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<第一章>地獄の尋問

初めての小説なので文章力がぜんぜん無いです。

どうか暖かい目で見てください。



<第一章> ”地獄の尋問”




 唯一存在したのは、歓喜の感情だった。

 それまで全てだと思っていた世界が突如開けたのだ。ある日、一立方メートルにも満たなかったその空間に地震によって地上へと出るためのほんの小さな道が生まれた。それはねずみ一匹取れるかどうかの大きさしかない小さな隙間だったが、『中に居た生物』にとっては十分極まりないものだった。

 もしも彼らが人間だったのなら満面の笑顔を浮かべるところだが、顔どころか脳すら持たない単細胞生物のその生物に、そんな表現方式は存在しなかった。

 彼らは自分を待ち受ける新しい世界へ向けて、本能のままに行進した。上へ、ひたすら上へと。

 そして長い道のりを超え彼らが地上へ足を踏み入れた瞬間、周囲の生態系全てが、一変した。






 尋獄 しんごく(BLACK DOMEIN)







 わずらわしいくらいに暖かい風が吹いている。

 曲直悟まなせさとりはその風をバスの窓から顔面一杯に受け止めていた。

 現在の季節は夏。それも八月の前半という、猛暑の真っ只中だ。本来ならば窓を固く閉め、クーラーでガンガンに冷やした車内でゆっくり睡魔をむさぼりたくなるような暑さだ。悟だってできるものならそうしたかった。ゆっくりと寝ていたかった。

 窓を開けるという原始的で酷く非効率な手段を取らざる負えなかった背景には、所謂いわゆる大人の事情というものが存在した。

 少子化が騒がれる今のご時勢、名門でもない高校や大学は金銭面で大きな痛手を受けていた。悟が在籍している連門大学れんもんだいがくもそのひとつだ。去年まではごく一般的なクーラー付きのバスをレンタルしていたらしいが、極力節約を行うという学校側の方針により、今年度からは聞いたこともないようなマイナーな会社の、いつ止まってもおかしくないようなオンボロバスを借りることしかできなくなってしまった。外観はまだ整っているものの、内部はかなり酷い有様で、冷暖房が使用できないことは勿論、車内のあちらこちらに傷や汚れ、さらには落書きまであった。よくこんなバスで商売をしていると思えるほどだ。

 今回のような大学の合宿でもない限り絶対にこんなバス会社は利用しないだろうなと、悟はため息をはいた。

「早く帰りたいな……」

 まだ目的地に着いてもいないのに口癖のようにその言葉ばかり漏れる。正直、憂鬱もいいところだった。

 行き先が熱海や京都などの観光地だったのなら、ここまでやる気がなくなることはなかったのかもしれない。もう少しはわくわく出来たのかもしれない。だが、それは所詮叶わない夢だ。死にかけたバスで山奥にある大学のキャンプ場へ移動する。それが実際の状況なのだから。

 連門大学所有宿泊施設『浮世荘』。それが目的地の名前だった。

 キャンプ場といえば聞こえはいが、別にテントを張って生活するわけでも、星を眺めながら根っころがるわけでもない。二十年ほど前までそこは民間のホテルだった。経営が上手くいかず廃業し競りに出されていたところを、当時まだ裕福だった大学の理事会が、合宿や研究施設として利用するために買い取った場所だった。

 元々はホテルだったこともあり、内装はかなり綺麗だ。各部屋にベットや机、冷蔵庫が存在するなど、生活面でも利便性も高い。だが、ただひとつだけ問題点があった。富山樹海に近すぎるのだ。

 それが理由で購入されたのだが、実際に利用してみると数多くの問題が浮上した。

 野生の動物の襲撃、うつろな目をした人々との遭遇、食料の確保の困難さ。とくに、動物の襲撃はかなりの頻度で起きていた。農業科の学生が畑を作れば次の日にはほぼ全ての野菜が消え去り、生物科の学生が豚や鳥を飼えばそれまた次の日には哀れな姿となって転がっていた。学生たちや用務員は毎日のようにその被害に悩まされていたが、しかし不思議と人間が襲われたなんて事件は一度も起きなかった。野菜はまた埋めれば育つし、動物も夜は屋内へ仕舞えば何とかなる。だから、多少面度だとは認識しつつも、それほど大した問題にはなっていないというのが、実際の状況だった。

