<第十七章>玄色の船へ(前編)
<第十七章> ” 玄色の船へ (前編)”
「な、何故鎖が取れている!? 麻酔の事はともかく、鎖は間違いなく柵に括り付けていたはずだ!」
下田が自分たちの帰りを待っていたように立ちふさがる三本腕を見て、苦悶の声を上げた。
「――これは……?」
悟は三本腕が括り付けられていた筈の右手の柵を見ると、何かに気づいた。
巻きつけた鎖と鎖をロックしていたはずの止め具が、鋭い刃物で切断されたように切れている。明らかに人為的に何者かに切られたことが見て取れる。少なくとも包丁や一般的なナイフではこの丈夫な止め具を切断することなど不可能だ。特殊なナイフ、WASPKNIFEや悟が今構えている黒柄ナイフなどを省けば――
「誰がこんな事を?」
亜紀がその切断箇所を見て言った。
「おい、そんな事は後にしろ。今はとにかく逃げるんだ。有村さんと亜紀ちゃんは時間を稼いでいる間にヘリまで行って、飛び立つ準備をしてくれ」
「そうですね、犯人は後で見つければいい。――亜紀さん、行きましょう手伝ってください」
友の言葉に有村は同意し、走る構えをとった。それを見た下田が声をかける。
「有村、援護する。なるべく早く頼むぞ」
「はい、お願いします」
「時間を稼ぐたって……雨の中じゃ、あいつの唯一の弱点の火だって効果が無いんだぞ。一体どうすりゃいいんだよ!」
二度と見たくない、見ることはないと思っていた三本腕の元気な姿を見て、庄平は大きく唾を飲む。
「確かに、火が効かないあいつはある意味無敵だが、別に倒す必要は無い。有村さんたちから注意を反らせればいいんだ。死なない程度に逃げ惑えば何とかなるだろう」
「その逃げるってことが一番むずかしんだけどな」
友の言葉に悟は苦笑いした。
「グギュアアァァアァアア!」
急に自分の目の前に現れた無数の獲物の姿を見ると、興奮したのか、三本腕は雨を吹き飛ばすような大声で鳴いた。その姿はもはや大森の外見を全く残してはおらず、完全に悟らが数日前に仕留めた三本腕と同じ形になっている。
「悟、さっきみたいに俺と庄平をサポートしてくれ。あいつの攻撃は即死攻撃だからな。動きの遅い今のお前じゃ囮は勤まらない」
「分かった。じゃあ囮は友がやるのか?」
「庄平だ」
悟の問いに即答する友。
「え!? お、おい」
「やるぞ! 下田さん、行ってください」
友は冷静そのものといった表情で行動に入った。
庄平も見栄を張るかのように、大嫌いなはずの三本腕に向かって走っていく。
何か――あの二人変だぞ?
二人の間に亀裂が生じていることを知らない悟は違和感を感じつつも、今更止めることなど出来ないため仕方がなくサポートを始めた。
ひびや欠けた所為でぼこぼこになっている石斧を振り回しながら、悟の声を頼りに三本腕の第三の腕から逃げ回る庄平。その後ろでは友が切れなくなった包丁やら、石やら、何やらを三本腕目掛けて投げている。
友が庄平を前衛に配置したのは別に庄平が憎いからでも嫌いだからでもない。それが最善だと判断したからだ。下田、有村、亜紀の三人を無事にヘリの前まで移動させるには、上手く三本腕の注意を彼らから反らす必要がある。三本腕を引き付けつつ、下田らの動きを助けるという複雑なマネを庄平が出来るとは思えない。友は敢えて自分が後衛になることで三本腕の動きを見ながら下田に合図を送り、庄平には前衛に集中してもらうと言う作戦を取った。
確かにこれは良い作戦なのだが、友は庄平の事を全く考えてはいなかった。
身の安全についてじゃない。それについては悟を信頼して大丈夫だと信じている。
庄平の精神についてだ。
庄平は前衛に指名されたことで友に対する不信感、苛立ち、意地、開き直りといった作戦に支障をきたす負の感情を持つようになった。それは本来ならば三本腕を恐れ慎重に行動させるはずの庄平を、異常なほど攻撃的、行動的、積極的な前衛に変えてしまったのだ。
