スローライフの第一レッスン
死んだ母親が、家を訪ねてきたという経験。皆様はおありでしょうか。
私はあります。
それは私が元彼の部屋で同棲していた頃の話です。
お葬式を終えて一週間後、私は食事当番で狭い台所に立っていました。
そんな日、突然鳴った呼び鈴と、扉を叩く音。
飛び上がるほど驚きました。
ドアスコープの向こうには、たしかに死んだはずの母が立っていたのですから。
「お母さん!?」
「なんだい、死んだ人を見るような目をして」
「まさしくそれだよ!」
母は、ズケズケと台所に足を踏み入れます。
「夕飯の準備はまだかい?」
「そ、そうだよ」
「ちょうど良かったね。今からあんたに、すろーらいふってもんを教えてやるよ!」
そう言って腕捲りをする母を、私は呆然と見ていました。
野菜を刻む音は、実家にいたときと全く同じです。
「まったく、あんたみたいにファーストフードばっかだから、現代人の心は疲れてんだよ」
「好きな人もいるんだから黙って」
鍋に野菜をまな板から流し込み、火にかけて。根野菜は水からです。
味噌を溶く手際もいいのですが……。
「お母さん、マドラーならこっちに」
「んなもんいるかい。お玉で充分!」
そう言って、文明の利器を拒否する母には辟易しました。いえ、お玉も文明の利器なんですけど。
出来上がった味噌汁が小皿に注がれ、私に差し出されます。
「我が家の味、よく覚えておきな」
その味噌汁は、本当に、母の作った味噌汁でした。
「出汁にコンソメを隠し味にちょこっと、味噌は仙台と信州の合わせ味噌だよ」
「意外と洋風なんだ?」
「あんた、味噌が苦手だったからさ」
……湯気が入ったのでしょう、鼻水も啜らないと。
「いいかい、味噌汁をな、味噌汁を毎朝作れるような生活をしな。それが人間、ちょうどいいスローライフってやつなんだ」
「お母さん、何か漫画読んだ?」
「これ、これが言いたかったんだよね」
その得意げな顔、腹立つわ。
そんな懐かしい会話もそこそこに、母は不意に微笑み、背伸びをしました。もう終わりと言うように。
「……本当は、孫にこれを教えてあげるのが私の楽しみだったんだ」
「ごめん」
「まあ、あっちから楽しみに見てるよ。彼と喧嘩しないようにね」
あんた、あたし似だから、と。その言葉までは聞こえませんでした。
母は、唐突に現れて、唐突に去っていってしまったのです。
ちなみに先程も来ていました。
「今日はババア特製唐揚げだよ!」
「どこから鶏肉持ってきたの!?」
そろそろ成仏してほしいです。