 


 時計の針が二時を指す頃、とうとうオンボロバスはこの浮世荘に到着した。休む間もなく悟が在籍している生物学科の学生達は、次々に荷物を運び始める。

 まだ昼間だという事もあり、日の光が爛々(らんらん)と輝き青空が広がっていた。

 悟は眩しそうにその光を見た。熱を押し付けるように、自分の全身を黄色い陽光が取り巻いてゆく。光は他の者たちと同様、悟の姿をはっきりと地面の上に照らし出した。

 眉まである緩やかなカーブを描いた癖毛の黒髪、男にしては大きな目と長いまつげ。このままでは少し女の子のようにも見えるのだが、人よりも僅かだけ太めの眉のおかげで精悍さ、凛々しさを保っている。服装は黒と白のジャージ姿と今回の合宿に対するやる気の無さがありありと表にでていた。

 しばらくその光を物思い気に見つめると、悟は静かに歩き出した。

 バスから浮世荘までは五百メートルほどの距離がある。その間の道を通りで荷物を運んでいく間に悟は何か妙な寒気を感じた。

 その冷たい獲物を狙うような感覚は、どうやら右側の樹海の方から来ているようだった。

「何だこの感じ……肉食動物でも居るのか?」

 全身の産毛が危険を感じ逆立つ。

 悟には昔から、特殊な特技というか才能というか、一種の特殊能力のようなものがあった。俗に言う第六感というやつだ。

 別に幽霊が見える訳でも、未来が読めるわけではない。それは命の危機や自分に対する殺気などを感じることができるという、よくわからない感覚だった。

 悟はこの才能のおかげで、小さい頃はよくいじっめこや不良などの待ち伏せから逃れていた。時には感覚を生かして相手の攻撃を読み、一発も拳を受けないで相手を諦めさせるんなんてこともあった。あまりに避けるのが上手すぎて、ナマズ男と呼ばれたほどだ。

 その特殊な感覚が今も何かを感じている。

 悟はもっとよく調べようと樹海の方へ一歩踏み出した。別に怖いもの知らずだからというわけではなく、自分がこのまま進んで背後から潜んでいた何かに襲われることを恐れたからだ。

 だがもう一歩踏み込もうとしたところで、背後から肩を引かれた。

「何やってんだよ悟、後ろがつっかえてんだ早く進めよ」

 それは、悟と同じく連門大学一年の大井田庄平おおいだしょうへいだった。

 再び前を向くと、もう先ほどまでのような脅威は感じなかった。

「ああ、悪い」

 悟は慌てて歩き出した。恐らく猪か何かだったのだろう。庄平の声に驚いて逃げたのだと考え、悟は速度を速めた。



 特に特別な行事をすることもなく時間は過ぎ、学生達は夕食のために食堂に集まっていた。

 食堂は非常に大きく高校の体育館ほどの広さがある。入り口から入って左側では食事当番が一生懸命に料理をお皿に盛っており、右側に設置された長方形のテーブルでは学生達が談笑していた。

 食料を乗せたお盆をテーブルに移動させた後は、しばらくの間誰もが暇になる。教師か代表の学生が挨拶を行うまで何も食べることができないのだ。

 暇そうに食堂の窓から樹海の方を見ていた悟は誰かが向かいの席に座ったことに気がついた。

「やあ、ここいいか?」

 爽やかな声でこちらに話しかけてくる。

 悟がその人物に目を向けると、大学内最高成績優秀者と名高い国鳥友こくどりゆう先輩がこっちを見ていた。

 ミドルヘアーとロングヘアーの中間のような長さを持つ、黒に近い茶色の今風の髪型に、一般的な男性としては細長い目と眉。服装は青と白のチェックのポロシャツに黒いズボンと、いかにも優等生といった井出立ちの男だ。