悟が先ほど二人に対し違和感を感じたのも、友が即答で庄平を前衛に指名したからではなく、友が庄平に対し自分の考えを教えなかったからだ。
その背景には少し前から出来ている亀裂が影響していた。
もし、二人の間に今のような隔たり、感情のすれ違いが無かったのなら、庄平がこうも無謀な行動を取ることも、友が庄平に話し欠けづらくなるようなことも無かっただろう。チームワークが重要となるブラックドメイン生物戦において、このわだかまりは非常に大きな抵抗になっていた。
只でさえ雨が降り火が効かず罠も作れないこの不利な場所なのだ。ギクシャクしている関係でまともな意思伝達が出来るわけが無い。自然と戦いはこちらが不利になる。
下田はそんな三人の戦いに不安を感じつつも、有村と亜紀をかばうように少しずつ、少しずつ歩みを進め、なんとか三本腕に気づかれることなくヘリまで来ることができた。
「よし、俺と有村はこいつを飛ばす準備に取り掛かる。あんたは準備が終わったら後ろからあいつらを呼んでくれ!」
「分かりました」
亜紀の返事を確認すると、下田はヘリのドアを開け運転席に有村と共に入った。同様に亜紀も後ろの席に座るためドアを開ける。
ここから見た限りでは悟たちの戦いはかなり旗色が悪そうだった。亜紀は出来るだけ早く急がなければと自分に活を入れた。
「よう、亜紀ちゃん。合いたかったぜ!」
「!?」
亜紀はあまりのことに声を失ってしまった。ヘリの中に二度と会いたくないと思っていた男が居たからだ。
鈴木は歪んだ笑みを浮かべながら、亜紀を引き込むように強引にヘリの中に入れ、バタフライナイフを突きつけた。
「な、何で鈴木君がここに居るの!?」
「はっ! 俺はな、お前たちとあの投げナイフ野郎をずっとつけてたんだよ。おかげでこんなところにヘリを見つけることができた。マジで感謝してるぜ!」
「どうした!?」
後ろから亜紀の怯えた声が聞こえてきたことに気づいた下田は、確認するようにこちらを振り向いた。
「おい、オッサン! 今すぐヘリを出しやがれ、あの馬鹿な三人が怪物を引き付けている間にな」
「何だお前は、何故ここに居る!?」
さっきこのヘリに来た時は居なかった鈴木の登場に驚く下田。
「早く出せって言ってんだろうが! 出さねーとこいつの喉を掻っ切るぜ!」
「何を勝手な!」
いきなり現れた見も知らない若者に偉そうに命令され、下田は眉間に皺を寄せた。
「仕方がない。下田さん、飛びましょう」
目の前で、まだ若い未来のある女性が死ぬ姿を見たい人間は中々居ない。有村は一度鈴木を落ち着かせる為に、ヘリを浮上させることを考えた。
「駄目だ。あいつらが来るまでは飛ばすな!」
有村に怒鳴りつける下田。
優先順位を考えたのなら、鈴木を挑発せずに飛び立つべきだ。悟らが三本腕の気を引いている今なら無事にヘリを飛び立だせることが出来る。下田にはこのブラックドメインの情報報告という任務があるのだから、悟らよりも自分の脱出を優先するのは当然だ。
広野や一部の上司の気まぐれで行われた生存者スカウト任務は危険を冒してまで成し遂げる必要は無い。
しかし、それにも関わらず下田は悟らを待つことを決断した。
一緒に居た日数は二日もないが、伊達に協力して悪魔や他の怪物と戦っていた訳ではない。情も移るし、何より下田は悟たちの生存力、機転、度胸を高く評価していた。
訓練を受けているプロの人間が死んでいく中で、全くの素人のくせにここまで生き残っているのだ。スカウト云々を省き、下田は個人的に彼らを部下に欲しかった。ここで殺すのはもったいないと思った。そんな彼らを見捨てるなど下田に出来るはずが無い。
