カークスの思慕
後悔するかもしれない、とは考えなかった。
後悔しない、とも思わなかった。
何も頭に浮かばなかったのだ。
その時の俺はただの男で、背負って来た荷物を捨てる事に罪悪を感じなかった。
他に選択肢など考えられなかった。
でも、こんな事になるとわかっていたら……。
もしも過去を変えられるとしたら、俺はどうするだろうか。
もしも時間を巻き戻せるとしたら、俺は……。
いや、考えるまでもない。
後悔するとわかっていても、やはり同じ行動を取るような気がする。
何故なら……。
欲しかったものがそこにあったから。
それしか見えていなかったから。
そんな俺は大馬鹿者だ。
大事な大事な宝物を失おうとしているのに。
俺にとって、何よりも愛しい宝物だったのに。
それでも……。
アイリスを愛さずにはいられなかった。
メリルの見送りを受けながら馬車で向かおうとしていたあの時。
少しずつ遠ざかる距離と近付く距離が、俺の心を表していたのかもしれない。
☆ ☆ ☆
『悪いな、カークス。 わざわざ来てもらって』
『気にするな、ジョルジュ。 ヘンダーソン伯爵には昔から可愛がってもらったからな』
俺の屋敷から馬車で走れば数日は掛かる。
でも、少しでも早く着きたくて、馬車を降りて鉄道で向かった。
夕暮れ色に染まるジョルジュの屋敷は、緑豊かで心地良い風が吹く場所にある。
ここはヘンダーソン伯爵家の別邸で、俺も幼い頃は何度か遊びに来た事がある。
今はジョルジュの屋敷となっていて、もうすぐ夫婦となるアイリスもここに住んでいる。
ジョルジュの父親、ヘンダーソン伯爵邸はここから緑深く、小高い丘を挟んだ先だ。
俺は迎えの馬車を降りて、ジョルジュの屋敷の玄関前で二人の出迎えを受けた。
『伯爵のご様子は?』
『心臓だよ、元々が発作持ちだったから無理は出来なかったんだけどね。 覚悟が必要な時が来たのかもしれない』
『伯爵はまだまだ大丈夫さ』
『カークス様』
ジョルジュの隣で静かに立つのは婚約者のアイリスだ。
『アイリス嬢、久しぶりだね』
『はい』
俺とジョルジュの髪色は一般的なブロンドだが、アイリスはわりとプラチナブロンドに近い色をしている。
髪を後ろで束ねているので、その髪が風に靡くとフワフワと肩で踊る。
なおかつ、優しい笑みを持つ瞳に引き込まれそうになる。
言葉が出て来ない。
夢の中のアイリスがそこにいるようで、現実感がない。
『カークス様、ようこそ遠い所をわざわざお越し下さいました』
そう言うのはジョルジュの執事、アルトだ。
『やぁ、アルト』
『こうやって久々にお二人が並ぶ姿を拝見すると、子供の頃を思い出します』
俺とジョルジュの子供の頃は背格好や顔立ち、髪色が似ていたせいか、よく間違われていた。
違うとしたら、俺の方が瞳の色が薄い緑でジョルジュの方が濃い緑、といったところだろうか。
ただ、このアルトだけは間違えなかったので、俺達は服を交換して入れ替わった振りをした事がある。
そうすれば、アルトが俺とジョルジュを間違えると思ったのだ。
ところが、それでも間違えない。
むしろ、軽く笑われるくらいだった。
『カークス、到着して早々で本当にすまないが』
『あぁ、とにかくヘンダーソン伯爵の御見舞いに行きたい』
俺はアルトに荷物を預け、ジョルジュと二人で馬車に乗り込んだ。
邸内に足を踏み入れるのはその後だ。
アルトとアイリスが玄関前で馬車を見送る。
ひと息吐きたくなかったのだ。
でなければ、アイリスの側を離れたくなくなる。
そして叫んでしまいたくなる。
『アイリスは俺のものだ!』
ジョルジュと二人の仲を壊してしまいたくなる。
全てを壊して、アイリスをどこかに拐いたくなる。
☆ ☆ ☆
『あぁ、馬に乗りたいなぁ』
『駄目ですよ、父上』
『わかってるさ。 でも、こう臥せていると普段出来ない事をしたくなるものなのさ』
