<第十六章>押し寄せる闇
<第十六章> ” 押し寄せる闇 ”
「悟……!」
庄平は涙目で目の前に立つ男を見る。
悟も感慨深げに庄平を見た。言葉は発する必要は無い。お互いの目を見るだけで意思は通じる。二人はそれぞれの無事を確認し、喜んだ。
「誰だあいつは? 庄平君らの例の友人か」
安形は悟に会ったことが無いため、そう推測した。
「ビュウオオォォォォオオァアアア!」
怪女王は新手の登場に威嚇の声を上げる。
「またデカい化け物か」
――三本腕、巨狼、それにあの巨大な怪女、一体どれくらいの怪物がこの樹海に居るって言うんだ?
悟は緩やかなカーブを描いたサラサラの癖毛を雨で額に貼り付けながら、沼の前に立っている怪女王に目を向けた。泥だらけの地面には二人の死体が転がっており、生き延びている人間たちもかなりのダメージを抱えている様子だ。
「悟くん、どうする?」
すぐ後ろで松明を持った亜紀が、この悲惨な様子を見て質問してくる。
「出来ることをするしかない。亜紀はあの二つの死体から懐中電灯を取り出して、なるべく沢山化け物を照らしてくれ。幾ら油を付けていてもこの豪雨じゃ、流石に松明も限界だろ」
「うん、分かった。悟くんは?」
「俺は、この体だからまともに戦うことなんて出来ないけど、感覚だけは役に立つはず。あいつらの眼として中衛の役目を果たしてみる」
亜紀は心配そうな表情だったものの、黙って頷くと仕事に取り掛かった。
「悟、安形さんが猟銃を持っている。あれさえ上手く命中すればきっと勝てるはずだ。俺たちは怪女王の動きが読めない。お前がそこから指示してくれ」
友は顔を伝い落ちる雨を左手の袖で拭いながらそう言った。
「出来るだけやって見る」
近づき過ぎないように距離を測りながら、悟は眼を見開き怪女王の姿に集中する。
ついさっきまで暗闇のどん底に居たようだった周囲の雰囲気が、悟と亜紀の登場によってまるで光に照らされたように一変して明るくなった。
いや、本当に先ほどよりも辺りは明るくなっている。
「月――……か……」
下田はドームのように覆っていた葉の隙間から指す、黄金色の光を見てそう言った。
怪女王が暴れた所為か、雲が其処だけ薄い所為か、空を隠していた葉の一部がズレ雨が降っているにも関わらず、夜の満月がこの死の沼を明るく照らしている。その光がより一層彼らの生きる心を強くした。
庄平は最後の石斧を、友は鉄パイプと包丁で作った槍を、安形はレミントンを、そして下田までも大型のナイフを構え立ち上がった。
生き残るために。
帰るために。
怪女王を倒す為に。
今、消えかけていた彼らの心に再び生きる意志という名の灯火が灯った。
沼の正面にある木に背を預けると、悟は生存者の様子を確認しながら普段ほとんど出すことの無いような大声で気合を入れる。
「よし、やるぞ!」
その声に合わせるように、他の人間も動き出した。
「庄平と友は左に、そこのごっつい人は右に動いてくれ、怪女王の腕を左右に遠ざけるんだ!」
ごっつい人と呼ばれた下田が少しだけ訝しがったものの、言われた通りにそれぞれがそれぞれの方向に走り出す。
「お、おい。俺はどうすればいいんだ?」
他の人間とは違い、安形は超感覚の存在を知らない。レミントンを抱えたまま一人戸惑った表情で悟に聞いてきた。
「怪女王の腕が左右に伸びれば真ん中ががら空きになる。その時に猟銃をもって突っ込んでください」
「けど、あの腕の速度は尋常じゃないぞ?」
「一人で二本の腕を相手にするから勝てなかったんです。けど、相手が一本なら彼らが上手くやってくれますよ」
