明けの空に旅立ちの唄を
スタリと、ジュリアは危なげなく堅い地面に着地した。
原始の森の蔦は媒介として活きがよかったからか、ここまで成長させても自壊することはなかった。このぶんならまだ余裕がありそうだ。帰る時のことを考えると、とても外す気にはならない。
そこはいわば奥底に在る空間の、前室のようなところらしかった。
といってもかなりの広さがあり、ここが地の底水の底であることを忘れさえすれば、圧迫感はほぼない。目の前数メートル先に、碧くゆらめく光を漏らす横穴がある。
ここまで進んでジュリアはちょっと躊躇った。
人が立って三人はすれ違えるほどには広いその横穴全体が、その碧い明かりで満たされている。奥に進むほど濃くなっているようにみえた。
さすがに水が陽の光に碧くうつるものだという感覚は、この沼地にきて薄れていたが、この碧はどうしても水中を意識させる。ひよっとするとこのままいけば呼吸の心配がでてくるのではないか。そんな不安がよぎった。
だがおそるおそる前進すると、その心配はまだ杞憂の範囲で留まってくれるらしい事がわかった。
ある地点から、碧い明かりの壁が形成されていた。抜けるものはどうしても、その明かりの影響を受けざるを得ない。ということは······
「なるほど」
杖の先でちょっと壁をつっついてみて、ジュリアはすこしホッとした。
壁につっこんだ杖は、壁とおなじ碧い光をまとっていた。あきらかに魔力の気配がし、これがなんらかの補助であることは明らかである。
「おそらく環境順応系の魔法ね」
右手がおなじ碧の光につつまれたのをみて、ジュリアはそう結論づけた。であるならば、やはりどこかのタイミングで水中に放りだされることは覚悟がいるかも知れない。
奥へとすすんだジュリアは、全身に碧光をまといながら、その空間に立ち尽くした。
広い。
なんという広さか。そして、なんという心細さか。
そこは一面水に囲まれたカゴのようなところであった。
岩壁にうがたれた全面のスクリーンの外はすべて水。さっき抜けてきた廻廊さえこの部屋からは視界を遮られてしまい見えず、まるで水底に突然取り残されたような不安な感覚をおぼえずにはいられない。
よくみるとそのスクリーンにはなんの細工もされておらず、完全にただの横びろい穴だ。例の光が、濁った水の侵入を防いでいるにすぎない。それは天井も同様だ。
「凄いわ。ある意味、泳ぐよりも水との一体感を得られる······」
すこし先で、語りかけるとはなしに囁かれたリヴィエラの声がした。
「リヴィエラ······」
「来たのね。豹紋族がきいたらさぞ驚くでしょうね」
リヴィエラは、おおきな円形のステージのようになった台石をまえに佇んでいる。そこにはこの場の唯一の光源である碧光が、天井からふとい柱のようになって降りそそいでいる。
「貴女の頑固さにも困ったものね。
ま、いいでしょう。状況次第では、貴女がここに立つことになっていたかもしれないのだし。ひとりくらの証言者は許されるでしょう」
そう言って彼女は、ゆっくりと右手を碧く輝く柱にすべりこませた。
「コモ・アルゴスタル・ヴァンビュシャ・オムル······」
古代言語による呪文を口ずさむと、光がその明度を高めていく。
「きたれ、我らが盟友。集え、旅立ちのときに──ッ」
光の光彩は頂点に達し、逆流。
遡るように明滅して、地鳴りとともにしばし場にとどまっていたかと思うと、ふいに抜けたように消失した。
なに?いったい何が······
その頭上を、ぬうっと影が覆う。
ギョッとしてジュリアが頭上をあおぐと、ちょうど巨大な影が悠々と広い腹を見せつけるように泳いで過ぎた。
「ハネモグラ──!」
正確には「たち」だった。
とても不格好なその姿からは想像もつかぬような泳ぎだ。ときに身をくねらせ、ときに縦に回転し、まるで慶びを表現するかのように舞う。
ひとしきり賑やかな共演がすむと、彼らは一斉に静かになった。
静かすぎる。みんなして顔の横にある巨大に比べればつぶらな眼で、こちらをのぞきこんでくる。上に陣取ったものなぞは、わざわざ横向きに身体を倒してまでこちらを凝視してくる。
「············なに? なんなの?」
そうは体験できないような、かなりの恐怖だった。
そのスケールでみればあまりに脆弱な安全圏のなか、とてつもない静寂につつまれ、遥かに巨大な生物に全面からじっと注視される。
彼らにそんなつもりはなくとも、おもわず謝ってしまいたい衝動にかられてしまう
事態をひき起こしたリヴィエラも、その圧巻の光景にかすかに怯んだようだったが、おおきく息を吸うと、たからかに声を張りあげた。
「古よりの盟約により、我ら、力を使うものの代表として、偉大なる血族に申し上げる!
