赤い月
お気に召したら評価、感想、ポイントをよろしくお願いします。
満月は人の心を狂わせるという。
それはただの噂かもしれない。
或いは子供を守る為の、言い訳なのかもしれない。
どちらにしろ、こんな赤い月明かりの夜なら狂ってみたい。
☆ ☆ ☆
バルコニーに続く、その扉。
月明かりに照らされた寝室。
昨夜、使用人が寸分の隙間もないくらいにきっちりとカーテンを閉めていった。
それでも、外から漏れる明るさは布地を通しても伝わってくる。
そのカーテンはそのままに扉だけを開け、外からの風を呼び込んだ。
ベッドサイドのナイトテーブルには飲み掛けのホットミルクがカップに残っているが、もうすっかり冷め切っている。
我が伯爵家の使用人はいまだに毎夜、俺にホットミルクを用意する。
もう子供ではないし、来月には正式な婚約者の御披露目もあるというのに。
どうやら六十代を越えた執事のジョージは、俺を子供扱いしていたいらしい。
何故ならジョージは俺を最近までお坊ちゃまと呼んでいたのだ。
いい加減やめてくれ、と頼んだ時は感慨深げで。
『お坊ちゃまはいつの間に大人になられたのでしょう』
『ジョージが年取ったのと同じだよ』
『私はまだまだ若いつもりでございます』
どう見たって俺はもう大人の身体なのに。
この部屋は毎朝の空気の入れ替えを欠かさないし、寝具はコーヒーシミもなく、真っ白を保っている。
シワ一つなかったシーツカバーは、この時間になってもピンと張っている。
それはそうだ、さっきまで隣室の婚約者のベッドにいたのだから。
ジョージはそんな俺を、見て見ぬ振りしている。
きっと大人になったと認めたくないのだ。
子供のいないジョージにとって、俺はいつまでも可愛いままなのだろう。
銀髪を後ろに流して執事服を着こなす彼の顔には、長年の皺が刻まれるようになった。
早くに妻を亡くしたジョージは、こんな俺を一人前の次期伯爵にするために毎日小言も刻み込む。
☆ ☆ ☆
隣室から出る時、婚約者はベッドに伏したまま起き上がれなかった。
慣れない営みは彼女にとって、何度経験しても苦痛でしかないはずだ。
正直言って、どれだけ彼女を抱いても俺の奥には響かない。
まるで外国語を聞いているようなのだ。
俺の求めには従順に応じるのに、その表情は決して心を許してはいない。
俺も同じく、心を許してはいないのだが。
それも、ごく当然の事だ。
婚約者であっても、恋人ではないのだから。
恋をした相手ではないのだから。
彼女の想い人は別にいる。
その想い人の為に子供の頃に決まった婚約を解消……。
なんて、そんなの出来はしない。
これは互いの家同士の取り決めだから。
我が伯爵家と婚約者の子爵家との間の。
俺が十歳、彼女が七歳。
庭に咲く色取り取りの薔薇が鮮やかな季節だった。
☆ ☆ ☆
彼女が言った。
『カークス様、私は先月より子を宿せる可能性のある身体になりました。もう子供ではありません』
『メリル、はしたない発言はよせ』
『ですが、私達は来月には正式に婚約するのですよ』
『だが、君には想う男がいるだろう』
『それは貴方様も同じでしょう?』
『そう思うなら……』
『男爵家のご令嬢、アイリス様……でしたわね』
『あぁ』
『私は構いません』
『メリル、だが……』
『私をアイリス様の代わりだと思って下さればよろしいのですよ』
隣室の婚約者の部屋と俺の部屋とはドア一枚で繋がっている。
ある日、寝入る準備を済ませてベッドに入ろうとした時だった。
ふいに、メリルが俺の部屋をノックして訪れたのだ。
普通なら、婚姻前の令嬢がこのような振る舞いと発言はあまりに不作法で淑女らしらかぬと眉をしかめる場面だ。
ところが、俺は何も言えなかった。
メリルの、その切羽詰まった態度と素肌が透けて見えそうになる寝間着に意思の強さを感じたからだ。
そして、言ったのだ。
いや、言わせてしまった。
『お願いです、私を抱いて下さい』
俺はメリルを抱き締めずにはいられなかった。
メリルの想い人、ダビデはつい先日、結婚した。
ダビデは平民で、メリルは子爵家の令嬢だ。
身分差があり、到底釣り合わない。
しかもダビデはメリルの気持ちを知らず、メリルも打ち明けた事はなかった。
もしも打ち明けたとしても、うまくいくような関係にはなれなかっただろう。
そもそも俺とメリルは婚約者同士の間柄。
そして誰もがその事実を知っている。
二人の関係を壊すような、割って入るような真似をする勇気ある者はいないだろう。
それが平民なら尚更だ。
悲しい現実と身分の壁がメリルに立ちはだかっていたのだ。
実は俺とメリルは数ヶ月前まで共に寄宿学校の生徒で、ダビデとも勉学を共にした事がある。
メリルと彼の互いの関係は友人の域を出ていなかった。
