<第六章> 巨狼、再び
<第六章> 巨狼、再び
途切れた道路を前にし、バンが止まった。唸るように鳴っていたエンジン音も今はまったく聞こえない。とうとう亜紀は目的地に着いたのだった。
停車した場所を見て怖くなったのか、小宮が体を固めた。怪しい集団に捕まってしまったとでも思ってしまったのだろう。あながちその考えは間違ってはいない。
「着いたぞ」
鈴木は神妙な顔でそう言った。
その声に鈴木、川上、安形、優子の四人は無言のまま車から降りる。
――やばいよ、着いちゃったじゃん!
亜紀は車から降りる気になれず、小宮と二人で車内に残っていた。
「ここはどこですか?」
唯一車に残った亜紀に、小宮が質問した。恐怖からか、その顔は若干青ざめている。だが、顔色の悪さでは亜紀も負けてはいなかった。
「え〜とですね……ここはその……」
血の気の引いた表情で、亜紀は現状を打破する方法を必死に模索する。
こうなったら優子をおいて逃げてしまおうかと考えてはみたものの、どうしても行動に移すことは出来ない。それをしてしまっては、わざわざ東京からここまで一体何をしに来たのか分からなくなってしまうからだ。
「亜紀さん、どうしたんです?」
小宮は亜紀が異常に動揺しているのを見て、心配そうに聞いてきた。
「あの人たち……危ない集団なんですね」
亜紀が何も答えないので、小宮は勝手にそう解釈した。何かを決心したように亜紀の横に席を移ると、小声で話しかけ始める。
「一緒に逃げましょう。幸い今なら車内に居るのは私たちだけだし」
「え!?」
「私、免許を持ってるし、運転できるの。大丈夫! 任せて」
車体後部のトランクから何やらいろいろと怪しい道具を出している集団を気にしながら、小宮はゆっくり前の座席へと身を乗り出した。運転席に座り、フロントガラスに写っている亜紀に視線を合わせる。
「いい? 行くわよ!」
「行くって――……小宮さん!」
――今ここから逃げたら優子が……!
亜紀が思いを伝える間もなく、小宮はエンジンを入れた。鈍い重低音が木霊する。
「んっ、何だ!? お前ら何してんだよ!」
エンジン音を聞きつけた川上がすぐにドアを開けようとしたのだが、ロックが掛っているため開かない。
「くそ、この――!」
川上がさらに力を入れようとすると、車は急発進した。
「お、おい! 待てお前ら!」
慌てたように鈴木が叫んだ。急いで車に掴みかかる。だが、男たちの剛力も虚しく、亜紀と小宮を乗せたバンは軽々と彼らを振り切った。瞬く間に距離を開いていく。彼らを遠めに見て、小宮は手を振った。
「くそぉ、あいつらぁ!」
――あの車には計画に必要なものがまだ入ってるんだぞ!?
