<第九章> 乱戦
ご承知かと思いますがが、この作品内の樹海は作者のオリジナルであり、富士山の麓の青木ヶ原とは別物です。
<第九話> ” 乱戦 ”
「……すいませんでした」
野性味溢れる臭いが詰まっている家畜小屋の中で、友と庄平が最初に聞いた言葉は謝罪だった。
まだ痛みと熱が収まらない額を押さえながら、友はその言葉の主を見る。
優しそうな見た目に似合わない屈強な体格、高い背、力強い目。服装こそ今時の若者が着る様なラフな物だったが、明らかに何かの格闘技をやっている事が見て取れる。潰れた耳から推測すると、柔道だろうか。
心底申し訳なさそうに誤るその男の隣には、こちらの様子を不安げに見ている女性がいた。
庄平と同年齢かそれ以下と思わしきその人物は、美人でもそれ以下でもなく、まさしく一般的な女性といった容姿だ。
深夜に怪しい声を聞き外に出た友と庄平は、すぐにこの二人、安形と優子を見つけ後をつけた。
さっさと声をかけても良かったのだが、一応安全な人間かどうか確かめようとしたのが災いした。
警察内でもエリートに属する安形は自分たちが尾行されていることに気がつくと、道を曲がったように見せかけて友と庄平に不意打ちを食らわした。
「ぐふぁうん!?」
「うっ――!?」
小型携帯銃、デリンジャーのグリップで頭を強打された二人は、反撃する間もなく夢の世界へと旅立って行く。
「あれ、誰だこいつら?」
気絶させた後で、安形は二人が鈴木らではないことに気がついた。
夕方に鈴木らの目の前から全力疾走して逃げたばかりの安形は、尾行の相手を真っ先に彼らだと思ってしまったのだ。
このまま二人を放置すれば悪魔に殺されてしまう危険があるし、かといって町の中の家に隠れたのではすぐに鈴木らに見つかってしまう。
安形は仕方なく優子と協力して、二人をこの町から少しだけ離れた家畜小屋まで連れて来た。
この小屋は長方形に木製の柵で囲まれており、それをさらに取り巻く形で樹海の森が広がっている。本来ならばここに住んでいたはずの牛や豚は、悪魔に食われでもしたのだろうか、どこにも姿が無かった。
そして現在。
「そんなに気にしないでください。黙って後をつけた僕たちも悪いのですから」
丁寧に謝り続ける安形を友が止めた。
「そうっすよ、安形さん。そんなことよりも今は悟らに俺たちが無事だってことを知らせないと」
「悟? 他にも誰かいるのか。いや、そもそも君たちはこんな誰もいない町で何をしているんだ?」
住民が存在しない町、場違いな学生、血まみれの壁や地面――安形と優子にとっては分からないことだらけのようだった
「詳しく話すと長くなりますから、簡単に説明します」
友の簡潔かつ要点を的確についた説明を聞いた後の二人の反応は、意外にも好感触だった。
いくら説得力のある友が説明したとはいえ、普通なら悪魔が徘徊しているなどと簡単に信じることができる訳がない。だが、先日明らかに何かの巨大生物らしきものに襲われた車と町の現状を目の当たりにした二人は、完全とはいえないまでも、ある程度の理解はできたとのだった。
「まだ完全に信じた訳じゃないけど、一応危険そうだということはわかった。だったらすぐにでも君たちの友人の所に向かおう」
「ありがとうございます。正直、ここまで理解を持ってくれるとは思いませんでした」
二人の反応を意外に思いつつも、友はそれに感謝した。
「よし、そうと決まればさっさと行こうぜ」
