<第二章>10秒感染
<第二章> ” 10秒感染 ”
二人は上手く化け物たちの目を逃れ、無事に浮世壮の建物から出ていた。これは悟の感覚が大いに役立ったおかげだということを、庄平は知らない。
扉は教授たちが卓真を浮世荘に入れないように封鎖していたため、脱出口となったのは一階の男子トイレの窓だ。
外に出た二人はまず車を探しに浮世荘の裏にある駐車場に向かった。駐車場と言ってもただの土だらけの空き地みたいなもので、ほとんど整備がされておらず雑草が無数に生い茂っている。
バスは送り向かいだけだから今ここには無い。教授や院生が搭乗して来た車が数台あったはずだが、どうやら先に脱出できた者たちに持っていかれてしまったようだ。これでは歩いて樹海を抜けるしかない。悟と庄平はあからさまに落胆した。
「マジかよ、歩いて行くなんて……一体何時間かかるんだ?」
庄平はさっそく愚痴をたれる。
「行くしか無いだろ。もうこうなったら」
実は悟は一番近い村まで三十キロメートル以上あることを、事前に教授から聞いて知っていたが、それを言えば庄平がやる気を無くすと考え、敢えて言わないことにしていた。事実を告げたときの庄平の顔を想像し、悟は場違いだと思いながらも小さく笑う。
「何笑ってんだよ」
庄平は不思議そうに聞いた。
「何でもない」
悟はすぐにまじめな表情をつくる。庄平はなんだか納得がいかないといった顔で悟を見ていた。
その時ふと、悟の背筋に悪寒が走った。
危険が迫っているらしい。どんどん冷たい感覚が大きくなっていく。
「庄平、化け物が追っかけてきたみたいだ。早く行こう」
先ほどから何度も自分の指示は的を得ている。それがわかっているからか、庄平は黙って従った。
樹海の木々を流れ抜けるようにして、一台の車が細い道路を走っていた。
その車内には連門大学三年の国鳥友と、他に三人の人間が座っている。一年のマドンナ、佐々木舞と中年警備員の加納誠也、二年の小宮楓だ。三人は浮世壮から脱出することが出来た数少ない人間だった。
化け物の進入にいち早く気づいた友は、殺戮が行われる前に既にロビーを飛び出していたため、無事に生き延びていた。その姿を見て直感的に生命の危機を感じたのだ。
佐々木とは近かった女子トイレの窓から逃げようとしたときに合流した。
ロビーで付近にいた佐々木は友が走り出したのに釣られて一緒に逃げてきたのか、僅かだけ離れて後ろを走っていたようだ。
元々トイレで手を洗っていた小宮は当初男である友の突然のトイレ侵入に驚いていた。どうやら化け物たちの侵入を知らなかったらしい。だから小宮は唯一奴らの姿を見ていない。ただおぞましい叫び声と悲鳴を耳にし、二人に従っただけだ。正直まだ化け物の存在も半信半疑のようだった。
ロビーにいなかった加納が化け物を見たのは今三人が乗っている車内からだったそうだ。加納は電話が使えなかったため教授たちの依頼で裏口から直接警察を呼びに行こうとしていた。そして化け物を目撃し、今見たものは幻だろうかと考えていると友らが走って来たとのことだった。
「もっとスピード出ないの!?」
「これが精一杯だよ。お姉さん、山道は高速道路じゃないんだ。速度を出しすぎれば簡単にあの世行きだぞ!」
先ほどからパニックを起こしている佐々木は加納の言葉がまったく聞こえていないらしく、栗色の長いウェーブの掛かった髪を振り回し、二重の目を見開いてもう何度もこのようなやり取りを繰り返していた。
小宮は佐々木の動揺ぶりを見て呆れている。
「ちょっと、佐々木さん! これ以上スピードは出せないって言ってるでしょ。駄々捏ねないで」
化け物の醜悪な姿を見ていない小宮は、冷静な調子でそう言った。勢い良く振り向いた為に左の長いアシンメトリーの前髪が揺れ、下睫の長い目が僅かに見える。
「早く逃げないとあいつらが追いついてくるのよ! 落ち着けるわけ無いじゃん!!」
「車に追いつける訳ないでしょ。大丈夫だからほら、少し深呼吸して」