「怪女王を三体の悪魔に、蛇腕を一匹の悪魔に見立てたってことか。なるほど、確かに一本だけなら避けるのはずっと楽になるな」
安形は感心すると、悟を信じる気になったのか、レミントンの状態を確認し「その時」に備えた。
「ビュウウォオオォオオオウ!」
沼の前から一歩も動くことなく、怪女王は左右に分かれた獲物目掛け素早く両手を走らせる。
「来たぞ!」
友は横を走っている庄平に向かって声を張り上げた。
「いちいち言われなくても分かってる!」
庄平は不機嫌そうな顔でそれに言葉を返す。
風を斬る音が聞こえ地面の影が濃くなる。蛇腕が間近に迫っているのだ。友は後ろに急接近している蛇腕を確認すると、スライディングするように地面に伏せた。
その頭上をものすごい勢いで蛇腕が通過する。
友に命中しなかったことが分かると、蛇腕はそのまま庄平目掛けて勢い良く曲がり横に突き出された。
「庄平、左だ!」
「っだぁーらっしゃ!」
悟の声を頼りに左に飛ぶ庄平。彼が居た位置には薙ぎ払うような動きで怪女王の攻撃が行われていた。
その隙に友は槍を蛇腕に思いっきり突き刺す。ゴムのような筋肉のためか伸びきっていたためか、槍は深々とその中に埋まっていった。
「ビャウウウウオオオォオオ!?」
長い悲鳴が上がる。
怪女王は悟や安形の方に向いていた体の向きを、友と庄平の方に変えた。
「どうやら左手は完全に注意を反らせたみたいだな」
悟が冷静な顔つきで呟く。
「下田さんはプロだ。右の方もきっと上手くやってくれるさ」
安形は右の様子を確認しながらそう言った。
「悟くん。懐中電灯は全部木の上に置いて、沼の方を照らすようにしたけど……どう?」
いつの間にか二人の横に戻ってきていた亜紀が言う。
「ああ完璧だ、ありがとう亜紀」
――よし、亜紀のおかげで大分周囲が見やすくなった。これならさっきよりも何倍も怪女王の攻撃を避け易くなる。
亜紀のセッティングした懐中電灯の明かりによって照らされた怪女王と、その二本の腕を見ながら、悟は囮となっている人間を手助けするため、頻繁に左右に視線を動かした。その視線の先にいる下田は安形と殆ど大差の無い怪我を負っているにも関わらず、見事に蛇腕から逃れ続けている。
「――……畜生! 本部に戻ったら絶対デスク組みに変わってやる、もうこんな目に合うのはこりごりだ」
バシャバシャと雨に濡れる地面を蹴りながら、下田は巧みな動きで上から叩きつけるように落ちてきた蛇腕を避けた。
「その攻撃は何度も見たからな、もう簡単に食らってやれねえぜ!」
神崎の最後の瞳を思い出し毒づくように声を上げる下田。
「次の攻撃が来たらこいつを力いっぱいぶち込んでやる」
大型のナイフを握り締め、下田は蛇腕の攻撃に備えると、怪女王に意識を集中させた。
「ビィイイビョオオォォォオ……」
何かを感じ取ったのか、右の蛇腕は中々攻撃してこない。本体は友と庄平の方に向いているのに、蛇腕はこちらが見えているかのごとく、動きを止めて様子を伺っている。
「何のつもりだ? ふざけやがって」
このままでは安形に近すぎると苛立ちを覚えた下田だったが、作戦を成功させるには蛇腕の注意を引き付ける必要がある。あのまま本体の近くでとぐろを巻かれていたら安形は攻撃することが出来ないだろう。
こうしている間にも友らは息を切らしてもう片方の蛇腕から逃げ続けているのだ。下田は覚悟を決め、蛇腕に向かって足を向けた。
「――巨大サナダムシめ」