そしてダビデは寄宿学校を出た後、ずっと恋い焦がれていた女と夫婦になった。
二人とも平民同士。
身分差など何の障害もなく、幸せに暮らしていると聞く。
メリルと俺は愛情など持たない関係でも、互いの気持ちはよく知っていた。
だからメリルの誘いを断れなかった。
ダビデを忘れる為に俺に抱いてくれと言ったのだから。
自分に逃げ道を作らない為に。
なのに、メリルは俺を見ながら泣いた。
『どうした?』
心が繋がらない関係でも、初めてなのだからせめて優しくしているつもりだったのに。
何故泣くのか、と見下ろして聞いても……。
『何でもありません』
『いいから言ってみろ。嫌ならやめるから』
『ただ、悲しいだけです……』
好きな男を想いながら、俺を前にして泣いたメリル。
その時だけは慰める言葉を何も持ち合わせてはいなかった。
☆ ☆ ☆
以来、俺は夜が更けて寝静まる頃にメリルの部屋を頻繁に訪れるようになった。
普段は閉まっている二人を隔てるドアも、その時だけは開けられる。
部屋で俺を待つメリルが拒否する事はない。
メリルが望んだのだから。
もちろん俺だって、そうだ。
ただ、心は別にある。
メリルがメリルでなければ。
俺の婚約者がアイリス嬢だったなら……。
何度そう思いながら抱いただろうか。
☆ ☆ ☆
シャツの前をはだけさせたまま、バルコニーに出てみる。
汗ばんだ肌に当たる風が心地良い。
こんな夜更けでも月明かりの下なら燭台の蝋燭も点ける必要がないだろう。
俺は扉をそのままにカーテンも開けて、月明かりの中で寝た。
ここにいない人を想いながら。
夢でも構わない、彼女がバルコニーから現れてくれたらという願いを込めて。
☆ ☆ ☆
その日、不思議な夢を見た。
サラサラと風に靡くカーテンを左右に従えて、白い寝間着かドレスのような姿で、想い人によく似た女性がベッドサイドに立っているのだ。
それはとても幸せで、とても嬉しい気持ち。
『アイリス……なのか?』
俺はベッドに寝そべったまま、起き上がる事が出来ない。
声を掛けようとしても、答えてはくれない。
俺の好きな、あの微笑みのアイリス嬢がそこにいるだけ。
『カークス様。明日の夜、一つだけ願いを叶える事が出来ます』
これは神様が遣わした夢……?
『カークス様、願いを叶えて』
俺の願望が言わせたのか?
それともアイリス嬢の願望なのか?
『お願い、貴方と……』
アイリス嬢に手を差し出そうとしても、身体が動かない。
『アイリス……』
ベッドサイドのアイリスは寝そべる俺の耳元で言う。
『待ってる……カークス』
☆ ☆ ☆
「カークス様、どうなさったの?」
応接間のソファーに座る、その隣でメリルが聞く。
午前のひととき、配達人から受け取ったジョージが寄越した一通の文。
「ジョルジュの屋敷から今朝、届いたんだよ」
ジョルジュというのは俺の幼馴染で、同じ伯爵家の子息だ。
文によると、ここ数日でジョルジュの御父上が床に臥せるようになったらしい。
そこで、しばらくの間は伯爵代理としての仕事をこなさければならなくなったという。
俺は以前からの約束で、ジョルジュを家に誘って、ここ最近の社会情勢等について書斎で談義するつもりでいた。
文は、その断りの返事と仕事の相談に乗って欲しいという依頼の両方だった。
「まぁ、ジョルジュ卿の?」
「確か、とても元気な方だったはずだよ」
「えぇ、私もカークス様と共に一度だけジョルジュ卿の御屋敷にお邪魔しましたものね」
「そうだったね。ジョルジュはもうすぐ結婚式を挙げる予定なのに」
「その結婚相手の方って……」
「アイリス嬢……」
「ならば、すぐに行ってあげて下さい」
そう言って、メリルは使用人に俺の出立の準備を指示する。
ジョージも心得ているらしく、使用人を連れ立って応接間からすぐに下がって行った。
「メリルも一緒に行かないか?」
「私では邪魔になりますわ。アイリス様がいらっしゃるのなら何も心配はいらないでしょうから」
「だが……」
「カークス様、どうかアイリス様と共にジョルジュ卿を支えてあげて下さいませ」
「メリル……」
「私はここで、カークス様のお帰りをお待ちしておりますわ」
「すまない、メリル。おそらく数日は掛かると思うが……」
「大丈夫です、カークス様。信じております」
「ありがとう」
メリルの巻いた胸ラインまでの長い髪と意思の強さを表す瞳は、アイリスとは少し違う。
アイリスはさらに長い髪を巻いて後ろで束ねている。
瞳は強さより弱々しく、それでいて微笑んだ時の聖女のような光が印象的だ。
俺は思い出していた。
昨夜の夢に出て来た、アイリスの言葉を。
『貴方を待ってる』
「捨てられた犬と拾った男の話」(連載中)
「魔女の住む森」(短編)
「彼と彼女と二人の秘密」(全二話)
も、掲載しています。
そちらも同様によろしくお願いします。