<第五章> 新たな参加者達
この小説はこんなゲームがあれば面白そうだ、と考えたことがきっかけで書いたものです。なので小説中には登場しませんが、サポートキャラなども設定のみ存在します。
その人物は通称「田中さん」です。
このおじさんは波平(サザエさんの父)と笑うセールスマンを足して二で割った顔をしており、樹海内のどこにでも出没し、食料と引き換えに武器や道具を売ってくれます。
実はとある企業のトラック運転手であり、洞窟にあったゴミの山は彼が運んだものでした。
<第五章> ” 新たな参加者達 ”
水に石を投げると波紋が広がることは誰でも知っていることだ。今の状況まさにその状態に似ていた。
悟が火をつけると同時に、紅い地獄の舌のような炎が瞬く間に三本腕の怪物を包み込んだ。それは悟が庄平を救出するよりも早かったほどだ。
自分で点けた炎で自滅する前に、何とか庄平を根っこ型触手から離すと、悟は三本腕の下から這い出た。
――庄平に変化は見られない。どうやらあの三本腕の怪物は、十秒感染能力が無いようだな。やはり悪魔とは別の種だったのか。
庄平の充血した顔を見ながら、悟はそう安堵した。
炎の檻の中で暴れ狂う怪物を見て友が感嘆の声をあげる。
「驚いたな、まさかライター一本でここまで火が広がるとは。悪魔でもこれほどの効果はないぞ」
全身に油でも通っていたのだろうか。見事に三本腕は激しい光を放ちながら燃えていた。
「庄平、大丈夫か!?」
悟は庄平がぐったりして動かないため、何度もその体を揺すった。長い間首を絞められていたわけではない。まだ十分に生存の可能性はある筈だと思った。
「起きろ庄平! 起きろよ!」
庄平が死んではいないと思っていても、自然に叫ばずには入られない。
「悟、どいてくれ」
見ていられなくなったのか、友は悟を無理やり庄平から遠ざけると、呼吸と脈を確かめた。
「大丈夫。気を失っているだけだ。心配はない」
悟は友と庄平の顔を交互に見ると息を吐き出した。
「そうか……よかった」
胸を撫で下ろすと、友は爽やかスマイルで話しかけてきた。
「ふふ、お前でも取り乱すことがあるんだな。俺はてっきり冷酷人間かと思っていたんだが」
「誰が冷酷人間だよ。どっちかというと友の方がそう見えるぞ」
「俺が冷酷? 何でだ。俺ほど心の温かい人間はいないぞ?」
友はワザとらしく手を横に広げた。
「さっきだって……」
悟が何かを言う前に鈍い音が洞窟に響いた。すぐに二人が視線を向けると、悪魔三体が近くのゴミの上に飛び乗っていた。
二人とも、この三体が三本腕との戦闘前から自分たちを狙っていたことをすっかり忘れていた。
悟は顔を青ざめながら包丁を構えようとしたが、手にあるはずの刃はどこかに消えている。どうやら三本腕の腹部に刺し込んだままだったらしい。浮世荘から三本の包丁を持ち歩いていた悟には、まだ一本だけ腰に残っていたものの、あくまで予備用の存在としてしか考えていなかった。よって当然包丁は革の鞘や硬い紐で結ばれてしまっており、すぐに使用できる状態ではない。
悟はあたふたしながら友の方を見たが、友も同様に何の武器も持っていなかった。
三体の悪魔は慎重にじりじりと近づいてくる。
悟と友はそれに合わせるかのように、庄平を肩に担ぎつつ後退した。
まだ三本腕は後方で暴れているのだが、弱ったことが分かったのか、悪魔たちはもう三本腕を恐れることなく距離を縮めてくる。
――何か武器になりそうな物は無いか!?