下田の接近にピクリと反応する蛇腕。何らかの感覚器官が付いているのか、下田が視界に入っていない筈なのに敏感にこちらの動きに合わせ動きを変える。
蛇腕は下田を十分に引き付けると、空気を裂くような勢いで猛烈な刺突を繰り出してきた。
だが、下田も甘くなかった。その攻撃を予想していたのだ。あっさりとそれをかわすと、渾身の力で蛇腕にナイフを刺し込む。
「ビュウゥゥウオォオ!?」
怪女王は連続して起きる痛みに苦痛の声を漏らした。反射からか蛇腕は下田をその上に乗っけたまま高く持ち上がる。
「な、何ぃ!?」
下田は振り下ろされないように必死にしがみ付く。
車から外を見るような残像だらけの光景の中、下田は蛇腕が沼の方に移動していることに気がついた。
「俺をあそこに落とす気か!?」
沼に落とされては感染してしまう。そうなれば堪ったものではない。
下田は沼が近づいた瞬間、間一髪でその直前の地面に転がり落ちた。
「今だ!」
悟が叫んだ。
安形が濡れた土を踏みしめ、全力疾走を始める。
まさに完璧なタイミングだった。完全に蛇腕の注意はこちらに向いていない。今なら確実に怪女王を仕留めることが出来るだろう。
怪女王の太い象のような下半身のまん前に来ると、安形はすぐに猟銃をその獲物の上半身に向けた。
強い雨の中、たった一つの月の光を頼りにお互いの姿を目視し戦い続ける志郎と広野。
志郎は広野の攻撃だけでなく十秒感染を避けるために、錠の所為で異常に距離の無い手と手の接触にも気を使わなければならなかった。俄然筋力の差もあり志郎は不利になる。何とか広野の攻撃を避けてはいるのだが、そのどれもが運がよかったとしかいえないような回避だった。
「くそ、ナイフさえあれば!」
志郎のナイフは沼からここに来るまでの間に広野に取り上げられている。つまり今の志郎は丸腰だった。
素手で悪魔に勝てることはムキムキの格闘家でもない限りありえない。志郎が広野を倒すには五メートルほど先に転がっている草の上のWASPKNIFEを(ワスプナイフ)取るか、広野の懐から自分のナイフを奪い取るしかなかった。
しかしWASPKNIFEを取りに行く事は、広野に背中を見せるということだ。また広野の懐に手を入れるということも、その間彼の攻撃を防げなくなることに繋がる。
「参ったね……」
広野の姿から目を離さないようにしつつ、志郎は首もとのシャツのボタンを外した。
「ギュウウルルゥル――」
広野が人間時からは想像できないような高い唸り声を上げる。恐らくあと数秒後にこちらを襲う気なのだろう。戦闘前の意気込みの唸りといったところのようだ。
志郎はどちらのナイフを取るかその数秒の間に決めなくてはならない。遠くのWASPKNIFEか、近くのナイフか。どちらをとっても生存の可能性は低い。
「ギュウウウァァアア!」
だが残酷なことにも時間は無くなってしまった。雄たけびを上げ、広野は飛びかかってくる。
「くそっ!」
志郎はWASPKNIFEを取ることを諦めた。
ガチッ、ガチッ、目玉をもぎ取られるんじゃないかと錯覚させられるような咬み合う歯の音が聞こえる。押し倒された志郎を餌にありつく豚のように広野は猛襲した。
「ぐ、ぐおおおおお!」
それに対し、志郎は死ぬ思いで攻撃を防ぎつつ、広野の軍用戦闘服を漁る。しかしもちろんこんな片手間に悪魔の攻撃を防げるわけはない。広野の歯が防ごうとした志郎の腕に刺さった。
「がぁあああ!?」
強力な電流に感電したように痛みのショックが全身を駆け巡る。肉が裂かれる痛みは例え傷が小さくても半端なものではない。普通の人間ならば地面の上を転げ回るような激痛だ。