佐々木は心配そうに車の後ろを振り返った後、ゆっくり息を吸った。
友は窓の外へ目を向けた。窓に反射して自分の疲れた顔が見えた。
――あの化け物たちはなんだったんだ? 人間……には見えなかったが。
思い出されるのは灰色くそまった肌と真っ赤な目。逃げ惑う面々を次々に切り裂き、砕くあの姿はどう考えても異質な存在だった。あれの存在を肯定する理由がまったく浮かばない。
しばらくそうしている間に、かなり深刻そうな表情を浮かべていたらしい。こちらの雰囲気が伝染したのか、いつの間にか車内は先ほどとは打って変わって静まり返っていた。重いエンジンの音だけが耳を通り抜ける。
そのまましばらく車を走らせていると、運転していた加納が数十メートル先に火煙が上がっている光景を発見した。後部座席の友もそれに気づき、車内に入って初めての言葉を吐いた。
「事故か。確か俺達より先に別の車で逃げた奴らがいたな、あいつ等かも知れない」
近づくと友の予想通り火煙は一台の車から上がっていた。だが、どう見ても事故とは思えない壊れ方をしている。
ボンネットにはまるで巨大な鋭爪で切り裂いたかのような深く大きい穴が開いており、車体も元の三分の一ほどの大きさに押しつぶされていた。それだけでも十分異常な光景だったが、極めつけは車の周囲に飛散している大量の肉片と血だった。
「おいおい、勘弁してくれ。化け物の次は恐竜でもいるってっか」
加納はその壮絶な状況を見て苦笑いした。
佐々木と小宮の女の子二人は、さっきまでのような口喧嘩の気力はどこへやら、無言で火煙を見つめている。
「あれは何だ?」
友は道路の右の方に何かの動物の足跡を発見した。全長一メートル以上はありそうなその足跡は、樹海の方へと続いている。
前の車とはそれ程離れてはいなかった。恐らくこの生き物が何であれまだそれ程遠くには行っていないはずだ。友はこのままここに居ることを危険だと感じた。
すぐに離れた方がいいと。
「警備員さん。早く行きましょう」
友と同じことを考えていたのか、加納は無言でうなずくとすぐに車を発進させようとした。だが、突然道路の先に巨大な黒い物体が立ちふさがった。
それは犬だった。
いや、正確には二歩足で立っているし、尾は無数の棘が突き出ており、両の手も四足歩行動物の手というよりは人間の手に近い形をしていたので犬とはかけ離れた姿をしていたが、他に表現のし様がなかった。敢えて呼び名を付けるとしたら狼人間だろうか。八メートルはあろうかという巨体を考慮すれば、巨狼と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
「な、何よあれ!?」
「きゃあああああぁぁあああ!」
「早く引き返せ! 殺される」
佐々木、小宮、友が同時に叫ぶ。
巨狼は町へ行く道をふさいでいる。もはや先へ進むのは不可能だ。
友が敬語を使わず叫んだことを気にする余裕もなく、加納は必死に車を反転させると、アクセルを力いっぱい踏みつけた。
食後で満腹だったのか、巨狼は追ってこない。再び地獄の浮世壮がある方向へと戻るはめになり、四人は絶望した。
時刻は午後三時になっている。
朝から何も食べていない悟は、先ほどから自分のお腹が悲鳴を上げている音を聞き、一端休憩をとることにした。歩き続けて疲れたのだろう。庄平も反対はしなかった。
メニューはカンパンにミネラルウォーターといった質素極まりないものだ。まだ二十歳前の二人には物足りなかったが、食料温存のためには仕方が無い。二人は化け物や肉食動物などに襲われないように、道路からそれほど離れていない位置にある樹海内の木の上で食事をとった。
「あとどれくらいあるんだろうな」
庄平は本日三度目となるセリフを繰り返した。
――三時間以上歩き続けたおかげでだいぶ進んだから、恐らくあと十六キロといったところか。十分な成果だけど、庄平に言えばマイナスに働くだろうな。
悟は誤魔化すことにした。