遠ざかる愛車を見て鈴木は地団太を踏んだ。
「ふう、上手くいったわね」
樹海を滑走する車の中、小宮はしてやったりと言わんばかりの笑顔で振り向いた。自分の機転の良さに酔っているのか、鼻歌まで歌いだす始末だ。
だが、後ろに居た亜紀は小宮とは正反対の心境だった。助かったことは助かったのだが、樹海に来た目的である優子を見捨ててきてしまったのだ。半場強制的に小宮につれてこられたとはいえ、優子のことは友人として慕ってる。酷く後悔の念に駆られていた。
「ちょっと、亜紀ちゃん。暗い、暗い。折角あいつらから逃げれたんだからもっと喜びなよ〜」
「はぁ、すいません」
きっと小宮は亜紀が鈴木らに誘拐されたとでも思っているのだろう。このまま誤解されたままでも別にいいかと考えたが、亜紀は一応本当のことを話しておくことにした。もしかしたら、小宮が優子の救出の手伝いをしてくれると思ったからだ。
「あの、小宮さん」
「何?タバコは持ってないわよ」
「いや、タバコは吸いません」
「もう、何よ。真剣な顔しちゃって」
その時亜紀は一瞬遠くの方で何かの走る音を聞いたような気がしたが、気のせいだと思い会話を続けた。
「小宮さんは私たちのことをどう思っているんですか?」
「私たちって――ナンパされてここに連れ込まれたんじゃないの?」
――やっぱり勘違いしてたか。まあ、そう思うよね。
「違います。私は優子……友達の自殺を止めるために来たんです」
「へ? 自殺って何のこと?」
「実は――さっきの人たちは集団自殺をするために樹海に入ったんですよ」
「えっ、そうなの?」
小宮はぎょっとしたようにバックミラーを見た。
「じゃあ……亜紀ちゃんも?」
「いえ、私はそれに参加した友達を助けようと思って……」
「ふう〜ん。亜紀ちゃんは優しいんだね」
「いえ。とんでもないです」
「あ、ってことはさ、もしかして私余計なことしちゃった?」
カンニングがばれた学生のような顔をして、小宮は亜紀を覗き見た。
「そんなことはないです! おかげで私は助かりました。あのままだときっと巻き込まれて殺されてたから」
「そっか、よかった。もし亜紀ちゃんが危険じゃなかったら、私はただの車泥棒になるところだったよ」
あはははと笑う小宮。
亜紀は何故かそのとき小宮が無理に笑っているように見えた。まるで何かを頭から忘れさろうとしているかのように。
「実は、それで小宮さんに友達を助けるのを手伝って欲しいんです。かなり自分勝手なお願いなんですが」
再び何かの連続音のようなものが、耳に届く。
「ん〜困ったわね。一応、私今逃げてる途中なんだけどな。町に戻って警察を呼んでくるとかじゃだめ?」
「それじゃ、きっと優子はもう生きてません! 助けるなら今しかないんです」
亜紀は小宮に悪いと感じながらも、自分一人で男三人を相手に優子を取り戻すことは不可能だと思い、必死に懇願した。
「お願いします! 小宮さんは車を運転してくれるだけでいいんです。優子の目の前に止めてくれれば、私が彼女を車内に引っ張り込みますから!」
――まいったな……。
小宮は無意識の中に頭を掻いた。
亜紀の境遇を考えると、確かに可哀想だし同情をそそられる。できれば友達を助けてあげたいのだが、折角車という貴重品を手に入れ、逃げられる手段を得たのに、また化け物だらけの樹海の真っ只中にいくなんて真似はしたくなかった。今日という日ではなかったのならきっと協力しただろう。だが、今の樹海は普通の世界ではないのだ。亜紀が優子を死なせたくないのと同様に、小宮も自分の命が惜しいし、この死の臭いが溢れる樹海には一秒も居たくはなかった。
――今回は運が悪かったと思って諦めてね。
小宮はアクセルを強く踏むと、車の速度を上げた。
「ん?」
地踏みのような騒音が聞こえた気がしたが、小宮はエンジン音だろうと高をくくるを括り、無視した。
「小宮さん! 何でスピードを上げるんですか!? 引き返して!」
「亜紀ちゃん。私が貴方たちを誤解してたのと同じように、貴方たちも私のことを誤解してるの」
「へ!?」
「私はね、別に樹海に連れ込まれて男に襲われたわけでも、迷い込んだわけでもない。元々大学のキャンプでここにきていたの」
エンジン音なのかよくわからない音がさらに大きくなる。
「何を言ってるの!?」
「信じられないかも知れないけど、この森には――」
雪崩のような足跡が聞こえたと思った瞬間、亜紀はものすごい衝撃を感じた。体が一瞬中に浮かんだのが分かる。
「きゃあああああああ!?」
この衝撃は鹿を轢いてしまったとか、車に衝突されたとか、そういうレベルのものではない。とてつもなく大きく、なおかつ力強いものが当たらなければこれほどのショックは起きないはずだ。激しい揺れが収まらないバンの中、亜紀は急いで後ろを振り返った。そして、すぐにそれを後悔した。