「はぁあ!? テメー何言ってんだよオッサン!」
怒りに唇を震わす鈴木。
「ヘリってのは一人でも操縦できるんだろ? テメーから先にぶっ殺してやろうか!?」
鈴木は亜紀に向けていたナイフを運転席の椅子に固定されている下田に向けた。
「――下田さん、貴方が死んではことだ。飛ばしますよ」
有村は下田の返事を待つことなくヘリを浮上させた。けたたましいプロペラの音が鳴る。
「うおっと!?」
鈴木はその急浮上にぐらつき、手を窓に強くぶつけナイフを落としてしまった。
「――このっ!」
その瞬間、亜紀は鈴木に掴みかかった。いや、掴みかかるというよりは鈴木の足元に落ちているナイフを奪い取ろうとしたのだ。
「な、このアマ!」
鈴木は怒り心頭の様子で亜紀を押し返しに掛かかる。
急浮上の所為と中で暴れる二人の所為で、右に左に揺れるヘリコプター。その異常は悟たちからも手に取りように分かった。
「何かあったのか!?」
庄平のサポートをしている所為で中々へりの様子に集中できない悟。
「悟、今は三本腕に集中しろ!」
悟の助けが無くなり危なっかしくなった庄平の身を案じ、友が怒鳴った。
「くそ、こいつ一体どうすりゃいいんだよ!」
庄平はナイフが刺さっても、石斧が命中しても、全くダメージの無い三本腕の様子を見てがっかりした。
だが、うんざりしているのは庄平だけでは無いらしい。
三本腕はいくら第三の腕を振り下ろしても獲物に掠りもしないため、段々攻撃を荒くしていった。
感覚が鋭い悟でも他人の危機を感じることは出来ない。庄平に出している指示は三本腕の動きを読んで予測しているだけだ。そこに多少は感覚が生かされてはいるものの、口で指示を出している以上、悟本人が反応するよりはずっと遅くなってしまう。三本腕の荒い攻撃に段々と庄平は避けることが辛くなっていった。
「庄平、一端下がれ!」
「大丈夫だ、まだやれる!」
身を案じて放った悟の言葉を庄平は退けた。
――庄平、いつもはもっと慎重なのにどうしたんだ!?
悟は庄平の無鉄砲な行動に度々背筋を寒くする。
「うおおおっといっ!?」
庄平の腕を掠り三本腕の腕が屋上の地面を割った。これまで何度か三本腕の避けてきた庄平だったが、いきなり避けることが難しくなり攻撃が掠るようになった。三本腕が攻撃パターンを変えてきたのだ。
再び間を置かず三本腕の第三の腕が振り下ろされる。庄平は先ほどのパターンだと思っていたため完全に虚をつかれてしまった。頭の上に三本腕の大きな拳の影が映る。
「庄平!」
間一髪のところで友が庄平を押し飛ばした。
ドシンッ! という鈍い音が響く。
「ぐああああぁあ!?」
「友!」
庄平が叫び声を上げる友を急いで見ると、三本腕の攻撃が直撃してしまったらしく、左の足が見事に折れてしまっていた。
「グギャアアアアァアア!」
獲物の動きを封じれた喜びに勝利の雄たけびを上げる三本腕の怪物。
「まずいっ!」
悟は指示を出すどころではないと二人の居るところまで走り出した。
――早く、早く!
思うように動かない体が煩わしい。
腕を掲げる三本腕の姿がスローモーションのように見える。
頭が冷たくなる。
体がしびれる。
悟は叫んだ。
「友ー!」
悟の目の前で、三本腕は腕を振り下ろした。
「大人しくしてりゃぁあー無事に家に帰れたのによー!」
「あうぁああぁぁ……!」
相変わらず激しく揺れるヘリの中で、鈴木は亜紀の首を絞めていた。
「止めろ、このクソガキッ! 何してる!」
下田が後ろを見ながら声を張り上げる。
しかし興奮している鈴木には全く聞こえていないようだ。一心不乱に恍惚の表情を浮かべ、亜紀の首に力を込め続けた。
亜紀は鈴木の腕をはずそうと命いっぱい暴れたが、どうしても肉体的な筋力差は否めない。徐々に意識が遠くなっていく。
――悟君……!