悟らが心配だった庄平は率先して家畜小屋から出る。同年代よりもすこしサイズの大きめの足が朝日を浴びて緑色に輝く夏草を踏んだとき、庄平は何か動くものを森の方に見た。
「っあ!」
それが何かわかった庄平は、慌てて入口に立てかけてあった桑を手に取った。
「友、悪魔だ!」
「……まったく、また随分いきなりだな。安形さん、さっそく来ましたよ。そこの桑を使ってください」
安形に桑を取るように指示しつつ、友は先日泊まった家で作った槍を構えた。これは今までの物とは違い、先端は尖った石でも削った木でも無く、包丁をそのまま鉄パイプにくくり付けた物だ。友はこの武器はまだ温存しようかと思ったものの、町に戻ればいくらでも包丁が手に入ると考え使用に踏み切った。
臭いを感知したのか、声を聞きつけたのか、悪魔は徐々に小屋に向かって歩いてくる。庄平は半開きにした小屋の入り口からその様子を盗み見た。
「よ、よりによって進化したやつかよ!」
先ほどは気がつかなかったが、良く見ると悪魔は四足で歩いていた。
庄平のセリフと、悪魔の異様な姿みた安形の額に汗が浮かんだ。
「な、何だ進化って?」
「あいつらは時間が経つごとに進化してしまうようなんです。今あそこにいるのは普通の悪魔ではなくて、その進化形態みたいですね」
友が冷静に解説した。
「進化だって?」
「あ、安形さん。私はどうしたら?」
戦闘の準備をしていた三人を他所に、優子はひとり小屋の中で戸惑っていた。
「優子ちゃん。君はそこの藁の中に隠れているんだ」
緊張した表情で、安形は彼女を奥へ誘導した。
「分かりました。死なないでくださいね……!」
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。これでも幾つもの修羅場を経験しているんだ」
「庄平、俺が囮役をやる。後ろは任せたぞ」
「ああ!」
藁の山に隠れる優子とそれを見守る安形を片隅に、友と庄平は高橋志郎から教えられたとおりに、戦う準備を行った。悟が抜けたため、今回はいつもよりも慎重に行う必要がある。心なしか二人とも緊張していた。
入り口の扉の前にいる友を挟んで左に安形、右に庄平と陣取り、四足の悪魔に備える。
心の用意を済ませると、友は悪魔を挑発した。
「こっちだ、化け物め!」
柵と小屋の間を歩いていた悪魔は、声に反応してすかさずこちらに迫って来た。
「ギュアァァアアア!」
友は相手の姿が眼前に見えた瞬間に思いっきりしゃがんだ。勢い良く飛び掛った悪魔は友の頭を越えると、小屋の中に着地した。その隙を狙って左右から庄平と安形がそれぞれ桑を突き出す。
しかし、進化した悪魔は前まではかわし切れなかったはずのその攻撃を、さらりと避けてしまった。
鈍い金属音が鳴る。悪魔がコンマ数秒前まで存在した位置で高い音を響かせながら、二人の桑はその身を打ち付けた。
「うっ!」
伝わる衝撃で安形が片腕を桑から離してしまっう。悪魔はそれを見逃さなかった。桑を避けた勢いのまま後ろの地面を蹴ると、安形に向かって体当たりを食らわした。
「ぐっああっ!?」
強靭な四足の力で小屋の壁に激突させられた安形は、口から唾液を吐き出しながら痛みに顔を歪める。
「やめろ!」
尚も執拗に安形を狙おうとする悪魔を友の槍が遮った。横からなぎ払うかのように振った槍を悪魔がかわすと同時に、その背後に庄平の桑が迫る。
「っえいしゃらー!」
「ギュアア!」