志郎は歯を噛み締め口を震えさせると、噛まれた腕で広野の歯を防いだまま、もう一歩の腕で相手の軍服をまさぐった。
広野の噛む力はますます強くなっていく。この状態が続けば腕を噛み千切られてしまうかもしれない。
その時、何かが志郎の右手に触れた。冷たい感触――ナイフだ。
「――僕の勝ちだ、広野さん」
志郎はそれを掴み取ると、自分の左腕に食いついている広野の即頭部に叩きつけるように激しく刺した。
「ギュウア!?」
広野は何が頭に当たったのかと横を向こうとしたが、その前にその瞳からは力が抜けた。自分が死んだということも理解することなくこの世を去っていったのだ。
急いで広野の死体の下から抜け出すと、志郎は自分の体を確認した。胸、左足、右足、右腕……どこにも灰色の皮膚は見られない。
「よかった! 助かったみた……――え?」
志郎は自分の左腕を見た。先ほどまで広野に噛まれていた方の腕だ。
「そんな!?」
今その手の中指の皮膚が灰色に染まり出していた。
イグマは他人の体に入るまでは十秒もかかるが、一度体の中に入ってしまえばものの数秒で全身を悪魔に組み替える。志郎は顔面を真っ青にしてっ自分の腕を見た。
――復讐も、友くんらを助けることもかなわずに、ただここで無残に死んでしまうのか!?
あまりのショックに頭がくらくらする。
「何でだよ……!」
志郎はたった一人、雨の降る樹海の中立ち尽くした。
銃口から煙が上がる。
その直線上には穴だらけの頭から黒っぽい血液をだらだらと流す、一匹の人外の生き物が居た。
「――最悪だ」
生き物の様子を見た安形は、放心したように後ろに下がっていく。その手に猟銃は握られていない。それはここから右に五メートルほど進んだ位置に落ちていた。
安形が怪女王に攻撃したタイミングはベストと言えるものだった。悟も、庄平も、下田も、友でさえ勝てると喜んだほどだ。
確かに、これが普通の状態なら、間違いなく先ほどの一撃で怪女王は死んでいただろう。幾らとてつもない化け物と言えども、ショットガンを間近で頭部に打ち込まれては絶対に耐え切ることは出来ない。
唯一誤算だったのは雨の存在だ。
雨によってもたらされた水は沼の水分を増水させ、その中に溜まっていたイグマを小さな小さな川を作ることで土の上を通り周囲に張り巡らせた。水はすぐに口を開けて横になっていた惣一の死体に入り、安定した細胞を求めてその数を増殖していく。
心臓がナイフで突き破られたり、頭に風穴を開けられない限り悪魔は中々死なない。数個の内臓を潰されていたといっても悪魔にはまだ致命傷ではないのだ。
悪魔化した惣一は一番近くに居た安形に襲い掛かり、その銃口の前に飛び出した。それは安形が怪女王めがけ猟銃のトリガーを引いたのとほぼ同時で、見事に弾丸は惣一の頭を突き抜けた。しかしその惣一の体当たりの衝撃で銃は遠くに飛んでいき、怪女王への最大の攻撃チャンスさえも逃す結果になってしまった。
怪女王は銃声によって友と庄平、下田に集中していた注意を正面に戻した。恐らくすぐに蛇腕の凄まじい攻撃が安形に向かって放たれることになる。そんな状態の中、猟銃を拾うことはもはや至難の業としか言えなかった。
「こんなことあるのか!?」
安形はショックから抜けきれないまま、悟らのいる安全範囲まで走りだした。
悟も計画とは全く違う自体に混乱したが、怪女王の腕から安形を助ける為に本能的に冷静さを取り戻した。
「安形さん、伏せろ!」
先ほどのように感覚を活かして安形をサポートする。そのおかげで安形は無事に二人の元まで来ることが出来た。