「だいぶ歩いたから、もうかなり近いはずだ。あと少し位じゃない?」
「あと少しか、このまま悪魔に会わないで行けたらいいんだけどな」
『悪魔』とは、あの化け物たちの呼び名だ。見た目がどうみても悪魔そのものだったので、庄平がそう呼び始め、悟も自然とそれを呼称として使っていた。
「浮世荘からは大分離れたし大丈夫だろ。もうあんな目にあうことなんてないさ」
「そうだな」
庄平は安心したようにぎこちなく笑った。
「鈴野や他の奴ら、大丈夫かな。あの時よく見ていなっかったけどロビーには居ないみたいだったし」
悟は歩いている間に何度も考えていた疑問を口に出した。ずっとそのことが気になっていたのだ。
「鈴野は飯島の部屋に遊びに行ってたみたいだから、上手く逃げれたと思うぜ。ほら、飯島の部屋ってロビーから遠いじゃん」
飯島と言うのは鈴野の彼女だ。高校二年のころに鈴野が告白してからずっと交際を続けているらしい。悟はよく知らないが、聞いた話だと今時珍しいドラマのような大恋愛の結果に結ばれたそうだ。
「あいつが死んでたら、俺、ちょっと立ち直れないかも」
悟は悲しそうに言った。
「ああ、俺もだ」
庄平も共感するように頷く。
生きてて欲しかった。
また三人でふざけあいたかった。
ここから逃げれたら彼女の飯島さんを紹介してくれるだろうか。確か、割と近い大学に通っていたはずだ。嬉しそうに自慢する鈴野の顔が簡単に想像できた。
悟が感慨げにふけっていると、遠くの方から車の音が聞こえてきた。
「車だ! やった、助かるじゃん」
庄平は天の助けを見たかのような表情で木から降りると、道路の方へと飛び出した。
「庄平、ちょっ、待てって」
やや遅れて悟も続く。
車の搭乗者は二人を目視すると、数メートル前で車を停止させた。
「あれ、悟くんか! よかった。君も無事だったみたいだな」
「友先輩――……!」
つい昨日顔を合わせたはずだが、何故か懐かしく感じる。自分たち以外の生存者と合流することができ、悟はほっと胸を撫で下ろした。
「あ、佐々木さん! よかった。大丈夫だった?」
庄平は目ざとく後部座席の佐々木を見つけ駆け寄った。
「大井田くん。ありがと、大丈夫だよ」
再開した直後は青白い顔をしていた佐々木も、知り合いに会えて少し安心できたのだろう。いつもの調子を取り戻したように微笑んだ。
「ねえ、あんた達ここまで歩いて来たの?」
泥だらけの二人を見て、小宮が呆れたように言った。
「ええまあ、車がなかったもんですから」
悟は溜息混じりに疲れた声で答えた。
「それより、先輩達は何で引き返して来たんですか? せっかく車に乗ってたのに」
悟の疑問をもっともだと思ったのか、友はすぐにそれに答えた。
「それがな、この先に尋常じゃない大きさの犬が居たんだ。八メートルくらいはあったな、あれは。そいつが道路を塞いでいて通れなかった」
「犬?」
「そ、それも超ヤバイのがね。私たちの先に逃げた人はみんな食べられちゃったみたい。そこら中に血が飛んでたんだから……」
小宮が友の言葉を補足する。それを聞いて興味を持ったらしい庄平も会話に加わわった。
「浮世荘の悪魔みたいな奴とはまた違うんすか?」
「ああ、また別の存在みたいだったな。特徴が微妙に違う。浮世荘の奴が黒っぽい灰色の皮膚に血走った赤い目なのに対し、あの巨狼は真っ黒な皮と毛に黄色の目だった」
まるで今見たばかりであるかのようにスラスラと特徴を言う友に、その場の全員が感心した。あの切羽詰った状況でそこまで相手を冷静に観察できる人間はそうは居ないだろう。
友や悟のように常に冷静な態度は一般生活ではあまり好まれないが、こういった状況では大いに役に立つらしい。截は何となく彼に共感を覚えた。
「なあ、学生の諸君。どうでもいいが、車から降りないか。もうガソリンもほとんど残っていないことだし」
さっきから黙っていた加納という男がぶっきらぼうに声をかけた。
「そうね、私もこんな狭いとこ早く出たかったんだ」