だが、普通の悪魔ならしとめられていただろうこの攻撃も、進化した四足の悪魔は難なく身をしゃがませ避けてしまった。
「な、マジかよ!?」
あまりにも俊敏な動きに庄平が目を丸くする。
しゃがんだ勢いで、力いっぱい庄平の腹に自身の爪を繰り出す悪魔。庄平はその攻撃をかわすことが出来ず、ギリギリで桑で防いだが、悪魔の力に押され倒れてしまった。それを見た悪魔は待ってましたとばかりに庄平の上に飛び乗る。
首元に接近を試みる邪悪な牙を必死に止めようとする庄平。だが、悪魔と庄平では筋力の差がありすぎた。
「ぎゃああああ!」
ガブリと庄平の肩に悪魔の歯が食い込む。肉が裂かれ、異物が侵入する苦痛に庄平は悲痛な声をあげた。
「庄平!」
友はすぐに悪魔を退かそうとしたが、突き出した槍はあっさりと鷲掴みにされてしまった。
「く、この!」
友がどんなに力を込めようとも槍は全く動かない。この状態が続けば、すぐにでも庄平は死んでしまうだろう。いや、例え死ななくても十秒感染によって悪魔化してしまう危険性が高い。むしろそっちの方が可能性は大きいだろう。
掴み続けることに飽きたのか、悪魔は槍を引っ張ると、その延長線上にある友の首に手を伸ばした。
「――……あがが、が……!」
凄まじい力で首を締め付けられる友。
――く、ここまでか……! どうやら庄平だけでなく自分も悪魔の仲間入りをしそうだな。
遠のきかけた意識の中、庄平と友の耳に小屋を多い尽くすほどのものすごい音が聞こえた。その音の木霊が消えると同時に悪魔の体から力が抜ける。
「げほ、げほっ、……はぁ、はぁ?」
悪魔を蹴飛ばすように離れた友は、白煙を上げる銃を構えた安形を視界に捕らえた。
「け、拳銃か……はぁ……そういえば刑事なんだったな」
――助かった。銃がなかったら完全に死んでいた。
「二人とも大丈夫か?」
壁に打ち付けた痛みからか、安形は片手で自分の肩を抱きながら尋ねた。
「何とか大丈夫だ」
余裕が無いのか、嫌いなのかは分からないが、友は既に敬語を止めている。
即座に返事をした友とは異なり、庄平から返事は無かった。地面にうずくまったまま黙っている。
――ま、まさか……悪魔化してはいないだろうな。
友は気を揉みながら庄平の顔を覗いた。刹那、ガバッ、と起きた庄平に掴みかかられた。
「うおおお!?」
友は思わず腰にくくりつけてある包丁に手を伸ばしかけたが、庄平の顔を見て辛うじて踏みとどまった。
「……何をするんだ。離してくれ」
友が呆れた目で見るにも関わらず、庄平は抱きついた手を離さなかった。
「友〜! 俺マジで今度こそ死ぬかと思ったぜ〜。ああ、すげー怖かった!」
「悪いが、男に涙目で抱きつかれる趣味なんて無いんだが」
死に掛けた恐怖で抱きついてきた庄平を強引に遠ざけると、友は安形に向き直った。
「安形さん、ありがとう。間一髪だった」
「ああ、本当に危なかった。あれが悪魔か。まったくなんて生き物が存在るんだよ」
「安形さんの話だと昨日はいなかったのに……何故今更この町に戻って来たんだろうな」
「何か怖い奴からでも逃げてじた来たんじゃね?」
さっきまでの泣き顔は何処へやら、庄平が冗談っぽく答える。
「はは、正平君じゃないんだから」
安形は面白そうに笑った。
「ど、どういう意味っすか〜!」
「そいう意味だよ。あ、優子ちゃん! もう安全だ。出てきてもいいぞ」
庄平の反抗を軽くいなすと、安形は藁山に隠れている優子を呼んだ。
――怖い奴……?
