<第十一章> ”巨狼と悟 ”
<第十一章>”巨狼と悟”
「はぁ、はぁ、三体目……」
その言葉と同時に、悟は灰色の肉塊から二本の包丁を引き抜いた。
午後一時、悟が桜川の家を出てから三時間後。家々が並ぶ通路の真ん中に悪魔の死体が一つ寝転んだ。これで町にいる悪魔LV,1はほとんど倒したことになる。
「はは……俺って意外とやるな」
悟は我ながらよくたった一人でここまで戦えたと感心してしまった。志郎の戦法では悪魔一体を倒すのに、最低三人の人間が必要と言われている。これは普通の人間が悪魔の身体機能についていけないという事実を補うために編み出されたものだったが、『感覚』を有する悟にはたった一人でもある程度は戦うことができるらしい。
無論、いくら悟でも生身の人間である以上、正面きって戦えば疲労はするし苦戦もする。悟が三体もの悪魔を仕留めることが出来たのは、全て罠や不意打ちを使ったからだった。
しかも元々は三人でこなしていた役割をたった一人で行わなければならないため、多くの体力を費やすし、罠のタイミングも掴みにくい。確かにここまで無事に生き残ることは出来たのだが、悟自身、それなりの苦労と傷は受けていた。
両手に持った包丁からたれ流れる血と、自分自身の全身の小さな傷から流れる血で紅い衣装を形成しながら、悟は一人、町の中心と西端を結ぶ通りを歩いている。
「確か、桜川さんの家に逃げ込む前に見た悪魔は五匹だった。ってことは残りは四足悪魔が二体か……きついな」
自分の全身を改めて見直す。
所々にある引っかき傷や爪あと、紫色の痣、既に多くのダメージを抱えているのに、これから四足悪魔をまともに相手にしては巨狼と戦うどこでは無くなるだろう。それでは元も子も無くなる。
「……仕方ないか。巨狼用にとっておきたかったけど、ここで使わないと四足悪魔には勝てそうにないからな」
悟は体の向きを反転させると、二、三軒戻った位置にある一軒家に入った。すると、それを見計らったかのように二体の四足悪魔がそれぞれ近所の家の影から出てくる。悟が倒した悪魔の断末魔を聞いて集まってきたのかもしれない。
「ギュウゥゥゥゥゥゥゥウ――……」
四足悪魔らは物欲しげに小さく鳴くと、悟の後を追って一軒家の入り口の前まで進んだ。しかし何故かそれ以上踏み込もうとはしない。本能的に何かを感じ取っているのだろうか。
――どうした? 入って来い。
その様子を家の中から観察する悟。しかし、それでも四足悪魔らは入ってこない。
――仕方ないな……。
このままでは折角の策が無駄になると思った悟は、思い切って悪魔らの前に姿を見せた。玄関とちょうど直線上にある扉を勢い良く開け放つと、電子レンジを全力で四足悪魔らに投げつける。石の代わりの屋内版ハンマーだ。
それは上手く四足悪魔の頭上目掛けて飛んでいった。四足悪魔が前足で電子レンジを叩き落とすと同時に、悟は再び扉の中に隠れる。それを見た四足悪魔は今度は躊躇せずに家の中に飛び込んできた。すぐに悟が閉じ篭っていると思われる扉を執拗に攻撃する。
ガンガンガンガン――
扉が完全破壊されるのに多くの時間はかからないだろう。四足悪魔が拳を強く打ちつけるごとに木製の扉に割れ目が出来ていく。
バタン!
扉がブチ破られた瞬間、どういう訳か玄関の扉が閉まった。
「ギュアア!?」
四足悪魔は背後の扉が閉まったことに驚いたことは驚いたが、それ以上に破った先の部屋に居るはずの悟の姿が見えないことに混乱した。
家の中に閉じ込められた四足悪魔を冷笑しながら、玄関のの外で悟は小さく叫んだ。
「……地獄に帰れ」
言葉に合わせるかのように悟の手からマッチが落ちる。
それは細く線のように引かれていた油の道を辿り、玄関の外から今四足悪魔らが居る部屋、悟が窓から脱出した部屋の『あるもの』目掛けて高速で走りだした。
銀野町のような住民数の少ない町は、水道やガスが引かれていないことが多い。そのため一家に数台大型のガスボンベのようなものを買って使用することが常だ。悟は三体の悪魔を倒しながら、同時にこの町のあちらこちらに巨狼を倒すための罠を仕掛けていた。このガスボンベもその内の一つだ。
油の路線を走ってきた火はガスボンベの蓋に挟んである油まみれの布に停車した。
刹那、大爆発が起こり、一軒家は一瞬にして吹き飛ぶ。青空だった上空は瞬く間に濁った煙に覆われた。
パラパラと瓦礫や灰、埃が舞い落ちる中、悪魔のようにその飛散物で体を灰色に彩った悟はゆっくりと立ち上がった。
「やったか――……?」
想像以上の爆発によるショックで激しく波打つ心臓の音を感じながら、四足悪魔の気配を探る。一体は仕留められたらしく、もう一体も微かに生命力は残っているものの、どうやらかなりの傷を与えることが出来たようだ。瓦礫の中から這い出てきた四足悪魔は両足が吹き飛んでいた。
「せっかくの俊足もそれじゃお終いだな」
用心しながら両手に包丁を構える悟。
「ギュウウルアア!」
四足悪魔は焼け爛れた体を逆間接の前足で引きずりながら、威嚇のつもりなのか憎悪の篭った目で悟を見上げた。いくら進化した四足悪魔とはいえ足が無ければたいしたことは無いだろうと、悟はその威嚇を無視し包丁を振り下ろした。
しかし、その考えは間違っていた。
四足悪魔は前足の力で大地を蹴ると、逆立ちのような格好で飛び上がり、その下半身を猛烈な勢いでぶつけてきた。油断で感覚に全く気を使っていなかった悟は、まんまと四足悪魔の攻撃を食らってしまった。
「ぐああ!?」
膝から先の無い四足悪魔の太ももが肩を強打し鋭い痛みが体中を駆け巡る。だが骨が折れたかどうかも確認する間もなく、続けざまに四足悪魔の次の攻撃が迫ってきた。
二人で地面に倒れたまま四足悪魔は太股で悟の胸を固定すると、そのまま一気に獲物の足に噛み付こうとする。
「うわっ!?」
汚らしい歯が肉を裂く直前に何とか足を引っ込めると、悟はその動きのまま膝蹴りを四足悪魔の顎に食らわせた。
「ギュッ!?」
相手が怯んだ隙を利用し、悟は両手の包丁をそのまま相手の腰に挟み込むかのように突き刺す。
「ギュアアアア!?」
――くたばれっ! くたばれっ! くたばれぇえっ!!