佐々木がさっさと車から降りる。加納がせかすように車から追い出すので、友も小宮もすぐに佐々木に続いた。
「さて、これからどうする?」
加納は困ったように言った。
ガソリンが無いので車はこれ以上走ることができず、歩いても道路のどちらの方角にも化け物がいる。まさにお手上げと言った状態だ。
友と悟は車のトランクの中を調べ始めた。何か使える物があるかもしれないと思ったからだ。だが期待に反して出てきたのはライター二個にガムテープが一つだけだった。
「はあ、一体何の役に立つんだか」
悟はがっかりしたが、友はそれをよそにそれらの物を携帯するとトランクを閉じた。取り合えず取っておくつもりらしい。
「確かこの近くに川がなかったっけ? あたし去年息抜きに一部の教授達とそこに行ったんだど……川に沿って下れば道路を通らなくても人里にいけるかもよ」
小宮は思い出したように言った。
「川か、いい案かもな。確かに前に地図でその先に銀野町と言う名の町を見た記憶がある。隣の町よりは少し遠いが、俺は賛成だ」
普通、用もない場所の地図なんて見ないだろう。悟は友の用意周到さに苦笑いしながらも、その案に乗った。
「僕もそれでいいですよ。他にどうしようも無いみたいだし」
悟は普段は「俺」の一人称を使っているのだが、このように目上の人間に対する時は例え親しい仲になっても「僕」と言うようにしている。幼いころに父にそう仕付けられたのだ。今では特に意識せずとも自然にその二つを使い分けている。
「ええ、マジかよ〜どんだけ歩くんだ!?」
庄平の虚しい叫びがしばらく樹海に囲まれた道路に木霊した。
――同時刻。浮世荘。
たった今殺したばかりの最後の学生の死体を壁に投げつけ、『悪魔』の一体が高らかに吼えた。犠牲者の数は三十をゆうに超え、そこら中の壁や床は夥しい量の血液で多い尽くされていた。
いつの間にか十数体にも増殖した悪魔たちは、もはや生きている者がこの建物の中にいないと悟ると、新たな獲物を求めて樹海中に広がっていった。
自らの尽きることの無い欲望と飢えを満たすために。
生きている者の体に自分の牙を突き立てるために。
そして自身の体内を蠢く存在のその本能が命ずるままに。
悟、友、庄平、小宮、佐々木、加納の六人は、道路からしばらく進んだ所ですぐに川を見つけた。
川と言ってもそれほど幅が広いわけでも底が深い訳でもなく、歩いて渡れそうな大きさだ。ちょうど子供用プールぐらいだろうか。周囲は川の真横からすぐに樹木が生い茂っているため、見渡しは悪い。樹海の森中とほとんど変わらない状態だ。川の中を見ると小魚が泳いでいるのが分かった。同じ樹海という地獄の中にいるはずなのに、自分たちとは打って変って元気に泳ぎまわっている。悟はその様子が少し羨ましく感じた。
ただ黙々と進むのに飽きたのか、庄平は堪えきれずに口を開いた。
「なあ悟、俺思ったんだけどさ。浮世壮で悪魔が増えてただろ。あれってみんな知った顔だったじゃん。もしかしたら、吸血鬼みたいに噛まれるとあいつ等の仲間入りしちまうんじゃねえか?」
「……その可能性はあるかもな」
というより、ほぼそうだろう。截は悪魔化していた三人の顔を思いだし、重い声で答えた。
「ねえ、増えてたってどういうこと?」
卓真の悪魔しか見ていなかった佐々木が、不思議そうに尋ねた。
「あ、実は……」
「そっか、佐々木さんは見て無いんだったか。俺達がロビーに行ったとき、悪魔が三匹になってたんだよ。それも卓真のように学生の人間がなったみたいだった」
悟が答えようとするのを遮り、庄平は笑顔で説明した。どうやら佐々木のことが好きらしい。栗色の長いウエーブの掛かった髪に、あのくりっとした二重の目だ。一般的な男子学生ならば好きにならない方がおかしいだろう。何かと佐々木と会話を取り付けようとしているのがあからさまに窺がえた。
「え〜何それ、超怖いんだけど〜」
ワザとらしく佐々木が反応する。