友の頭には庄平の言葉が何故かひっかっていたが、何が気に掛かるのかは自分でも分からなかった。
「あ、安形さん――」
藁から出て来た優子は悪魔を倒せたばかりだというのに、妙に青白い顔で安形を見た。髪や自分の洋服の所々に藁がくっ付いていることなど気にも留めず、怯えた表情で三人を見る。その異常さに友は何か不安なものを感じ取った。
「どうしたんだ? 優子ちゃん」
「わ、私みんなが戦っている間怖くて向こう側を見てたの。それでここって見たとおりボロボロの小屋でしょ、だから隙間から外の風景とか簡単に見えるんだけど――……」
これから何か不吉なことを言われると、誰もが優子の雰囲気から感じ取った。
「な、何を見たんだよ?」
庄平が不安感から声を裏返らせて聞く。
「優子ちゃん。教えてくれ外が何なんだ?」
言いよどむ優子に対し、安形が少し強い調子で聞いた。その声に覚悟を決めたのか、優子が震える声で口を開ける。
「……今この小屋、何匹もの悪魔に囲まれているの」
「あの、何方ですか?」
我ながら場違いな質問だと思いつつも、悟はトイレに篭っていた男に質問をした。
「あ、私、白井直人といいます。一応、この家の主です」
「はあ、そうなんですか」
「ええ、そうなんですよ」
――何だこの会話は? と自分で不思議がりながらも悟は話を続けた。
「ここで何をしているんです?」
「隠れてました。外は悪魔みたいな奴らが居るので」
「え、でも私たちここに着てから十時間以上は経ってますけど、悪魔なんて居ませんでしたよ」
謎の男の言葉に亜紀が変な表情を浮かべた。
「ああ、それは今だけですよ。今はブラックドックが町の周囲をうろついているから、奴ら怖がって入って来れないんです」
「ブラックドック? それってもしかして大きな黒い犬の怪物のことですか?」
昨日の夕方の恐怖が記憶に新しい亜紀は、すぐに男の言っているモノが何なのか分かったようだった。
「そうです、そうです! 悪魔の奴ら、昨日の夕方にあの犬っ子ろが姿を見せてから、てんでこの町で姿を見かけなくなったんですよ。いつあの犬が離れるかも分からなかった私はずっとここに隠れていたんです。悪魔が外にいないってことはまだあの犬、町の外にいるみたいですね」
「え〜と、白井さん。悪魔の襲撃を受けてからずっとこのトイレに隠れていたんですか?」
ふと気になった悟は思ったことを聞いてみた。
「ええ、そうですけど、それが何か?」
――根性が無いというか、何というか……。
悟は白井の行動に苦笑いした。
町の様子を見てきた悟はこの銀野町が襲撃されたのは少なくとも一週間以上前だと確信していた。食料の日付け、賞味期限、家の荒れ具合。根拠は言ってもきりが無い。それ程長い間、この男は助けを探しにも行かずにずっと一人でトイレにこもっていたというのだろうか。ちょっと信じられなかった。
悟の隣に居る亜紀も何を言ったらいいのか分からない顔をしている。
「ところで、貴方たちは何なんですか? 村……この町で見たことは無い顔ですが」
「旅行者みたいなものです」
悟が何かを言う前に亜紀が即答した。
「旅行者ですか、あなたたちも運が悪かったですね。こんな時に来さえしなければきっと楽しい夏休みを満喫できていたでしょうに」
白井はワザとらしいくらいに残念ぶった。
「もう過ぎてしまったことです。今はここから生きて帰ることが第一ですよ。俺たち二人は離れ離れになってしまった仲間を探しに行きますけど、白井さんはどうしますか?」
「このままここにいても助かりそうに無いですし……同行しましょう。と言っても、本音をいえばもうトイレには隠れられそうにありませんからね」
白井は床に転がっている破壊されたドアを見た。