三人がいる場所はは蛇腕の射程六メートルを超えた場所にある。ここならば怪女王のどんな攻撃もとどくことは無い。
そう、つい先ほどまでは――
鈍い風の音が響いた。
悟は亜紀をかばうようにして間一髪それを避ける。
背後の木が何の前触れも無く伸びてきた蛇腕によってへし折られた。
「な、何でだ!?」
「きゃぁ!?」
抱き合うように土の上を転がる二人。
「大丈夫か!?」
安形は二人に攻撃が直撃したのではないかと心配し、身を伏せながら様子を伺ってきた。
「だ、大丈夫……だけどなんであいつの腕がここまで届いたんだ――?」
折れた左腕が体の下敷きになった所為で激痛が甦る。漏れようとする嗚咽を噛み締め、悟は怪女王に目を向けた。
安形と亜紀も同時に視線を移動させる。
「あいつ、動き出しやがった」
全く同じ位置から動くことのなかった怪女王が、悟、亜紀、安形のいる場所目掛けてゆっくりと歩いている。その所為で射程距離が近づいたのだ。
「とにかく樹海の中に逃げよう、ここに居たらやられるよ!」
亜紀は再び自分を襲おうと、本体の真横で力を溜めている蛇腕をこわごわと見つめた。
「よし、歩けるか?」
安形が悟を支え立たせる。
「またサポートを頼む、俺たちだけだと逃げ切れないからな」
「――いや、逃げない」
「は?」
安形は悟の言葉に耳を疑った。
「あいつは今俺たちに全神経を集中している。今後ろから銃を拾えば、また倒せる可能性があるかもしれない」
「確かにそうだけど、どうやって俺たちで二本の蛇腕を引き付けるんだ。俺は肋骨骨折、お前はボロボロ、亜紀ちゃんにそんなことを頼むわけにもいかなし。実現するのは無理に近いぞ?」
「安形さんは引き付けなくていいです。確実にあの化け物を倒すには銃に詳しい人の方がいい。引き付けるのは僕一人でやります」
「けど、その体でどうやってやるんだ?」
「これが今できる最高の策です。たとえ激痛に苦しんでもやり遂げて見せますよ」
悟は安形の肩から腕をどかし、そう言った。
様子を見ていた亜紀が何かを言いかけたが、その前に悟が制するように言葉を発した。
「亜紀は庄平らとごっつい人にこのことを伝えてくれ。あいつらの助けがないと、これを成功させるのは無理だ」
「……分かった」
亜紀も分かっているのだろう。今はこの方法意外に何の策も無いことを。辛そうな表情をしていたが、それ以上何かを言うことは無かった。
「ビュウオオォォォオオオ!」
怪女王がのしのしと距離を詰めてくる。
「じゃ、死ぬなよ!」
安形は悟を一瞬だけ見ると、後ろに走っていった。蛇腕から逃れる為に森の中を通って怪女王の背後にある銃を取る気だ。それを追うように亜紀も走り出す。
「さて、どうしよっかな……」
ああは言ったものの、実際のところ悟が攻撃を避けることはかなり厳しい。だがここに残っていた三人の中ではこれが一番の役割分担だった。
亜紀の足の速さならすぐに友と庄平に追いつく。これが悟だったのならばよたよた歩いている間に作戦は終わってしまうだろう。
悟は傷だらけの体を何とか動かし、怪女王から離れるために森の中へ逃げた。
「あいつの攻撃を引き付けさえすればいいんだ。死にたいわけじゃないけど……攻撃を引き付けられるのなら例え俺が死んでも作戦は成功だからな」
怪女王の歩く速度はそれ程速いわけではないのだが、悟の歩く速度が遅すぎるのか、今の悟は完全に蛇腕の攻撃範囲内に居た。
「――やばい!」
