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路上生活の絵里

作者: 夕綺柳

【注意】鬱っぽいので苦手な方はご注意ください


昔書いた短編です。

友人に読んでもらったところ、伊藤さんというキャラの行動に納得いかないと言われました。


コンテストに応募して一次選考落ちの作品ですので、問題多いと思います。

性的描写があるのでR15にしています。

 プロローグ

 



 それは、春から初夏にかけての暖かい日々だった。

 

 大学受験を控えた俺と、高校に入学したばかりの絵里。

 中学で陸上をしていた絵里は、何を思ったか天文研究部に入部した。

 

 男女併せて総勢7名という、バレーボールなら何とかチームが組めるという規模の弱小部だ。

 常に廃部の問題を抱える天文部にとり、彼女が貴重な戦力であった事は言うまでもない。

 

 そもそも、この御時世に星なんか見て喜べる奴は少なかった。

 同世代の奴が街に繰り出し、異性に遊びにと限られた時間を消費する間に、星を見ていろと命令されるのである。

 

 クソ寒い夜に光の点を見て喜べる。

 クソ暑い夜に虫除けを焚いてまで屋外に集まれる。


 聞いているだけで希少価値の高そうな人材じゃないか。


 それが総勢11名にもなれたことは、これでサッカーが出来るという以上に、来年も研究部の存続を許されたという点で喜ばしい事だった。


 みんなも、この小所帯を気に入ってくれていたと思う。

 絵里もみんなもとても楽しんでいて、何より俺が一番楽しかった。

 受験の事も家のことも、部室に顔を出せばそれだけで吹っ切れたのだ。

 

「私、先輩のことが好きです」


 意外だった。

 どうして俺なんか好きになるんだろうと、真剣に悩んだ。


 そんな素振りは今まで全く見せなかったし、冗談やからかいでもない証拠に、とんでもないことを言い出したのだ。


 それは、

 

「私は、結婚するつもりで先輩に告白しています」


 学校が終わり、一人暮らしのアパートで夕食の準備をしている最中だった。

 突然の訪問に驚いた俺が、絵里を部屋に上げた直後の出来事。


 少し舞い上がったのも事実だ。


 弾むように躍動的で笑顔が可愛くて、時々もの凄く脳天気なんだけど、実は人一倍みんなに気を配っていて……およそ絵里は、俺には勿体ない魅力的な女の子だった。


 他の男も随分言い寄っていたらしい。

 でも、絵里は今俺の目の前にいた。

 

「正直に言って、俺なんかの何処が良いのか分からない。でも、俺は絵里のことが好きだし、全部を捨てても守りたいって思える」


 絵里は喜んでくれた。

 絵里が喜んでくれたことが、俺はとても嬉しかった。


 本当はここで、気の利いた店にでも連れて行くのが筋なんだろう。

 けれど、作りかけのカレーが勿体ないという理由で、俺は絵里と一緒にカレーを完成させた。


 何を捨てても守りたいなんて言ったくせに、いきなり絵里よりカレーを優先させたのだ。

 自分でも少し呆れたし、絵里が喜んでカレーを作ったことにも驚いた。


 多分、絵里以上に俺を愛してくれる女性には一生出会えないだろう。

 そう思ってしまう程、絵里は俺を愛してくれていると感じた。


 絵里は母子家庭で育ったという。

 なるほど、驚くほど料理の手際が良い。


 勝手に苦手だろうと思っていたが、それを言ったら怒られてしまった。


 ちなみに俺には実家が無い。

 後妻の連れ子として今の家に入ったのだが、母親が他界してしまったのだ。


 それ以後は、家を出て好き勝手にやっている。

 実家はなかなかの農家で、俺の生活費を出す程度、惜しいと思ったこともないだろう。


 おかげで、食べるくらいは苦労せずに生活出来ていた。

 絵里は、だから先輩は独特の雰囲気があるんですね、なんて笑っている。


 独特の雰囲気について詳しい説明を聞きながらカレーを食べ終えると、洗い物をしてから風呂で汗を流し、そのまま二人でベットに入った。


 翌朝、二人のなけなしの貯金を叩いて、安い指輪を買った。

 あまりにも安くて、イニシャルを入れることも出来なかったのだが、絵里はその指輪が良いと言って譲らなかった。


 もう少しだけ良い物も買えたのに。

 でも、プレゼントはこれからいくらでも出来るんだと、俺は思い直した。


 この酷く特徴のある指輪も、良い思い出になるはずだと。

 絵里はそのままこの部屋に居着き、俺の数年に及んだ一人暮らしは終わりを迎えた。

 この時……おかしいと思うべきだった。






 第一章 - 淡島悠馬 -

 

 



 

「おい、大丈夫かよ」


「らいじょうぶですってば」


 けしからん事に、絵里が天文部の顧問から焼酎をもらってきた。

 俺達には何もくれないくせに、女性部員には一本ずつ配ったらしい。


「絵里は、焼酎ならコップ一杯が目安だな。ここからはちびちびいけよ」


「もう、らから先輩は、お父さんみたいらなんて言われてるんですよー」


「なんだそれ」


 俺は醤油を利かせたバターコーンをスプーンで掬った。


「先輩は天文部のお父さんらって、女の子はみんな言ってますよー」


「みんなって、絵里と恵くらいなもんだろう」


 天文部には二人の一年生女子が居るが、そのもう一人が恵である。

 他の女生徒も三人居るが、彼女らは俺よりよほど立派な大人だ。

 同じ高校生に父性を感じることはないだろう。


「みんなって、全校せーとですよ。ふふふふふっ」


「なにー」


 それは初耳だった。

 そんなに俺は親父臭いのか?


「俺って、そんなに老けてるか?」


「らいじょうぶです。少なくとも、わらしには良い感じです」


 まぁ、そうだろうけど。


「そうだな、絵里が良いならイイや」


「あははっ。またまたー、そう言うところが女泣かせなんれすよー」


「本当に大丈夫かよ。風呂は明日の朝にして、今日は寝ちまおうな」


 絵里は椅子に深く腰掛け直し、前傾姿勢でテーブルにひじを突いた。

 いかにも酔いつぶれそうだな。


「らって、先輩10人以上の女の子をふってるれしょー?」


「振ってない」


「ふってますー」


「ああいうのを恋愛とは言わないよ。電車で見かけただけで、好きですって普通言えないだろう」


「あーーっ、ぶゆうれん~」


「それを振ったって言うんなら、絵里の言うとおりだけどな」


「もうー、心配らなー……」


「大体、俺の何処が良いんだ? 本当に不思議なんだよ」


「あはは、いやみなやつー」


「そう言われるから、今まで誰にも聞けなかったんだ」


「教えないもんっ」


「絵里は可愛いよ」


「またー、もー」


「イヤらしい気持ちにさせるとかじゃなくて、いや、もちろんそれもあるんだけど、一緒に生きて行けたら幸せだろうなって、いつも思ってた」


「もうっ……先輩、わらしのこと本当に好き?」


「な、なんだよ」


「教えてっ!」


「……愛してるよ」


「もう一回」


「もう言わない」


「もういっかいーーっ!」


「じゃ、じゃあ絵里は俺のこと……好きか?」


「らーーーーーーーーーーーーいすきっ!」


「酔ってるだけじゃないか……」


「先輩は、これから一生私とHれきなくても愛してくれますか?」


「風俗とかは許してくれるの?」


「らめーーーーーーっ!」


「また、変なこと言い出すなぁ」


「教えて!」


「俺は絵里にイヤだって言われない限り、Hしたい」


「じゃあイヤ」


「おいおい……」


「ねぇー、ひうっ……H抜きれも、愛してくれるんれすかぁ?」


 なんだか泣き出しそうな感じになってきた。

 酒と合法ドラックの何が違うんだと力説した人がいる。


 今現在、法規制が入ってないというだけの合法ドラックを勧める気にはサラサラなれないが、絵里みたいな溜め込むタイプは、たまに酒でも飲んだ方が良いのだろう。


「当たり前だよ。子供が出来るまでは、絵里がこの世で一番好きだ」


「じゃあ、ころもつくらなーい」


「言うと思った」


「もぅ、ちゃんと答えて、ひうっ、くらさい、よー……ううっ」


 絵里が本格的に泣き始めた。

 今日は、俺達にとって大事な日なのかも知れない。


「さっきも言った通り、俺は絵里とHしたいと思っている。でも、そんなものなくたって絵里と一緒に居たいって気持ちは変わらないよ。子供だって要らない。絵里とH出来なくても良い」


「うううううう、わあああああああっ」


 絵里は子供みたいに泣いていた。

 確かに少女らしさはあると思っていたし、喜怒哀楽の表現もハッキリしている。


 上目遣いに目を泳がせる癖や、すぐにスキンシップを求めてくる辺りに幼児性を感じてもいたが、異常と言うほどではなかったはずだ。


 何か理由がある。

 資質の問題以上の何かが、酒の力を借りて絵里を悲しませている。


 俺は絵里の隣に座り直すと、少し強く、拘束するように抱きしめた。

 絵里はすぐに俺の背中に手を回し、体を震わせた。


「義父さんに……乱暴……され……そうに……なって……うううっ、言うこと……聞かないなら……学校に……行かせ、ないって……訴えたら……家族が破滅する……って」


 そこまで言うと、また絵里はあーあーと泣き始めた。


「だから……先輩の……」


「分かった……もう良い。嫌なこと思い出させちゃったね。ごめんね」


「先輩……は……悪く……ひうっ……ないっ……悪い……のは……ううっ……私」


「俺の絵里は何も悪くないし、絵里なら悪くても良いんだよ」


「でも……キスも……H……も先輩が……初めて……ひうっ……なんだよ。私……あいつ、に……何も……させなかった……もん……信じて」


「もういいよ、信じる。大丈夫だから」


 俺は馬鹿だ。

 高校一年生の女の子が、どうして現実レベルで結婚なんか考える。


 絵里は怖くて悔しくて、俺に頼りに来ただけだったんだ。

 それを俺は慰みものにしてしまった。


 順番が違っただけで、俺は絵里の義父と何も変わらない。

 いや、悩んでる人間の弱みを付いた時点で、俺はその義父に劣る。


 二人の時間を育む間も無しに、何故おかしいと思えなかったんだ……。


 俺は絵里を傷つけてしまった。

 絵里を自分の欲望の対象にしてしまった。

 