泣き叫ぶ悪魔とは正反対に、無言で力を込め続ける悟。
包丁を振り切るために四足悪魔は前足を使って力任せに体を反転させると、強引に悟と向かい合おうとした。その所為で悟は相手に刺したまま包丁を離してしまう。
――くそっ、武器が!
途端に高笑いはしないもののどこか嬉しそうな四足悪魔の顔が寄ってくる。悟の首にしゃぶりつく魂胆のようだ。
――じょ、冗談じゃないぞ!?
悟は手ぶらとなった左腕で四足悪魔の首を絞めた。
しかし分かってはいたものの、悟の細い腕力では悪魔の力の前に当然のごとく効果が無い。数秒もしない間に四足悪魔の歯が悟の首筋に触れた。
だがその瞬間、高く、空高く、夥しい量の血液が空中に飛び散る。紅い雨を連想させるその水滴は、地面に重なっている二つの物体にゆっくりと降り注いだ。
「――危なかった……!」
自分の腕で血の噴出す首を傾けた悪魔四足悪魔を見つめながら、悟は溜息を吐いた。
四足悪魔の腕力が自分を遥かに凌駕していることは分かっていた。首を絞めても何のダメージを与えられないことも。
悟が手を伸ばしたのは只の時間稼ぎのためだった。左手を添えることで例え僅かだろうと右手が自由になる時間を作りだし、その間に腹の前に括り付けていた包丁を抜いたのだ。
十秒秒感染をしては堪らないと、悪魔の死体を無造作にどかした後、悟は大きく深呼吸をした。
「ふう、これでやっと巨狼を倒すための罠作りに入れる」
擦り傷や引っかき傷、赤紫の痣、僅かだが首元に食い込んだ悪魔の歯型。度重なる悪魔との戦いで悟の体は既に大分痛んでいた。本来ならば間違いなく数時間は休んだ方がいいと言える体調だ。
だがそんな状態にも関わらず、悟は亜紀に対する心配のためか、殆ど休むこともせずに罠を仕掛けようと歩き出した。
力の無い、疲れきった足を動かして。
扉が強打される轟音が周囲一帯を取り巻いた。
壁を挟んで隣の、友たちがいる部屋の中にも音は届いている。その大太鼓を叩くよな扉の振動音に負けないように、庄平は精一杯の大声を張り上げた。
「友! 何で三本腕がここにまたいるんだよ、あいつ生きてたのか!?」
「分からない。もしかしたら一体だけじゃないんじゃないか? 可能性でしかないが、悪魔のように感染増殖するのかもしれない」
「――……っ、イミュニティーのやつらよくもこんな怪物の隣に押し込んでくれたよ!」
丁度一日前の惨事を思い出し、鳥肌を立てる庄平。
「ちょっと、何なの? この音!? 何が隣に居るの!?」
「今度は何なんだ!?」
やっと安心できたと思ったのも束の間、いきなりの異常事態にどきもを抜かす優子と安形。
「……おかしいな、三本腕は麻酔で眠らされていたはずだ。こんなに早く起きるわけは無いんだけどな?」
唯一現状を理解している志郎は一人だけ冷静に座っていた。
「博士、何で三本腕が隣に居るんっすか!? いや、そもそもどうやってあのデカい図体が狭い部屋に入れたんです!?」
庄平は思い浮かべた質問を次から次に志郎に問い出す。
「おいおい庄平くん、落ち着いてくれ。こんな時こそ冷静にならなきゃ駄目だよ」
「いいから、どうなってるんすか!?」
殺されかけた恐怖心と、この狭い空間で隣に三本腕がいるという恐れから、庄平は興奮していた。その様子を見た志郎は仕方なく説明を始める。
「広野が本部への手土産として三本腕を捕獲してたんだよ。部屋に納まったのは只単にまだ完全体じゃないから。君たちが遭遇したのは成長しきった成体だから大きかったんだろうね」
「完全体――……三本腕にも悪魔のような進化段階があるんですね?」
博士の言葉に、それなりに冷静さを保っている友が応じた。
「ブラックドメインから生まれた殆どの生物がそうだよ。幼虫、、成虫みたいな感じでね」
「悠長にお話するのもいいが、どうするんだ? そのうちあいつは扉を突き破ってくるぞ」
得たいの知れない怪物に対する恐怖心で、安形は少し声を荒げた。
「これだけ騒いでいるんだ。もうすぐイミュニティーの誰かが駆けつけて、また麻酔を撃ってくれるさ。ほら、言った傍から来たよ」
志郎の言葉と時を同じくして、三つの部屋と地下広間を繋げる廊下に下田と二人の人間がスプレーのようなものを持って走ってきた。
「こいつ何でもう起きているんだ!? 大人しくしろ!」
全員で麻酔が大量に入っていると思われるスプレーを、扉の隙間から三本腕に吹き付ける。
「ギャイアアアアア!」
一霧で象も向こうの世界へ羽ばたいていくほど高濃度の麻酔を吸い、三本腕はすぐに大人しくなった。先ほどまでとは打って変って静かになる廊下。
「寝たか……?」
イミュニティーのメンバーの一人、茶髪にエラばった顔の男が確認の為扉の隙間からその中を覗き込んだ。
ジュルルルルッ!