悟は足元のゴミにすばやく目を馳せた。しかし、武器になりそうな物は何一つ無い。
こちらの戦闘力が低いことを感じ取ったのか、悪魔はとうとう三人に襲いかかってきた。
丸腰に加え、意識を失っている庄平を抱えているのだ。戦うどころか逃げることも出来ない。悪魔がその腕を振るえば悟らに避ける術はなかった。
『人間の最大の武器は頭脳である』という言葉は良く聞く言葉だが、『武器』そのものこそも、また最大の武器なのだ。
身体的に劣る人間が銃を持つだけで百獣の王を殺すことができる。ナイフを持つ人間と持たない人間の争いの勝敗は明らかだ。人は頭脳に加え、武器があるからこそここまで数多の生物を淘汰してこれた。
そして今、数倍の筋力を持つ悪魔を前にその人間には何の武器も無い。どう考えても生き残ることは不可能だった。
三体の悪魔はあっさりと悟、友、庄平を押し倒した。
運命と言うのか、奇跡というのか――とにかくこれはこういった言葉でしか表現出来ないことだった。
火達磨と化した三本腕はしばらく洞窟の端で暴れていたのだが、何を思ったのかいきなり悟らに向かって突撃してきた。
さながら米軍の戦艦に攻撃を繰り出す特攻隊のごとく、三本腕はものすごい勢いで迫ってくる。
悟らが恐怖したのはいうまでもない。だがそれ以上に悪魔たちは恐れを抱いたようだった。
自分たちの苦手な火、しかも大量の物に加え、三本腕までがものすごい形相で走ってくるのだ。本能的に彼らは洞窟の入口へと逃げた。
死ぬ気になった三本腕の速度は悪魔たちを凌駕していた。皮肉にも三本腕に目は無い。動かないものよりは動くものに反応するのだ。
「グギュアアァァァアア!」
三本腕はゴミの上に倒れている悟らを無視し、悪魔たちを追って入り口へと突っ込んだ。爆弾が爆発したような轟音が鳴る。
「だぁあああ!?」
あまりの激しい音響に、悟は思わず耳をふさいだ。入り口が粉砕したのだ。
瞬く間に崩れ落ちる洞窟の天井。
一瞬にして辺りは土煙に覆われた。
「生きてるか?」
振動が収まった後、友は隣でゴミと土まみれになって寝ている悟と庄平にこう言った。返事は無いものの、悟が首を上げたので友は勝手に無事だと判断した。
洞窟内の形は大きく変わっていた。
入り口付近の天井はほとんど崩れ落ち、そこに入り口があったことを全く感じさせない。青い空が上から覗いている。
入り口の隙間からわずかに紅い炎が見えるが、微動だにしないので三本腕は死んだらしい。これでは悪魔たちも生きてはいないだろう。
「俺たち、よく死ななかったな」
悟は体を起こしながらそう言った。
樹海内、第三啓新道路。ここは地元の人ですらめったに寄り付かない道だった。別に幽霊が出る訳でも、事故が多発する訳でもない。ただこの先に何もないからだ。散々税金を使って建設していた道路だったのだが、どういう理由か途中で開発中止をされたため、樹海の真っ只中でいきなり道が切れるという現象を起こしていた。たまに間違って入り込んでしまう旅行者もいるが、基本的にここを通る車はない。にも関わらず、今一台のバンがここを走っていた。
車内には男が三人に女が二人いる。彼らは俗に言う集団自殺を計画している者たちだった。ネットで知り合いとなり一緒にこの樹海へと来たのだ。最前列に運転主である鈴木天也と川上龍之介。そしてその後ろに左から順に安形雄三、井出優子、吉田亜紀の三人が座っている。
物静かだが、ただそこに居るだけで周囲に幻想的な雰囲気を感じさせる美少女。それが亜紀だった。今時珍しい黒髪のミドルヘアーに、薄化粧の顔がその雰囲気を一層引き立てている。
鈴木や龍之介、雄三の男三人らは亜紀に会った当初、こんな美人が何でこんなことをと疑問に思っていたのだが、亜紀はこの会合に参加した理由を言おうとはしない。鈴木らもしつこくは聞かなかった。
「……はぁ」
亜紀は小さく溜息をついた。
他の人間はどうだか分からないが、亜紀はここに来たことを後悔していた。
――私何でこんなことしてんだろう。
亜紀の両親は浮気の問題で争った末、他界している。父の浮気に怒りを覚えた母が、勢いで父を殴ってしまったのだ。こういえば誤解を呼ぶかも知れないが、母のパンチがヘビー級ボクサーの威力を持っていたわけではない。ただ殴った場所が悪かった。
二人が争っていた場所は階段だった。父は母に殴られると同時にそのまま一回へと転げ落ち、頭を強打して死んだ。