「あ、すいませんでした」
「いいですよ、どうせ食料も尽きたところでどうしようか迷っていましたから」
白井は何かを吹っ切ったように言った。
「じゃあ、さっさと行きましょう。友達も心配ですから」
亜紀は軽く微笑むと、先行して家を出ようとした。トイレの前の狭い廊下からすぐ左側にある入り口の扉に手をかける。
「んっ!? 待て、吉田さん!」
「え?」
悟が叫んだ時にはもう遅かった。
「ギュアアアアア!」
扉を開けた亜紀の目の前に、悪魔が立っていた。進化する前の、ごく一般的なやつだ。
「きゃあっ!?」
悪魔の爪は瞬時に亜紀の頭に振り下ろされたが、悟が腕を引っ張ったことで亜紀は服の一部を切り裂かれただけですんだ。
「ひ、ひひいいい!?」
真後ろで悲鳴を上げている白井を無視し、悟は亜紀を背に隠すと腰の包丁を抜く。悪魔と一対一で戦うのは初めてだったが、不思議と悟に恐怖は無かった。
玄関の地面を蹴り、悪魔に走り寄りながら包丁を間一門に斬り付ける。そして予想した通り、悪魔がそれを後ろに下がりかわした瞬間を見計らって、その灰色の胸を矢のごとく蹴りつけた。
「グギュエエ!?」
包丁に注意を集中させていた悪魔はそのけりに対応出来ず、見事に家の外に吹き飛ばされた。
「鈴野の仇撃ちだ……!」
悪魔が起き上がる前に止めを刺そうと、追撃を繰り出す悟。
だが、悪魔は寝たままの姿勢から飛び上がるように立ち上がると、目の前に渾身のナックルを振り下ろした。
もし、相手が普通の人間だったのなら、友だったのなら、庄平だったのなら、この攻撃は綺麗に彼らの顔面を強打していただろう。しかし、今悪魔が相手にしている男は普通の人間では無かった。
悪魔が拳をふる前に、悟は次の悪魔の攻撃が分かっていた。
どのタイミングで、どの角度で、どのくらいの力で、速度で……攻撃が起こる事前に全ての相手の動作を『感覚』が教えてくれる。
悟は紙一重ながらも、何とか悪魔の攻撃をかわし続けた。
「す、すごい……!」
目を奪われたかのように、亜紀が驚きの声を漏らした。それを見て、白井も値踏みするような視線を悟に向けた。
悪魔になれた所為か、冷静になったおかげか、理由は不明だが、自分の第六感がこれまでの人生で感じた何倍も機能しているのが分かる。悟は面白いくらいに悪魔の動きが読めることで、自分に対する恐怖と、悪魔と渡り合っている喜びとの間で揺れていた。
「ギイィィイ!」
悔しさからか、怒りからか、そういった感情があるのかは分からないが、悪魔はしゃがむにに爪を振り回す。しかしいくら振り回してもそれが相手を捕らえることは無い。
「ウオオォォォォ!」
ドスッ。
悪魔の大振りな拳が風を斬った瞬間、その胸に包丁が突き刺さった。どす黒い血が口と心臓に空いた穴から並々と吐き出される。
悪魔はそれ以上、動く事は無く、あっさりと倒れた。
「や、やった……!」
全身を汗だくにしながら悟はその場にしゃがみ込んだ。
――倒した……悪魔を。
「曲直くん」
亜紀は心配と喜びが入り混じった声で呼びかけると、悟に近づいた。
「はぁ、はぁ、吉田さん、大丈夫だった?」
「私は大丈夫。それよりも曲直くんも怪我はない?」
「俺も平気だよ。かすり傷なら幾らかあるけど、こいつの攻撃は一撃も貰ってないから」
「しかし、曲直くんってすごいね。ビックリしたよ」
「はは、自分でも信じられないけどな」
悟は心底そう思っているらしく、何度も悪魔の死体に視線を走らせていた。
「汗すごいけど、拭いてあげよっか?」
亜紀は過度の集中による精神的疲労から来た悟の汗を見てそう言った。
「え?」
悟がその言葉の意味を理解するよりも早く、亜紀はハンカチを悟の顔に当て汗を拭いだした。