何かを察知し、悟は近くの木の影に隠れしゃがみ込んだ。その木を二本の蛇腕が急襲する。左右から挟みこむような蛇腕の攻撃を食らった木は、二つの鋭角を作り折れ曲がった。これではその背後に居た悟も無事ではすまない。
怪女王は四本の足を交互に動かし木の前まで来ると、その後ろを覗き込んだ。
「ビュウア?」
しかしどういうわけか悟の姿は影も形もない。一体どこに行ったというのだろうか。
怪女王は周囲に視線を走らせたが、全く悟の姿は見えない。仕方がなく蛇腕の感知感覚器官を利用することにした。
まるで本当の大蛇であるかのように、泥だらけの土の上を蠕動運動しながら蠢く蛇腕。しばらくすると、蛇腕の一本が折れた木から見て後方六十度の位置に何かを感じ取った。
悟だ。
悟は先ほど怪女王の攻撃を感じた瞬間に伏せ、ほふく前進で距離を稼ごうとした。
泥や雨の所為で、上手く怪女王の視界から逃れることはできたのだが、どうやらピット機関を持つ蛇腕だけはごまかせなかったらしい。簡単に見つかってしまった。
「ちっ、もう限界か。速かったな」
悟は腕を高く持ち上げる怪女王を見ながら悔しがった。
その時、いきなり何かが怪女王の頭部に直撃した。形から見るとどうやら大きな石のようだ。
「こっちだ!」
怪女王の背後には庄平が立っていた。ロープと石で作ったハンマーを振り回し怪女王を攻撃したらしい。
「おい、後ろから攻撃するな、安形さんが不意打ちできなくなるだろ!」
一緒に来ていたらしい友が怒鳴る。
「掛かって来い、サナダムシ女!」
友の言葉を無視し、庄平は挑発を続ける。
怪女王は体の向きをこちらに変えると、庄平を睨み付けた。
「安形さんは!?」
悟が怪女王を挟んで友に聞く。
「今下田さんや亜紀ちゃんと後ろの方に隠れてる」
「下田さんも?」
「ああ、俺の策だ。安形さんだけだと失敗する可能性もあるからな。二段仕掛けだよ」
「どういう――?」
「おい、来たぞっ!」
庄平が叫んだ。
途端に、何故か友は怪女王に向かって物凄い速さで走り出す。
悟は不思議がったが、友は馬鹿じゃない、きっと何か策があるのだろうと見守ることにした。
怪女王は当然片方の腕で友の行動を邪魔しようとする。しかし先ほどのような沼と森の間の広間とは違い、ここは完全な森の中だ。まして友は悟と違い大怪我を追っている訳ではない。逃げる速さは悟の何倍もある。
その所為と無数に生えている木の数々が蛇腕の動きを抑制した。友を狙っているはずなのに木に絡まり全く的外れな所に命中する。怪女王は上手く動かせない腕に歯がいさを感じたのか、大きく鳴いた。
「ビュウウウウアアアアァアア!」
それを見た友は走りながら満足げに笑う。
「自然のトラップだ。煩わしいか?」
友はそのまま走る向きを怪女王の右に変えた。
「よし、今度は俺だっ!」
続くように庄平が同じ動きで怪女王の左に移動する。
庄平を追っていた右手の蛇腕は、木の間をくねくねと移動しながらも何とかその後を追った。
「蛇腕を木に絡めているのか?」
様子を見ていた悟は友の作戦に気がつく。
怪女王が攻撃するには一度蛇腕を本体の近くまで戻し勢いを溜める必要がある。これはその戻る速度を大幅に遅らせることが目的なのだろう。
友と庄平はそれぞれ限界まで怪女王の蛇腕を引き付けたらしい。蛇腕は本体の居る場所まで腕を引っ込めだした。
「いくぞ!」
下田が安形の肩を叩き合図を送る。
二人は草陰から飛び出すと、怪女王目掛けて全力疾走を始めた。
木との摩擦の音と空気を裂く音を鳴らせながら、蛇腕は凄い勢いで戻っていく。
「うおおおおおおお!」
下田と安形は決死の覚悟で走った。
「やっれええぇゅえ!!」