勝手に浮気をしてすぐに死んでしまった父はある意味幸せだっただろう。一番不幸だったのは亜紀の母だ。
浮気をされた被害者だったのに、ケンカをした場所が悪かっただけで人殺しにされてしまった。
元々気のやさしい亜紀の母は事故後すぐに自首し、冷たい牢獄へ入ることとなった。
だが、お嬢様育ちの母がそんな生活に長く耐えられるわけもない。牢獄内の収容者同士の苛めや力関係、さらには不潔な収容所の環境により、入所してからあまり月日を経ず病気になってしまった。
入所した収容所が悪かったのは言うまでもないことだが、亜紀の母は他の収容所へ移ることは無かった。亜紀はそのことについて何度も聞いたことがある。
「お母さん。何でここに居たいの? もっとしっかりした収容所に移れるのに」
この質問に母が答えることは無かった。いつも無言で力無く微笑むだけだ。その笑顔は今でも亜紀の瞼の裏に焼きついている。亜紀がその理由を知ったのは母の死後何日か経ってからだ。
「え……?」
母と同房だった向井さんの話に思わず聞き返す亜紀。
「だからね、亜紀ちゃん。あんたの母さんはあんたのために死んだんだよ」
「私のため? 何言ってるんですか! 何で私のためにお母さんが!?」
「小百合はここに居る間いつもあんたのことばかり話していた。私たち夫婦のせいで辛い過去を背負わせてしっまったってね」
向井さんは悲しそうな表情をしながら上を向いた。
「あんたの馬鹿オヤジは小百合に莫大な保険金をかけてたのさ。それを知っていたから、小百合はあんたのために死を選んだ」
「そんな……」
「両親がいなくなってあんたは一人ぼっちだろ? 小百合は孤児だったらしいし、馬鹿オヤジの両親が自分の一人息子を殺した女の子供を養うわけもない」
確かに今の亜紀に行くところは無かった。父の両親は母が牢獄に入ったと同時に亜紀たちと縁を切った。
頼れる人間もおらず、亜紀は高校三年で優秀な大学に推薦合格が決まっていたものの、それを辞退しざる負えなかった。
それから現在まで、亜紀はフリーターとして自分の生活を何とか維持していた。母が命と引き換えに残したお金には一切手をつけてはいない。使う気も起きなかった。使えば母とは本当にお別れになってしまうから。
「ふぅ――」
溜息をつきながら亜紀はバンの外を眺める。流れ行く景色に視線を合わせ、この集団自殺に参加することを決めた時のことを思い出す。
亜紀が勤めているフード店では自由に使用できるパソコンが有った。自分の労働時間を終了させた後、亜紀はそのパソコンで自殺サイトを見つけた。
別に死にたくなったわけではない。ただの偶然リンク先がそこだっただけだ。亜紀は確かにに生きることに苦労していたが、自殺を考えるほど弱い人間じゃない。
最初は何となくそのサイトを眺めていた亜紀だったが、自分と同じように悩みを抱える人たちの話を聞けてそのサイトをちょくちょく見るようになった。
自殺サイトといっても、別に「みんなで死んでやろう」と高らかに意思表示しているものではない。悩みを持つ人の書き込みを見て、他の人がそれの解決策をアドバイスしたり、慰めたりするだけのものだ。
だがある日、亜紀がそこにアクセスすると、これまで他人を慰めることが多かった花子さんが自殺をすると言い出したのだ。花子さんがこんなことを言うなんて考えられなかった。何故ならば花子さんは、亜紀と同じくフード店で働いている井出優子だったのから。
亜紀がこのサイトを見始めると同時期に、つられて優子も見る様になっていた。サイトに参加させる原因を作った亜紀は、責任を感じて必死に優子を引きとめようとしたが、彼女は全く聞く耳を持たなかった。そしてとうとうこの樹海まで来てしまったのだ。
亜紀は優子を止めるためにやって来たのだが、何を勘違いしたのか集合した人間たちからは自分もこの会合に参加した人間だと思われている。
だから現在彼女は悩んでいた。今更違うとも言えないし、このまま黙っていたら自分まで殺されてしまう。
「ど、どうしよう……!」
あまり気の強い方でもない亜紀は、この現状に非常に困惑していた。
連門大学二年で一番の才色兼備。そう言われていたのが懐かしい。今の姿を見れば決して誰もその言葉を口に出さないだろう。
小宮は木の影に怯えながら隠れ、自分の姿を見ていた。
走り回ったおかげか泥や草で汚れた服、涙で崩れきった化粧。例え彼氏や友人でも自分が誰か判らないだろうと思った。
「もう、行ったかな?」
