはないよね?違うよね?ただ、電話に出られなかっただけだよね?
何度も何度も心の中で繰り返し、それから再び電話をする。
やっぱり、彼は電話に出ることはなかった。
私の気持ちを反映するように、外の雨脚が強くなる。
窓ガラスに打ち付ける雨音を聴きながら、私はベッドの中で丸まって、スマホの画面を見続けた。
早く、早く彼から電話が返ってきますように――それだけを願いながら。