「ぐぉぉおおっ!?」
その瞬間、いきなり隙間から根っこのような触手が蛇のようにうねりながら現れると、男の首を締め出した。ギリギリ、ギリギリと次第にその力は強くなっていく。
「神崎!」
メンバーの他の人間が慌てて触手を離そうと試みるが、まるで効果は無い。神崎という名の男の顔は見る見るうちにトマトのようになっていった。
「惣一、どけ!」
下田は力任せに前に立っていた男を退かすと、大型ナイフの一振りで真っ二つに触手を切り裂いた。
途端に神崎の首を絞めていた触手から力が抜ける。
「ゲホッ、ゲホッ――……!?」
「クソ、麻酔が効かなくなっているのか?」
咳き込む神崎を尻目に、下田は尚も暴れ続ける三本腕を驚愕の眼差しで見つめた。
「お、俺、広野さんに知らせてきます!」
「ああ、さっさと行け。俺はできるだけ時間を稼ぐ」
この場から逃げるかのように立ち去る惣一を一瞥すると、下田は今にも鍵が吹き飛びそうな歪んだ扉を押さえつけた。
「お、おい! 何かヤバそうだぞ!?」
少しだけ開けた扉の隙間から様子を見ていた庄平は、下田らが押されているのを理解し、振り返ってそう言った。
「だったら逃げるなら今しかないね。あの怪物が檻から出てくる前に地下広間の方に移ろう!」
「でも、勝手に逃げたらイミュニティーとの契約破棄にならないですか?」
志郎の言葉に不安感を持ったのか、優子が顔をよせて聞いてきた。
「別に逃げ出そうっていうつもりじゃないんだ、大丈夫だよ。ほら、早くしないとあいつが出てくるよ?」
鈍い音とともに三本腕の部屋の扉の一部に穴が開き、触手が這い出す。うねうねと蠢くその動きに悪寒を感じる優子。
「……どうやらそうみたいですね」
「話は決まった。行くよ!」
志郎は扉を勢い良く開け放つと、下田の背後を素通りして地下広間へと駆け抜けた。それにくっ付く形で優子も続く。傍から見ればそれはまるで志郎を壁にしているかのように見えた。
「なあ、安形さん……なんかあの女性格悪くないか?」
「ん? そうか?」
庄平はこれまでの優子の振る舞いから感じていたことを率直に言った。
「何してる? 庄平、行くぞ」
「……おう!」
友と同時に駆け出す庄平。安形はその背中を見ると、部屋に残っている最後の人間を見た。
「お前は逃げないのか?」
視線のは一人部屋の隅っこに座っている福田に向いている。三本腕の扉が破れるまで僅かな時間しかないのにも関わらず、福田は微動だにしなかった。
「おい……? お前大丈夫か」
無言で一点を見つめている福田の様子を不思議がる安形。
安形のこの言葉に、福田はうつろな表情で振り向いた。
「俺の所為だ……俺の所為で大森はあんな姿に――……」
「大森? 三本腕のことを言っているんだな」
「俺があの時逃げねで戦っていれば――大森は……」
「よく分からないが、とにかく今は逃げよう。ここに居たら死ぬぞ」
安形は半ば引きずる形で福田を廊下に連れ出す。
「駄目だ! もう持たない!」
それは下田が三本腕の扉から離れ、地下広間に逃げ出したのとほぼ時を同じくしていた。
「ギャゥアアアアア!」
響き渡る恐ろしく冷たい音調。
刃物を突きつけられているような、銃口を向けられているようなそんな声。
安形と福田の目と鼻の先に、三本腕が飛び出した。
午後7時。
銀野町東部、町の入り口。
悟は松明を片手に真っ暗になった森を見つめていた。
――出来るだけの用意はした。絶対に上手くいくはずだ……!
自分を落ち着かせようと、心の中で暗示のように同じ言葉を繰り返す。
何度も、何度も、不安を打ち消すために。
「よし、……やるぞ」
とうとう意を決したのか、悟はゆっくりと町の外へと足を踏み込んだ。
どれくらい町から離れれば巨狼が姿を見せるのかは分からないが、それほど遠くは無いはずだ。暗い樹海の夜道を歩きながら悟は感覚に意識を集中させた。
ドックン、ドックン――……
不自然なくらい無音な暗黒世界の中、己の心音のみが聞こえる。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……はぁっ……――」
まだ何もしてい無いのにも関わらず、息は既に荒くなり始めた。
――何て緊張感だよ……心臓に悪すぎる。これじゃ最後まで持ちそうにないな。
足を進めるごとに額からは冷たい汗が流れ、既に激戦の後のように見える。
ガサッ!
急に背後で物音がした。悟は素早く振り向く。
「――っ!?」
特殊な感覚を持つ悟が背後に迫る悪魔に気づかないはずは無い。当然、後ろに居たのは悪魔でもなんでもない只のネズミだった。
「はぁ……何だよ。紛らわしいな」
安心感から大きくため息を吐く悟。
ダ……ダダ……ダダダ…………
その時、突然振動と共に地響きのような音が聞こえてきた。
「……来たか」
悪魔よりも、四足悪魔よりも、三本腕すら上まる圧倒的な危機感を全身にヒシヒシと感じつつ、悟はじっと目を見開き巨狼に備えた。
ダダダダ……ダダダダ……ダダダダダダ……――
本能が逃げろ、逃げろと何度も耳打ちする。
足が震える。
体が寒気に襲われる。
ありとあらゆる感覚器官が命の危険を知らせてきた。
――まだ駄目だ――まだ……!
巨狼の恐怖だけでなく、自分自身の感覚とも戦いながら、悟は必死に歯を食いしばる。
ダダダダダダダダ……ダダダダダダダ……
徐々に大きくなってくる地獄のドラム。
ダダダダダダダダダ……――ダンッ……
突然、足音が止まった。
瞬く間に静寂に包まれる暗黒の森。
どこを見渡しても闇、闇、闇、闇――……一切の光も無い。まるで本当に地獄に来てしまったかのようだ。
だが、視界も、音すらも何もないこの地獄でたった一つだけ機能する感覚があった。
神から与えられたものか、偶然の産物か、今の悟にはその存在理由を知る由も無い。只一つ言えることは、これが命を繋ぎとめてくれるということだ。
頭の奥に高い音が響く。第六の感覚が、数十メートル先に光る黄色い二つの瞳を見つけた。
「あ、あれが巨狼か!」
「ガルァアアァァアアア!」
悟を視認した巨狼は元となった狼の機動力を活かし、瞬く間に襲いかかってきた。
悟は巨狼が動き出すのに合わせて全力疾走を開始する。
「速い!」
想定していた速度を軽く上まる巨狼の四足移動に驚く。
元々の予定では、逃げながら巨狼を町までおびき寄せるつもりだったが、このままでは到底実現できないだろう。町までまだ二百メートルはあるかというのに、巨狼は既に悟のすぐ後ろまで迫ってきている。
ブォンッ!