悟は庄平のために足を遅らせて二人から離れた。自然に友の隣に付く形となる。佐々木はチラッとこっちを見て何か言いたげにしていたが、庄平に話を振られたので会話に戻った。
悟が視線を感じ横を向くと、友がこっちを見ていた。
「なあ、悟。今の話本当か?」
あ、もう「君」は付けないのか、などとどうでもいいことを考えながら悟は答える。
「聞いてたんですか。本当ですよ。俺も見ましたから」
「そうか……」
悪魔増殖の原因でも思いついたのだろうか、友は何かを考え込むような素振りをした。
悟が思案を邪魔しないように黙っていると、友は突然こっちが意図していなかった提案をしてきた。
「悟、こんな状態なんだ。敬語は使わなくていい。俺のことも友か、国鳥って呼んでくれ」
「え、何でですか?」
「敬語を使うときより使わない方が親近感がわくし、何より言葉を発する時間を短縮できる。いつ化け物に襲われるかわからないんだ。言葉はできるだけ短い方がいい」
――そんな細かいことまで気にするのか。
悟は半分呆れながらも、友の言う通りにすることにした。
「分かった。じゃあ、これからは友って呼ぶ」
敬語の癖が染み付いている悟は、多少の抵抗感を我慢しながらもなんとかそう言う。友は満足そうにこっちを見た。
その時、いきなり悟の感覚が危険を知らせた。ぞっとするような寒気が背中を駆け上る。
――……何だこれ? まさか……!
悟はすぐに周囲に目を走らせた。案の定、予知したとおり後方三十メートル後ろの木の前に灰色の人間が見えた。向こうはすでにこっちに気づいているらしい。凄まじい形相で迫ってくる。『悪魔』だ。
「――っ逃げろおおお!」
悟は全力で叫んだ。
「え、何だ!?」
「うわっぁ!」
事態を察した他の人間は慌てて駆け出す。
「くそ、向こうからやってくるとは!」
加納は警備員とはいえ五十を過ぎた中年だ。他の若い学生達に比べると足の速さも体力もだいぶ劣る。最初は先頭近くを走っていたのに、すぐに最後尾となってしまった。
悪魔は加納が一番遅いことを理解したらしく、彼に狙いを定めた。二人の距離はもうほとんど無い。
「加納さん!」
比較的加納に近い距離にいた小宮が叫んだ。
悪魔は加納に圧し掛かると、その汚い歯を彼の首元へすばやく移動させる。だが加納も負けておらず、支給されている警備員用の警棒で必死に抵抗した。
悪魔にはほとんどダメージがないようだが、噛み付くのを遠ざけるくらいの効果はあったようだ。加納はまだ奇跡的にその命を守っていた。
悟と庄平は加納を助けるために浮世壮の調理室で手に入れた包丁を構えると、悪魔に向かって死ぬ気で駆け出した。
――俺には『脅威』が感覚でわかる。気をつければ……!
襲われてから十秒ほどたった頃だろうか、二人に気づいた悪魔は加納から飛び跳ねるように離れ、茶色い土の上に着地した。悟は悪魔の血走った大きな目を睨み付けた。まるで本当の悪魔のようにしか見えないその冷酷な瞳を見ていると、悟の全身は自然に震えてくる。
恐怖で腕に力が入らない。足がすくむ。
――怖い、怖い、怖い……!
強い恐怖の感情が頭の中を満たしていたが、それでもなお悟は冷静さを保っていた。
自分の体の状態をよそに、無意識のうちに悪魔を分析する。悪魔はその外見こそ化け物だが、基本的な身体構造は人間と変わらない。攻撃は爪か歯でしかできないようだ。
――落ち着け、冷静になるんだ。まだ恋人すらいないのにこんなところで死んでたまるか!
はやる気持ちを必死に抑え、悪魔の瞳を見続ける。
悟はタイミングを待った。悪魔が自分めがけて飛び出すタイミングを。
「クギャアアアアアア!!」
悪魔は雄たけびを上げると、爪を振り下ろしてきた。しかしその爪が相手に当たることは無かった。
悟は普通の人とは違う。第六感というアイデンティティが生まれつき備わっているのだ。いつ悪魔が飛び出し、どこに爪を振りし、どのように自分を殺そうとするのか、その全てを事前に感覚で知ることができる。まさに圧倒的な反応速度の優位性を持っている。
――くたばれええぇぇえええ!