 その日から俺は、居間に布団を敷いて寝るようになった。

 少しでも絵里に優しくしたかったのだ。


 もう、絵里に指一本触れない。


 もしも迷惑じゃなかったら、絵里を悲しませる全てに俺を立ち向かわせて欲しい。

 そんなことで許されるとは思えないが、俺にはそんなことしか出来なかった……。






 第二章 - 梶野絵里 - 






 あの日から先輩は変わってしまった。

 私が義父のことを喋ってしまったからだ。


 私が汚れていることを知られてしまった。

 何を犠牲にしてでも、隠さなければいけなかったのに……。


 私はいつもこうだ。

 いつも調子に乗って人を傷つけてしまう。


 きっと先輩は傷ついてしまった。

 でも、先輩は大人で良い人だから、こんな私にも微笑みかけてくれる。


 先輩のことは、高校に入学する前から知っていた。

 中学の友達が、毎日電車で会う先輩に告白した事があったのだ。


 私はその隣でドキドキしていた。

 初めて見た先輩はとても大人で、私達を相手にするとは思えなかったのだ。


 そして、私達はなんて子供なんだろうと、恥ずかしくて死にそうになった。


 私でさえそうなんだから、実際に告白する友達がどれほど緊張しているのか、見るのも辛かった。


「本当にごめんね。でも、もっと時間が経って、それでも俺のことを好きでいてくれたなら、その時もう一度教えて欲しい。俺も君の名前を必ず覚えておくよ」


 先輩はそう言って友達の名前を学生証に書き込んでいた。


 その後、先輩は私達に甘い物をおごってくれて、買い物にも付き合ってくれて、家までも送ってくれた。


 私は、どうしてこんなにしてくれるのか不思議で仕方がなかったから、思わず聞いてしまった。


「誰かに自分を好きだって言ってもらえるのは、本当に嬉しい事なんだ。でも、俺は何もしてあげられなかったからね。バランス感覚の問題なのかな」


 私は先輩を好きになった。

 その時、他に好きな男の子もいたけれど、次の日にその男の子を見たとき、酷く子供に見えてしまった。


 先輩は、今までの私の周りには居ないタイプの男の人だった。

 新鮮だったのかも知れない。


 でも、頑張って先輩と同じ高校に入学して、同じ部活に入って、私は自分の気持ちが確かだった事を理解した。


 嬉しかった。

 天文部にはもっと大人の先輩も居たし、先生にも素敵な人が居る。


 でも、先輩は特別だった。

 先輩の大人じゃないところも、胸がおかしくなるくらい好きになった。


 二年しか先輩とは居られないけれど、大学も同じ所に行くつもりでいる。

 一秒でも先輩と一緒に居たい。


 先輩が女の子に人気があると聞いて、納得していた。


 でも、誰とも付き合わないんだって知って、私も告白出来なくなってしまった。

 そうしているうちに、母が再婚して……。


 楽しい時間は私が壊してしまった。

 私の好きな人は、私が遠ざけた。


 でも、家には戻れない。

 何をされるのか、とても怖かった。


 これ以上先輩に嫌われたくない。

 だから、私はこの部屋に居続けるしかできなかった。


 もう、先輩が私を抱きしめてくれる事は無いと思う。

 何かで指が触れただけでも、汚い物でも触ったようにすぐに手を引っ込めて、別の部屋へ行ってしまう。


 それでも、私にはここしか居るところがなかった。

 ここから出て行けと言われたら……死ぬつもりだった。 






 第三章 - 梶野絵里 -






「どうしたの? 最近元気ないよね。彼氏とケンカしたの?」


 隣の部屋の大学生の様子がおかしかった。


 今の私に出来るのは、先輩のために美味しい食事を作ってあげることだけ。


 なるべく安くて、美味しい物を作ってあげたくて、買い物は回数と時間をかけていた。

 私が部屋を出ると、その人も一緒に部屋から出て来る事が多い。


 特に最近はほとんど毎日顔を合わせている。

 気持ちが悪かった。


 途中まで一緒について来て、ずっと私に話し掛けてくる。

 なんだか内容も子供っぽい話ばかりだ。


 夜、調味料を切らしてコンビニに行くときも、その人は付いてきた。


 たまたまらしい。

 縁があるとか言っている。


 そういうときは、裏通りの近いコンビニじゃなくて、表通りにある遠いコンビニまで行って来る。


 先輩は自分が行くとか、一緒に行こうとか言ってくれるけど、もう迷惑はかけたくない。


 食事は私の仕事なのだ。

 私がここにいられる唯一つの理由なんだ。


 でも、先輩はこんな私にも本当に優しかった。

 体に触ること以外は、私を愛してくれているように錯覚してしまう。


 でも、勘違いしてはいけない。


 先輩が私に優しくしてくれるのは、同じ部活の後輩だからだ。

 先輩そのものが優しい人だからだ。

 出て行けと言わないのは、私に行くところがないことを知っているからだ……。




 今日は先輩の誕生日だった。

 学校を休んででも、美味しいお料理を作ろうと思う。


 先輩も反対しなかった。


 先輩も休むって言ってくれたけど、それじゃ迷惑になってしまうから、やはり私一人で支度をすることにする。


 用意していた材料で、たくさんお料理を作った。

 朝から7時間以上も掛かったけど、もうすぐ全部完成だ。


 作り終わったお料理をキッチンやテーブルに並べて、ラップをかけられる物にはラップをかける。


 我ながら見事な出来映えだ。

 私の唯一の仕事で、とても頑張ることが出来た。


 嬉しかった。愛情は私の持っているだけを全部注ぎ込んだ。


 愛している人に食べて欲しくて、愛している人に喜んで欲しくて、私の気持ちを全部注ぎ込んだ。


 日持ちのする物は部活に持って行って、みんなにも先輩の誕生日を祝ってもらおう。

 楽しくなりそうだった。


 生クリームの賞味期限が切れている事に気が付いた。

 先輩がお腹を壊してしまったら大変だ。


 私は少し覚悟してドアを開けてみる。

 でも、今日は隣から誰も出てこなかった。


 安心して買い物に出掛ける。

 生クリームを買って帰ると、部屋の鍵が開いていた。

 もう先輩が帰ってきたんだろうか。


「先輩、どうかしましたか?」


 キッチンに人が立っていた。

 誰かが、私の一生懸命作ったお料理をむしゃむしゃと食べている。


 その人は下半身が裸で、しきりに何か作業をしながら私の料理を食べていた。

 隣の大学生だった。


 殺してやりたいと思った。

 大学生は、私に気が付くと有り難うとか言い出した。


 ボクのために作ったとかなんとか、言い始めていた。

 大学生をお料理から引き離した。


 先輩へ注いだ愛情が、怪物に食べられているようだった。


 私は泣きながら何かを叫んでいたけれど、自分でも良くわからない。

 揉みくちゃになって床に倒れると、男が私の上に乗っていた。


 私は声の限りに先輩の名を叫んだ。


 これで、本当にここには居られなくなった。

 先輩にたくさん迷惑をかけてしまうだろう。


 でも、これで先輩が私を追い出してくれる。

 いくら先輩でも、もう我慢がならないだろう。

 

 何処で死のうか。

 

 学校だとみんなに迷惑が掛かってしまう。

 遺書も残さない方が良いかな。


 先輩に初めて会った駅が良いのかも知れない。


 でも、この男に乱暴されるのはイヤだった。


 私が愛したのは先輩だけ。

 私を抱いてくれたのも先輩だけ。


 死ぬときに先輩のことだけを考えて死にたかった。


 お隣の、お腹の大きな奥さんが駆け着けてくれたとき、台所から火の手が上がっていた。

 男が料理を温めていたのだろう。


 すぐに隣の油鍋に火が移って、台所が真っ赤になってしまった。

 奥さんが火事だと叫んでいる。


 もう、男のことなんかどうでも良かった。

 先輩のお家が燃えてしまう。


 私はもう死んでも良いけれど、先輩に迷惑をかけたくない。


 これ以上先輩に嫌われたくない。


 上に乗っている男が邪魔だった。

 手に掴んだ硬い物でその頭を殴る。


 私はすぐに起きあがると、体を火にさらしながらコンロの火を止めた。

 熱かったけど、どうせもう死ぬんだからと思えば怖くも何ともない。


 いきなり後ろから引き倒された。

 ただでさえボロボロになっていた服が、ほとんど裸同然に裂けてしまう。


 男が油鍋の取っ手を引っ掛けて床にまき散らした。 


 もう、天井の辺りには火が回っていたけれど、床にもその火が広がっていく。

 私は立ち上がって、風呂場へ行こうとした。


 桶で水をかけるのだ。

 まだ間に合うかも知れない。


 でも、その手を隣の奥さんに捕まれた。

 廊下まで引っ張り出される。


「離してっ! 先輩の家が燃えちゃうよーっ!」


 私はずっと離してくれと叫んでいた。

 次第に人が集まってきて、私は外の道路にまで連れ出されてしまう。


 先輩の部屋から赤い火がチラチラと見えて、真っ黒な煙が玄関と窓から吐き出されていた。


 暴れなくなった私に、奥さんが上着を掛けてくれる。

 何も考えられずに地面に座り込んだ。


 気が付くと、隣の大学生が料理の皿を持って階段から下りてきた。

 酷い格好だった。


 下半身が裸で、頭や服に火の点いた後がある。

 料理を食べていた。

 目の前が真っ暗になっていく。

 

「そのお料理は食べないで……先輩のお誕生日に朝から一生懸命作ったのに……」


 男がにやりと笑った。

 そして、私に走り寄ってくる。


 集まっていた男の人が、大学生を押さえつけた。

 暴れる大学生を5人掛かりで押さえ込んでいく。


 私は泣いていた。


 泣きながら、大学生が落としたお皿にお料理を戻していく。

 

「先輩……美味しく作ったのに……先輩……」


 お隣の奥さんが、お皿にお料理を戻すのを手伝ってくれた。


 砂だらけになってしまったお料理。

 涙が止まらなかった。


 先輩のお家が燃えている……。

 私は汚れてしまった自分の手を眺めた。

 

「指輪がないっ!」

 

 婚約指輪がなかった。

 何処で外してしまったのか記憶にない。


 私は慌てて家に戻る。

 また奥さんに捕まれた。


 暴れて走って暴れて、三人くらいの人に押さえつけられた。

 大学生の男と一緒だ。

 

「婚約指輪なのっ! 私はもう死ぬから良いのっ! 離してっ、指輪を返してーーーーっ!」


 あ、そうか。

 これは違うんだ。


 だって家が燃えているんだもの。


 先輩と誕生日をして、明日みんなにお料理を食べてもらって、それから死ぬところを探して、遺書は書かないで、先輩に有り難うって言いながら死ぬんだ。


 お隣の奥さんが駄目って言っている。

 でも、家が燃えてたら誕生日が出来ないから。


 だからこれは違うよ。

 でも、私の居場所は無くなっちゃったんだね。


 あっ、違う。今日はお誕生日して、明日は学校でみんなにお料理を食べてもらって、そしたら出て行くんだ。


 先輩に見つからないように出て行かないと。

 先輩は優しいから、きっと私なんかのためにまた迷惑を引き受けちゃうから。


 私はもうこの家に入れないんだ。

 でも、なんで出て行くんだっけ……。


 どんな迷惑だったっけ……ああ、もう良いよね……。


 先輩。


 私のことなんか好きになってくれた先輩。


 迷惑ばっかりかけちゃった先輩。


 先輩、有り難うございました。

 私、本当に幸せです。

 有り難うございました。


 お隣の奥さんが、私を抱きしめてくれた。

 奥さんも有り難うございました。


 あの人に乱暴されなくて良かった。

 奥さんのおかげです。


 泣かないでください。

 お腹が大きくなって、赤ちゃんが生まれてくるんですよね。


 私も、先輩の赤ちゃんが欲しかったな。

 でも、今日はこれから先輩のお誕生日を祝うんです。


 もし良かったら、一生懸命作ったのでお料理食べてくださいね。

 ああ、先輩今日は何時頃帰ってくるのかな……。

 

 

 

 

 

 

 第四章 - 淡島悠馬 -

 

 

 

 

 

 

 授業が終わると、俺はホームルームをサボってすぐに家に帰った。

 プレゼントって言うのも変だけど、目を付けていたお揃いのマグカップを買う。


 大通りを消防車が走って行く。

 向こうの方に黒い煙が上がっているのが見えた。


 大変だなって思う。

 家が火事になるというのは、自分の歴史が燃えてしまうと言うことだ。


 歴史を忘れることはないけれど、形は失われてしまう。

 それが大変なことだって、俺は少し理解できた。


 火事場が近くなるに連れて、急に不安が込み上げてくる。

 どうしたんだろう。なんだか様子がおかしい。


 段々、嫌な予感が頭を過ぎり始めた。


 俺は溜まらずに走り出す。

 火事が起きているのは、俺のアパートの辺りじゃないか?