巨狼の鋭いナイフのような爪が背後の空気をかすめた。
「っあぶねぇ!?」
自分の首が吹っ飛んだかと錯覚させられるほどのそのスウィングの凄まじさに、悟は胆を潰す。
――これじゃ、町まで持たない……!
身の危険を感じた悟はリュックから町で作った火炎瓶を取り出した。チリンッ、とガラスのぶつかる音がする。
「食らえ!」
ライターで火をつけた後、悟はそれを背後の巨狼に向かって思いっきり放り投げた。ガラスが割れると同時に火の手が上がる。暗闇に輝くその炎は巨狼の前胸部を痛めつけた。
「グァルアアアアー!?」
――どうだ!? ブラックドメイン生まれなら火が苦手なはず!
だが悟の思いとは裏腹に、火のおかげで少しは距離が開いたものの、巨狼は動きを止めようとしなかった。
「グルルルルルルル!!」
むしろより一層速度を加速させてくる。
「な、こいつ、火に強いのかよ!」
――博士はブラックドメイン生まれの生物は火に弱いと言っていたのに、何でにこいつは平然と追いかけてくるんだ? まさか、こいつ……この樹海で生まれた生き物じゃないのか!?
生存者を町へ閉じ込めたり、悪魔を追い込んだり、どう考えてもこの巨狼には最初から不自然な点が多かった。悟が巨狼の行動に対して疑問を感じ出るのは当然の反応だろう。
「くっ!」
巨狼の一薙ぎが頭上を通り過ぎ、右側の木をへし折った。町までは残り百メートルといったところなのだが、どうやらこれ以上逃げ切るのは無理のようだ。
ダッ!
巨狼の追撃を横に飛び転がってかわすと、悟は木の影に隠れた。
「はぁっ、はぁ……はぁ……」
ドシン……ドシン……
重量感のある足音が暗い森に響く。
顔を出せばすぐに見つかってしまう為、悟はその音だけで巨狼の位置を認識した。
ドシン、ドシン、ドシン――……
――俺を探してるな。どうする? 町まで引き付けるのはこのままじゃ無理だ。何か策を練らないと。
「グルルルル――」
考える時間が欲しい悟には都合の悪いことに、臭いを辿っているのか巨狼は確実に悟との距離を詰めていた。
――や、ヤバい! 本気で何の案も浮かばない……――どうすればいいんだよ!?
無我夢中でリュックを漁る。
「何か無いか? 何か――!?」
ドーン!!
いきなり悟が隠れていた木がなぎ倒された。巨狼が棘だらけの尾を叩きつけたのだ。
「うぁああっ!?」
リュックに手をいれしゃがんでいた悟は奇跡的にその攻撃を食らわずにすんだ。もし立っていたのなら背骨の骨が折れるくらいでは済まなかっただろう。
「くっ、少しくらい待ってくれよ!」
悟は慌ててリュックを背負うと、一目散に町目掛けて駆け出した。
――こうなった以上、リュックにある残りの火炎瓶三本と、ライターと虫除けスプレーで作った火炎放射器で何とかやり過ごすしかない。
汗だくになって走りながら、背後に向って火炎瓶を続けて投げつける。
「グラアアァア!」
その度に怒りの雄たけびを上げつつ、距離を離しては戻し、離しては戻すを繰り返す巨狼。
町まで残り五十メートルといった距離まで来たところで、とうとう悟は火炎瓶を使い果たしてしまった。
「もう無いのか!? くそ、今度はこれだ!」
自己作製の火炎放射器を構え、巨狼の接近に備える悟。
――絶対に町まで逃げ切ってやる!
残り三十メートル――。
ガチンッ!
巨狼の牙が咬み合う音が耳元で鳴り、悟は振り返らずに火炎放射器を放射した。
ボオオオオオ――
残り二十メートル――。
「ガルルルルルル!」
巨狼が身の毛もよだつ叫び声と共に大きくジャンプした。飛び掛って爪を振り下ろすつもりらしい。
「うえぁあぁぅああ!」
何と言っているのか聞き取れに無いような雄たけびを上げて、それを横にかわす悟。直前まで悟が立っていた位置に大きな爪跡ができ、土が抉れた。
ぞっと感じる気持ちを無視し、すぐに悟は息切れする体を強制的に奮い立たせて逃走を再開する。
残り十メートル――。
「間に合ええぇぇぇえ!」
逆転がかかったベースーホームに突撃する野球選手顔負けの飛び込みで、悟は町の入り口にラストスパートをかけた。
「ガアアァァァアアアッ!」
巨狼も勢い良く再び爪を繰り出す。先ほどとは違ってその爪は完全にタイミングを得ていた。間違いなく悟を直撃するコースだ。
漆黒の剣のような爪は悟の皮を、肉を裂き、頭蓋骨を砕いた――……はずだったのだが、何故かそれは実現しなかった。
悟の頭まであと数十センチメートルといった所で、急に巨狼の姿が消えたのだ。
滑り込むようにして町の中に戻った悟は、体を寝かせたまま巨狼の姿にほくそえんだ。
「はぁ、はぁ……ははっ、掛かったな!」
巨狼は地面にめり込むようにその全身を地下に沈めていた。地上から六メートルほど下に真っ黒な塊となって倒れている。