恐る恐る木から顔を出し、反対側を覗く。その向こうに何もいないことが確認できると、小宮は音を立てないように抜き足差し足で木の影から出た。
「さっきのは何だったの? 普通の悪魔とは少し違っていたけど……」
これまで何度も悪魔をやり過ごしてきた小宮だったが、つい先ほどやり過ごした相手は見たことが無かった。
「人間の形が残っていたから悪魔の一種だと思うけど、あれじゃまるで――……」
小宮がその先を考える前に、近くに車のエンジン音が聞こえた。
「車!?」
小宮は一瞬、何故車がこんな富山の果てまできたのか不思議に思ったものの、すぐに考えるのを止め音の方へ走った。
「あぶねえぇえ!?」
急に前方に女性が飛び出してきたため、バンの運転手、鈴木はハンドルを強く切った。キキーッと高い音を鳴り響かせながら、回転する車体。
亜紀はその勢いで前のシートに頭をぶつけた。
「い、痛いっ!? な、何!?」
土煙を上げながらようやく停車したバンの窓から外を見ると、ぼろぼろのカッコをした女性が道路の真ん中に仁王立ちしているのが見えた。
「何あの人……ま、まさか……幽霊とかじゃないよね? 私はまだ迎えなんか要らないんだけど……!?」
亜紀が一人で意味不明なことを考えていると、運転手の鈴木と助手席に居た川上が車から降り、その女性に近づいていく。
「あの、大丈夫ですか!?」
鈴木は女性の酷い格好を見てそう言った。
「助けてください!」
「はい?」
女性の第一声を鈴木は理解できず、怪訝そうな表情を浮かべた。
「私、怪しい男に追われているんです。お願いします! 乗せてください」
その言葉に鈴木は困った。自分たちはこれから死のうとしている集団なのだ。この女性を助ければ一度町まで引き返す必要がある。助けを求める若い女性を放っておくことなんて、他の搭乗者の手前できるわけがないのだが、近い町からここまで車で二時間もかけて来たのに、今更引き返すなんて言ったら、逆に他の搭乗者は納得しないだろう。
「ちょ、ちょっと待ってください。皆に聞いてきます」
鈴木が黙っているので川上が代わりに答えた。
微妙な表情をしながらこちらに戻ってくる鈴木と川上を亜紀が怪訝な顔で見ていると、隣に座っていた優子が話しかけてきた。
「亜紀、何かあったみたいじゃん? 鈴木さん変な顔してんだけど」
「うん、何だろうね。あの女の子に何か言われたのかな?」
鈴木が車に近づくと、すぐに亜紀と優子の間に座っていた安形が二人に事情を聞いた。いかにも肉体派といった短髪の髪を風になびかせ、そちらを向く。
「鈴木、どうしたんだ。あの子は何なんだよ?」
「なんか、追われてんだと」
「は?」
「だから、怪しい男に追われてんだって! あの格好を見れば分かるだろ!」
亜紀が視線を小宮に戻すと、確かに何者かに襲われたような姿をしている。服装からいかに悲惨な目にあったのかが理解できた。
「かわいそうに……」
優子は何か共感できるものがあるのか、目に涙を溜めて呟いた。
「鈴木さん。困っているみたいだし、助けてあげようよ!」
亜紀は本当に優子を助けたいという気持ちも有ったが、町に戻りたくてそう言った。
だが、亜紀の願いも虚しく、鈴木たちは予想外のことを言い出した。
「じゃあさ、俺たちと一緒に行動してもらってさ。俺たちが死んだ後にこの車で帰ってもらえばいいんじゃね?」
「え?」
川上の提案に亜紀は驚いた。
いくらなんでも、その行動はあの女性に悪いのではないか、大体それでは自分も死んでしまうことになる。
亜紀は心の中で必死に叫んだものの、それが川上らに聞こえるわけも無く、鈴木はいい案じゃないか! と言わんばかりの顔で頷いた。安形は渋い顔をしながら黙っている。快くは思ってないのだろうが、反対はしないらしい。
――このままでは死んじゃう! 土壇場になって私死にたくありませんなんて言葉を聞いてもらえるわけがない。
亜紀が生き残るチャンスは今を逃して他に無かった。
「す、鈴木君。それはちょっとあの子に悪いんじゃない? ただでさえ酷い目に遭ったみたいなのに、これ以上心に傷を残すような真似はしない方がいいよ」
亜紀は必死に訴えた。
だが鈴木は、一瞬迷った素振りを見せたものの、すぐに気を取り戻した。
「駄目だよ、吉田さん。俺たちは遊びでこの計画をしているわけじゃないんだ。予定は絶対に変えるわけにはいかないさ」
――くそ〜この馬鹿ロン毛野郎〜!