 今日は絵里が家に残ってるんだぞ。


 絵里っ、絵里っ……。

 隣をもう一台の消防車が通っていく。


 まさか、まさか。

 その消防車が、俺のアパートの方に曲がっていった。


 煙が近い。

 もろに家じゃなかったとしても、かなり近くだ。


 絵里は逃げているだろうか。

 やっと曲がり角を曲がる。


 俺のアパートの前に人集りが出来ていた。

 もう、間違いなく俺のアパートから火の手が上がっているのがわかる。


 息が持たない。

 野次馬をかき分けて前に進む。


「絵里ぃーーーーーーーーーーーーっ!」


 そこには異様な光景が広がっていた。

 たった今着いたという感じのパトカーから、降りてくる警官達。


 近所の住人に押さえつけられている、下半身丸出しの男。


 そして……ぼろぼろの絵里。


 俺の叫び声に、その場の視線が集中した。

 野次馬が近づけないように、ロープが張られてく側を俺は通過する。


 誰も俺のことを咎めなかった。

 絵里の側にはお腹の大きな隣の奥さんが居た。

 

「絵里、絵里?」


 絵里を抱き寄せる。

 放心しているようだ。

 

「もう大丈夫だから、もう平気だから……」


 絵里はやっと俺に気が付いたようだ。

 何かぶつぶつと呟いている。

 

「先輩、お誕生日おめでとう御座います」


「もう、何言ってんだよ……」


 安心した。

 冗談が言えるなら大丈夫だろう。


 絵里がスッと立ち上がる。

 しゃがんでいた俺も立ち上がった。

 

「先輩、お料理をたくさん作ってあるんです。もう、7時間も掛かっちゃいましたよ。今、暖めますから待っていてくださいね」


 背後から息をのむ声が聞こえた。

 あーあ、と言うような声も聞こえる。


 お隣の奥さんが、ちょっと混乱しているだけだからと俺を慰めるようなことを言った。

 女の子は何もされていないとも。

 

「あの男が俺の絵里ちゃんを寝取ったんだっ! お巡りさん、俺じゃなくてあいつを逮捕しなくちゃ! あいつが絵里ちゃんを酷い目に遭わせてるんだぞっ! あいつ、あいつをーーーっ!」


 絵里は男の声など聞こえないように、家の方を眺めている。

 隣の奥さんが『嘘を付くな、私は見た』と声を張り上げてくれた。


 警察も別に相手にしていないようで、男に手錠をかけてパトカーまで連行する。


 なんで、こうなっちゃうんだ。

 なんで、絵里ばっかりこんな目に遭うんだよ。

 なんで……。

 俺は怒りに我を忘れた。

 

「どうして絵里ばっかりこんな目に遭うんだよっ!」


 再び俺に視線が集まった。

 男がパトカーに乗せられる前に殺さなければならない。


 パトカーに乗ってしまったら、あいつは法に保護される。

 加害者絶対擁護の法律に。


 でも、俺はあいつとの距離を半分も縮められなかった。

 警官なのか消防員なのか、ワケわかんない奴らに押さえつけられる。

 

「絵里の何が悪いんだっ! 言ってみろよっ! どうしてお前等はすぐにそうなんだっ! 答えてみろっ! 答えろよーーっ!」


 パトカーが行ってしまう。

 もう、俺の手には届かない。


 暴れるのを止めた俺は、絵里の側に歩いて行った。


 隣の奥さんが、絵里の肩に掛かっていたカーディガンをキチンと着せてあげている。


 上の服が破られていることと、少し髪の毛が焦げていること以外、大した怪我もないようだ。


 俺は絵里の横に立って、そっと抱きしめた。

 それしか出来ることはなかった……。


 

 

 

 第5章 - 淡島悠馬 -

 

 

 

 

 駅前のビジネスホテルが俺達の仮宿になった。

 大家が、焼け出された住人に手配してくれたのだ。


 もっとも、保険会社の社員が全てを手配したのだろうが、あの大学生の裁判次第では誰かが泣きを見ることになるだろう。


 それが絵里になることだけは許せない。


 警察もまず大丈夫とは言っていたが、襲われたのは絵里も合意の上の出来事で、火事は絵里の火元管理が原因などど結審する事も十分考えられる。


 悲しいことに、ここはそういう国だった。

 油断してはいけない。


 二番目の親父が俺に火災保険を掛けていたので、今後のことも特に問題はないだろう。

 大した家具があったわけでもない。


 絵里が指輪を無くしたと騒いだそうだが、火事場から見つかったと言って、後で同じもの買ってこよう。 


 それよりも、心配なのは絵里自身の事だった。


 明日、児童相談所の人が来てくれるらしいが、さっきからずっと何を呟いたまま、俺の話を聞こうともしない。


 食事にもほとんど箸を付けなかった。

 ただ、ずっと俺の側を離れないので、なにか不安なんだろうとは思う。


 手を握ると安心するようなので、ずっと手を繋いだままだ。

 警察の事情聴取にも応じられる状態ではなかった。


 俺も幾つか聞かれたが、ほとんど何も分からない状態だ。

 でも、とにかく今は絵里を休ませたかった。


 屋根のある場所を手配してもらえたのは助かる。

 ふと、絵里が俺の手を離してふらふらと表に出て行ってしまった。


 今日は安静にしていて欲しいんだが、さっきから落ち着かなかった。

 絵里は俺から逃げるように、そのままホテルを出て行ってしまう。


「絵里、何処に行くの?」


 絵里は困っているようだった。

 俺に見つからないように動いたつもりなのか。

 

「部屋にもどろう」


「……先輩に迷惑を掛けちゃう……」


「迷惑じゃないよ」


「……私は居ちゃいけないって……」


「誰もそんな事言ってないよ」


「先輩が優しいのを、私が付け込んでるって……」


「誰も言ってない。そんな事、誰も言ってないんだよ」


 俺は、絵里が本当に壊れてしまった事に気が付いた。

 

 部屋へ連れて帰っても、急にソワソワし始めてまた外に出てしまう。


 無理に抱きしめて止めると、体中が震えて痙攣みたいな症状を起こした。

 ホテルには居られないようだ。


 見知った住人の目がある中、俺はホテルに毛布を借りて野宿する事にした。


 手を握っている間は良いのだが、ふと何かを思いだしたように俺から離れようとする。

 どうすればいいのか分からなかった。


 何かをぶつぶつと言うのだが聞き取れない。

 深夜になってから、駐車場の影に座り、抱き合う様に俺達は眠った。


 絵里が離れないように。

 離れたら分かるように抱きしめて眠った。


「そうか。まだ先輩に義父さんの事、話してないから触ってくれるんだ。絶対に言っちゃダメだよ。言ったら先輩に嫌われちゃう。先輩が汚い物みたいに私に触れてくれなくなっちゃう。秘密にしておかないと……先輩、騙して御免なさい。でも、私は先輩に嫌われたら生きていけません……」


 俺はどうして良いのか分からなかった。

 絵里は他にも色々なことを呟いている。


 自分が馬鹿だって事は、イヤになるほど思い知らされて育った。

 でも、今度は最低だった。

 

 絵里は、俺が嫌って避けていると思っていたのだ。


 違うと言いたかった。

 絵里を傷つけたくなかっただけだ。


 俺は義父の件で傷ついた絵里を、イヤらしい気持ちで慰み者にしてしまったのだ。


 愛しているなどと口には出来なかった。

 絵里がさらに傷ついてしまう。


 俺の気持ちなんかどうでも良かったのだ。

 俺が絵里に寄せていた思いなど、絵里を苦しませるだけだと思った。


 絵里は俺に助けて欲しかっただけなのに、イヤらしいことを強要してしまったのだ。


 絵里は助けて欲しかっただけで、せっぱ詰まって愛しているなどと言ってしまったのだ。


 それを俺は分かってやれなかった。

 いや、分かってやれなかっただけじゃない。


 弱みを握って、処女を奪ったのだ。

 俺は自分が許せなかった。


 絵里が立ち直るまで、全力で援助したいと思った。

 でも違った。


 絵里は俺にぬくもりを求めていたのだ。

 俺のことを本当に愛してくれていたのだ。


 それを俺は無下にした。

 絵里の愛を疑ったのだ。


 汚い物から逃げるように、絵里に指一本触れなかった。

 絵里は傷ついていたんだ。


 俺は何をやっても絵里を分かってやれないんだ。

 何をどうしても絵里を傷つけてしまうんだ。


 今の状態は、俺が招いたも同然だった。


 ホテルに居場所が無いというのは、俺の部屋で感じていた事なのだろう。


 いや、居場所はもう、あそこにしかないと思っていたのかも知れない。


 二人一緒なら、そこが二人の居場所なんだと教えてあげたかった。


 俺が絵里を追い込んだんだ。 


 その日、俺は退学届けを書いた。

 絵里と一緒に、死ぬまで野宿をしようと心に決めた。






 第6章 - 梶野絵里 -






 目が覚めると、隣で先輩が眠っていた。

 私のことを抱きしめながら眠っている。


 ここが何処なのか良くわからない。

 もう、学校に行く時間なんだけど周りに台所がなかった。

 ここでは私の仕事は出来ないみたいだ。

 

「先輩、学校に行く時間ですよ」

 

 先輩が目を覚ました。

 先輩のぬくもりが私の体の奥まで届いている。


 幸せだ。

 ずっとこのままこうしていたい。


 でも駄目だ。

 先輩に迷惑を掛けてしまう。


 義父さんの事も、秘密にしておかないと触ってくれなくなっちゃう。

 これ以上、先輩に嫌われたくない。

 

「先輩、嫌いにならないで」


 先輩が頭を撫でてくれた。

 子供みたいでイヤだったけど、イヤじゃない。


 でも、こんな事言っちゃ駄目だ。

 嫌いにならないで欲しいなんて、嫌いになってくれと言っている様なものなんだ。


 先輩のYシャツは全部アイロンがけしてある。


 ご飯を作ったらYシャツを出して、制服を着せて、私も着替えて一緒に学校へ行くんだ。


 お料理を持っていかないと。

 先輩のお誕生日を天文部のみんなにお祝いしてもらうの。


 ああっ、ケーキはまだ作ってないんだった。

 生クリームが……。


 先輩のお誕生日……。


 お誕生日が終わって、みんなでお祝いしたら私は出て行くんだ。


 先輩、有り難うございました。

 最後に良い思い出が出来ました。


 先輩と二人っ切りでお誕生日をして、みんなにもお祝いしてもらって、先輩が嬉しそうに笑って……。


 気が付いたらコンビニにいた。

 先輩と手を握っている。


 上を見ると先輩の顔があって、私と目があったら微笑んでくれた。

 なんだか恥ずかしくって、下を向いてしまう。


 ちょっとお腹が減ってきた。

 先輩もお腹が減っているだろう。

 早く部屋に帰ってご飯を作ってあげたかった。

 

「先輩、今日は何を食べたいですか?」


 先輩の手が止まった。

 何を食べたいのか考えているのかも知れない。


 トーストが良いかな。

 サラダと卵とソーセージとスープ。


 冷蔵庫にあったはずだ。

 あっ、違うよ。


 昨日の残りがたくさんあるはずなんだ。

 先輩、昨日の残り物じゃ嫌かな……。

 

「先輩、昨日のお誕生日の残り物じゃ嫌ですか?」


 先輩が笑いながら何か言っているけど良く聞こえない。

 耳が悪くなっちゃったのかな。


 耳を押さえてみる。

 店員さんがレジを打つ声が聞こえた。


 外の道をトラックが通り過ぎていく。

 でも……先輩の声は聞こえなかった。


 体が震える。

 怖いっ。


 怖い怖い怖いっ。

 先輩の声が聞こえないっ。

 