時は戻り、午後三時。悟は樹海の目の前にある一つの家の前に立っていた。
その家は建築途中だったらしく、地下室を作る予定でもあったのか地下数メートルの穴を掘ったところで作業が止まっていた。
「これ、使えそうだな」
悟はそれを見てすぐに罠への利用を閃いた。
まず、穴の底に木の枝や箒と包丁で作った槍、桑などを固定し、その隙間にガスボンベを数本油まみれの布を挟んだ状態で置く。さらにその上に近くの家の倉庫から持ってきたベニヤを並べたものを置いた。
こうすれば、悟が上を通っても下に落ちることは無く、巨狼のような体重の大きい生き物だけが罠に掛かるのだ。夜になれば暗闇の助けもあり中々この罠には気がつかないだろう。
「ガルルアアアアア、ガゥアアアア!?」
「はぁっ、はぁっ……――俺の勝ちだ。アホ犬」
大声で暴れる巨狼を見据えて、悟はマッチを穴に投げつけた。
巨狼はマッチが投げ込まれる前に何とか逃げようとするも、無数にそこにセッティングされている槍などが足に食い込み、幾らもがいて穴から抜け出せなかった。
マッチは油だらけの布の上に落ちると、一瞬にして炎を増殖させる。
「――っ!」
悟はそれを見るとすかさず穴から遠ざくように地面に伏せた。
数秒の時間差で雷鳴のような爆発音が轟く。それが治まるとすぐに無数の土砂が中を舞い、茶色の雨を降り注ぎながら土煙を形成した。
真っ黒な夜を照らす赤い火と、モクモクと白煙が立ち上る中、悟は静かに立ち上がった。
充満する煙で巨狼の残骸は見ることが出来ないが、穴からは何かか動く気配も、『感覚』の反応も無い。
悟は巨狼の死を確信した。
「いくら火に強いっていっても、流石にこれには耐えられなかったみたいだな」
大きく深呼吸をして、連続で動き続けていたため疲労の限界にあった体力を落ち着かせる。
――これで吉田さんは助かる。
悟は巨狼を倒そうとした目的を思い出した。
鈴木と川本が約束を守るかどうかは正直怪しい。だが、悟には考えがあってワザとこの巨狼囮作戦を引き受けていた。
あのまま巨狼が存在する状態で亜紀が人質に捕らえられていれば、確かに亜紀の命は危なかっただろう。外に出ても死ぬ可能性が大きかった鈴木と川本は、恐らく躊躇なく亜紀を殺したはずだ。
だが、巨狼が存在しなくなることで、今二人に生きるという選択肢が生まれた。そして生きるためには亜紀の解放を望んでいる白井と桜川の敵意を無くす必要がある。無理やりに亜紀を連れて行くことを白井と桜川が許すわけが無いし、亜紀を殺せばなおさら逃げにくくなるだけだ。
だから二人が何の抵抗も無くこの町を出る為には亜紀を解放するしかなかった。
「――ふぅ……」
――一応大丈夫だとは思うけど、早く吉田さんの無事を確認しないと……。
悟は自分が亜紀に特別な感情を抱いていることに薄々気ずき始めていた。冷静に策を省見て、無事の可能性が高いにも関わらず、すぐに亜紀の元へ向かいたくてしょうがない自分がいる。
「俺らしくないな。こういうの……」
軽く笑いながらため息を吐くと、悟は桜川の屋敷へと足を向けた。
突然、頭の中に稲妻のような何かが走った。
「――――嘘だろ!?」
悟が血の気の引いた顔で振り返ると、白煙の中から玄色の巨大な狼が、生命を象徴するかのようにゆっくりと立ち上がった。
「ガルアアアアアア!」
ガスボンベの爆発前と変わらない恐ろしい雄たけびが上がる。所々焼きただれて中の肉が見えているものの、身体機能的には何の損害も無いらしい。巨狼は平然と穴から這い出た。
「な、何であれで死なないんだよ!」
戦意喪失になろうとする意識を何とか繋ぎとめるも、無意識の内に悟は一歩退いでいた。
お互いの姿を目視し、しばし見つめ合う一匹と一人。
キッ!
巨狼の黄色い目が突然光るように鋭くなった。足の血管を浮き出させ僅かに踏ん張ると、巨狼は悟目掛けてその身を投げ出す。
ほぼ同時に、悟は巨狼に背を向け全力逃走を開始した。
真ん丸の瞳に金色の短髪、不自然に目立った鼻のピアス。
そこまでは以前と何も変わらない。普段通りの大森だ。
だが、少し距離を置いて見れば明らかにその姿が変化しているということが分かる。
両肩から二メートル近く伸びた棘に覆われた二本の腕に、全身を体内から突き破ったかのごとく無数に生えている根っこのような触手。そして、生みの親と同じく象徴的な背中から聳え立つ第三の腕。
もはやどこから見ても人間のものとは呼べない姿だ。
大森陽一、いや、今は三本腕という名の怪物は現在狭い廊下に閉じ込められていた。
「まだ前に居るのか?」
安形はソファーや椅子、本棚などで固定したバリケードの合間を縫って、三本腕の姿を扉の下の隙間から見た。
バンッ!
