彼女の大願とはじまりの一枚
そのはじまりの一枚は、水深も浅く、くるぶしに届くかどうかというほどであった。しかし面積は下の段のそれには劣るといえ、だだっ広く、目に映る範囲すべてが一面、水鏡となって、朝焼けの桃に染まる曇天を反射している。
リヴィエラはその一枚に、しずかに爪先を浸け、ゆっくりと、浮きたつ波紋を愛おしむようにすすんだ。
中央にたつ。
時はちょうど日の出の頃。太陽が、そのあつい雲のむこうに昇ってきたことを報せるように、わずかにその切れ目から金色の輝きを垣間見せる。
そこからは不思議なほどに、すべてが見下ろせた。邪魔するものはなにもない。
千畳あると語り継がれる天然の棚田は、その所々によって深さが異なり、目測どおり広さと深さがかならずしも一致しない。気軽に足を踏み入れた者は、あっという間に何十メートルもの泥底に呑み込まれてしまうだろう。その深いところは黒く、浅いところは橙色に、無謀なる勇者をまちうけている。
夜明けの風が、やさしく頬を撫でる。その冷ややかな流れのふくむ力を、リヴィエラは胸に満たした。
「······さて、でははじめましょうか」
「最初から、ぜんぶ自分でカタをつけるつもりだったのね」
驚いたリヴィエラが振り返ると、まだ暗い森側の岸に人影がたっている。涼風にゆれるその衣は、テレシアが着けていたものとおなじ黒。
「──ジュリア・シーリンク・アルカムゥ」
ジャキ。
見ようによっては、まるで死神の鎌にもみえる斧つきの杖を携えたジュリアが、一秒ごとに明るみを増す朝の日のもとに浮かび上がった。
「······おどろきましたね。あのテレシアが貴女を通すとは」
「······通さなかったでしょうね。知っていれば」
「······なるほど。誰よりもはやくこの場へと到ったらしいわね」
リヴィエラは可笑しそうに、謎の笑みで口先をほころばせた。
「見ての通り、いまさすがに余裕がないの。のんびりしていると、時機を逃すわ。あまり彼らをヤキモキさせるのもよくないでしょう」
まっすぐ己のいくべき道へと向き直り、歩みだす。
「死ぬ気なの? いくら大義のためとはいえ、そこまでする必要あるわけ?」
「·········まったく。貴女もなの? どうしてこれを尊い犠牲のようにいうのかしら。私は自己犠牲にひたる気なんて毛頭ないの」
まるで息をするかのごとく、その足元に、微塵も隙のないなめらかさで魔力陣が完成する。
「夢だったのよ、私には。己のこの手で、大自然と人との境にできた歪みをただす! 目に見える、最速、最善のかたちでの成果を!」
明けの空が、魔女界が何世代、何百年にわたってでなければなし遂げられない成果。それを歯がゆく思ったことは、きっと誰しもあるのだろう。それは解らないでもない。
自分の代には完成しないからと、子孫や後進たちに託すしかない無念と期待。それがいま、彼女の手の届くところにある。そしてそれを成すだけの力を彼女は持っている。ひょっとすると、「現在」が、継ってきたものの成就のときかも知れない。
でもそれは生命を賭したものにしか与えられぬ栄誉じゃないの、リヴィエラ······
仲間たちは、彼女は大業を完遂し、みずからも生き残ると確信している。
だがそうではなかったら? もちろん自分の生命を顧みることはなかろう。託す側として、そうなってしまってはやはり遅いのだ。
「行かせない。行かせたくない。貴女ひとりに全部負わせるなんて、きっとそれは違うわ」
ジュリアは一歩踏みだす。リヴィエラは不快そうに眼差しをひややかにする。
「良いといっているのに······なぜ貴女にはまともに言葉が通らないのかしら」
優雅にあげた右手の人差し指で虚空をすうっとなぜると、そこからうまれた光の粒が結実し、ひとふりの杖となる。
「貴女のその斧杖、そこそこに名の通った品なのよ、知ってた? 魔力刈りの大斧、魔女喰らいの黒斧なんていわれたわね。
私のはこれ。ちょうど貴女のそれと対といえる力を授かっている」
「!」
ジュリアはさっと青ざめて身構えた。彼女の本気に気圧されて、というよりは、本能的に。
杖はどんどん朝の清浄なる光を吸いつくし、辺りがいくらか暗くなったような錯覚まで与える。
「光園の金杖」
リヴィエラの発声とともに、右手のそれはさらに光を強め、おそろしい圧力が大気を押し返すかのごとく放たれる。
ごく単純な、魔力の波。それは言霊を介して自然の力を借り受ける魔法でさえなく、その源そのもの。それが彼女を中心に、ドーム状にぐんぐんと周囲を飲み込みながら迫ってきた。
「リヴィエラッ!」
とっさにジュリアも防壁のように魔力を展開し、その奔流にかろうじて棹さす。だがそれはあまりにも儚く、ささやかだ。
なんて······こと! こんなの魔法ですらない! こんな力の使い方して······貴女ほんとう全霊をかけているのね、リヴィエラ!