 周りの席はどこも埋まっており他に先輩が座れそうな場所は無い。悟はあまり初対面の人間と話したい気分ではなかったのだが、仕方がなく承諾した。

「いいですよ」

「俺は国鳥友こくどりゆう、君は?」

 友は明るく聞いてきた。

曲直悟まなせさとりです。よろしく国鳥先輩」

「ああ、よろしく」

 女の子が見たら一発で惚れてしまうような爽やかな笑顔を見せながら、友は答えた。

「君は友達はどうしたんだ、合宿に一人で居るなんて珍しいな」

「ここには知り合いがあまり居ないんですよ。今、仲いい奴らは食事当番だし」

「知り合いが居ないって?」

「あ……、実は僕は最近学校にき始めたばかりで……」

「え? 何でだ?」

 友は心底驚いたと言った様子で聞いてきた。

 正直悟はあまりこのことには触れたくなかったが言い出したのは自分だ。今更話題を変えるわけにもいかないので話を続けた。

「入学してすぐの頃に両親が離婚したんです。それで学費のことや住む家のことで色々と忙しくて」

「そうか、悪いことを聞いたな。ごめん、俺が不注意だった」

 意外にも友はそれ以上聞いてこなかったので、悟はほっとした。話を変えるように彼は別の話題をきりだした。

「そういえば、悟くん。君はもう聞いたか?あの話」

「何のことですか?」

「高橋 志郎って知ってるか?」

「ええ、確か国際的に有名な生物学者ですよね。人口細胞を作り出したとか言う……」

 悟が言い終わる前に友は口を挟んだ。

「そう、その人だよ。実はさ、その有名な高橋さんが今日この連門大学のキャンプに呼ばれてるんだ」

「え、本当ですか? でも何でこんな所に?」

「それは俺も不思議なんだ。もっと高い給料払ってくれる大学はいくらでもあるはずなんだが、何だってこんな二流大学に来てくれる気になったんだろうな」

 高橋志郎といえば生物研究、特に細胞研究をしている科学者や学生の憧れの的だった。彼は学生の頃から既に天才として報道され、多くの研究を発表していた。二年前にはES細胞(人口細胞)の開発にも成功し、ノーベル賞を取ったことはまだ誰の記憶にも新しい。そんな有名人がこの大学に来るなんて普通ならばありえないことだった。

 悟はもっと詳しく話を聞こうと思ったが、全員の食事の準備が終わったのか、院生の一人が食事の挨拶を始めた。中学、高校ならともかく、大学でこういうことは珍しい。悟は苦笑いしながらも彼の話を聞くことにした。

「――……ええ、それでは最後になりますが、ここで皆さんに残念なお知らせがあります。ご存知の方も居るかもしれませんが、実は本日特別講師としてこの浮世荘に高橋志郎博士をお招きしておりました」

「ええ、マジかよ!」

 ここで一部の学生が歓声を上げた。

「――ですが、予定時刻を過ぎてもお越しに成らず電話も繋がらないといった状態のため、高橋博士の講義は取り合えず延期に成りました」

 さきほど盛り上がった学生達が今度は皆一様に落胆の声を漏らす。それを見て友が残念そうに呟いた。

「俺も色々と話を聞きたかったんだけどな」

「まあ、明日があるじゃないですか」

 悟はあまり関心が無いと言った感じで彼に相槌を打った。これは今に始まったことではなく、昔から悟はどこか冷めたような性格の持ち主だった。流行の歌、流行のアイドル、女優に噂話――多くの学生が喜ぶようなものにも特に興味を持たず、いつも一歩引いて傍観していることが多かった。

 そうしてしまう理由は、なんとなくわかっていた。

 悟の両親は昔からケンカをすることが多かった。二人の間に悟が巻き込まれるのも日常茶飯事だった。時にはケンカの理由にされ攻められることもあった。

 そんな生活を毎日続けていれば、自然と人と深く関わることを避けたくなる。

 怒号。

 誹謗中傷。

 暴力。

 泣き声。

 そんなものに関わるのはこりごりだった。

 だから悟はえて自ら心を閉ざし、人々の輪から抜ける道を選んだ。





 樹海の真っ只中。そこに灰色の作業服に身を包み、同色の日避けの帽子を被っている小太りの男が居た。目の周りには深い皺が無数に刻まれ、口は上下とも細長く横へ膨れた頬まで伸びている。