転がるように悪魔の後ろに回ると、悟は右手に持った包丁を思いっきりその背中に振り下ろした。
「ガアァァアァ!?」
悪魔はそんな姿になっても痛みを感じるのか、叫び声を上げた。フォークで肉を刺すときの数倍の嫌な感職が悟の手に伝わる。
包丁を抜いて離れると、人間では考えられないほどの赤黒い色の血が悪魔の背から噴き出す。悪魔は痛みにもだえながらも、その視線を今度は近くの庄平に向けた。
庄平は加納を助けようと駆け寄ったものの、恐怖で腰を抜かし動けなくなっていた。悪魔が自分を狙っていることに気がつくと、その恐怖を倍増させさらに動きを鈍くする。彼の頭は今や頭の中は何も考えられなくなっているようだった。完全に思考停止状態だ。
悟は庄平を助けようとしたが、どう考えても間に合いそうにはなかった。
「庄平、逃げろ!」
悟の悲痛な叫び声も庄平には聞こえていないようだ。ただ目を見開いて不自然に固まった表情のまま悪魔を見ている。
悪魔は庄平を土の上に組み敷くと、いっきに歯を立てた。
その時、悪魔の灰色の醜い頭に突然何かが強打した。悪魔は転げるように庄平の体から落ちる。
「早く離れろ!」
大きな石を抱え、友が叫ぶ。庄平は我を取り戻したように彼を見上げた。
「ハンマー代わりだ。拳で殴るよりは効果があるだろう」
相変わらず爽やかな笑顔でニッと微笑む友。截は彼のファインプレーに感謝した。
人間ならば絶対に即死しているはずの攻撃を受け、いくら頑丈な悪魔でもその動きを鈍めた。心なしかさっきよりも立ち上がるのが遅い。悟はその隙を逃さなかった。
庄平を助けるためにダッシュした勢いのまま、起き上がろうとしている悪魔に再び包丁を突き刺す。それも、両手に一本ずつという念の入用でだ。
頭蓋骨に風穴を開けられた悪魔はさすがにその場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、やった……倒した」
さすがにもう死んだだろう。悟は両手に包丁をもったまま座り込むと、まだピクピクと痙攣しているその死体を見つめた。友と庄平もためていた息を吐き出し、安心した表情を作る。
だが、悪夢はまだ続いていた。
「いやぁぁぁああ!」
三人から少し離れた所から佐々木の悲鳴が聞こえてきた。
悟がすぐにそちらを向くと、灰色の皮膚に血走った大きな赤い目、悪魔と化した加納が佐々木と小宮に襲いかかっている所だった。
「加納さん!? 何で!?」
悟は訳が分からなかった。
別に加納は噛み付かれたわけでも、悪魔の血が傷口から進入したわけでもない。ただ、地面に押し付けられていただけだ。一体なぜ加納が悪魔になっているのかさっぱり理解できない。
だが考えている時間はなかった。
今はとにかく佐々木と小宮先輩を助ける必要がある。悟はまだ動悸が激しい体を無理やり動かし、二人の元へ向かった。一番先にたどり着いたのは友だ。友は持っていた大きな石を加納に投げつけた。「ドボッ!」っと鈍い音と共に、石は加納の腕に直撃する。その隙に佐々木と小宮は加納から遠ざかった。
「庄平、包丁を一本よこせ!」
友は後ろに居た庄平から包丁を受け取ると、躊躇無く加納に斬りつけた。しかし、加納はそれを素早くかわすと友に体当たりを食らわした。
「うわっ!」
思いっきり後ろに吹き飛ばされた友を悟が受け止める。別に勢いを殺そうとしたわけではない。直線上に後ろに居たため巻き込まれたのだ。
縺れるように二人は倒れた。
たった一人動ける庄平は腰に挟んでいた包丁を抜くと、加納と向かい合った。もう不甲斐無い真似をする訳にはいかなかった。自分しか皆を助けることはできないのだ。
体はまだ震えているものの、庄平は先ほどのように頭が真っ白になることはなかった。
「うっ、うおぉぉおおん!」
恐怖を振り切るかのように叫びながら加納に突っ込むが、今の加納は人間ではない。庄平の単調な突きなど攻撃されている内に入ってはいなかった。友の時と同様あっさりかわされてしまう。庄平は勢い余って近くの長草のなかに倒れこんだ。
ほんの短い間だが、武器を持っている三人が動けなくなったことで、加納を止める人間はいなくなった。
「いやぁあ、来ないでぇ!」
加納が彼女の方へ走って行ったため、佐々木は死に物狂いで逃げた。しかし悪魔の強化された身体能力を持つ加納からは、逃げ切ることなど不可能だった。
這いつくばっている小宮の真横。そこで佐々木は命を落とした。
加納の鋭い歯によって裂かれた首筋から、真っ赤な血が吹き上がる。その飛沫が小宮の頬にへばり付いた。
「きゃぁぁぁあぁあっ!?」
小宮は我を忘れたかのように森の奥深くへと走っていった。
目の前で起きたことに愕然とする。あまりに突然の死だった。
自分の好きだった相手。
大切な存在だった佐々木。
ついさっきまで生きていたのに、今はゴミのように土の上に放り投げられている。
――何だよ、これ……何なんだよ……!