庄平が大声で叫ぶ。
悟と友、亜紀が見守る。
とうとう二人は無事に怪女王の足元までたどり着いた。少しだけ遅れて二本の蛇腕が左右の森から出現する。まさに紙一重の戦いだ。
「蛇腕がもう来やがった!」
下田は思っていたよりも遥かに速い蛇腕の戻りに舌打ちすると、腰を落としながら両手を交差し膝の上に乗せた。安形はそれに躊躇なく飛んで片足をかける。
「行けぇえええええええ!」
叫びながら下田は両手を上に持ち上げた。同時に安形も足に力を込める。すると二人の力が重なり、安形は怪女王の顔の真正面に飛び上がった。
怪女王は目を見開きこちらを凝視する。
その目を見ながら、安形は水を滴らせる猟銃に指を掛けた。足元では下田を無視し、二本の蛇腕がすさまじい勢いで自分目掛け上がってくる。
「お別れだお嬢さん」
安形はトリガーを引いた。
銃声が響くとほぼ同時のタイミングで蛇腕が安形に直撃する。安形は口から血を吐きながら地面に落ちた。
「安形さんっ!」
庄平は顔を青くして駆け寄ると、何度も声を掛け揺らしてみた。しかし安形はピクリとも動くことは無かった。
「そんな――安形さん……!」
庄平の目に冷たいものが流れる。
その様子から悟は安形の死を悟った。
「庄平」
悲しそうな顔で友人の名を呟く。
一方、友は力なく座り込んだ怪女王に近づくと、その顔を見た。
無数の穴が命中した所為で原型を留めないほど顔が吹き飛んでいる。どうやら今度こそ倒すことができたようだ。
「どうだ、死んでるか?」
下田が土の上に尻餅をついた格好で聞いてきた。
「これで生きていたら不思議だな、間違いなく死んでいる」
「そうか――倒せたか」
安堵のため息を呟く下田。
「それより、沼の岩の上に居た仲間はいいのか?」
「ああ、そうだな。三本腕を持ち帰るつもりはないが、こんなところには一秒でもいたくねぇ。さっさとヘリでかえろうか」
「折れた木を何本か使えばあそこまで渡れるだろう。すぐに取り掛かろう下田さん」
友は感情が麻痺してしまったのか、不気味なくらい冷静な様子でそう言った。
下田はそんな友を何かを考えているように見る。
「どうした? 早くやろう下田さん。時間がもったいない」
「……ああ」
下田はまだ友に視線を向け続けていたが、その言葉を最後に立ち上がった。
有村は拍子抜けするほど簡単に救出することができた。
沼の付近には怪女王に折られた木が何本か倒れていたため、すぐに簡易的な橋を作ることができたのだ。
目を覚ました有村は下田の顔を見たとたん恐縮したように謝りだした。
「す、すいません下田さん。俺の所為でこんなことに……」
「気にするなと言いたいところだが、神埼と惣一がこの世を去り、俺も死に掛けたんだ。後できっちり償ってもらうからな」
下田は怒りを押し隠したような声で有村を怖がらせた。
「は、はい」
「ところで、あなたたちがここまで来たのは一体なんでなんだ? 怪女王があの電波塔まで行くとは考えられないんだが」
友がずっと疑問に思っていたことを聞く。
「それが、実は悪魔の三形態目に襲撃されたんです。この沼なら悪魔は怪女王を怖がって近づかないので、悪魔を巻くまでの間居ればいいと思って……」
「呆れた奴等だな、それでもプロか? 持ち場を離れるだけでなく足まで引っ張るとは――」
「すいません」
下田の怒りの篭った口調に有村は小さくなる。
下田が有村を問い詰めているのを横目に、悟、亜紀、庄平の三人は森の前の木に腰掛け安形の死を悲しんでいた。
「安形さん……」
深い悲しみからか、庄平はずっと涙を流し続けている。