「大丈夫だから……」


 やっと先輩の声が聞こえた。

 私を抱きしめてくれている。


 良かった。本当に良かった……。


 でも、義父さんの事が知られちゃったら、もう抱きしめてくれない。

 先輩の声が聞こえ無くなっちゃう。


 言っちゃ駄目だ。

 秘密にしておかないと先輩に嫌われちゃう。


 そうだ、ご飯を作らないと。

 私が先輩の家にいて良い理由はそれだけなんだから。


 私はコンロを探す。

 まな板と包丁と冷蔵庫と……。

 Yシャツ、アイロン……。

 

「久司が買いすぎちゃったらしいんだ。今日はしょうがないからこれを食べよう」


 あーあ、また久司さんが買ってきたんだ。


 会計だからしょうがないけど、いつもみんなのお昼を買い過ぎてくる。

 足りないより良いって言って、必ず多めに買ってくるんだもん。


 でも、それで先輩とケンカしてるのを、みんながワザと盛り上げたりして……楽しかったな。


 もっと部活に行きたかったな。

 恵に電話した方が良いのかな。


 私はもう出て行かないといけない。

 出て行ったら、先輩と初めて会った駅で死のう。


 このパンを食べたら出て行く。

 先輩の夕ご飯を作ってからの方が良いかな。


 私のお料理……食べて欲しいな。

 

「児童相談所から来ました伊藤牧子です。君が淡島悠馬くん?」

 

 先輩の名前が呼ばれた。


 優しそうな女の人だ。

 30歳くらいかな。


 先輩と何かお話しをしている。

 誰なんだろう……。


 先輩と女の人はしばらく話し合っていて、たまに私にも話し掛けてきたけれど、何を話しているのか良く聞こえなかった。


「ちょっとデートに出掛けようか」


 え……。

 でも、私他に着るものが無くって……。


 身だしなみも整えてないし……。

 それに、先輩とデートできるような資格が無いんです。 


「行こう」


 先輩が私の手を掴んで立ち上がった。

 

「どうしたの?」


 御免なさい先輩。

 もう少し。

 もう少しだけ一緒にいても良いですか。


「さあ」


 今日はたくさん美味しいお料理を作ります。

 お部屋もいつもの二倍掃除しておきます。

 

「絵里」

 

 私は、先輩の待っている方へ歩き始めた。

 

 

 

 

 

 第7章 - 淡島悠馬 -

 

 

 

 

 

 三十代半ばほどの、人生経験を積んでいそうな女性だった。


 三十代半ばで人生経験を積んでいるというのも妙な印象だが、10人くらいなら10人が同じ印象を持つだろう。


 ワイドショーでやっている児童相談所の人間とは、随分イメージが違う気がした。


 曰く、幼児に関する教育や資格に自信を持って児童相談所に勤め出すのだが、微妙なティーンが自傷や自殺未遂を繰り返したり、夜中に突然暴れたりするのを相手にするうち、疲れて辞めてしまう人達。


 曰く、別に児童相談の仕事がしたくてそこにいるわけではなく、やらなかったからといって別に罰せられない、やったからと言って特別にボーナスが出る訳でもない。


 社会主義国の労働者のような状態に置かれるうち、仕事をしなくなっていく者達。


 でも、俺達の前に現れた女性は、生まれたからただ生きるなんて許せないと言うタイプに見えた。


 児童相談が仕事なら、その仕事のスペシャリストになってやるというタイプだ。


 もちろん、人生経験が豊かに見える人間を、俺がそこまで見破れるわけがない。

 きっと相当に食い違う部分もあるのだろう。


 でも、そうであって欲しいという俺の願望が、その人をそう映していた。


 この後、絵里に何かあった場合、何らかの公的機関を頼らなくてはいけないだろう。


 俺はこれまでの人生で、そういうものがいかに利己的で弱者に厳しく、まるで王のように振る舞ってくるのかを見せつけられていた。


 そんなものが、絵里に関わって欲しくなかったのだ。

 でも、そんな事ばかりも言っていられない。

 何せ、彼らは必要だから存在するのだ。

 

「絵里ちゃんは、天文部に入ってるんでしょ?」


「あ、ここの天然素材バーガー美味しいよね」


「ここを左に曲がると学校なんでしょ?」


 車を運転する女性は、しきりに絵里に話し掛けていた。


 俺と後部座席に座る絵里は、拒絶するでもなく、返事をするでもなく、ただ俺の腕に捕まって身じろぎもしない。


 絵里の不思議そうで不安そうな瞳を見て、やっと俺は飲み込めた。

 そうだ、俺はデートに行こうって言ったんだ。

 

「この後、二人の服を買いに行こう。その前にちょっと寄るところがあるんだ」


 絵里はやっと分かったように微笑んだ。

 表情だけじゃなく、雰囲気も少し和らいだ気がする。

 

「らぶらぶねー」


「どうも」


「あのさ。ウブで、見てるだけで恥ずかしくて、おばさんが嫉妬しちゃう様な君達に、一つ忠告というかアドバイスをしてあげようか」


「別に……」


「なんていうか、疑心暗鬼な彼ね」


「そう言うわけでもないんですけど」


「彼女が苦しんでるのは君のせいね」


「っ」


 俺は何も言い返せなかった。

 女性は少し困っているようにも見える。

 

「図星か」


「どうして……そう思ったんですか」


「だーって、彼女ずーっと不安そうだもの」


「不安?」


「君に嫌われるんじゃないかって、おどおどしているよ」


「そんな……」


「心当たりありそうね」


「……」


「どうせ病院まで1時間は掛かるから、話してみなさいよ。彼女立ち会いでさ」


「でも」


「良いから。18の男の悩み事相談なんて、あたしの仕事じゃねー気もするけど」


「あの……絵里の家は母子家庭だったんですが、最近再婚したみたいで……」


「あ、もうイイや。だから絵里ばっかりとか叫んでたわけね。そっちもチェック入れとく。んで?」


「いや、それで絵里に告白されて……色々して」


「色々ね、んで?」


「婚約して、指輪を買って」


「何というか、君も真面目だね。絵里ちゃんがやられちゃうのも分かるわ。んで?」


「その、お酒が入った日があって……家のことを聞いて……」


「ハァ、自分が悪いとか思ったわけだ。絵里ちゃんが悩んでいる事に気づけないで、レイプまがいにHしちゃったんだとか、自分は結局体目当てで絵里ちゃんを騙したんだとか、自罰しちゃったわけだ」


「……」


「もう、何となく分かるけど、その後絵里ちゃんとHしてないでしょ?」


「はい……火事のあった日まで……指一本触れませんでした……」


 俺は知らずのうちに涙声になっていた。

 罵倒されると思った。

 なんて情けない奴なんだと。

 

「で、絵里ちゃんも絵里ちゃんで、君がそうなったのは自分が悪いからなんだ、とか思ったんだろうねえ」


「……」


「別にさ、普通だよ普通」


「……」


「分けのわかんない男二人が絡まなきゃ」


「はい」


「まぁ、取りあえずHしな」


「な、何を言ってるんですか。絵里は今傷ついてるんですよ」


「また同じコトしてる」


「全然違いますよ」


「まぁ、君がHすればするほど、絵里ちゃんの悩みは一つ解決されるだろうね」


「……」


「さっき言ったこと一つ訂正するわ」


「なんです?」


「絵里ちゃんは君に嫌われるんじゃないかって、オドオドしてるって言ったよね」


「……はい」


「あれ嘘。ホントはね、もう絵里ちゃんあんたに嫌われたと思ってるよ」


「そんな……」


「だって、いきなり恋人が自分に触りもしなくなったんだよ? たまにコンビニとかで神経質な店員がいるじゃない。お釣り渡すときにこっちの手に触れないようにするとかさ」


「はぁ……そうですか」


「あ、そう。私は気になんのよ。でさ、それでもやっぱしムカツクわけよね。そんな誰だか知らねー様な奴でもさ。これを恋人にやられてごらんよ」


「……」


「しかも、絵里ちゃんは自分に負い目があるんだよ?」


「いや、でも、俺が……」


「俺が悪いんだ、俺が悪いんだってさ。ちゃんと話し合った?」


「いや、だってそんな……傷つけるようなこと……」


「しっかし恋愛に向いてない二人だねー。そういう意味で言えばさ、絵里ちゃんはいい男を掴んだよ。絵里ちゃんみたいなタイプってさ、大学行って合コンして、好きでもない奴と取りあえず付き合い始めてさ、どうでもいい男なのにずるずると関係続けちゃうんだよね。悪いんだけど周りから見てると不幸でさ。でも良い娘だから。ヤナ野郎なのに、その良いところを無理矢理見つけてそれを信じ込んでね。後はずるずると不幸一直線よ。気が付いて別れようとしたときにはもう手遅れ。男がしつこくて別れられないわ、良い男はもう塞がってるわ。たまに見つけても前の男がヤナ野郎だとさ、それと付き合ってたってだけで、もう絵里ちゃんの評価は下がってるわけよ。わかる?」


「まぁ、心配してくれてるんだって事は」


「そんなことは兎も角さ、君の部屋の隣の奥さん。絵里ちゃんの独り言を聞いてるんだわ」


「はあ」


「一語一句正確ではないけどね。覚えておきなさい」


 先輩と誕生日をして、明日みんなにお料理を食べてもらって、それから死ぬところを探して、遺書は書かないで、先輩に有り難うって言いながら死ぬんだ。

 先輩に見つからないように出て行かないと。

 先輩は優しいから、きっと私なんかのためにまた迷惑を引き受けちゃうから。

 先輩。

 私のことなんか好きになってくれた先輩。

 迷惑ばっかりかけちゃった先輩。

 先輩、有り難うございました。

 私、本当に幸せです。

 有り難うございました。

 私も、先輩の赤ちゃんが欲しかったな。


「大体だけどね。今朝出勤したら君達の調書があってさ、担当を電話でたたき起こして、私が担当代わったの。ちなみにただ今8時20分。定刻出勤にはまだまだ時間があるわね」


「なんで……なんでそんな大事なことっ」


「うん、前の担当と会ったらしばいとくわ」


 昨日の夜、抱き合いながら寝て良かった。

 絵里は自殺するつもりだったんだ……。

 俺のせいだ……。

 

「まぁ、適当な公園にでも行って、取りあえずHする事だね。お姉さんの言うことを信じて損はないよ」


「これから病院に行くんですよね」


「そっ、知り合いのいる病院でさ。何かと都合が良いのよ」


「カウンセリングしてもらえるんですよね」


「あー、あんなもんクソの役にもタチャしないわよ」


「そんなこと無いでしょう。海外だとプロスポーツの選手とかがよく利用しているわけですし」


「あれはね、何とかしてくれるんじゃないかって、期待に胸を膨らませて行くもんなのよ」


「はあ?」


「悩んでて苦しくて、でもココなら何とかしてくれんじゃないかって」


「まぁ」


「そんでさ、もう向こうも心得てるわけよ、そういうの。相手の都合の良いように都合の良いように話をしてあげるわけ」


「占い師じゃないんですから……」


「まぁ、眉唾クサイ分、占い師の方が罪は軽いわね」


「絵里には意味が薄いって、考えてるんですか」


「そうね」


「じゃあ、何で病院に行くんです?」


「診察しないと薬がもらえないから」


「なんて人だ……」


「薬は重要よー、担当によって効果がまちまちなお喋りなんて問題外。絵里ちゃんに合う薬だの副作用止めだの、ややこしい服用指導だの薬の量を加減するだの種類を換えてみようだの、薬屋さんじゃ出来ないからね」