時はいま! ともに旅立ちの歌を唄わん!」
そのまま全身を碧い光の柱に投じる。
ズン······ッと、どこか遠くの方で音がしたような気がした。
ル──ララ──ララ──ル······
どこからか、とても美しい歌声が聞こえる。
その声はとても微かであっても、ずっと聴き入っていたくなるような、魂そのものをひっ張られるような、そんな唄が。
いつの間にか、リヴィエラも同じメロディをくちずさんでいた。
「······唄ってるの? ハネモグラと······」
つくづく驚かされる。見た目に違い、なんと多様で繊細な生物なのか。人の手の及ばない泥の底で、こんな営みをひっそりと繋いできたとは。
だが、
「──っ」
突如リヴィエラがかくんと膝をついた。
「リヴィエラっ?」
ジュリアが駆け寄ろうとすると、彼女は伸ばした杖にすがってなんとか立ち直る。
「貴女、髪が······!」
なんとリヴィエラの髪は、見る間に白く変わっていくではないか。その、あきらかな老化を示すサインが吉兆であるとは、誰がみても言うまい。
「ゲホッ!」
「リヴィエラ!」
リヴィエラは喉を抑えて苦しに喘ぐ。予想以上の力を吸われているのだ。まるで海中で息が詰まるように、碧い光の中で溺れてかけているのだ。
同時に、ジュリアは周囲の異様な魔力の高まりに気づく。
そこに集った十何頭のハネモグラから恐ろしいまでに膨大な魔力の奔流が一気にリヴィエラへと押し寄せてくる。彼らの瞳がいっせいに金色に輝きを増していった。
「これは······まさか、魔力の暴走を引き起こしている?」
なんということか。ハネモグラたちはリヴィエラに干渉し、意図して魔力暴走を引き起こしているのだ。最後の一滴まで、彼女の魔力を吸い尽くすつもりなのだ。
「〜〜〜〜ッ」
ジュリアは戦慄した。彼らはこの地のために、彼らのために身を捧げもした。そんな彼女に、この生物たちは生き残る余地さえ与えぬつもりなのだ。
······ほんと勝手。わたしたち生物はみんなそう。
ジュリアはギリリと歯を食いしばる。
自分たちを護るため他を喰らい、それでいて自分たちの尺度でしか相手を語れない。
保護する? それがなに? それで相手から感謝が返ってくるとでも?
アンタ達もアンタ達よ。そもそも追い詰められたのは、お前たちのせいではないかと、そう言いたいわけ?
「ふざけるなッ。それでも彼女たちは行ってきた。行ってきたの。何もしないどころか、アンタ達を知りもしない人々がいるなかで! それを──!」
ジュリアは左袖をまくり上げる。
「足りないっていうなら」
ツカツカと碧の柱に歩み寄る。
「そんなに犠牲が必要だというのなら──ッ」
想いをこめた拳を光のなかへと突き出す。
「私のを半分持っていけばいい! 混ぜモノだなんて贅沢いってられるほどでもないでしょッ!」
ズワッ──
一気に力が吸われ、そして押し寄せてくる。
くっ······! こ、れは······こんなの、何分と保たないわよッ
「······なにを············なにをするのです、ジュリア・シーリンク・アルカムゥ。これは私の······」
リヴィエラはなかば浮き上がりながら、うっすら開けたその目でジュリアを咎めるようにみつめる。
「ホント······もう、変態っていってもいいかもね、こんな中でまだ意識があるなんて。
······英雄になるチャンスを奪っちゃって御免なさい。
でも······貴女は、私たちの象徴なの。いなくなられちゃ困るのよッ。だから、英雄になるのなら、生きて、帰って、胸はって──」
ジュリアの身体もフワリと浮き上がる。
「ジュリア!」
「く、くそ······ま、まだ、倒れないわよっ、私だって······! だ、から、リヴィエラ。貴女がひとりで全部背負い込む必要はないッ」
「!」
駄目だっ、限界、意識とぶッ──!