亜紀は苦しみの中、いつの間にか好きになっていた人間の姿を浮かべた。
「うあああぁぁぁあ!」
友は激痛のあまり赤子のように大声を出して叫んだ。
三本腕の第三の攻撃が振り下ろされた直後、友は体をゴロゴロと転がすようにして何とかそれを避けたのだが、完全に避けることは出来ず、今度はもう片方の足に巨大な拳を受けてしまった。
これで友は両足を砕かれたことになる。
「ゆ、友っ!」
酷い後悔いの念が襲い掛かる。
絶望が頭を支配する。
自分が馬鹿な意地を張りさえしなければ。
自分がもっと周りを見ていれば。
もっと慎重に行動していれば。
庄平は自分の愚かさに強い憎しみを抱いた。
「――このっ!」
やっと二人のところまでたどり着いた悟は、友を守る為に三本腕の左足へ黒柄ナイフを突き刺した。包丁と比べて実にスムーズにあっさりと肉の中に入っていくダークグレーとシルバーの色を持つ刃。黒柄ナイフはかなり深いところまで三本腕の右腕の筋肉を抉った。
「グギャアアァアアア!?」
これまでまともな武器で攻撃されていなかった三本腕は突然走った痛みにどきもを抜かし、左腕を高く上げて叫んだ。
その勢いで悟は屋上の外に投げ飛ばされてしまった。天と地が反転し、遥か下に悪魔の大群と茶色の地面が見える。
「うわああぁぁああ!?」
悟は間一髪というところで柵に右腕を絡めると、何とか下に落ちずにすんだ。だがその衝撃でヘリポートの外に向かって柵が大きく歪んだ。この状態では友と庄平の援護になど行くことは不可能だ。
かっこよく柵を飛び越えたいのだが、実際のところは落ちないようにしがみつくことしか出来ない。
「ギュァアアア、ギュアアアアア!」
下から獲物が降ってくるのを心待ちに待つ悪魔どもの身の毛もよだつ声が聞こえる。
「くそっ!」
悟は息も絶え絶えに必死に柵にしがみついた。
亜紀の耳に悟の絶叫が聞こえた。開いたままのヘリのドアの先に今にも下に落ちてしまいそうな悟の姿が見える。
――悟君……!
「ん? ほう、あの色男君も死にそうだな。良かったじゃん、一緒にあの世に行けるぜ亜紀ちゃん!」
鈴木はこれで止めだと言うように、渾身の力で首を締め付けた。
「あがぁあああああっ……!」
声にならない声を上げる亜紀。
下田と有村は一度ヘリを飛び立だせてしまったため、後ろの亜紀を助ける術が無かった。着地させようにも、こうヘリの中で暴れられては中々上手くはいかない。出来ることといえばただ鈴木を怒鳴りつけることだけだ。
殴りつけるように連続で放たれる下田の暴言を、扇風機の風を受けているような心地よさそうな幸せいっぱいの笑顔で返すと、鈴木は苦しみに歪む亜紀の顔を嬉しそうに見つめた。
「っ吉田! せっかく悪魔どもから逃げ延びてきたのに、こんな奴に言いように殺されるのか! 何とかそのクズを倒せ!」
無茶なことを言う下田。
だが、その言葉は亜紀に届いていた。
鈴木は確かに力が強いが悪魔ほどではないし、十秒感染の危険も無い。自分と同じ人間なのだ。少なくとも肉体的には。
亜紀は小学校の頃、従兄弟としたケンカを思い出した。
その時亜紀は今のように従兄弟の上に馬乗りになり、その頭をバカスコ叩いていた。圧倒的に有利な状況だ。
だが、従兄弟がいきなり頭を後ろに下げたと思ったらそれは一変した。亜紀の頭は後ろに倒され、今度は従兄弟が馬乗りになる。結局その後ケンカは引き分けに終わったものの、それ以外叩き合いのケンカをしていない亜紀にとって、そのケンカはかなり印象に残っていた。
「ヒャッハーァァア、死ねぇええ!」
歓喜の笑いをする鈴木。
「……――このっ!」
亜紀は頭を後ろに引き勢いをつけると、そのまま二本の足を上に上げ、鈴木の頭を後ろから挟んだ。その状態のまま勢い良く亜紀のいる位置とは反対側の窓に鈴木の頭を叩き付ける。
「ひゃはははは……――ぶっほっおぉお!?」
そのあまりの速度に、鈴木の頭は幸せいっぱいの笑顔を作ったまま窓ガラスを突き抜けた。
足を倒す勢いに乗り体を起き上がらせる亜紀。喉はジンジンと痛み、呼吸も苦しいがこのチャンスを逃すわけにはいかない。突然の痛みに鈴木が驚いている間に下に落ちているナイフを掴み取った。