 山田五郎、44歳独身。

 彼はいつもの様に樹海の見回りをするはずだった。不法投棄物を処理したり、自殺願望者を見つけては説得したりするのが彼の主な仕事だった。しかし今日に限ってはそんな仕事をしてる場合ではなかった。

 まるでこちらを押し潰そうとするかのように、並んでいる樹木に囲まれた闇の中、今五郎は走っていた。

 メタボリックシンドロームによって膨れあっがたお腹が重りとなり、四十歳を過ぎた体からは脂汗が滝のようににじみ出ている。

 途中で木の枝が足を傷つけたが、彼は一向に構わず走り続けた。何故ならば五郎は逃げていたからだ。自分を追うある存在から。

 すぐ後ろに迫り来る何かの気配を感じた五郎は、振り向きざま猟銃を発砲した。しかしその弾丸が相手に当たることはなかった。どういうわけか追手の姿は消えていたのだ。

「ど、どこだ!?」

 五郎は慎重に辺りを見渡した。彼の息使いは荒く、まるで大怪我を追った怪我人のようにも見える。今この森の中で、その呼吸音だけが辺りに響いていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 そのとき、何者かが五郎の肩を掴んだ。

 いきなりのことにぎょっとした五郎は相手を見ず銃を発砲しようとしたが、その前に銃口は相手の手によって反らされてしまった。これでは撃っても当たらない。

「畜生っ!」

 五郎は覚悟して目をつぶった。自分の人生はもうこれまでだと絶望する。

 だが、いつになっても相手は襲ってこなかった。

 不思議に思った五郎はゆっくりと目を開けた。恐る恐る、子犬のような目で。

 視界に写ったのは、緊張し険しい表情を浮かべた男だった。

 歳は五郎よりも上だろうか。少し凹んだ頬と太い下唇を囲んでいる薄い髭が目に付く。長く横に広がるような中髪には白いものがいくらか混ざっているのだが、力強く凛々しい太い目だけは真っ直ぐにこちらを見つめている。

 どうやら五郎を追っていたモノではないようだ。

「ここは危険です。ついて来てください」

 男は切羽詰まった様子で五郎に言った。

「あ、あんたは?」

 五郎がさっきの自分の醜態を隠すように強い口調で尋ねると、男は静かに答えた。

高橋志郎たかはししろうです」



 生物学科の八代洋子やしろようこ鈴木卓真すずきたくまの二人が二人で外に出て行ったということを聞いても、とくに悟は何も感じなかった。最近通学しだした悟にとってはまったく知らない人間だったからだ。だが、前から二人を知っている庄平はそんな悟の態度にも構わず一人勝手に盛り上がっていた。「やっぱりあの二人できてやがった」とか何とか大声で叫び、高いテンションで畳の上を飛び回っている。悟が二人のことをよく知らないことはよく分かっているはずなのに。

 今この二人、いや正確には五人がいるのは浮世壮の宿泊用の部屋だ。一LDKほどの大きさの中に五人も居るものだから狭くて仕方がない。ただでさえ常夏で暑いのに、五人がこもっているおかげで恐らく室内温度は四十度近いんじゃないかと悟は思った。

 もう時刻は十一時を過ぎていたのだが、部屋が暑い所為せいと慣れない環境のため、寝ることが出来ている者は一人も居ない。

 悟は昼間バスの中でも寝れなかったため少しイライラしていた。体は寝たいのにどうしても寝れない。これは結構、精神的に疲れることだった。

 苦しんでいると同じ部屋の仲間である鈴野が悟に話しかけてきた。彼は赤と黒のかなり悪趣味なパジャマを見事に着こなし、生まれつきであろう常に笑ったような顔を崩さず保っている。

「曲直、お前も寝れないのか?」

「ああ、こう暑くちゃな。逆に寝れる方が珍しいだろ」

「はは、確かにそうだな」

 鈴野はかなり軽い男だ。人見知りと言うものを知らない。遅れて通学してきた悟はこの鈴野の軽さに救われていた。

 ほとんどの人間がグループを作っている中、悟は一人で居ることが多かった。両親の離婚のショックもあり、話しかけずらい雰囲気をまとっていたのだろう。誰もが悟を避けていた。