「さあ、もう充分、でしょ! あげられる分は全部あげた! これ以上はもってかせ······ないッ!」
ジュリアは残った力すべてをこめて、右手にかまえた斧杖で無造作に碧を凪いだ。
ッキィィィィィィ──────ンッッ!
鼓膜をつんざくような高音が響き渡り、刹那、光の柱が両断される。だが同時、彼女のもった杖も砕け散った。
「ッッ」
惜しんでいる時なぞない。ジュリアは躊躇なくリヴィエラを抱きよせると、腰に巻きつけた蔦に「戻れ」と指示する。
それはいわば退化。成長とは真逆の指示。魔法の、そして生命の性質上ベクトルは成長の一方のみ。いくら魔法とて、本来ならそれは叶えることは出来ない。だが、ハネモグラの過ぎるほどの魔力をあびた今ならば。
「!」
だがそうは簡単にいきそうにない。縮むスピードよりもはやく再生した光の柱は弾けるように膨張する球へと変じ、儀式の間をおおっていく。どうあっても逃さない。ハネモグラたちがそう言っているかのようだ。
「駄目だ! 追い、つかれるッ!」
その時。ふわりと舞い上がった衣のポケットの奥がわずかに明滅しているのを、ジュリアはたしかに目の端にとらえた。
その光は碧く、とても澄んだ色──
「! そうねセッチ!」
叫んでその物体を掴みだす。それはたいせつな、生き方を異にする友達からの贈り物。
「ハネモグラ! 暴走には、暴っ走ッ、でぇ────ッ!!」
叩きつけるように蔦へと押しつける。
カッッ!
蔦が翠の光輝を放った。覚悟する間などあるはずもなく、急激に引き戻されられる力が強まる中、胃の中のものをぜんぶ吐き出しそうになるのをジュリアは必死に耐えた。
ズッポーン!
若干イヤな音をたてながら、ふたりは流れ落ちようとする水とともに、たかくたかく中空へと放り出された。
朝日はとうに上がったらしい。心持ち明度を増した空が雲の向こうにある。
その直後、執拗に追いかけてきた碧い光が、おなじく穴から立ち昇った。だがその手は、わずか数センチのところで彼女らに届かず、まるで怨嗟するように二、三度その尖端を揺らめかし、外の陽に溶けるようにして散った。
駄目······も、スッカラカン······おちる
「スフィフス!」
誰かの声がした。とたん、グン、と落下の速度がおだやかになり、おかげでふたりは、ゆっくりと始まりの一枚皿のうえに着地した。
背を浸し、髪をあそばせる水がくすぐったい。
「まったく。私の予感は大外れでしたわ。まさかお馬鹿さんがふたりとは······」
唯一うごく顔を反らせ見ると、呆れたように髪をなでつけるテレシアの姿が逆さまに映った。
「······ちょっと。なんか、もっと言いよう、ないの? アンタの憧れの人を、救助してきたのに······さ」
「······フ。それに、予想はさらに間違っていますよ? そのお馬鹿さんを信じて、こうして待っていた貴女を、ひとはなんと呼ぶのかしら?」
なんとでも仰い。そう笑ってテレシアはふたりを助け起こす。
ふと、ジュリアとリヴィエラは顔を見合せる。
『貴女、その髪············』
ふたりして同時に同じことを言った。
リヴィエラの髪はすべて真っ白くなってしまっていたが、いまはほぼ半分ほど、その色艶を取り戻していた。反対にジュリアのほうは、半分ほどを白髪に侵食されている。
リヴィエラは無言でそれを見つめたあと、微かに笑んだ。
「······ありがとう、助けにきてくれて。ジュリア」
「リヴィエラ······」
わたしはちゃんとお礼は言うわよ、とリヴィエラは茶目っ気をきかせてから、彼女は続ける。
「たしかに。貴女の言うとおりだと思ったの。私独りがすべてを賭けた程度では、こんなもの。
でもだから、わたし達は明けの空をつくったのよね、忘れてたわ」
ジュリアも素直に笑みを返す。
「貴女みたいな人がいるから、それも叶うんだと思うよ、リヴィエラ」