亜紀は心の中で泣いた。
「そうだよ、亜紀。わがまま言わないの!」
まるで亜紀が一人だけ空気の読めない子供であるかのように叱り付ける優子。この言葉に亜紀は怒りを覚えた。
そもそも亜紀がここにいるのは優子の無事を思ってのことだ。それなのに、優子はまるで亜紀が一緒に死を迎えるのが当たり前であるかのように振舞っている。バンに乗ったときも、たった今も、優子は亜紀を助けようとはしなかった。亜紀は優子を睨んでみたものの、気づいているのか、気づかない振りをしているのか、優子は終始無反応を通していた。
いつまで経っても返事をしてくれない集団に痺れを切らしたのか、小宮はバンに歩みよった。
「あの、すいません。出来れば急いで欲しいんですけど。私追われてるんで」
「あ、すいません。こっちで話し合ったんですけど、いいですよ。乗ってください」
鈴木は作ったと人目で分かる笑顔を見せ、そう言った。
こんなか弱い女の子が助けを求めているのに、一体何を話し合っていたの? と言わんばかりの視線で鈴木を見ながら、小宮はバンに乗った。
丁度向かい側に座った小宮は、亜紀が何故か必死な形相で自分を見ていることに気づき、不思議がった。
自分が誰なのか、ここがどこなのか、今何をしているのか、彼にはわからなかった。彼は昨日の昼間まではその内容を覚えていたのだが、人間で無くなった現在、その記憶は完全に消えている。今の彼の頭を支配しているのはほんのわずかな思いだけだった。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
痛い。
痛い。
痛い。
憎い。
憎い。
憎い。
考えを生み出す現況は、彼の体内にある。
彼の体内では小さな魔物が暴れ周り、その身体の半分以上を支配下に置いていた。もはや彼の体は自分のものというよりは、その魔物のものといった方が適切のように思えた。
「ギュアアァァア!」
木の影に顔を近づけると、彼は突然喜びの声を上げた。どうやら先ほど逃したばかりの獲物の臭いを感知したらしい。すぐに彼はその臭いの主めがけ、一目散に駆け出した。
獲物を食している間だけは体内の苦しみから解放される。
彼は例え相手がどこまで逃げようとも、この獲物を逃がす気は無かった。
奇妙なプレッシャーに耐えられなくなったのか、小宮はいつまでも自分を凝視しつづける相手に挨拶した。
「……はじめまして、小宮楓です」
「あ、吉田亜紀……です」
亜紀は顔を赤くしながら答えた。
どうやら生き残るためにはこの女性に助けてもらうしかないと考えるあまり、無意識のうちに見つめてしまっていたらしい。
「亜紀さんたちはどこに向かってるんです?」
「え? え~と……」
亜紀はこの質問に返事をすることが出来なかった。
死にに行くなどと言えるわけも無く、また丁度いい嘘も見つからない。自然と見つめ続けながら無言を貫く形になってしまう。傍からみれば結構不気味な姿だ。
「あの、亜紀さん?」
奇妙な行動をし続ける亜紀に小宮は怪訝な表情で聞いた。
「は、はい。何ですか?」
「……大丈夫ですか?」
「ま、まだ大丈夫です」
言った後で、これではこの先大丈夫じゃなくなるみたいだと亜紀は苦笑いした。