 だが、鈴野は違った。

 ある日悟が大学のラウンジでジュースを飲んでいると、何の前触れもなく鈴野は突然話しかけてきた。

「よう、お前だろ? ずっと休学してた奴って」

 悟は最初絡まれてるのかと思い無視しようとしたが、相手が調子に乗ると考えたので不機嫌そうに返事をした。

「だったら何だよ? 何か用か?」

「両親離婚したんだってな」

「ああそうだよ。だからなんだ? お前には関係ないだろ」

 後で聞いた話だがこのときの悟の顔はものすごく怖かったらしい。今思うとよく鈴野は逃げずに話を続けたものだ。

「俺もさ、両親が離婚してるんだ」

「は?」

 悟はすっとんきょーな声を上げた。

 よく話してみれば何のことはない。鈴野は自分と同じ境遇を持つ悟と話したっかただけらしい。自分の態度を思い直して悟は急に恥ずかしくなった。

 それからだった。鈴野と悟がよく話すようになったのは。

 鈴野のおかげでいつの間にか悟の周りにも人が増えていた。庄平と仲良くなったのもその頃だ。

 だから悟は鈴野に感謝していた。

 いつまでも一緒に馬鹿をやっていたかった。

 だが、このときはまだ知らなかった。

 その望みが決して叶わなくなるなんて。






「いったいこの樹海で何が起きているんだ!?」

 五郎は気が動転しそうなの無理やり抑えて志郎に聞いた。

「今はまだ何とも言えない。ちゃんと確認しないと……」

「確認? いったいあんたは何を言ってるんだ。さっきのあいつは何なんだ!?」

 あからさまな怒りの表情を浮かべながら、五郎は怒鳴った。しかしいくら質問しても志郎は言葉を濁すだけで、決して口を開こうとはしない。

 今、二人は洞窟のような所に隠れていた。この洞窟は滝の下にあるため、中々見つけにくい。ここならばかなりの時間をやり過ごせると志郎が提案したのだ。もうここに隠れてから大分立つが、五郎はまだ不安を消すことができず、ずっと外の様子を見ていた。

 それほどの恐怖を自分を追っていたモノから植えつけられたのだ。この恐怖はそう簡単には消えそうになかった。

「くそっ」

 いい加減しびれを切らした五郎は単身で人が居るところまで逃げることを考えた。

 ――このままこの得体の知れない男とここに居るなんてごめんだ。確か近くに大学のキャンプ場があったはず。

 だが五郎が洞窟から出る前に志郎がその腕をつかんだ。

「待つんだ」

「離せ、俺は一人で逃げる。こんなところであんたと心中なんてごめんだ!」

 振りほどこうと腕を強く自分のほうへ振る。

「見ろ」

 志郎は無言で外を指差した。洞窟の外は半径二十メートルほどの円形状に開けた場所となっており、草木が生い茂っていた。その周囲は無数の樹木に囲まれている。五郎が視線をそこに向けると、洞窟から十メートルも離れてない位置に自分を追っていたものが立っていた。

「うっ!?」

 不意打ちの出現に息を呑む。

 志郎は自分たちが見つかってないことを確認すると、じっくりとそいつの観察を始めた。

 五郎も、彼に釣られるようにまじまじと『それ』に目を向けた。

 一見すると鹿のように見えるが、よく見ると血管が浮き出た皮膚や体毛はどす黒く変色し、全身の毛が逆立っている。頭部に目を向けると、通常は考えられないくらいに血走った眼球が今にも飛び出しそうなほど大きくなり赤い涙を流していた。