亜紀も泣く事はないが、顔を膝の中に埋めてずっと伏せていた。
ただ、悟だけは安形の死の前と変わらず冷静そうな顔つきでじっとそんな二人の様子を見ている。
悲しく無い訳ではない。短い間でも命を掛け合った相手だ。悟だって辛い。ただ、あまりにもここで死を見すぎたことと、常に冷静になってしまう悟の正確が泣くことを許さなかった。
ここに来る前なら悟もきっと泣いていたはずだ。
だが、この地獄化した樹海という環境の所為か、殺され殺しを繰り返してきた所為か、悟の中でここに来る前と何かが変わってしまっていた。
その変化は友と同じ物なのか、それとも違うものなのか、今のこの二人が知る術は無かった。
「――ちょっと待て、今何て言った?」
友は突然有村に聞き返した。
「え、すいませんって……」
「違う、それじゃないもっと前の方だ」
「この沼なら悪魔は怪女王を怖がって近づかない――……ってとこですか?」
「――下田さん、怪女王は死んだ。悪魔なら気配やら何やらでそれを感じることが出来るはずだ」
「何が言いたい?」
下田は友のただ事でないような雰囲気を見ると、声を落として聞いた。
友は怯えた表情で言葉を放った。
「悪魔が来る」
「ギュウウウアアアァアアアア!」
友が言い終わると同時に、沼の反対側から悪魔のものと思われる鳴き声が聞こえてきた。かなりの数だ。
「な、何だあの声は!?」
庄平が驚いて飛び上がった。
「悟君!?」
亜紀が悟の腕にしがみつく。
悟の額からはこれまでで一番多い量の汗が噴出している。
亜紀が腕を掴んでいることにも気づかない様子で呟いた。
「逃げろ……!」
「え?」
「逃げろぉぉぉぉぉおおっ!」
「ギュウウウァァアア!」
雨の所為で確実な姿は見えないが、月の光を反射する血走った赤い目だけは目視できる。今、これまでに見たことの無いほどの無数の赤い目が、沼の向こうに蠢いていた。
悟たちは死ぬ気で走った。雨に濡れることも、枝で傷つくことにも構わず。
絶望、恐怖、悔しさ、怒り、後悔、逃げる人間の頭には様々な感情があふれ出す。
全ては迫り来る悪魔第三形態の大群が原因だった。
戦うことを考えもさせないほどのその恐怖の塊は、瞬く間に逃げ惑う彼らとの距離を詰めてくる。
悟らは走りに走り何とか電波塔に駆け込むと、急いで鍵を閉めバリケードを作り、階段を上がっていった。
「何なのあの数は!? 信じられない!」
亜紀が目の水分を拭いながら震えた声で叫ぶ。
「樹海中の悪魔がここに集まったんだな。早くヘリに乗ろう、あの門じゃそう持たないぞ!」
下田がかなり焦っているといった様子で答えた。
「着いたぞ」
悟が最初に屋上に出る。
次に庄平が扉をくぐり抜けようとした。しかし前にまだ居た悟にぶつかり止ってしまう。
「おい、速く行けよ! 今どれだけやバイと思ってんだ」
動こうとしない悟を庄平は怒鳴りつけた。
「……どれくらいやばいかって? 自分の目で見てみろよ」
悟は前を向いたまま腰から黒柄ナイフを抜き取り庄平に答える。
「――……くそったれ!」
庄平は目の前の信じられない光景に、ここに来て最大の絶望をした。
「ギャアアアアァウウウアアアア!!!」
豪雨の中、三本腕の怪物がヘリの前に立ちふさがっていた。
ボスの強さはあくまで
巨狼>怪女王>三本腕です。
ただし、これはボス同士で戦った場合であり、人間が相手だった場合は戦い方や相性も関係してくるので次のようになります。
怪女王>巨狼>三本腕
人間と化け物の強さに対する立ち位置は異なるということですね。