長草の中で、庄平は涙を流した。
必死に抑えようとしても次から次へとどんどん勝手に溢れ出てくる。
――俺の所為だ……! 俺さえしっかりしていればこんなことにはならなかった。あのときテンパって転んでさえいなかったら……!
まだ告白もなにもしてなかった。これからデートをして、一緒に映画を見て、夜景が綺麗なホテルに泊まっちゃ足りもするはずだった。また、あの笑顔を見るはずだった。
「何でだよ、何で死んじまうんだよ。ふざけんな、ふざけんなよぉお!」
佐々木の死体を食そうとする加納に向かって、庄平はめちゃくちゃに包丁を振り回す。
ブンブン、ブンブンと、空気を切り裂く音だけが耳に流れる。
「庄平よせっ!」
悟が必死な形相で走ってくるが、構わずに庄平は攻撃を続けた。
最初は後方へ下がっていた加納だったが、避けることに飽きたのか、鬱陶しそうに庄平の腕を掴んだ。手首が折れるんじゃないかと感じるほどの痛みが庄平の腕に走る。
普段ならびびって動けなかっただろう。だが、今の庄平は佐々木を失った怒りに満ちていた。加納が噛み付くよりも早くその首に包丁を突き刺す。
思わぬ反撃に加納は驚き、甲高い悲鳴を上げた。
「ギュウォオォォォオ!」
悟が目の前まで来ると同時に、庄平はさらに刃を突き刺そうとした。包丁に恐怖した加納は、庄平の手を離し距離を取ろうとしたが、今度は逆に庄平に掴まれた。
「逃がすかぁ! 糞野郎っ!」
まるで揉み合うように土と草の上を転げまわる。絶対にこの悪魔を己の手で殺すつもりだった。絶対に生かしてはおかないと強く思った。
庄平と加納が接触した刹那、悟の感覚は何かを感じ取った。
何故かは分からない。だが悟はこのまま庄平が加納に触れていると、何か嫌なことが起こる気がした。
一瞬ためらった後に、悟は庄平目がけ体当たりをした。引き剥がされるかのように加納の上から庄平が飛び落ちる。
「がっ! ――……っ何すんだよ!?」
庄平は怒りに満ちた目で悟を睨んだ。
悟が説明する間も無く背後に加納が迫ってくる。
「――っく!」
悟は両手に包丁を構えると、寝転んだ体勢のまま加納の足を斬り付けた。加納はそのまま二人の上に倒れる。すると再び嫌な感覚が悟の体に甦った。
――やっぱりこいつに触れているのは危険なんだ! もしかしたら接触感染するのかもしれない。一刻も早く離れないと!
悟は加納を蹴飛ばして無理やり体から離すが、体勢を整える間もなく悪魔はすぐにでも噛み付こうとしてきた。悟の目に醜い歯が映る。
「友ー!」
悟が叫ぶと同時に、いつの間にか近くに来ていた友が包丁を加納の心臓に突き刺す。
加納と友の顔の距離は数センチしか離れていない。友はもろに加納の顔を見る羽目になった。
悪魔の血走った瞳が生気を失っていく。
加納は友の目を見つめたまま仰向けに倒れると、二度と動くことは無かった。