「何なんだあいつは――……」

 初めて追っ手の姿をじっくりと見て、五郎は全身を震わせ情けない声を漏らした。

「やはりこういうことだったのか」

 何かを確信するように志郎が呟く。

 五郎たちはそのまま鹿の怪物に気づかれる前に洞窟の奥へと戻ろうとしたが、何かを目で捕らえた。

 一組の男女だ。

 外見から考えると、恐らくは志郎が講義をするはずだった連門大学の生徒だろう。二人とも怪物鹿にまったく気がつかない様子で川に沿ってこちらに近づいて来ていた。






 八代洋子と鈴木卓真は最近やっと結ばれたばかりのカップルだった。

 洋子の家は父親がかなり厳しく、娘の恋人は学力優秀な人間でないと絶対に交際を認めないと決めていた。

 卓真はどちらかと言えば成績は悪い方だ。見た目も金髪に腰パンとどうみても軽そうなチャラ男だった。

 洋子の父がそんな卓真を認めるはずも無く、二人は引き裂かれた。

 だが、卓真は洋子を諦めることなんてできなかった。洋子に会うために必死に勉強した。

 そしてとうとう特別奨学金を貰えるほどまで成績をあげ、服装もちゃんとした社会人の物を着始めた。

 卓真の誠意が伝わったのだろう。洋子の父もとうとう二人の交際を認めた。

 それからしばらく二人は幸せの絶頂にいた。お互いに相手以外何も見えなくなっていた。

 だからかもしれない。

 二人は目の前に行くまでその怪物には気がつかなかった。

 怪物鹿は獲物を見つけると歓喜の声をあげた。勢い良く、洋子に向かって突撃していく。

 それは一瞬だった。

 洋子は何が起きたかわからない間に既に死んでいた。怪物鹿の角が心臓を貫いたのだ。

 卓真は唖然としてそれを見ていた。つい今の今まで自分と手をつないでいた人が、永遠の愛を誓った人が一瞬のうちに動かない肉の塊となっているのだ。正常な思考を保つ方が無理と言うものだろう。

 怪物は洋子の亡骸を振り捨てると一目散に卓真へと向かっていった。

 卓真はまだ放心状態だったものの、怪物鹿が自分の方に向かって来るの見て恐怖した。

「うわああああ、来るな!?」

 自分の体を貫こうとする灰色い角を両手で必死に押さえる。だが怪物鹿の力は強く、卓真は近くの木に押し付けられた。卓真の背中に激痛が走るが、それでも角を掴んだ手は離せなかった。離した途端に体を貫かれるのは目に見えている。



 洞窟からその様子を見ていた志郎が叫んだ。

「まずい、あのままじゃ――」

「俺が助ける!」

 急に使命感のようなものを感じた五郎は若い男の元へ駆け寄ろうとしたが、またしても志郎に止められた。

「っ離せ!? 見殺しにする気か!」

「十秒経った……もう手遅れだ」

「何言ってんだ!?」

 なおも駆け寄ろうとする五郎を志郎は必死に止めた。

「見ろ!」

 志郎のその声と共に五郎が卓真の方を見ると、向こうではある変化が起きていた。男の体が徐々に手から腕へ、腕から全身へと灰色に染まり出している。まるであの怪物鹿の様に。

 二人が見守る中、若い男は怪物鹿とほとんど変わらない姿へと変貌していた。男の全身が完全に灰色に染まりきると、怪物鹿は不思議なことに襲うのを止めた。

「何がどうなっているんだ?」

 五郎はわけがわからないといった様子で呟いた。

 二人が顔を見合わせているうちに、いつの間にか怪物と男だったモノが消えていた。

「連門大学キャンプへ向かったんだ……あそこは獲物が大勢いるから」

 悲壮感ただよう声で志郎が言った。

「おい、いい加減答えろ、一体何がどうなっているんだ!?」

 五郎は今答えなければ殴り殺すかのごとく物凄い勢いで志郎の襟を捻りあげる。

 志郎は首を絞められて咳き込みながらゆっくり答えた。

「地獄だよ、地獄がやってくる……!」







 悟は夜中の一時まで起きていたもののその後結局は熟睡し、起きたのは昼一歩手前の十一時近くだった。

「やばい、寝すぎた」

 部屋には既に当たり前だが誰もおらず、悟ただ一人だった。

「酷いな。誰か起こしてくれよ」

 顔面を覆いつくすのではないかと思うほどの大きな欠伸をしながら、悟はゆっくりと着替える。黒いジーパンに白シャツ、そしてその上に茶色いワイシャツ型の長袖を着た。

 暑い暑いと言っているのに何故長袖を着るのかと疑問に思われそうだが、これは悟の癖みたいなものだった。Tシャツだけで十分なのだが長袖を着ないと妙に落ちつかない。

 着替え終わると取り合えず自分が今出ているはずだった講義の部屋へと向かうことにした。一階に降り、部屋へ行く廊下の途中にあるロビーに辿り着くと、急に人溜まりが現れた。

 ――何かあったのか?