「経験ですか?」


「そう。誰がいくら頑張ったって、相談所が駄目なら駄目。医者が駄目でも駄目。警官が駄目だと駄目。裁判所が駄目だって駄目。でも、薬だのお金だのに裏切られることは少ないわ」


「駄目なことばっかりなんですね」


「そうね。ちゃんと持ち直す前に、社会に出ざるを得なくなる事がほとんどよ」


「絵里は……どうなんでしょうか」


「私にはわかんないわよ。それにね、筋と決まりで言えば、君じゃなくて親御さんに預けなきゃいけないの。絵里ちゃんは。あんた生活能力皆無でしょう? 親御さんの所に居れば、社会に出るタイミングなんて好きな時を選べるのよ」


「でも……この世に殺人犯が一人生まれる事になると思います」


「まぁ、義父さんが絵里ちゃんを見たらびびると思うけどね」


「あんな奴がそんな事になりませんよ」


「まぁ、とにかくね。やる気のある医者からもらった薬飲んでHする事。絵里ちゃんは君に拒絶されて、不安と自罰に苛まれてんだから」


「でも、それじゃ絵里は俺が体欲しさに迫ってるって思うんじゃ……」


「究極の所それで良いの。君さ、絵里ちゃんがHしてって、おねだりしてきたら勃起しちゃうでしょ? 明らかに体欲しさが見え見えでもさ。それと同じなんだって。そう思えないところに、君の病理がありそうだよねぇ……全然わかんねえけどさ」


「それが間違ってるって思うのは、間違いだと言うんですね」


「真面目すぎんだって……お互い好きあってる恋人同士がHして何が悪いのよ。今日Hしたいからしようかって、何か悪いわけ?」


「俺がカウンセリングされているみたいだ」


「占い師ぐらいにしといてよ」


 絵里はキョトンとして、なにか呟いている。

 俺が見ていることに気が付くと、少し嬉しそうにはにかんだ。


 最近塞ぎがちだったけど、ちょっと明るくなった気がする。

 多分、足りなかったのは言葉だ。


 経験不足と言えばそれまでだけど、二人とも不器用すぎたんだ。

 絵里は元に戻らないかも知れない。


 永遠に少女のまま、老衰で息を引き取るその間際まで、夢の世界に生き続けるのかも知れない。


 だから俺は、一日だけ絵里より長く生きようと思う。

 結婚して、少しでも多く、絵里が社会保障を受けられるように頑張るんだ。


 天文部は気のいい奴らばかりじゃないか。

 俺だけじゃない。


 いっぱいの友達に囲まれて、子供も俺が育てて、孫が出来て、大きな家を買って、沢山の人に囲まれて絵里と暮らそう。


 二人で天国に行けたら、出会った頃のことを語り合うんだ。

 あの時はゴメンねって。


 そして、もう一度生まれ変わってやり直そう。

 何度でも、俺は何度でも絵里を愛するよ。

 本当にゴメンね、絵里……。



 




 第8章 - 淡島悠馬 -







「んじゃ、診察の手配してくるから待ってて。どっか外で診てもらうから」


 どこか郊外にある大きな病院だった。

 俺と絵里は病院の入り口の横で伊藤さんを待つ。


 絵里はこの場所が怖いみたいに、俺と手を繋いだままぴったりと離れなかった。

 気が付くと、いつの間にか絵里の髪の毛が整えられている。


 車の窓ガラスか何かで整えたのだろう。

 道具がないから完璧ではないけれど、やっぱり女の子だ。


 俺は不安そうな絵里の頭を撫でてから、そっと抱きしめた。

 自分の顔をグリグリと俺の胸に押しつけて喜んでいる。


 すぐ隣の木に、蝉が飛んできて騒ぎ始めた。

 思わず二人でそれを眺めてしまう。


 俺達は、こんな風にこれからの一生を歩んで行くんだ。

 幸せだった。

 胸が苦しくなる。

 

「あー、もしかして君達が伊藤さんの連れ?」


 白衣をまとった、30前後の男が俺達の前を通りかかった。


 誠実そうと言うか、模範的な社会人のポスターに起用されそうな雰囲気がある。

 たぶんこの病院の医者だろう。

 絵里を下から上まで眺めた後、その顔をジッと見つめた。

 

「んー、若い。しかもタイプだ」


 何を言ってるんだこの人は。

 絵里が怖がって俺の後ろに隠れる。

 

「じゃあ、その娘入院ね?」


「は?」


「は、じゃなくて入院。手続きしようよ」


「まだ診察すら受けてないんですが」


「あ、大丈夫。俺ココの院長の息子だから」


「理由になってませんよ」


「つかさ、君もう帰って良いよ」


「人を待っていますし、絵里を入院させるつもりはありません」


「はははっ、僕らはその娘を強制入院させる事が出来るんだよ。宗教だのなんだの、保護者が治療を嫌がって、患者である未成年が、満足な医療措置を受けられない場合があるからね」


「そんな場合は一生やって来ませんけど、その時は別の病院に入院しておきます」


「まぁ、親族だって面会謝絶には出来るんだけどね」


「何を言ってるんですか……」


「転院するのはかまわないよ。でも、強制入院を止める事は出来ないな。まぁ、のらりくらりと向こうの病院と話し合ってれば、一週間かそこらは時間が稼げるだろう。その間彼女はひとりぼっちだ。看護婦にも彼女へは厳しく接する様に厳命する。そうすれば彼女は、唯一優しく接してくれるボクのために君を忘れてくれるだろう。そういう風にカウンセリングしても良いね。そのうちに彼女の方から転院を拒否してくれるだろうさ」


「死ね、色ボケ」


 目の前の男を、伊藤さんが後ろから蹴り倒した。

 男が前のめりに倒れ込む。

 少しホッとした。伊藤さんは良い人だ。

 

「テメエに何かしろって誰か言ったか? あ?」


 男は『たはは』と笑いながら、照れたように向こうへ駆けて行ってしまった。

 伊藤さんの後ろから、パイプ椅子を二脚もった初老の男性がやってくる。

 

「まぁ、あのアホは気にしないでおいて。悪い奴じゃないんだけど、イタズラの『度』ってもんが分かってないガキなのよ」


「イタズラ?」


「あー、ごめんね。診察室って看護婦の通り道作るのに、隣と繋がってんのよね。診察中なら閉めるんだろうケド、こっちの先生と相談してるの立ち聞きされちったわ。多分」


「でも……」


「君と彼女を引き離すというアイディアなら、私は賛成だがね」


 初老の男性が、向き合うようにパイプ椅子をセットした。

 絵里を優しい顔で手招きして、その椅子に座らせようとする。

 俺は絵里の肩を抱きながら、その椅子まで誘導した。

 

「君は高校生だろう。こんな時間に何をしているのかね」


「……高校は……昨日退学届けを書きましたから」


 伊藤さんがキッと俺の方を睨んだ。

 無視する。

 

「昨日?」


「今日、提出しに行くつもりだったんですが……伊藤さんが8時前に来られてしまったので」


 伊藤さんが何とも言えない顔して『あーそう』とか言った。

 初老の先生はカルテに何か書き込んでいる。

 

「大学に行きたくなったら大検を受けます。そう見えないかも知れませんけど、成績は悪くない。今は高校よりも大事なことがある……と思っています」


「さっきの彼、松田君と言うんだけどね。考えが若いんだな、やっぱり。君と彼女はしばらく間を置いた方が良いと思うよ」


「どうしてですか」


「まぁ、一ヶ月くらい離れてごらんよ。考えが変わるかも知れない。それでも、君が全てをなげうって彼女に尽くせるというなら、そこでもう一度考えよう」


「……っ」


 俺は怒りで震えた。

 そういう風に見られていることに初めて気が付いた。

 絵里を見捨てるなんて出来るわけがない。

 

「あのアホが余計な事言うから……」


「毎日でも良い、彼女に面会すれば良いじゃないか。君はとにかく高校を卒業して受験を乗り切るんだ。彼女だってそれを望んでいると思うがね」


「そんな利己的な人間に見られているなんて心外です」


「利己的ね……ハッキリ言ってしまうとね、彼女が完治する見込みは低い。我々は毎日、障害者を背負って生きていく親御さんの姿を見ている。君は自分の人生を生きるべきだ」


「黙れ」


「あー、まぁ、淡島君のカウンセリングは私がオイオイと」


「早いほうが良いだろうね。ますます責任を感じて離れられなくなる」


「黙れと言ってるんだっ」


 俺は絵里に手を差し出した。

 絵里がにこっと笑ってその手を取る。

 

「思い出が君を支えて居るのかも知れないが、彼女だって永遠に若くて美しい今の姿ではないぞ」


「先生……」


「あぁ、取りあえず言っておく事はこれくらいで良いかな。よく考えてみる事だ」


「淡島君もそんなに怒らないで。もう少し時間を掛けて考えていきましょう?」


「伊藤さんもこの先生と同じ意見なんですね」


「松田のアホと同じ意見じゃない事だけは確かかな」


 さっきの若い男はこの事を知っていたんだ。

 みんなが俺と絵里を引き離そうとすることを。


 だからわざと……。

 やり通せって……。


「せ、先輩と私は、愛し合っているんです」


 絵里が震える声で二人の大人に訴えた。

 今にも泣きそうな顔で、辛くて悲しそうな顔で。

 

「絵里、大丈夫だから……」


「え、絵里ちゃん、違うのよー」


 俺は絵里を抱きしめた、それでも絵里は訴えかけるのを止めない。

 

「先輩と初めて会ったときは、友達の付き合いだったけど……」


「土曜日に先輩の家にみんなで泊まって、星を見たとき……」


「私が委員会の仕事で大変なのに、誰も手伝ってくれなくて……」


 絵里は、俺との思い出を10分以上も話し続けた。

 その間、伊藤さんも先生も何も言わなかった。


 その内に涙が止まらなくなって、しどろもどろになってきて。

 俺も後ろで泣いていて……。

 

「でも……私が汚いから……先輩に嫌われ……ひっ……うっ」


「嫌いじゃないんだ。どうしたら良いのか分からなかったんだ」


「みんなが……先輩が優しいからって……私が付け込んでるって……」


「誰も言ってない。みんな俺達のこと応援してくれてる」


「先輩も……愛してるって……言ってくれなくなって……」


「うううっ……付け込んだのは、俺だったんだ……絵里は悩んで、俺を頼ってくれたのに……俺は絵里を自分の……」


 伊藤さんがふうっと溜息を付いた。

 医者もカルテに何事かを書き始める。


「すいません、診察を続けて……ください」


 俺は絵が泣きやむまで後ろから抱きしめていた。

 

 





 第9章 - 淡島悠馬 -



 

 

 

 