「ぐうぅおおおおぁあ――!?」
鋭い目つきでナイフを構えこちらを見ている亜紀に恐怖を感じた鈴木は、頭の痛みに悲鳴をあげながら急いでヘリのドアを開け逃げようとする。
だが、そこはくしくも自分の所為で浮上した空中だった。しかも今はちょうどヘリポートから僅かにずれた位置を飛んでいる。
「な、ちょっと待てよ!?」
鈴木は真逆さまに樹海の大地へと落ちていった。
「ドシン」という曇った音を響かせ土の上にバウンドし、二、三回転すると動きを止める。体は全身骨折で動けないものの、強い憎しみの所為か怒りの所為か、鈴木の意識ははっきりと保たれていた。
「がぁぐああぁああ~――痛てぇえええ……!?」
その周りに電波塔を囲んでいた悪魔第三形態の群れが集まってくる。
「な、何だこいつら!? うわぁあああっ、来るなぁあ!! 来るなぁあああっ!!」
幾ら逃げようとしても、力を支えてくれる骨は折れているため力が入らない。鈴木は無残にもこれまで自分が殺してきた被害者のように、動くことを封じられた状態で無数の悪魔に歯をつきたてられた。
「止めろぉおっ、止めろおぉおー……――ぐぎゃああぁああああ!」
おぞましい絶叫を最後に、ヘリポートの下からはグチャグチャと何かを噛む音以外聞こえなくなった。
「はぁ、はぁ……!」
庄平は友の体を引きずるようにし、屋上の入り口がある後方へ下がっていく。
しかし、そんなことであの怪物から逃れられるはずが無い。三本腕は獲物が下がっていく度にそれ以上の速度で接近した。
その所為で二人と三本腕の距離は遠のくどころか前よりも近づいてしまう。
「庄平、俺はどう考えても逃げられない。丁度いい囮にもなることだし……今のうちに逃げろ。悟とヘリに乗れ!」
痛みに耐えているのか、恐怖と戦っているのか、全身を雨と汗でびしょびしょに濡らしながら友は力の無い声でそう言った。
「俺の所為で――俺が馬鹿みたいな意地を張ったからこんなことになったんだ、絶対に……絶対に見捨てるもんか!」
しかし庄平は友から全く離れようとはしない。
「おい、冷静になれ! お前がここにいても何も変わらないぞ、死人が増えるだけだ。俺のことを思うなら逃げてくれ!」
「嫌だ、俺はお前が何と言っても絶対に逃げねーぞ! 絶対に助けてやる!」
「お前の優しさは十分分かった……頼むから……頼むから逃げてくれ!」
これまで一環として冷静な表情を貫いてきた友の顔が涙で歪む。
友は別に冷酷人間でも精神異常者でもない。彼がここまで冷静な態度を取ってきたのは、自分の命と友人達の命を守る為だった。
数時間前に電波塔に来た時広野に対して売っていた媚も、全てはその後の自分と庄平、悟らを守る為の行為だった。
銀野町や浮世壮の状態を見れば分かるように、こんな大量虐殺を平気で黙認するような組織だ。人体実験や人員の使い捨てだって当たり前のようにやりかねない。広野に気に入られることで友は庄平たちを守ろうとした。
底辺とは言え、広野は一応人の上に立つ立場にいる。彼に気に入られていれば、いざ仲間が削除の対象に指名されても、助けることが出来るかもしれないから。
常に全員が生き残れることを第一に考えて行動した。
自分の恐怖、悲しみ、感情を無理やり消し去ってまで。
庄平にどれほど嫌われようとも、全ては無事にこの地獄から出る為に友は己を殺してやってきた。その姿は下田の目にすら狂気を含んだように移ったほどだ。
「グギュウゥゥゥウウ……」
三本腕はもう目の前まで迫っている。
庄平は誰か助けてくれないかと、あちらこちらに視線を移動させて見たが、悟は悟でピンチだし、ヘリはまだ空中に浮かんでおり、誰もここに来れそうに無い。つまり、今の状態を一言で言えば三本腕と戦えるのは自分ただ一人ということだった。
自力で何とかして三本腕を倒すしかないと悟った庄平は、しばらくうつむくと静かに友の顔を見た。何かを決意するような、覚悟するような目で。
「……友、覚えてるか? 三本腕ってさ、一度火をつけたら一瞬で全身に火が広まったよな」
「俺が忘れるわけないだろ。それがどうした、雨の降っている今は火なんか効かないぞ?」
しゃべるのもやっとのような様子で友が言葉を返す。