慣れない女性に、しかもかなりの美人である亜紀に顔を拭いてもらい、悟の顔は急激に赤くなってくる。
「本当に大丈夫?」
亜紀は悟のその反応が息切れから来たものだと思い、心配そうに顔を覗く。その動作で悟の顔はますます熱を帯びた。
「だ、大丈夫だって、ありがとう。もう汗は出てないから!」
照れ隠しだとバレバレの態度で立ち上がる悟。亜紀はその背中を不思議そうに見た。
「あ〜あ、お二人さん。カップルの邪魔をしたくは無いんですが、どうやらそういう訳にもいかなくなったみたいですよ」
悟と亜紀が恋仲だと勘違いしたらしい白井は、町の中心広場を挟んで向かいにある家々の方を見ながらそう言った。
「か、カップルって――」
亜紀は頬を染めながら反論しようと顔を上げた瞬間、絶句した。
「嘘でしょ……」
向かいの家々からは、五匹の悪魔がこちら目掛けゆっくりと近づいていた。しかもその内2匹はあの四足の悪魔のようだ。
この光景を目にし、さすがの悟も先ほどまでの興奮はどこへやら、思わず息を呑んだ。
「……何だよ」
――悪魔がこんなに……こんなの、いくらなんでも……!
先ほどの戦闘の疲れと相手が多数ということもあり、悟に戦う意識は毛ほども起きなかった。
「ギュアアアア!」
五匹の悪魔らが吼えると同時に、三人はきびずを返して全力で逃げ出した。
疲労している悟に加え、相手には四足悪魔まで居るのだ。三人が悪魔らから逃げ切ることは至難の業だった。
着実に距離を詰めてくる悪魔の一団。このままでは数秒もしないうちに間違いなく全員とも食い殺されてしまうだろう。
――くそ、追いつかれる!
悟がそう思った瞬間、誰かの声が横から聞こえてきた。
「こっちだ!」
振り向くと、自分よりも少しだけ年上らしき青年が、他よりも一際大きな家の門の前で手を伸ばしていた。見る限りその扉は金属製のようだ。あれなら幾らか持ちこたえられるかもしれない。
三人は迷わず少年の手を取り、家の中へ飛び込んだ。
鋭い音が鳴る。
同時に灰色の生き物が一体崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁっ! 安形さん、弾は後何発残ってるんすか?」
家畜小屋から町の方向へと牧場内を走りながら、庄平が安形に聞いた。
「携帯拳銃だからな。元々使用する気もなかったし、もう四発使ちまったから、あと二発だけだぞ」
「二発か、厳しいな」
友は残り少ない弾丸にがっかりした。
悪魔の包囲が完全に狭まる前に安形の持っている銃を利用し、強行突破したはいいものの、計画通りとはいかず、悪魔たちは執拗に彼らを追いかけていた。
走りながら罠を張ったり、今更隠れたりも出来ないため、友、庄平、安形、優子らは自然と銃に命を預ける形になってしまっていた。
「二発ってことは、あと二体の悪魔しか倒せないの!?」
優子は泣きそうな顔でそう言った。自分たちを追いまわしている悪魔の数は軽く十匹を超えている。二対倒したくらいでは何も状況は変わらないだろう。銃を失った事を知れば、もう遠慮無しに全力で襲い掛かって来るかもしれない。
「万事休すってやつか!」
安形は震える声で呟いた。
「ギョオオォォォォ!」
真後ろに悪魔が迫った声を聞き、振り向きもしないで銃を撃つ安形。後ろでは悪魔の断末魔と共に、ドサッという音が聞こえた。
これで、全員の命を繋ぎとめる蜘蛛の糸は残り一発となる。
「あっ!」
四足の悪魔が優子の肩に飛び乗りそのまま押し倒した。
「優子ちゃん!」
安形は迷うことなく引き金を引いた。
吹き飛ぶ悪魔の代わりに切れた蜘蛛の糸。背後に迫る悪魔の集団を止めるすべはもう無かった。