するとすかさず三本腕の第三の腕が扉を強烈に叩いた。
「――居るみたいだな」
もう何度も今と同じ行動を繰り返したためか、目の前で大きな音が鳴ったことに意も解さず安形は落ち着いてコメントする。
「いつまでここでこうしていればいいんだか。お前、福田だったか? 何か話そうぜ。さっきから俺が独り言を言っているみたいで嫌なんだよな」
福田は死んだ魚のような瞳を見開きながら、無言で下を見つめる。
「……ああそう」
盛大なため息を漏らすと、安形は扉の方に向かって大声を出した。
「庄平くん! 友くん! 何かいい案は浮かんだかー?」
向こうも地下広間の扉の前に陣取っているのか、返事はすぐに返ってきた。
「あるにはあるんですけど、ものすごく危険っすよー!」
「一応言って見てくれー!」
「広野さんと下田さから聞いたんっすけど、三本腕は前に使った麻酔に対して抗体を持っちゃったらしんっす。だからコッチにある別の種類の麻酔を、直接三本腕の体内に注射器で注入すれば、また新しい抗体を作り出すまで時間を稼げるんだそうです」
「直接注射器で? さっきみたいにスプレー噴射は駄目なのか?」
「それがこの麻酔は空気中で気化しちゃうらしんっすよ」
「……そういうものもあるのか。で、誰が注射するんだ? 危険てことはまさか……――俺か!?」
先ほどの庄平のセリフを思い出して、安形は目を見開いた。
「安形さん、三本腕は今あなた方の目の前にいるんだ。こちら側の俺たちが注射器を持って近づくより、そこからあなたが直接打ち込んだ方が成功の可能性が高い。――ホント言うと、ライターを使えれば確実に倒せるんだが、広野さんが許してくれないから今はこの策しかないんだ」
友が簡潔に説明した。
「……それなら仕方ないな。俺たちの命よりも怪物の命の方が大切か。まあ、今更言う事でも無いけど」
安形は広野らに皮肉を込めていうと、三本腕にバレないように扉の下の隙間から視線を地下広間の方へと向けた。
「こっちは準備できたぞ。注射器を寄こしてくれ!」
「じゃー、いきますよー!」
庄平の声と共に、裸の注射器が向こうの扉の隙間からこちらの扉の隙間へと、地面を滑って送られてきた。運良く三本腕には気づかれなかったようだ。
安形はパシッとそれを手の中に収めると、素早く扉から離れた。
「おい福田くん、逃げる準備をしとけ。麻酔がすぐに効くとも限らない。万が一三本腕がここに入ってきたらまずいだろ?」
福田は全く微動だにせず黙り込んでいる。
「……そうやって一人で悲観にひったっているのもいいけど、それは今じゃなく家で一人の時にやれよ。辛いのは分かるが、他人に迷惑をかけたりするな」
「……――うるせえよ。迷惑だと思うなら俺なんかほっといてテメー一人で逃げろよ」
「こんな状態で言うのは場違いかもしれないが、俺はこれでも警官なんだ。民間人を放って置く事なんて出来るか。いいから言うとおりにしろ、このアホ垂れ!」
安形は片手で福田の胸元を鷲掴みにすると、無理やり立たせた。
「――っち、この筋肉馬鹿が!」
「何とでも言え、生きてこの場を出られたら好きなだけ聞いてやる」
子供のように睨んでくる福田の視線を流すと、安形は扉のノブに手を置いた。
「庄平くん、友くん! 念のためそっちの扉もすぐに開けられるようにしておいてくれ!」
「分かっている。安心して取り掛かってくれ」
既にバリケードを崩し終わっていた友が応じた。
「よし、やるぞ!」
ガチャリ――
安形は出来るだけ静かに扉を開けた。三本腕は友が向こうで立てたらしい物音に気をとられ、こちらに気づいていない。
――いいぞ、そのままそっちを向いたままでいてくれ!
安形は小部屋から出ると、そろそろと三本腕の背後へ回る。
「食らえ!」
注射器は三本腕の第三の腕の付け根目掛けて、一気に刺し伸ばされた。
「っ!? ギャアウアアアアア!?」
背面の刺激に異常を察知した三本腕は、ぐるりとその体を回転させる。
安形は全身の筋肉をフルに使い、元の子部屋へと走ったが、部屋に入る直前という所で両肩を三本腕の体から伸びた腕に掴まれた。
「うわぁ、は、離せ!」
そのまま三本腕は身動きできない安形を持ち上げると、背面の腕を硬く握り閉める。殴り殺す気のようだ。
掴まれた肩からはミシミシと骨の軋む音が聞こえ、それだけでも意識を失いそうなのに、巨大な第三の手で殴られたら堪ったものではない。安形は無我夢中で抵抗したが、三本腕の力の前では無意味に等しかった。
「止めろ大森!」
今まさに第三の腕が振り下ろされようとしたとき、開いたままの扉から悲痛な表情をした福田が出て来た。
「止めろよ。大森――」
「……がっ!? 何してる……逃げろ……!」
怪物となってしまった大森に福田の声が届くはずは無い。安形は福田の身を案じ、痛みに歪んだ顔で逃げるように促した。
三本腕はいきなり出現した新しい獲物に気を取られ、拳を上に固めたまま止まっている。
「俺たち、確かにろくな人間じゃないけどよ。薬やケンカはしても、――……人殺しまでするようなイカれた馬鹿じゃないだろ?」
三本腕は観察するようにじっと大森を見ている。
「俺が悪かった。怖くてしょうが無かったんだ。俺があの時銃で戦ってさえいれば――お前は……!」
「そいつはもう大森じゃないんだぞ! 早く逃げろ福田!!」
地下広間の方で庄平が叫んだ。
「俺はお前を、――松本を、宮元を本当のダチだと思って……――」
ドン!
福田の胸を三本腕の拳が強打した。
「福田ー!」
安形と庄平が叫ぶ。
「……大、森……」
福田は口から大量に吐血すると、小部屋の中に吹っ飛んでいった。
「くそ、この怪物め! もうイミュニティーの利益なんて知るか! 友、ライタをーをよこせ!!」
自分の目の前で人が死ぬことに耐えられなくなった庄平は広野の命令を無視し、三本腕を殺そうとした。
「駄目だ庄平。三本腕を殺せば命令違反になる」
「な、何言ってんだよ!」
友の冷酷な言葉に耳を疑う庄平。
「俺たちはもうイミュニティーの人間なんだ。命令を破れば殺されるんだぞ」
「そんなこと知るか、早くライターを渡せよ!」
面白そうに背後から見ている広野らを無視し、庄平は怒りの表情で友に掴みかかったが、友は一向に動こうとはしない。
「助けたい気持ちは分かるが、ここで死んだら、ただの無駄死だ。俺たちが殺された後、安形さんが平気でイミュニティーとやっていけると思うか? 分かるだろ、ここで三本腕を殺したら全滅して終わりなんだ」
「分かるかよ!」
「ああっ、安形さんが!」
いきなり優子が叫んだ。
庄平と友が振り返ると、安形の頭上に今にも巨大な拳が振り下ろされようとしていた。それを見た庄平は友のリュックをもぎ取ると、扉を大きく開け放ち三本腕目掛けて走り出す。
「――っ庄平!」
庄平は見る見る中に三本腕との距離を詰めていく。
――絶対に俺の前でこれ以上、誰かを死なせてたまるか!