「俺――……あいつの触手に捕まってから分かるんだ。――ったく、何で今になってやっと気づいたんだろうな……」
目の端を細めて悲しそうな、刹那的な表情を作る庄平。
「庄平?」
友はそんな見たことの無い庄平の表情を、不思議そうな様子で見つめた。
「グギャアアァアアア!」
三本腕の足が庄平の真横の地面を踏みしめる。
「俺が悪かった……――じゃあな、友」
庄平は僅かに微笑むと、ライターを懐から取り出し三本腕に向き直る。
「おい、何やってる、逃げろ庄平! 逃げるんだ!」
嫌な予感がする。
大切な何かを無くしてしまう様な。
二度と手に入れられなくなるような。
身を切り裂くような嫌な予感がする。
「うぉおおおおぉおおお!」
庄平は歯を噛み締め三本腕に突っ込んだ。
間一髪で振り下ろされる第三の腕をかわし、その醜い鮫のような口しかない顔の正面に滑り込む。
「お前の体を駆け巡ってる油の在り処はのは表皮じゃない、体内だろ?」
一瞬で全身に火が回ったはずなのに捕まった時触手には少しも油が無かった。そのことから庄平は三本腕の体内に血液のように油が循環していると考えたのだ。
「こいつを食ってみろ!」
庄平は自分の腕を三本腕の鮫のような歯が並ぶ口の中に突っ込むと、もはや三本腕の体内にあるため雨で消えることの無いライターに火を灯した。
それは口内の油に移り、内蔵へ、三本の腕へと映画を早送りをしたような速度で広まっていく。
「グギャアアアァアアアッ!?」
三本腕は体中で暴れ回る悪魔のような赤い刃に苦痛の鳴き声を上げ、口の中に入っていた庄平の腕を強く噛み締めた。
「うがぁああ!?」
三本腕はそのまま庄平を空中に放り投げると、全身を火に包みながら背中にある巨大な口を大きく開く。
悟は必死に右手で柵にしがみ付き、それを見た。
宙を舞う庄平と目が合う。
「 庄 平 ぇ え ー !」
庄平はすまなそうな顔のまま、燃え盛る三本腕の口の中に落ちていった。
「……むおっ!」
「――はぁ、はぁ……よいっしょっと!」
亜紀と下田は柵に引っかかっている悟を二人がかりでヘリポートに引き上げた。
しかしやっと地面に降り立つことが出来たのに悟の顔は青白く生気の無いゾンビのようになっていた。無言のまま力なく正座するように崩れ落ちる。
「庄平……」
その目は空ろである一点を見ていた。
悟の北西屋上の入り口付近に倒れている三本腕の死体を。
体内に油が充満している所為か、三本腕は盛大な炎柱を空に向かって伸ばしながら全く劣えることなく燃え続けている。あの状態ではもう庄平の亡骸も原型を留めてはいないだろう。
決して人前で泣くことの無かった悟は、その火の柱を見ながら一筋の涙を頬に走らせた。
いっしょに帰ると誓った筈なのに。
生き残ると誓った筈だったのに。
後一歩と言うところで彼は死んでしまった。
友を守るために。
亜紀や下田らを守るために。
悟を守る為に。
自分の命を犠牲にしてまで、三本腕を倒してくれた。
いや、もしかしたら死ぬ気なんか無かったのかもしれない。
彼は恐らく只必死にみんなを助けようとしただけなのだろう。
その所為で、自分の命が失われてしまうことわからずに。
彼はこの樹海内で合った人間の中で一番優しい男だった。
初対面の人の死に悲しみ、親友の死に悲しみ、初恋の人の死に悲しみ、多くの涙を流した。
それは弱さと言えば、悟は違うと思う。
自分たちの身を案じて冷静さにっ徹していた友や悟とは違い、庄平は他人のために涙を流す暖かさを、心の余裕を持っていた。
他人を思いやる気持ちを持っていた。
今になって思えば、彼はここに居る人間の中で一番心が強かったのかもしれない。
悟はもう二度と話すことの出来なくなった親友のことを思い、泣き続けた。
「曲直……行くぞ。急がないと悪魔どもがやって来る」
人の死に慣れている下田は悟の気持ちを理解しつつも、現状を考えそう言った。
「……――そうですね……分かってます」
悟が亜紀に支えられるようにしてヘリにつくと、痛々しい姿の友が顔を隠すように腕を目の上に置き、横になっていた。
悟はその腕の袖が濡れていることに気づいたが、何も言わず亜紀を先にヘリに乗せる。
「何で悟くんが先に乗らないの?」