 しばらく眺めていると、何度か会話をしたことがある人物がいた。連門大学のマドンナと名高い佐々木舞だ。

「佐々木さん、何かあったの?」

 悟は彼女に人溜まりの理由を聞くことにした。

「あ、曲直くん、それがさぁ、大変なの!」

 佐々木は事件が起きた事に驚いているというよりは、面白がっているといった様子で話し出した。

 中々本題に入らないので悟は少しうんざりしたが、最後まで聞くとどうやら次のような内容だった。

 教師達は昨日の夜に洋子と卓真が山中デートに行ったという話を誰かから聞いたようで、2人が帰ってきたら取っちめてやろうと計画していたそうだ。

 今朝の三時を過ぎた頃に卓真がふらふらと戻ってくるのを見た教師の一人が、早速卓真を詰問しようとした。だが、その教師は卓真を取っちめる前になんといきなり卓真に喉を食いちぎられそのまま絶命してしまったのだ。すぐに他の教師が卓真を取り押さえようとしたが、卓真は信じられない力で教師達を振りほどきそのまま他の人間を襲おうとした。

 慌てた教師達は急いで浮世壮内へ逃げ戻り、扉を閉め鍵をかけた。

 この事件のせいで講義は全て中止になったらしい。行き場のない学生達がこのロビーに集まるのは当然だった。部屋にじっとしているより他人と噂話したり情報交換しているほうがずっと気が楽だからだ。

「――……でね、教授達の話だと卓真君は狂犬病にかかったみたいなんだって。山に行っている間に野犬に咬まれったって」

「狂犬病……」

 悟はその言葉を聴いたとき何故か先日の樹海での殺気を思い出していた。

 ――あれは野犬っだったのか? それにしては妙に寒気がしたけど……

「ん? じゃあ卓真はまだ外に居るの?」

 悟は急に卓真のことが気になって聞いた。

 佐々木はまだ話足りないといった様子だったが、質問されたので仕方が無く答えた。

「それがさぁ、実は誰もわかんないの。入り口を閉めてから誰一人怖がって窓に近づかないし。教授たちは地元の警察に来てもらおうとしたんだけど、何でか電波が繋がらないんだよね。あ〜あ〜、私も美香に電話したかったのにさ」

 美香というのは佐々木の妹だ。何度か話に出てきたことがある。

「電波が繋がらない?」

 樹海内とはいえ、この浮世壮には十分外部と連絡が取れる設計が施されている。電波が途切れることなどありえないことだった。

 悟は急いで自分の計帯電話を見てみたが、佐々木の話の通りアンテナは一本も立ってはいなかった。

「どうなってるんだ。こんなときに都合よく電波が繋がらないなんて……?」

 嫌な予感がしつつも、悟は何となく周囲を見渡した。すると偶然他の学生とソファーの上で談笑をしていたある男と目が合った。かなり短めの短髪に短い眉毛、真丸とした優しそうな目。緩々の短いズボンとロングティーシャツを着たその男は、同室の大井田庄平だった。