黄色い目に純黒の体毛、まるで恐竜かと一瞬疑うほどの巨体。亜紀の視界一杯を、漆黒の巨大な狼の姿が多い尽くした。
テレッテレッテンテーン、〜ピューポロロ〜ン。
樹海中を見渡せる高地の上で、場違いなほど明るい着メロが鳴り響いた。
「はい、こちらキツネです」
黒服の男――キツネは、胸ポケットにしまっていた携帯電話を取り出すと、面倒くさそうに耳に当てた。
「どうした!? 中々連絡が無いか心配したぞ。一体何をしていたんだ、こんな大事な時に?」
電話の相手はあからさまに不機嫌そうな声で怒鳴ってきた。
「何って、あなた方イミュニティーから請け負った仕事をしていただけですが?」
「嘘をつけ、こっちは樹海中に監視カメラを設置していたんだぞ!? お前がきちんと仕事をしていたのなら、何でどこにも姿が見えなかったんだ!」
キツネの明らかな嘘に男は怒った。
「お前、いくら『あの黒服』だからって調子にのるなよ? こっちは雇い主なんだぞ。今度怪しい真似をしてみろ。二度と仕事の出来ない体にしてやる」
力を誇示するかのように怒鳴りつける相手の言葉に、キツネは溜息をついた。
キツネは黒服内でも一、二をあらそうほどの実力者だ。まだ歳は若いが、高い仕事の成功率、高難易度任務の攻略など、数々の名誉ある戦歴を持っている。
そのキツネを知らないということは、イミュニティー内において格下であることを自ら教えているようなものだと広野は気づいていない。
――はぁ、只の使いっ走りが……僕のことを何も知らないのか。そんなことをすれば、痛い目に遭うのはお前のほうだぞ? まあいい。まだ目的を果たしていないし、今のところはご機嫌を取っておいてやる。
「すみません、今後は気をつけます」
「ふん、信用できない奴め! 通り名がキツネというのも頷ける」
このままではいつまでも愚痴を聞く羽目になりそうなので、キツネは無理やり話題を変えることにした。
「そんなことよりも、また例の巨大な狼が出ましたよ。丁度さっき、車が一台やられました」
「巨大な狼? なんで銀野町付近にいるんだ。あいつは堪銘道路をうろついていたはずだろ?」
「まだ調査中の段階ですが、餌を求めてこちらに来たみたいです。詳しい事情が判明しだい、連絡しますよ。そちらは何か進展がありましたか? 広野さん」
「部下がイグマ感染者の第二形態に遭遇した。最初の感染者が発生してから既に二日目だ、これからどんどん二型が増えて来るだろう。生存者が生き残る可能性はよりいっそう低くなるな」
「計画通りじゃないですか。それで殆どの生存者は死ぬでしょうね。まあ、一部の人間は生き残るかも知れませんが」
「今回の計画ではその一部の者が重要な存在なんだ。この過酷な状況下で生き残れる人材は貴重だからな。出来るだけ多く生き残って欲しいものだ」
「そうですね。僕も気になっている三人組がいますよ。彼らが今後どうなるか、非常に楽しみです」
キツネはクスクスと笑った。
「お前が目をつける人間がいるなんて珍しいな。やはり今回は当たり年だったようだ」
「当たり年ですか、確かにそうかもしれません。では、僕は仕事に戻りますよ。貴方たちからは高橋志郎の捕獲も命令されていますからね」
「高橋博士の捕獲はあくまでついでの仕事だ。お前には率先してやら無くてはならないことがあるだろ」
「ええ、もちろん分かっていますよ。きっとやり遂げて見せます。黒服の面子もかかっていますし」
「期待している」
その言葉を最後に、イミュニティーの調査員、広野大地は電話を切った。
キツネはあざ笑うかのように電話の画面を見つめると、それを再び胸ポケットに収めた。
「高橋志郎の捕獲か。生憎だけど、それは無理だな。彼は別件で必要な人材だ。イミュニティーに渡すよりも、もっと利用価値のある場所がふさわしい」
キツネはそのまま高地から降りようとしたが、女性の悲鳴が聞こえてきたため立ち止まった。
「おっと、忘れるところだった。逃がさないように襲わせたけど、殺してしまうのはつまらないな」
何かの機器ををショルダーバックから取り出すと、キツネはそれを下に広がる樹海へ向けながら、反対側の部位をを自分の口へつける。
『ーーーーーーーーーーーーーーーー』
人間には決して聞き取ることの出来ない音が放射されたのを確認すると、キツネは高地を後にした。
亜紀と小宮の乗ったバンは巨大狼の一撃で横転し、付近の大木にぶつかったところで停止していた。車体からは濛々と白い煙があがり、いつ爆発するかも分からない状態だ。
亜紀は前の座席に頭を強く打ち付けていたものの、何とか意識を保っていた。体は痛みと潰れた車体、さらにシートベルトの所為で全く動かない。
――逃げられない……私こんなことで死ぬの?