リュックからライターを乱暴に掴み取ると、右手に持ち火を発生させる。三本腕はその気配に安形から注意を逸らしこちらを振り向いた。
「ギャゥウアァァアア!」
「うおおおおおお!」
庄平は光の帯を作りながらライターを前方に押し出す。同時に三本腕も頭上に掲げた第三の腕を、庄平目掛けて振り下ろした。庄平の腕よりも三本腕の攻撃に方が速かったのだが、その巨大な拳骨が庄平の頭を粉砕する直前、いきなり三本腕の動きが止まった。
安形を掴んでいた両腕が離される。
ドサッ!
糸の切れた人形のように安形は地面に落ちた。
「……はぁ、はぁっ、麻酔が効いてきたのか……!?」
「安形さん、大丈夫ですか!」
火の付いたライターを用心深く三本腕に向けたまま庄平が安形に駆け寄る。
「俺は大丈夫だよ。心配かけたな」
「……無事でよかったっす!」
庄平は満面の笑顔で心底嬉しそうにそう言った。
三本腕は仁王立ちしたまま、機能停止したロボットのように動きを止めている。それを見た安形は肩を抑えながら、ゆっくりと小部屋の床に伏している福田に歩み寄っていった。
辛うじて命を繋ぎとめている福田の前に腰を落とすと、安形はお礼をいった。
「ありがとう、福田くん。お前のおかげで俺は助かった。お前が時間を稼いでくれなかったら、間違いなく死んでいたよ」
それを見た福田は無表情で答える。
「俺は……テメーのために大森に話しかけたんじゃねえ……! 俺は――ただ、あいつを助けたんだ……」
「それでも俺が助かったことは変わらない事実だ。――ありがとう」
「……ち」
福田はぜえぜえと、激しく呼吸をしながら、不機嫌そうにそっぽを向いた。
足音が聞こえてきた。友や広野らがこちらに歩いてきているのだろう。それを理解した福田は指で安形に耳を貸すように合図すると、小声で話しだした。
「言っとくが、これはお前らを助けたいから……言うんじゃねえぜ。俺がただあいつらに一泡ふかせてやりたいだけだ」
「何だ?」
「地下広間のモニター前に黒くて細長いケースがある。そこに俺が持っていた猟銃が……入っている。それを手に入れられれば……少しは希望が見えてくるだろうよ」
「銃? どういうことなんだ福田?」
安形は何故福田が銃を持っていたのか聞こうとしたが、その前に福田は息を引き取ってしまった。もうその口は全く動こうとはしない。
「死んだのか?」
僅かな時間差で背後から広野の冷たい無機質な声が聞こえた。
「……ああ」
安形は同じくらい感情の無い冷たい声でそれに応じた。
「そうか。あ、その男は別に必要な人材でも何でもなかったからな。処理する手間が省けてよかったよ」
「この野郎――……!」
庄平が拳を握り締める。
「庄平――」
友がすまなそうに庄平の肩に手を置いた。
「……分かってる。何もしねーよ……!」
その様子を満足そうに見ると、広野は高らかに声を出した。
「さて、また三本腕が目を覚ましても困る。この一時的な隠れ家ももうおさらばと行こう。下田、すぐに出発の準備に取り掛かれ! 電波塔へ向かう」
「分かりました」
友は一瞬下田から殺意のようなものが広野に向けられた気がしたが、あまりにも一瞬だったので気のせいだと思うことにした。
すぐに別のことが頭に浮かぶ。
「――悟は……今どうしてるんだろうな」
銀野町内、町の中心広場にある白井の家。悟は今そこに身を潜めていた。
窓から巨狼がのしのしと通りを歩いているのが見える。先ほどの爆発で鼓膜が潰れたのか、巨狼はいくら物音を立ててもこちらに気づかなくなったが、その代わりこれまでのような知能的な行動を取らず、悪魔のようにただ悟を追う怪物と化した。
「あれほど町に入ろうとはしなかったのに……どういうつもりなんだ? まるで爆発前と雰囲気が違う……」
悟は巨狼の態度の急変に違和感と驚きを覚えていた。
「怒りで我を忘れたって訳でも無さそうだしな」
思案にふけりながら見続けていると、グルンと突然巨狼の眼球がコッチを向いた。黄色い目と真珠のような黒い瞳が交差する。
「ヤバい、見つかった!」
悟は一目散に駆け出す。
小さな家の玄関から悟が飛び出した直後、巨狼の巨体によってその家は背面から粉砕された。
「グルルルルルルル!」
「――くそっ!」
狂気を含んだ目で執拗に追いかけてくる巨狼から、死にもの狂いで逃げる悟。巨狼が通れそうにない小さな路地や家の隙間を走り必死に距離を開けようとするも、ことごとく巨狼はそれを破壊し後を付いて来た。
「……っ!」
悟は十字路のカーブで曲がったように見せかけると、そこの横にある一軒家に飛び込み隠れた。数秒後、狙った通りに巨狼は通りの先へと走っていく。
「……はぁっ、はぁ……はぁ……――」
――落ち着け、こういうときのために色々と罠を仕掛けていたんだろ。それを使うんだ。
悪魔との連戦、巨狼との戦い、精神的、身体的疲労はもはやピークに達していたが、まだ生き残る可能性を信じて、悟は諦めずに策を練った。
「ここから一番近い罠は――あの雑貨屋か。よし!」
座っていた体を起こそうと立ち上がりかけたが、途端に転んでしまった。足に力が入らないのだ。
「ははっ? ……なんか思っている以上に体は限界らしいな……」
あまり一つの場所に留まっていては巨狼が臭いを辿ってやってきてしまう。悟は玄関の壁に手をついて何とか立ち上がった。
「もう何個もの罠を使えるだけの体力は残っていないか。――まともに戦えるのは次で最後だな」
溜息混じりに静かに扉を開ける。巨狼はもはや聴覚を失っているので静かにする必要は無いのだが、恐怖から自然とそうしてしまった。出来るだけ体力を温存する為に悟はかなりのスローペースで雑貨屋まで歩く。
雑貨屋の全体が見える位置まで来ると、遠くの方で「ズドン」という大きな音が響いた。
「……あの犬また転んだな」
巨狼は悟を探して町を走り回っていたが、広い道を走行中にいきなり足が何かに引っかかり体制を崩して転んでしまった。悟が昼にロープを家と家の間に張っていたのだ。
「グアアアアル!?」
転んだ先には無数の槍や尖った物体が地面にセットされていたため、巨狼が倒れるとそれが体中に刺さった。鮮血が傷口から迸る。
最初のガスボンベ爆発から始まり、町中に張り巡らされた今のようなトラップ――。
悟の目から見ればまるでダメージの無いように見えた巨狼も、度重なる罠によって実はかなりの損傷を負っていた。
巨狼は大げさにもがいた後、槍を体中に刺したまま立ち上がる。鋭く細められた黄色い目は体中の痛みと、いつまでたっても殺すことのできない獲物に対し、強い憎しみを表していた。
その思いをぶつけるために、すぐに臭いを頼りに獲物を探す。
「ガルオオオオオオ!」
悟の居場所が分かったのだろう。巨狼は狼のように伸びのある雄たけびを上げると、目を血走らせ激走しだした。
「さあ――……これで最後だ。アホ犬め、掛かって来い」
耳に侵入してきた雄叫びの方向を睨みつけながら、悟は両手に包丁を構えた。町の中心広場に立っていると、西の道先から巨狼が猛烈な速度で迫ってくるのが目に入る。
「ガルアアアアアアア!」
丁度映画などでよく目にする、車と車が度胸試しに相手めがけて疾走する姿と似た状態だ。
直撃すれば全身がバラバラになるような巨狼の突進を横にかわすと、悟はライターを取り出した。
「これでお前はここから出られない」
素早くそれを背後の雑貨屋へと投げ込む。
ドンッ!