大怪我を負っている悟が自分を先にヘリに乗せたことを不思議がって亜紀が聞いてきた。
悟の頭にキツネの言葉が過ぎる。
『いや、それはあまりにも勿体無いからな、提案があるんだ。ちょっとコッチに来てくれ。亜紀ちゃんには聞いて欲しくない』
「……レディーファーストってことにしといて」
赤く腫らした目で悟は微笑んだ。
「こんな時に何かっこつけてんの」
亜紀は悟の真意を知らず少しだけ笑った。
悟が複雑そうな顔を作ったその時、突然轟音が響いた。
電波塔が地震に合った様に大きく揺れる。
「な、何!?」
「悪魔どもが下のバリケードを破ったんだ。 曲直っ、早く乗れ!」
下田が慌てて悟をヘリに乗らせようとする。だが、その前に屋上の入り口がいきなり吹っ飛んだ。
「何だ!?」
悟と友の言葉が重なり、埃を巻き上げる入り口に全員の視線が向く。
S字のように曲がった背骨。四足動物の四肢のように完全な自然体の逆間接の形を作った腕と足。そして大きなサングラスを掛けているような、ギョロッとした眼球の浮き出た血走った赤い目。その頭部の額は頭蓋骨が皮膚を突き破り、まるで角のように盛り上がっている。また耳は先が鋭く尖り、後頭部も骨盤のような形に肥大化し、背中には鬣のような真っ黒の毛が生えていた。
第一形態や第二形態よりもより一層黒に近い色になった悪魔の第三形態、そいつが目の前に立っていた。
「まるで神話に出てくる悪魔そのものだな」
友が見事にその形を表現する。
「くそ、これじゃヘリを飛ばせない! やつら俺たちが飛び立ったと同時に突っ込んでくるぞ、生半可な高さならあいつらの筋力ですぐに届いちまう」
下田は悔しさに拳を握り締め、ヘリから降りて戦おうとした。それを悟が制する。
「下田さん、俺が……あいつらを食い止めます。その間にヘリを飛ばしてください」
「何だと?」
「俺がここで均衡を保っていれば、あいつらも襲ってはこないと思います」
「やけになってるのか?」
下田は庄平の死のことを踏まえてそう言った。
「俺はそんな人間じゃないですよ、今はこうするしかないんです」
悟は妙に落ち着いた声で返す。
「――……死ぬなよ」
「……なるべく頑張ります」
その言葉を聞くと下田は有村に命じた。
「飛ばせ!」
「な、ちょっと悟くん!?」
いきなり下田が悟を残してヘリを浮上させたので、亜紀は驚いて悟の腕を引っ張ろうと手を伸ばした。しかし、悟はその手をじっと見ているだけで掴もうとはしない。
「悟くんっー!」
それでも亜紀は必死に手を伸ばす。
「亜紀ちゃん、ヘリがある程度飛んでからロープを投げればいい、今は誰かが残って悪魔を牽制していないと全員死ぬんだぞ!」
友が感情を押し殺したような声で亜紀に言った。
既にヘリは六メートル近く浮かんでいる。今更手を伸ばしてももうどうにもならない。
「下田さん、まだ、まだ駄目なの!?」
亜紀が震える声で下田に問い詰める。
「駄目だ! 後四メートル……最低でも十メートルは上がらないと悪魔に飛び乗ってこられる!」
下田は辛そうに言った。
悟は向かいの入り口に立っている悪魔の後ろから別の悪魔が現れたのを見ると、目を見開いた。
「……鈴野……」
その悪魔の両目は潰れており、腰には十字架の形をした銀色のキーホルダーが着いていたからだ。
悟はそのキーホルダーを貰った時の事を思い出す。
あれは悟がまだ七歳の頃のことだ。
初めその十字架はキーホルダーではなかった。元々は悟の母が知人から貰ったネックレスに付いていた物だ。
母は誰から貰ったかまったく教えてくれようとしなかったが、悟があまりにしつこく聞くので裁さんとだけ仕方がなく教えてくれた。
裁さんが誰だか知らないが、父でないことは確かだ。父の名前は健二なのだから。
その頃から夫婦の仲に問題を抱えていた母と父は、そのネックレスに付いても揉めだした。
父がどこの誰かわからない男から貰ったネックレスなんか捨ててやると言い出したので、母は父がいないときにそれを悟にあげることで守ろうとしたのだ。
其処までして守ろうとするとはよほど大切な物だったのだろう。