薄いビニールの幕が掛かったかのように霞む景色の中、自分たちの命を奪いつつある巨大な黒い犬が見える。その黒犬は車の前で歩みを止めると、車体の窓から亜紀と小宮を満足そうに見つめた。
「グルルゥルル!」
低い唸り声が耳を突き抜ける。耳元でその音を聞いたからか、気を失っていた小宮が目を覚ました。
巨大狼が覗いていた窓は車体前部右側、つまり運転席にいる小宮の丁度真ん前となる。目を開けたと同時に、巨大狼の大きな黄色い目と牙を目の当たりにした小宮は瞬間的に叫んだ。
「きゃあぁあああ!?」
パニックになる小宮。何とかしてこの場から離れようと死に物狂いでもがき出すが、焦りの所為か、何度もシートベルトを開けることに失敗している。
獲物の泣き叫ぶ声を聞いて興奮したのか、巨大狼は激しくバンを揺すりだした。右に、左に、何度も何度も二人は体を強く打ち付ける。シートベルトをしていなかったら窓から飛び出していたかもしれない。
「な、何でこの化け物犬がここにいるのよ!? 最悪――やっぱり銀野町に向かわないであのままあそこで待ってればよかった!」
小宮は自分の運の無さに自然と涙をこぼした。
ガン!
揺さぶる力が強かったのか、車は再び横転し、上下が正常な状態に戻った。衝撃で再び頭をあちらこちらにぶつける二人。普通に購入すれば数百万は下らないであろうバンは、今や見るも無残なほどボコボコの形になっていた。もはや、巨大狼の一咬みで簡単にその中身をさらけ出してしまいそうだ。亜紀と小宮がその黄色い牙の餌食になるまで、そう時間は残されていない。
完全に自分の死を悟った亜紀は、悲壮感に駆られながらその最後を待った。助けられなかった優子への謝罪の言葉から、死後母に会えるかどうかなど様々な思いが走馬灯のように頭を駆け巡る。
巨大狼はその瞬間を味わうかのように、ゆっくりと涎の滴る口を亜紀の前へと運んでいく。
眼前にせまる邪悪な死の使いを瞳の窓に留め、亜紀は一滴の涙を灯したまま、目を瞑った。
「ガルアァァアア!」
次の瞬間、巨大狼の喜んだ声が、亜紀の全身を包み込んだ。
「……え?」
五秒、十秒経っても巨大狼の牙が体を貫くことは無かった。亜紀は恐る恐る目を開く。
見えるのは樹海の静かな大自然だけだ。あの狼の姿は影も形も無い。
「あれ……? あの狼はどこに行ったの?」
散々弄られた車のドアは、軽く蹴っただけで下に落ちた。ちらっと、小宮を見ると、呆然として外を見つめている。彼女も訳が分からないらしかった。
震える全身を両手で守りながら、亜紀はバンの外に出る。
――もしかしたら、どこかに隠れて獲物が車から出てくるのを待っているのかも知れない。
亜紀は周囲を慎重に見渡した。しかし、やはりどこにも巨大狼の姿は見えなかった。
「何がどうなってるの?」
その疑問だけが、亜紀の頭に残った。