「良い? 薬は必ず服用すること。飲み忘れちゃ駄目よ?」


「はい」


「絵里ちゃんが何で家に居られないのか。それは君の部屋にも何処にも、自分の居場所がないって事なのよ。そこをよく考えて絵里ちゃんと接すること」


「はい」


「退学届けを出すときは、必ずあたしに連絡を入れる事」


「……はい」


「それと、なるべく多く絵里ちゃんとHする事。これ最重要」


「……」


「まぁ、いいわ。何かあったら連絡頂戴。次は来週の9時に駅で待ち合わせましょ」


「はい」


「んじゃ」


「あの……」


「ん?」


「あの、有り難うございました」


「私に感謝する気があるなら、その分絵里ちゃんとHしなさい。わかった?」


「はい……」


 多分赤くなっていた。

 伊藤さんがふふんという顔をしていたから間違いない。


 ホテルは一月借りられるのだが、俺達にはその意味がなかった。

 絵里は部屋の中で休む事が出来ない。


 駐車場やロータリーを貸してくれるよう頼んだが、簡単に断られてしまった。

 しかし、俺達には路上生活のノウハウが無かった。


 路上にはその道の先人達がおり、公園やアーケードなど、過ごしやすい場所はほとんど全てが彼らのテリトリーだった。


 それに絵里の問題がある。

 彼らの目に絵里がどう映るのかは明白であったし、お手洗いなどの問題もある。


 結局俺は、深夜営業の飲食店やコンビニの近くにその住処を求めた。

 そういう場所に彼らのテリトリーはない。


 そんな所にたむろしようものなら、すぐに警察官がやって来て、営業妨害だと追い立てられてしまう。


 彼らとしては別に捕まっても良いのだろうが、追い立てられるだけでは面倒くさい。


 しかし、そういう場所にはそういう場所で別の問題があった。

 俺達と同年代の、徘徊野郎共だ。


 絵里はこいつ等の目にも、ホームレス達と同じ様に獲物と映るだろう。

 結局、人の目が多い公園を探すことにした。


 団地の中にある小さな公園や、住宅密集地帯にある公園だ。

 こういう所に先人達は居ない。

 しかも、水道とトイレの問題も解決できた。


 住人達から見れば、多少は風紀を乱しているのだろうが、俺と絵里ならば高校生の恋人同士に見えるはずだ。


 銭湯とコインランドリーを駆使し、身なりだけはいつも清潔に保つ。

 健康センターのような大きな所なら、屋根の下でも風呂の間くらいは平気な様だった。


 もしかすると、露天風呂に入っているのかも知れない。


 こうしていれば先人達に因縁を付けられる事もなかったし、徘徊少年達の狩り場には、近づかないことで事なきを得た。


 夜が来ると、11時くらいまでコンビニ等を転々とし、目星をつけている10カ所ほどの公園でローテーション通りに休む。


 学校の校庭なども利用出来そうだ。


 ただ心配なのは、絵里が体調を崩さないかと言うことだった。

 やはり絵里は、俺にぬくもりを求めている。


 考えてみれば、あれほどスキンシップを求めていた絵里だ。

 俺が自分に自信がないばかりに、絵里に辛い思いをさせていたんだと分かる。


 夜の公園など、人の目が無くなると絵里は俺と抱き合うことを喜んだ。

 数回、行為にも至った。


 このごろは、俺も自然に求められる様になり、絵里も目に見えて明るくなっていった。

 

 




「先輩、ほら。無くしてた指輪が見つかったんです」


 絵里が指に金属の環を填めていた。

 キーホルダーの留め金部分だ。

 

「そっか、絵里ちゃん達婚約してたんだもんね」


 今日は、伊藤さんも一緒に公園で話をしている。

 一週間に一度、必ず俺達の様子を見に来てくれた。

 

「先輩と初めての日に、一緒のベットで眠りました。こんな幸せは無いって思ってたんですけど、次の日にこの指輪を買いに行って、先輩が結婚しようって言ってくれて……私は、もっともっと幸せで……」


 絵里が、指輪の填まった指を太陽にかざしている。

 こんな最近のことを絵里から話してくれたのは初めてだった。


 伊藤さんも分かっているようで、私に良かったな、という目を向けている。

 薬を服用し始めると、絵里はよく眠れるようになっていた。


 俺の部屋に居たときは、良く夜中に水を飲みに起きたり、窓を開ける音が聞こえたりしていたのだ。


 多分眠れていなかったのだろう。

 それが俺のせいだって事も良くわかる。


「ここで、私と先輩は暮らしていくんですよね」


「そうだよ、二人の居るところが、二人の居場所なんだよ」


 絵里が笑った。

 留め金を大事そうに手で包み込む。

 驚いていた伊藤さんも『はははっ』と笑っていた。


 絵里は回復する。

 何処までかは分からないけれど、屋根のある家にだって戻れるかも知れない。

  

「絵里、俺達の家を造ろうか?」


「うん」


「どこか遠くの山奥とか、小さな平屋を建てるんだ」


「うん」


「どんな家にするか考えてみようか。どういう台所が良い?」


「うん」


 俺が地面に間取りを書き始めると、絵里にも理解出来るようになってきて、寝室はこっちが良いとか言い始めた。


 地面の絵がごちゃごちゃになると、また新しく間取りを書き始める。

 

「あ、夢ね」


「いえ、親父に頼んでみます」


「親父?」


「俺、母親の連れ子だったんですけど、母親が他界しまして。あんまり父親に好かれてないかも知れないけど、それでも毎月生活費を出してくれているし、頼めばお金を貸してくれるんじゃないかって」


「だって家よ? 20坪の家に3部屋の平屋でも、坪20万なら土地だけで400万よ?」


「一千万で何とか……なりそうですかね。火災保険が300万下りてるんで、生活も在宅仕事で何とかなると思うんですが……」


「甘い甘い」


「でも、この方法なら絵里が屋根の下に住めると思うんです」


「……」


「駄目元で……明日家に帰ってみます」


「君のお父さんは立派な人よ」


「……会ったんですか?」


「そりゃあね。絵里ちゃんの家にも行ったわよ」


「絵里の家の人はなんて?」


「お母さんが学校に行ってね、絵里ちゃんが君の所にいるのを先生から聞いたらしいわよ。絵里ちゃ

ん、こうなる前に君のこと話してたらしくてね。安心してた」


「そうですか……」


 俺と絵里が同棲していることは、天文部の顧問しか知らない。

 巧く話してくれたんだろう。

 結局、高校時代はあそこが俺達の中心で、掛け替えのない場所だったんだ。

 

「まぁ、行って来れば。出来れば絵里ちゃんは連れて行って欲しくないけど……無理だろうから」


 俺には、その意味が痛い程良く分かっていた。

 

 

 

 

 

 

  第10章 - 梶野絵里 -







 今日は、電車に乗ってお出かけの様だ。

 もしかして遠くにデートかも知れない。


 最近は学校にも行かないで、毎日毎日デートばっかりしている。


 一日中先輩とウィンドウショッピングして、美術館とか何とか展とか、イベントを探してはまた遊びに行く。


 家にも帰っていないから、冷蔵庫の中はきっと駄目になっているだろう。

 夜になると、公園で星を見ながらお喋りする。


 先輩の星のお話しは大好きだ。

 最近は夜寝る前に、必ずお休みなさいのキスをするようになった。


 少し照れている先輩も可愛い。

 そして、たまにだけど先輩が求めてくる事もあった。


 ちょっと恥ずかしいけれど、でも嬉しかった。


 先輩が私を求めている。

 先輩が私を愛してくれている。


 そんな日はとてもよく眠れた。

 あんまり眠れない日が続いていたけど、もう本当に思い出せないほど昔のことだ。


 今はゆっくりと眠って、何となく朝目覚める日が続いていた。

 先輩が居れば、もう他に何も要らない。


 でも、先輩はとってもモテるんだ。

 一度、友達の告白に付き合った事さえある。


 先輩が居なくなってしまったら、私はどうすれば良いんだろう。

 怖い。本当に怖い。


 多分、私の胸は壊れてしまうだろう。

 急に先輩が抱きしめてくれた。


 大丈夫だよって言ってくれる。

 私のことを何でも分かってくれている。


 先輩は本当に優しい人だ。

 本当は私の事なんか、そんなに好きじゃないのかも知れない。


 でも、私が先輩を好きだから、先輩も好きだよって言ってくれているのかも。

 私なんか、好きになってもらえるところがない。


 でも……。

 だって……。

 

「何か言う人がいるけど、あんまり気にしないでね」


 ちょっと先輩の雰囲気が違った。

 うんと頷いて、先輩の腕に捕まる。


 そこは、大きな果樹園だった。

 先輩が働いているおじさん達に手を振ると、おじさん達は凄く喜んだ。


 いつの間にか周りに人が集まってきて、おじさんとかおばさんが五、六人で先輩を歓迎してくれている。


 私はどうして良いか分からず、お世話になっていますとか、よろしくお願いしますとか、意味がわかんないまま言っていたんだけど、おばさん達に可愛いって言われて、何だか恥ずかしくなって、先輩の後ろに隠れたりしてたら、またおじさんがやってきた。


 周りの人達がその人に頭を下げて、また仕事に戻っていく。

 

「久しぶりだな。大変だったそうじゃないか」


「うん、ちょっと相談があって来たんだ」


「その娘が後輩の娘か」


「うん、児童相談所の伊藤さんって人が来たでしょ?」


「ああ、話は聞いているつもりだ。取りあえず家に上がれ」


 その人は私を見て少し複雑な笑顔を向けた。

 ちょっと首を傾げてみせる。

 

「可愛い娘さんじゃないか」


「……俺は、絵里を守りたいんだ」


「お前も、もう十八だからな。大人になったもんだ」


「やめてくれよ」


「いや、香恵が死んでからもうそんなに経つんだ……私も歳を取るわけだよ」


「まだまだこれからさ」


「はははっ、そのうち酒でも飲めるかな」


 果樹園の先には古いお屋敷があった。

 凄く大きくて、黒かった。

 玄関も窓も開けっ放しになっていて、そこに私と同い年くらいの男の子が立っている。

 

「悠馬が帰ったぞ」


「久しぶり」


 先輩が挨拶したのに、その男の子は何も言わないでにやにやと笑っていた。

 ガムを噛んでいるかも知れない。

 

「おおっ、マジ可愛いじゃん!」


 怖い、この人は怖い人だ。

 体が震える。この人は駄目だ。

 先輩が肩に手を置いてくれて、やっと震えが止まった。

 

「絵里、大丈夫だよ」


「なんだよ、もったいねえな。良い女はみんなで使おうぜ?」


「悪いな、自分の仲間内だけでやってくれ」


「馬鹿じゃねえの? 女の仲間は作るんだよ」


「仲間にはならないと言ってるんだ」


「くくっ、淡島先輩っ。この辺のガッコじゃ、たまーに名前聞くぜ?」


「淳也、止めなさい」


「女は選り取りみどりらしいじゃんか。少しで良いんだから回してよ。俺達兄弟じゃん? 名字を淡島とか言ってっから、弟だっつても乗ってこねえのよ」


「淳也っ! あっちへ行っていろっ!」


「うるせーなぁ、さっさとくたばれよもう。あんたの築いたもん全部売っぱらって、俺は面白可笑しく暮らすからよ。それまではしょーがねーから言うこと聞くけどな。そこの名字変えてるような奴よりゃ取り分多くしてくれよ。ったく、じゃあな」


「……家は衛司兄さんが継ぐに決まってるじゃないか。淳也の出る幕なんか無い」


「衛司は出て行った」


「どうしてっ!」


「お前と……同じだ」


「……」


 二人が縁側に座ったから、私も先輩の隣に座った。

 ここから見ていると、果樹園はとても綺麗だ。


 風が気持ちよくて、木がサワサワそよいでいる。

 後ろから誰かがやってきた。


 振り返ろうと思ったら、いきなり後ろから蹴られてしまった。

 縁側から落っこちて、膝を打ってしまう。


「絵里っ」


「淳子っ、何をするんだっ!」


 私は何が何だか分からないで、蹴った人を振り返る。

 頭がぼさぼさだった。


 年齢もどのくらいなのか良くわからなかった。

 でも、顔は怒っていた。


 先輩が私を抱き起こしてくれる。

 