いつもどこかの良く分からない施設で働いているため、中々家に帰らない母から久しぶりに貰ったものだ。悟はその十字架をキーホルダー用の輪に括り付け、大学に入るまでずっと大切に持っていた。
しかし、両親が離婚してからその十字架は父と母の険悪なイメージの象徴のように思われ、悟は何度もそれを捨てようと思った。
鈴野がそれを欲しがったのは丁度そんなときだ。
オーダーメードらしかったその十字架は、小物集めの趣味が合った鈴野のマニア心をくすぐったらしい。丁度厄介払いをしたかった悟は迷わずその十字架を鈴野に上げた。これでもう目にすることは無いと思って。
しかし、予想に反して鈴野はそのキーホルダーをよほど気に入ったのか、毎日腰につけて学校に来るようになった。
見たくないのに、思い出したくないのに、その銀色の十字架は何度も悟の目に入る。
だが、慣れとは恐ろしいものだ。
毎日鈴野の腰に装着されているそのキーホルダーを見ているうちに、それは両親の険悪なイメージを呼び起こすものではなく、鈴野や庄平達との楽しかった思い出を思い出すアイテムに変わっていった。
もう、その十字架を見て嫌な気分になることは無いと思っていた。
「何だよ……また俺を悲しくさせたいみたいだなこの十字架は……」
悟は第三形態と化した鈴野の、ボロボロの腰に付いている十字架を見て呟いた。
見ているだけで、庄平と鈴野の元気だったあの頃の姿が浮かぶ。まだこんな運命が待っているとは思いもしなかったあの頃の姿が。そしてそれに続くようにして今の二人の状態も。
一人は悪魔に食い殺されそれと同じ存在になり、もう一人は自分たちのために三本腕と相打ちになった。
「――相変わらず……嫌な十字架だよ」
悟は苦しそうな、悲しそうな、疲れたような顔でそう言った。
「ギュウァアアアアアアア!」
鈴野、いや、悪魔が雄たけびを上げ屋上の入り口の前から飛び出す。ボロボロの悟を見て警戒心を無くしたのか、これまで様子を伺うようにしていた態度とは打って変って荒々しく突撃してきた。
「さようなら……亜紀――」
悟は黒柄ナイフを構えると、こちらへ猛スピードで迫ってくる悪魔に向かって走り出した。
ようやく安全距離に到達したヘリからロープを投げようとした亜紀の目に、その姿が映る。
「悟くん!?」
お互いを殺す為に距離を詰める鈴野と悟。
鈴野は尖りにに尖った己の爪を、悟は黒柄ナイフをそれぞれ肩の高さに掲げる。
そして、2人は己の刃を親友に向かって突き出した。
「 」
亜紀の声も、自分の声さえも、周囲からこの世の全ての音が消失したかのように悟の耳には何も聞こえない。
鈴野の爪は悟の肩の骨を貫き、血を撒き散らし、その肉を抉った。だが、同時に悟の刃も鈴野の心臓を打ち抜く。
アップでお互いの目を見る二人。
悟はその一瞬鈴野の「すまない」という声を聞いた気がした。
「いやぁあああああ、悟君!」
亜紀が甲高い叫び声を上げる。
それはやむ終えないことだった。今へリポートは悪魔第三形態の軍団に覆われているのだから。
地面に落ちたお菓子に群がる蟻のように悪魔に覆われ、悟は身動きが全く取れなくなっていた。悪魔が我先にと押し合いへし合うので、今の所は鈴野から受けた傷以外の攻撃は受けていないものの、それも時間の問題だろう。
間もなくして自分の命は失われる。
薄れ行く意識の中、悟はキツネの言葉を思い出していた。
「いや、それはあまりにも勿体無いからな、提案があるんだ。ちょっとコッチに来てくれ。亜紀ちゃんには聞いて欲しくない」
キツネはニコニコとした笑顔でそういった」
今更殺されることも無いだろうと、悟は素直に従い、キツネの元へ行った。
「悟、お前は結構才能があるからな。このままイミュニティーのメンバーに加わることになると、都合が悪いんだ。だけどさ今殺すのも勿体無いし、お前には出来るだけ悪魔や怪物を倒してもらってから亜紀ちゃんたちが無事に脱出できそうな頃合を見て……死んでくれ」
「――そうするしかないのか……?」
悟が困った顔でキツネに聞いているのが亜紀に見えた。
その問いにキツネはクスクスと笑いならうなずく。
「……分かったよ」
悟が暗い顔で答えた。
意識を遠のかせる悟の上に、悪魔の無数の歯が下ろされる。
そして……悟の視界は闇に包まれた。