『それくらい言えるようなら大丈夫そうですね、伯爵』
『心配掛けてすまなかったね、カークス。 でも、しばらくは無理するなと妻にもジョルジュにも医師にも言われてね』
『ご安心下さい。 ジョルジュは仕事の出来る男です』
『父上、カークスには仕事の相談に乗ってもらうつもりです』
『頼んだよ。 ジョルジュ、カークス』
ヘンダーソン伯爵邸の寝室のベッドに横たわる伯爵は、以前より幾らか痩せたような気がする。
まだまだ臥せるような年ではないが、病気のせいもあるだろう。
ベッド横で心配そうに見守る夫人には何かと気苦労が多いはず。
ジョルジュの年の離れた弟や妹は、まだこの伯爵家を背負うには早すぎる。
これから寄宿学校に行って、勉学に励んだり或いは花嫁学校で修業するだろう。
そして二人とも婚約者を決める予定も必要になるかもしれない。
ヘンダーソン伯爵の仕事の引継ぎはこの屋敷の書斎で行うつもりだ。
おそらく数日は掛かるだろうから、夜はジョルジュの屋敷で休んで、行ったり来たりとなるだろう。
俺とジョルジュの二人は寝室を後にし、その後は用意された食事を食べた。
すっかり忘れていたが、そういえば腹が空いていたのだ。
女中がティーセットを運んで来てくれたのは場所を移した書斎。
正直言うと、俺もまだ仕事の手伝いや相談なんて早いし、偉そうな事は出来ない。
それでもジョルジュが俺をその位置に選んだのは気安さもあったのだろう。
『メリル嬢は大丈夫なのか? 一緒に連れて来るかと思っていたが』
『俺もそのつもりだったんだが、行き帰りが女のメリルでは疲れるだろうからな』
『俺としてはアイリスが寂しがらずにすむと思ったんだがな』
『まぁ、な……』
まるでアイリスとの時間を邪魔されているような、変な感じだ。
それでもジョルジュは友達であり、アイリスの夫となる人物なのだ。
なんだか酒でも飲みたい気分だ。
他愛もない話をしながら、ジョルジュの机上では書類整理が続く。
俺はその近くのソファーに深く座って、カップに入れられたお茶を嗜む。
『実は弟が来年、寄宿学校に入る予定なんだよ』
『へぇ、もうそんな年なのか』
『俺達が入ったのと同じ年だぜ』
『妹の方はどうなんだ? 婚約者とか』
『実はさ、縁談の話が来てるんだ』
『ほぉ、良さそうなのか?』
『まだわからないな。 今は父上の健康面も考慮して保留だ』
『決めるなら早い方がいいぜ? メリルも同じくらいの年だったからな』
『メリル嬢は本当に素敵な女性だよな』
『俺には勿体無いくらいだ』
『全くだ』
ふいにジョルジュと目が合って、どちらからともなく笑いが込み上げる。
『アイリス嬢だって、そうだろ?』
『アイリスは……』
そこでジョルジュの言葉が途切れた。
どうしたのか、とジョルジュの方に目線を移すと浮かない顔がそこにある。
『どうした?』
『俺はさ、アイリスが好きなんだよ』
カップを持つ手にグッと力が入る。
ジョルジュの告白は、相手が婚約者なのだから別にどうという事はない。
好きな相手に秘めた想いを告げようかどうしようかというような話でもない。
なのに、どうしてこんなにも憎らしく感じるのだろうか。
自分が自分である事に、どうしてこんなにも虚しさを感じてしまうのだろうか。
『ずっとずっとアイリスが好きなんだよ、カークス』
ジョルジュの持つペン先からインクがポタリと落ちる。
それはまるで俺の醜い心を表しているようで、酷く腹立たしかった。
自分自身にもジョルジュにも。
俺が手に入れられないものを手に入れているというのに。
それでもまだなお、思い悩む必要があるのか。
『どうしたらいいか、わからなかったんだ』
ジョルジュは言う。
『それでも、アイリスを誰にも渡したくないんだよ』
ジョルジュがその後に告げた言葉は俺を酷く混乱させた。
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