「あの女によく似ていること。当てつけなんでしょうけど、私は何ともなくってよ!」


「どうして当てつけなんだ」


「あの女の息子なんて、家には置かせませんからねっ! 衛司さんはあなたの血を分けた子供ですから考えてもよろしいですけど、その男はこの家とは無関係です」


「悠馬は私の息子だ。お前の息子でもある」


「ほほほほっ、その男が私のことを母と呼んだことがありまして?」


「謝れよっ、俺は赤の他人なんだろう? 子供って言うなら躾だと言えるだろうが、俺も絵里もあんたとは関係ないって言うなら、これは犯罪じゃないかっ! 謝れっ!」


 女の人は更に唇を振るわせて怒っていたけれど、何も言わないで、そのままそこに座り込んでしまった。


 私は汚れてしまったスカートを手で払って、バックから絆創膏を出す。

 

「落ち着け、悠馬。すまないな絵里さん」


 私は何でもないと首を横に振った。

 

「陰気な女ねぇ、ねじが飛んでるんですってね。おほほほっ、お似合いだわ」


 先輩が怒っていた。

 良くわからないけど、多分私の悪口を言われたから怒っているんだ。


 怒っている先輩は見たくなかった。

 先輩の腕を取って、私はもう一度首を振った。


 そのまま怒りを抑えるように先輩が座り直す。

 私は、蹴られないように先輩の隣に立っていた。

 

「外で会えば良かったか……みんなも会いたいかと思ったんだが」


「あの女は、人に取り入る事だけ、お上手でしたから」


「お前が下手すぎるんだ」


「キッ」


 もう帰りたかった。

 大事なお話しみたいだから言えないけど、先輩もあまり居たく無さそうだ。

 

「話しだけさせてもらうよ」


「ああ、つもる話は今度にしよう」


「もう、この家とは関係のない男じゃない。なんであなたには分からないの? あなたの財産が目当てのハイエナみたいな男なのよ?」


「ハイエナは淳也だろうがっ! 今も遺産が欲しいからさっさと死ねと言われたぞっ! お前はあいつをどう見ているんだっ」


「あの子はあなたの血を分けた息子じゃない。この男とは違うのよ」


「違わない! 悠馬は俺の自慢の息子だっ!」


「淳也だって自慢の息子でしょう? 血を分けているのよ? 格が違うじゃないの」


「……淳也を自慢だと思ったことなど、ただの一度もない」


「なんて酷いことを言うのっ! 可愛そうな淳也っ、親に愛情をもらえないなんてぇ……」


「淳也にはずっと俺とお前が付いていた。だがな、衛司も悠馬も幼い頃に母親が死んでいる。愛情を掛けてやれなかったのは淳也じゃない」


「この男はこの家の人間じゃないでしょう? どうしてそれが分からないの?」


「もう良い、すまんな二人とも。これ以上ここには居ない方が良い。取り合えず話を聞かせてくれないか?」


「絵里のことは聞いてるんだよね?」


「ああ、伊藤さんという方から経緯も今の状態も聞いている」


「寒くなる前に家が欲しいんだ」


「なんて図々しいっ!」


「ダマれっ!」


「黙れませんっ!」


「くれとは言わない。必ず返す。1000万で良いんだ」


「非常識にも程がありますっ! あなた、こんな男の話を聞くんですか? 淳也のお小遣いも出さないあなたがっ」


「淳也が毎月いくら使っていると思ってるんだっ!」


「あなたの血を分けた息子ですっ!」


「……少し黙れ……悠馬、どう言うことなんだ。簡単な金額じゃないだろう」


「ああ、伊藤さんにも甘いと言われたけど、これしか絵里を守るやり方が思いつかない」


「ふむ」


「絵里は屋根のあるところに居られない。でも、自分達で間取りを決めて、家が建っていくところを少しずつ見ていって、その完成した家になら居られると思うんだ」


「居られない……か。居場所がない。衛司もお前も言っていたな」


「そんなレベルの話じゃないんだ。冬が来たら今の生活は続けられない。病気になっても病院にいられないんじゃ、死んでしまうよっ」


「そこなら、絵里さんは自分の場所を見つけられるんだな」


「可能性はあるっ」


「あなたっ! そんなお金は家にありませんよっ!」


「淳也のケツ拭きに使うだけが金の使い道じゃない」


「この男にくれてやるくらいなら、少しは淳也のお願いも聞いてあげてくださいよ」


「悠馬の頼みは遊びじゃないっ!」


「ああああっ、あああああああーっ、このっ、この泥棒っ、さっさと出てお行きっ!」


「ただで貸してくれとは言わない」


「なに?」


「俺は遺産相続を放棄する」


「悠馬っ」


「どのみちこの人が居る限り、おれがここに戻る事はないんだ。親父の仕事を継ぐことは出来ないよ……」


「悠馬……」


「でも、衛司兄さんが家を継いで人手が足りないというなら、喜んで衛司兄さんの下で働かせてもらうから」


「まて、衛司も家を出てしまったんだ。お前までそんなことを言うのか?」


「淳也が居るじゃないですかっ!」


「淳也に仕事を継ぐ気はないっ! 家の財産を売って、面白可笑しく遊んで暮らすと公言しているっ! この家で仕事を手伝わないのはお前と淳也だけだっ!」


「衛司さんもこの男もしていないじゃないのっ」


「ここに住んでいるときは手伝っていた! お前達は一度も手伝ったことがない!」


「私は正妻ですっ、淳也は正式な跡取りでしょうっ?」


「もうお前とは言葉が通じないようだな」


「あなたっ」


「悠馬。知らなかっただろうが、もうこの家に余分な金は残っていない。30年間お前の母親達と汗水垂らした稼ぎは、2年で淳也の後始末に消えた。淳也の悪さは俺の責任だ。何も言うまい。だが、今お前は人生の大事な時期にいる。一週間待ってくれ。一週間で口座に金が入らなかったら、もう一度話し合おう」


「親父……」


「どろぼーーーっ、泥棒がいるわっ! 早く誰か来てーーーっ!」


「行け、これは俺のまいた種だ。お前はこうなるなよ」


「親父」


「良い娘さんじゃないか。絵里さん、悠馬をよろしくお願いします」


「お金を持って行かれてしまうわっ、一千万円も持っていかれるのーっ!」


 おじさんが私に頭を下げたから、私もつられて頭を下げる。

 先輩はそのまま私の手を引いて、さっき来た道を戻っていった。


 仕事をしているおじさん達は、みんな先輩に頑張れとか、待ってますとか言っている。

 先輩は泣いていた。


 外に出ても、先輩は泣き続けている。

 私は、いつも先輩がしてくれる様に先輩を抱きしめてあげた。

 

 

 

 

 

 

 第11章 - 淡島悠馬 - 





 



「おはようさん」


「おはよう御座います……やつれてますね、徹夜ですか?」


「まぁね。基本労働時間なんて、合って無いような仕事だから」


「なんていうか、元気出してください」


「ふふっ、ガキがつまんないこと気にしてんじゃねーのよ」


「はい……そうだ、土地は大体決まったんですよ」


「へぇ、どこ? いくら?」


「街まではかなり遠いですね。坪16万円だそうです」


「そりゃ、なんて言うか。若くなくちゃ住めないね」


「駅前まで自転車で1時間。上り下りの山が二つです」


「車の免許取ったら?」


「はい、少し落ち着いたら考えてみます」


 絵里はジリジリと地面に図を描き続けている。

 よほど気に入ったらしい。

 これなら、あるいは本当に……。

 

「えーりちゃん、おっ、大分決まってきたねぇ」


「子供部屋を作るって聞かないんですよ」


「男の子でも女の子でも、双葉ちゃんが良いんです」


「そういうこと言ってると、双子が生まれたりするんだよねー」


「ううっ」


「……今朝、820万円振り込まれてました。今日、土地を見て、建築屋に行ってみます」


「そうか、ならお別れだな」


「有り難うございました」


「若いうちに路上生活を経験したんだから、何時でもプロとしてやっていけるだろうさ」


「遠慮しておきますよ……今から取りかかれば、秋口には家が出来ると思うんです」


「そうだな、寒くなる前に何とかなるじゃないか。安心したよ」


「はい、それでなんですが、通帳と印鑑を預かって欲しいんです」


「なんで?」


「やっぱり路上生活をしていますからね。実際の支払いまでは一月以上あると思いますし」


「そうか……まぁ、わかった。相談所の金庫にでも放り込んでおくよ」


「お願いします」


「んじゃ、薬もらったら駅だな」


「絵里、行こう」


 昼前にはこちらの用事を済ませ、それからは普段滅多に乗る事のない路線に揺られた。

 絵里は分かっているのかいないのか、少しウキウキとしているようだ。

 途中でご当地品らしい蕎麦をすすり、駅前から不動産屋に電話を掛けた。

 

「借りるっていう手もあるんですよ」


 人の良さそうな地方の不動産屋はそう言った。

 俺達みたいな子供を騙す気にはなれないと、期待しておく。

 

「土地を借りるんですか?」


「店舗なんかだと良くあるでしょう。20年くらいの期限付きで借りるんです」


「……どこか、良い場所があるんでしょうか?」


「ええ、なじみの建築屋も紹介させていただきますよ。その、若いのに大変だ」


 男は、絵里の様子がおかしいことにすぐ気が付いた様だ。

 客商売をしている人ならば、気付いて当然かも知れない。


 駅前の静かな商店街を抜けると、住宅もまばらな田園地帯を迎えた。

 右手に流れる小さな川に沿って、山へ入っていく。


 暫くの間悪路が続くと、突然、広い平らな土地が姿を現した。


 高台の崖にはなっているが、それ事態は住みやすそうな、木々がぽっかりと開けた空間だった。


 川もその高台を迂回するように流れているので、台風が来ても浸水しそうな気配はない。

 周囲には柵が立ち、何かしらの建築が行われた後があった。

 

「ついこの前、工事が中止になったんですよ」


「別荘ですか? こんなに大きいと、ちょっと予算が……」


「はい、それでお貸しするという条件が良いかと」


「上の建物込みで、予算が一千万円なんです」


「はい、十分な家もご用意できるでしょう」


「……本当に良いんですか?」


「ははは、疑り深いというか正直ですね。お売りするとなれば、それなりの資金をご用意いただくことになりますが、20年のレンタル契約です。それまでここを遊ばせておくよりは、お客様にお貸しした方がまだしも良い。その頃には景気も良くなっていると信じましょう」


 別荘が建つ予定だったなら、この土地そのものに問題はないはずだ。

 それとも、問題があったから中止になったのだろうか?