「ツ、ちょ、ちょっと······!」
「ああゴメン。当然テレシアにも感謝してるわよ」
「違いますっ、そうじゃなくって──前、前っ」
なんなのだと、ジュリアは胡乱な瞳を谷にむける。と、その眼はおおきく見開かれた。
はるか泥の底より、いくつもの巨大な生き物が、悠然と浮かび上がったところだった。
その生物は厳しい頭に角。
首はながいがやや太く、いま大きな翼を、泥を弾き落とすようにひろげた。
その体躯は金色の光に縁どられている。
「あ、れって············まさか、ハネモグラ?」
「······ええ、間違いないでしょう。そう、儀式とは、かれらにこの姿を与えるものだったのですね。永い時をかけて泥底に蓄積された魔力を、魔女の魔力を引き金にして発動する······」
「つまり、あの姿が彼ら本来の姿ってこと?」
次々と浮上してくる彼らは、もはや豚に似たものではなく、その外皮は蒼い鱗におおわれ、翼もおおきくより強靭となって、まさに古の書にある竜そのものだ。
「? あれ、あの生き物がでてきたところ、なんだか綺麗になっていません?」
テレシアが指をさす。みると、確かに。それまで茶色く濁っていた水、というより泥は、まるでろ過でもされたように、まじりっけない水へと変じていく。
「ほんとに貪欲。一滴たりとも残さぬつもりなのね」
ポソリとリヴィエラがこぼした。
仲間を待つように、または新たな翼を試すように、しばらくそこいらを翔びまわっていた元ハネモグラの蒼竜は、出揃ったか、はじめの一頭がその姿からは想像もつかぬ高く美しい声でひと哭きした。
そうして皆、おなじ方向へむけて浮上し、ゆったりと遠ざかっていった。
麓までおりてくると、そこは意外にも静まり返っていた。
豹紋族は全員ひざまずき、蒼竜たちの去っていった方角にむかって頭をたれている。明けの空の面々も、その大自然の神秘に畏敬の念をあらわし、それに倣っていた。
とても厳粛な空気の流れるなか、三人に気づいた明けの空の仲間が、ジュリアとテレシアに支えられたリヴィエラのもとへ駆け寄って、これを受けとる。
担架のうえに寝かされた彼女に、豹紋族の邑長は、蒼竜たちにしたように頭をたれ、感謝の意を表すと、リヴィエラはうっすら笑んで、すうっと瞼を閉じた。
今度こそ、ほんとうに力尽き果て、眠りに堕ちたらしい。
「ジュリアッ!」
呼ばれてみると、向こうからカナレアとともに歩いてきたセッチとミックが、満面の喜びを見せて駆け寄ってくる。
「セッチ! ミック!」
抱きとめようとするが、とても適わない。ふたりに突進されるようにして、ジュリアは草の上に尻餅をついた。
「もうっ! ほんッと馬鹿! すっごい心配したんだからねっ!」
「大丈夫? どこも痛くない?」
「······ッ、えへへ。大丈夫、大丈夫。ホント御免ね、我儘ばっかで。でもさすがにヘトヘト。三日は眠れそうよ」
「すまんかった、アンタにも迷惑をかけたな······」
見上げると邑長が、しずかに笑いかけている。ジュリアもふたりに抱きつかれながら、頭を下げた。
「私こそです。さんざんひっかき回してしまいました······」
「じゃがそのお陰で、儀式は無事に成し遂げらることが出来た。今度こそ、この伝承はしっかりと後世に語り継いでいかねば」
邑長は眩しそうに、蒼龍らが吹き晴らした空を見上げる。長らくこの地を覆っていた雲が、つかの間、気を利かせてその姿を隠している。
「しかし。寂しくも感じる。まこと身勝手な話ではあるが······これで、もうヌワングとは」
邑長がそうつぶやいた時だ。すこし離れた湖面でズワッと音がした。
いそいでみると、そこにはちいさな尾で懸命に跳ねるやや小振りな影。その姿は泥色をし、翼はちいさく、どこか豚に似ている。
ジュリアはセッチ、ミックと顔を見合わせると、あははっと笑い声をあげた。
ありがとうございました。
次回、最終部となります。