フッと、リヴィエラの口元がゆるむ。
ゴゴンッッ!
なにかがはずれるような地鳴りがした。なんとか吹き飛ばされぬように下をみると、小石などが踊っており、たしかに揺れているのだ。
と、突然に彼女を襲っていた圧力が消失した。
懸命にそれに抗っていたジュリアは、さながら目の前の相手に合わされていた手をきゅうに離されたように、バランスを失って前のめりに倒れた。
「──ッハァッッ!」
地面に四つん這いになり、詰まっていた息を吐き、吸う。
危なかった。あのままでは大げさでなく魔力の嵐に喉を潰されていたろう。なぜ彼女は手加減したのか。そうおもって目線をあげると、そこにリヴィエラの姿はない。
「えっ?」
ジュリアは一瞬だけ我が目を疑う。だが姿は消せても、あれだけの大魔力の気配を感知できぬはずがない。しかし彼女は完全にその場から消失していた。
ふと、リヴィエラの足下であった地点に違和を感じた。
よく見る。わずかだがさざ波がたっており、周囲の水がそちらに向かって流れているようにみえる。
ジュリアは膝を上げると、集中しつつ歩みよってみて驚いた。
そこに、ぽっかりと大きな穴が開いていた。直径は6メートルほどもあり、とんでもなく深いことを誇示するように、内は真っ暗である。そこに泥水がかなりの勢いで呑みこまれていく。
セッチからきいた絵物語の一節を思い出した。
「不思議な力をつかう者は、水底に身を踊らせた······」
伝承ではそうだ。だがこの儀式が昔から多くはないにしろ重ねられ、成功してきたものである以上、そこにはきっちりとした論理があり、それを可能にする技巧があってもおかしくはない。周知されぬ叡智は存在する。さんざん思い知らされてきたことだ。
つまりあの底に、その儀式最大の秘密が眠っている。かも知れないってこと······?
ジュリアは杖でしっかと身を支えながら、その大穴をのぞき込んで見る。
やはり、下はどうなっているのか見当もつかない。
そもそも底などあるのか。水がたまっていたらまだ運が良いといえるが、それも高さによりけりだ。儀式じたいも、これで終了、というにはあまりにもあんまりな感じであり、目に見える変化もない。
続いているとみたほうがいい。
「ええい、魔女は度胸!」
ジュリアは腹をくくった。いったん森の際までさがり、愛用の帽子のかわりに来る途中、不帰の森で採取した緑玉の蔦をそこに植えると、魔力を注ぎ込む。
原始の蔦はあっという間に太く成長すると、ジュリアの腰にするすると巻きついてその身体をしっかりと支える。
ジュリアはそのまま蔦を成長させながら穴の縁までいき、蔦に持ち上げられるようにして、その中へと突入していった。
暗い。もうどれだけ降りたのか、見当もつかない。
天井ははるか上、差し込んでいたほのかな明かりもすぐに届かなくなり、あたりは流れ落ちる水の音に支配された。
泥沼の底におりているのだから、やはり蒸し暑さは感じる。だが、落水のせいもあろうが、土の匂いなどはまったくしない。
ためしに少し成長方向をまげて壁に近づいて、杖の先でこすってみると、ゴリッという、あきらかに石の手応えがある。それだけでこの穴が人工物とは断定できないが、その疑いはより深まった。
「!」
どうやら奥底が近づいてきたようだ。下に目を凝らしていたジュリアの目が、ほんのり滲む明度を感じとった。それはほんのささやかなものだが、道中の闇が視神経を鋭敏に研ぎ澄ませてくれたので覚ることができた。
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