大きな爆音がなる。床に油を引いていたのか、ガスを溜めていたのか、雑貨屋は見る見るうちに燃えていった。しかもそれだけでは終わらず、悟は他の家にも同様の仕掛けをしていたらしく、雑貨屋の炎は巨狼を囲むように広場中の家に広がり円を刻む。
次々に爆発し、燃え上がっていく家、家、家、家――――。
真っ暗だった空が一気にオレンジ色に照らされる。
「グギャンッ!?」
まるで火炎の檻に閉じこめられたような現状に巨狼は初めて怯えたような素振りを見せた。
「もう何の罠も無い。正真正銘、一対一だ。いくぞ、アホ犬」
決意を込めた目で巨狼を見つめる悟。
巨狼は恨めしげに鳴くと、悟目掛けて飛びだした。
「ゴガァア!?」
だが、すぐに走るのを止めてしまう。
巨狼の図体では全力で走るにはこの広場は狭すぎた。少し足に力を込めるだけで一気に火の檻の端まで移動してしまう。
巨狼が火に強いといってもそれはあくまで悪魔と比べての話だ。有機生命体である以上、ある程度は火に対して恐怖心を持っている。全力で動けば目の前に火炎の壁が飛び込んで来るため、当然巨狼は自由に動けなくなった。
「ぉおおっ!」
その隙を見計らって、悟は何度も巨狼の足に包丁を切りつける。脂肪で斬れなくなったり、折れたりしたらリュックから新しい物を取り出し、残り少ない体力が続く限り巨狼を攻め続けた。
元々罠のおかげで血だらけだった巨狼の足は、悟の斬撃でますます傷ついていく。
自分の足元をちょこまか動き回る悟を憎たらしげに見ると、巨狼は両手の爪や足踏みで殺そうとしたが、全身の傷、自由に動けないことに加え、悟の第六感のおかげで殆ど命中することは無かった。
――何か行けそうだぞ!
自分が巨狼と渡り合っている現状に、悟は勝利の可能性を感じる。完全に捨て身、相打ち覚悟で挑んだこの戦いにも僅かだが光が見えてきた。
「ガルアアアア!」
だが突然、自分の生命の危機を感じたのか、巨狼は暴走とも言えるようなものすごい攻撃を始めた。
その攻撃は既に悟を狙ったものではなくなり、何に対する攻撃か判別がつかないようなほどメチャクチャに振り回されている。左右の爪はそこら中に引っかき傷を作り、棘に覆われた大きな尾は道路や建物に小さなクレーターを生み出した。
この猛攻を悟は避け続けるしかなかった。
「くそ、キレたな! このままじゃまずい!」
あまりこの状態が続くのはいくら特殊な感覚を持っている悟でも厳しい。間違いなくそのうち限界が来るだろう。
悟は何とかして今のうちに決着をつけなければと焦った。必死に考えをめぐらす内に三本腕との戦いを思い出す。
庄平が死に掛けたこと、友が上に乗ったこと――。
「上? 頭に包丁を刺せれば勝てるだろうけど……上手くいくか?」
巨狼の爪が真横の地面を砕く。
「――――やるしかないか。元々博打みたいな戦いだったんだ。最後に一か八か賭けてやる!」
悟は巨狼の尻尾が自分に向かって振り下ろされたのを見計らってそれに飛び乗った。
――十秒感染の危険がある以上、チャンスは数秒しかない。絶対に失敗はできない!
巨狼の背をジャングルジムのように駆け上る悟。だがもちろん巨狼もそれを黙って見てはいない。体を縦横無人に振り出したのだ。
「ぐううー!」
悟は振り落とされないように無我夢中で巨狼の背にある棘を掴みながら、ゆっくりと駆這い上っていく。
「うぁあぁあっ!」
そしてとうとう巨狼の首元まで辿りついた。
首はもっとも揺れが激しい部位だ。悟の体も大きく揺れ、何度も手が外れそうになる。巨狼が首を横に勢い良く傾けると同時に、右手が揺れに負けて巨狼の首から離れた。こうなると後はもうただ黙って振り下ろされるのを待つしかない。
しかし、体が巨狼から離れる直前、悟の左手に輝くものがあった。
「くたばれえぇえー!」
悟は自分の全てを込めた渾身の一振りを、巨狼の脳天に振り下ろしたのだ。
「ガリュアアァァアアッ!?」
これまで巨狼が発した鳴き声の中でもっともボリュームの大きい音が木霊する中、巨狼の最後の足掻きで悟は近くの家の残骸に吹き飛ばされた。
「ぐあああぁあっ!?」
燃え盛る瓦礫の合間、全身を強打した悟は頭から血を流すと意識を失った。