 

「変なことを聞きますが、どうして別荘の建設は中止になったのでしょうか」


「僭越ながら、そのくらいはしっかりした方が良いでしょうな。お若い二人というのは、我々にとってカモのようなものです」


「はぁ」


「実際の契約には、お二人のご両親なり保護者の方なりに同席していただきますから、こちらとしては申し分のないお客様ですよ。騙したりは致しません。別荘の中止は、単にお客様の経済的な理由から来た問題です」


 ややこしい契約とかは親父に教えてもらおう。

 俺だって、そういうことを覚えても良い歳になる。

 

「きっと星が綺麗」


「そうだな、その内みんなを呼ぼう」


「うん」


「ここなら少しくらい騒いでも大丈夫だろう」


「では、建築屋の方に行きましょうか。もう随分歳になる工務店の親方ですけど、若い衆はたくさんいますから心配要りませんよ」


 絵里はまだ柵の向こうの景色を眺めている。

 さすがに別荘が建てられるだけあって、見晴らしはすこぶる良いものだった。


 近くの川で魚を釣ったり、水遊びも出来るだろう。

 子供が育つ環境としても、そう悪くないと思えた。


 建築屋は、山を降って10分ほどのところにあった。

 庭に沢山の材木が立てかけられており、その奥に小さな事務所が見える。

 

「ここです。すぐにカッとなる人ですけど、悪い人じゃありませんから」


 そうだろうなぁと俺は思う。

 すぐカッとなったんじゃ、悪いことは出来ないだろう。

 事務所の中には、意外とさっぱりした身なりの小柄な老人が座っていた。

 

「おう、来たか」


「お久しぶりです」


「また、ドロンしちまうんじゃねえだろうな」


「やめてくださいよ、何を言ってるんですか」


「おう、おめえさんが客か。結婚はこれからかい?」


「はい、まだ彼女が16になっていないので」


「おめえさんは幾つだい」


「18です」


「てーしたもんじゃあねえか、なあ!」


「まぁ、なんと言いますか……」


 不動産屋が絵里の方をチラッと見た。

 工務店の老人も、どこか心ここにあらずという絵里を見てピンときたらしい。

 

「あの、それで間取りなんですが」


「おう、希望があるんだろ? ウチの末娘が設計やってっから、後で見させるぜ。なんか書いてあるかい?」


「はい、これです」


「ほう、居間に台所に子供部屋。寝室がねえじゃねえか。居間に寝るのかい?」


「ええ、どうしても子供部屋が欲しいというので」


「奥さんの希望か……まぁ、亭主としちゃ、それくらいのお願いは聞いてやれねえとな」


「参りましたよ。それで、予算は全部で1千万円なんですが……」


「まぁ、十分だな。土地は借りたんだろう?」


「はい、見晴らしの良い場所でした」


「がはははははっ、見晴らしが良いってのは誉め言葉じゃねえぜ」


「まぁ、若いですから。大丈夫でしょう」


「よし、じゃあさっさと契約の日取りを決めようや」


「はい、父は農家を経営してますから平日でも大丈夫です。お金はもう俺が持ってますから」


「金を持ち歩いてんのかい?」


「いえ、児童相談所の方に通帳と印鑑を預けてあります」


「児童相談所?」


「あ、ちょっと色々と……住んでいる家も焼けてしまったので……」


「はぁ、そういうところに世話んなったのかい」


「いえ、担当の方が付いて相談とか……」


「……それを預けたのはいつでえ」


「今日の朝ですけど……」


「あぶねえな、そりゃ」


「あー、見ず知らずの人に預けられる額じゃあないよ」


「いや、絵里のことも俺のことも本当によく見てくれた人で、絵里が、その、自殺するかも知れないって知って、わざわざ自分が担当になってくれて、仕事時間前の朝早くからお世話になったりしてて、俺達の親の所とか話し合いに行ってくれたり、他にもたくさん担当を持っていて、今日も凄く疲れ……そんな、そういう人じゃないんですよ」


「つまり、ちょっと心当たりがあるんだな?」


「そ、そんなこと」


「早いほうが良い、連絡してみるんだ。口座番号が知りたいとか、具体的にいくら入っているのかとか、適当な用事でいいから電話してごらん」


 気を悪くしないかなぁ。

 まあ、さばさばしてる人だから大丈夫だと思うけど。


 俺は、工務店の電話を借りて児童相談所に連絡を入れる。


「もしもし?」


「はい、東西児童相談所です」


「あの、そちらにお世話になっている者で淡島悠馬と言います。伊藤さんはいらっしゃいますか?」


「あー、御免なさいね。伊藤さんは昨日で辞めちゃったのよ。なんか疲れちゃったみたいで。淡島さんね。次の担当が挨拶に行くと思うんですけど……」


 え……?


 辞めた……って、今日じゃなくて昨日?


 昨日辞めた……。


 でも、今朝俺達の所にやってきて、通帳と印鑑を預かってもらって、病院に行って、駅まで送ってもらって、またねって……。

 

「あー、次に会う予定地とか決めなきゃねぇ。今まで……」


「あの、俺、持ってるの危なかったから、通帳とか印鑑とか……預かってもらってたんですけど」


「……ちょっと、今は分からないけれど」


「分からないって……」


 目の前で不動産屋と工務店の人が溜息を付いている。

 

「金庫に入れておくって言ってましたけど」


「金庫は事務長しか弄れないんですよ。伊藤さんが利用したりすることは出来ま……」


 俺は受話器を置いた。

 信じられなかった。


 なんかの間違いじゃないのか?

 でも昨日施設を辞めた人が、なんで俺の通帳と印鑑を預かってくれるんだよ。

 なんで辞めたって言わなかったんだ。

 

「まぁ、高い授業料だったね」


「あの、こんな事になってしまって。お世話になりました。絵里、行こう……」


「あ、送っていくよ」


 俺はふらふらと事務所を出ると、絵里の手を握りながら俺達の土地を目指して歩いていった。


 万策は…………尽きた。

 

 

 

 さっきよりも幾分気温が上がっているようだ。

 森の中を通る道が蒸し暑い。


 でも、例の柵が施された高台の空き地まで出ると、その暑さは一気に吹き飛んでしまった。

 適度な風が心地良いリズムで吹き付けてくる。


 俺がその中心あたりにまで歩くと、突然、そこに玄関らしきものが現れた。

 俺達がさんざん考えた間取りの玄関だ。


 上の方に赤い屋根が見える。

 振り返ると、俺が作ろうと思っていた郵便ポストまで出来ていた。

 窓は開けっ放しにしてあったのか、中からカーテンがそよいでいるのが見える。

 

「ここが玄関かー」


「ただいまー」


 絵里は俺の手を離すと、ガラガラと戸を横滑りに開ける動作をした。


「ただいま」


 俺達はそこで靴を脱いで、家の中に上がった。

 

「美味しいお料理をいっぱい作るね!」


「ああ、もう食べ切れないくらい作って、毎日天文部の奴らに持って行ってやろう」


「すごく楽しみです」


「これで久司のやつの買い過ぎにも悩まされないで済むしな」


 絵里は隣の部屋に行くと、そこでごろっと横になった。


「ここでご飯を食べて、先輩と一緒に寝るの」


「ああ」


 絵里の方へ歩いた瞬間、強い風が俺達の間を吹き抜けていった。

 

 そして。


 今まで確かに見えていた家が……消えていた。


 俺はただの草むらの上に立っている。

 絵里はまだ居間に転がっているらしい。


 ほんの一瞬だったけれど、俺にも絵里と同じ物が見えていたようだ。

 それは、ものすごく魅力的なことだった。


 絵里が戻れないならば、俺が絵里の所に行けば良いんだ。

 でも、俺がそのまま絵里と同じものを見続けていたら、二人は引き離されてしまうだろう。


 同じ病院に入れれば良いが、どうなるのかなんて分からない。


 ……馬鹿か俺は。


 もう夢の時間は終わったんだ。

 絵里は治らない。


 俺は高校中退で、路上生活者。

 これを後60年も続けていくしかないんだ。


 いや、夢が終わったのは今じゃないのか。

 もう、とっくに。


 それこそ、絵里が義父に襲われたときに終わっていたのだ。


 俺達にそれを越えることは出来なかったんだ。

 そう考えるならば、俺と絵里が出会った瞬間に、もう全てが終わっていたのかも知れない。


 俺に出来た事はたくさんあった。

 でも、もうどれもやり直しのきかないことばかりだ。


 夢の時間は終わり、俺の目の前には崖と空しかない。

 不思議と伊藤さんを恨む気持ちが沸いてこなかった。


 要するに、俺に足りないものが多すぎたんだよ。

 隙間だらけの柵を乗り越える。


 ごめんね、絵里。

 君は俺が居なくなったことに気が付くのかな。


 でも、俺は君の居ない場所から君を守り続けるよ。

 もう、この方法しか思いつかない。


 さよならだ、絵里。

 最後に、本当にゴメン……絵里。

 

 


「先輩。ここが、双葉ちゃんの居場所なんですよね」

 

 






 エピローグ  









「テメエっ! 二十歳にもなって木の一本すら満足にツゲねえのかよっ!」

「すいません親方っ!」


 俺は親方に殴られた頭を抑えながら、涙声で謝った。

 親方は最近ボケてきている様で、殴り方に容赦がない。


「おめぇが手え抜いた分、この家に住む人は気ぃ悪くする。家が完成したとき、その気ぃの悪さはその家族を不幸にする。てめぇの取り柄は、家っつーもんを大事に出来る事、それだけだっ! 手ぇ抜ける様な、立派な大工にはなれねえっ! それを忘れるんじゃねえぞっ!」


「はいっ!」


「テメエは人並みの給料になるまで半人前だっ! 覚えとけっ!」


「はいっ!」


「よし、今日はあがれっ!」


「お疲れさまでしたっ!」


 帰り支度を済ませていた親方は、そのまま軽トラックで事務所へと帰ってしまった。

 俺は汗を拭いて息を整える。

 

「悠馬君」


「あっ、深雪さん」


 親方が溺愛する末娘の深雪さんだ。

 俺より5つ年上の女性で、孫の間違いなんじゃないかと今でも思っている。

 

「私のお古になっちゃうけど、良ければ使って」


「有り難うございます。建築士のテキスト買うのも一苦労なんで。まあ、受からなきゃ意味無いですけど」


「悠馬君なら大丈夫よ。これでウチも戦力増強なんだから」


「親方は喜んでくれるでしょうか……」


「悠馬君が来てから現役復帰したでしょ? 悪かった肝臓も良くなったし、少しは動いた方が良いんだけど、もう歳だからね。悠馬君が資格とって、事務所に居てくれるようになった方が喜ぶわよ」


「……そうですね、頑張ります」


「毎日毎日、悠馬は駄目だ悠馬は駄目だって、本当に嬉しそうなんだから」


 深雪さんが車で帰ると、俺はそろそろ暗くなる道のりを自転車で飛ばして行った。

 ポツリポツリと明かりの灯る家々を横切り、全速力でなだらかな坂道を駆け上がっていく。


 サラサラと小川の流れる音が、火照った俺の身体から体温を奪ってくれた。

 真っ暗になる前に、何とかこの坂を抜けないと。


 もう少し……もう少しで……。

 木々を抜けると、そこは吹き抜けの高台だった。


 近隣の景色が一望できる、風光明媚な特等席。

 金持ちの別荘が建つ予定だった一等地だ。


 高台の柵には網が張られ、一分の隙間もないほどに家を囲んでいた。

 すっかりと日の落ちた山に、夢のような淡い薄墨の景色が広がる。


 開けっ放しの窓からは、そよいでいるレースのカーテンが見え、家中から漏れる明かりには、何故か暖かで柔らかな人肌のようなぬくもりを感じた。


 これは夢なんじゃないのか。

 強い風が吹くと全てが消え去ってしまうんじゃないのか。


 俺は自転車を庭に止めると、張り裂けそうな胸を押さえて、引き戸になっている戸を開けた。

 

「た、ただいま!」


「おかえりなさーいっ」


 双子の男の子と女の子が俺の帰りを待ちわびていたように転がってくる。


 今日はどうしたとか、明日はどうするとか、舌っ足らずに喋りながら、俺にまとわりついて離れない。


 そして、玄関のすぐ先にあるキッチンから、エプロンを着けた……。

 俺の愛する人が……。

 

「お帰りなさいあなた……あー、また泣いているのね? しっかりして下さいよ、先輩」


 俺達の夢は続いていく。

 風に吹き消されない、本物の夢が……。


最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。


昔書いた作品を今読むと、もにょります。

懲りずに昔の短編などを投降すると思いますので、よろしくお願いします!

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