 悟に気づいた庄平はすぐにこちらにやって来た。その小走りがハイヒールを履いたOLのダッシュみたいで少し笑ってしまった。

「おぅーい、悟も起きたか! もう事件のことは聞いたのか?」

「ああ、今聞いたところ。でも本当なのか?」

「疑いたい気持ちは俺もわかるよ。でも嘘じゃないらしい。さっき矢崎教授の遺体を確認してきたからな」

この言葉に悟は驚いた。

「まさか、庄平お前外に出てきたのか?」

「ばか、そんな訳ねえだろ。お前が寝ている間に三階の窓から見たんだよ。あそこはちょうど事件現場の見える位置だからな」

「ああ、そういうことか」

 悟は一瞬焦ったことを後悔した。少し考えれば外に出なくてもいくらでも遺体が見れることは明白だ。

「で、卓真はまだ居たのか?」

 悟はさっきから気になっていることを聞いた。

「俺が見たときは居なかったぜ。そんなに気になるなら今から三階に行くか?」

 庄平は断ると思っていたのだろう。だが悟はその考えに乗った。何か妙な胸騒ぎがずっとしていた。これから大変な事態になる。何かが起こると。

「ああ、行こう」

 二つ返事で答えた悟に少し驚いたようだったが、庄平は特に何も言わず三階へと案内してくれた。そしてこの移動が、二人の命を一時的に助けることとなった。

 三階に来ると、先ほど出たままの状態で部屋は散らかっていた。悟は恐々と窓から外の様子を見る。すると確かに門の付近で矢崎教授の遺体が転がっていた。鮮やかな黄緑色の雑草の上で横たわり、首から流れた血が小さな池を形成している。

 映画や海外ドラマで目にする事のある光景だが、やはり実際に目にするとショックは隠せない。悟も思わず目を逸らした。

「酷いな」

 ここまで血の臭いが届きそうだ。実際にはそんなことはないのだが、悟は無意識のうちに鼻をつまんでいた。

「卓真はやっぱり見えないか?」

 矢崎の死体を忘れようとするかのように庄平へ話しかける。だが、庄平は一点を見つめて固まっていた。悟も釣られてその目線を追う。『感覚』が妙な反応を示した。

 視線の先では悪魔のように灰色の肌を纏った卓真が、今まさに二階の階段の窓ガラスにヒビを入れているところだった。

 窓を殴りつけた衝撃で卓真は一階のエントランスの前にある花畑に落下した。普通の人間なら激痛に苦しんでもおかしくない落ち方だったが、卓真はすぐに立ち上がると身をかがめ、一気に二階の窓へと再び飛んだ。最初に作られたひびのおかげでほとんど抵抗はなく、すんなりと卓真は中に入っていった。

「たっ、卓真!?」

「な、何だよあれ!? 本当に卓真なのか!」

 庄平は今見たものが信じられないといった顔で呟いた。

「どう見てもマトモじゃなかったな」

 口調は冷静そのものだったが悟の足は震えていた。卓真の姿はとても狂犬病患者のようには見えない。まるで化け物だ。

「一体卓真に何があったんだ?」

 次々といろんな疑問が頭をよぎり、心臓が早鐘を打つ。悟は答えを考えようとしたが、すぐに重大なことに気がついた。

「一階の連中が危ない!」

「え、おいっ、いきなりどうした!?」

 慌てて下に戻ろうとする悟を庄平が引きとめた。

 悟の顔には汗が伝っている。別に暑いからではない。冷や汗だ。

「あの卓真が飛び込んだ窓を見ろ、一階への階段の目の前だ。この浮世荘に階段は二つしかないし、正面玄関は教授達が封鎖した。逃げられなくなった大勢の人間があいつに襲われる!」

 庄平も事態の深刻さにすぐに気がついた。

「そんな!」






「ああぁぁぁああああぁぁぁああ!」

 二人がロビーに戻ると、そこはもはや学生達の穏やかな安らぎの場などではなく、まさに地獄と化していた。あちらこちらで悲鳴が聞こえる。卓真は次々に獲物に襲い掛かり、その臓物や血液を周囲に撒き散らしていく。この地獄のような有様に、教授も院生も学生も男も女も醜く顔を歪ませ我先にと逃げ惑うしかなかった。

 悟と庄平は逃げてきた人々に突き飛ばされ、ロビーの茶色い床に腰を打ちつけた。

「……嘘だろ……!」

 だがその腰の痛みなど一切構わず悟は目の前の光景に釘付けになった。庄平も顔面蒼白になっている。

 ロビーにいた化け物は三体になっていた。そのどれもが二人も何度か見たことのある顔だった。

 生物学科の卓真、染木、環境学科の前田。話したことは無いが大学内ですれ違ったことぐらいはある。今、その三人が嬉々として人間の腸をしゃぶっている。悟はここが本当に現実なのか信じられなかった。

「酷い……酷すぎる」

 庄平共々思わずその場に胃の中身を吐き出す。

「庄平――……逃げようここにいたら殺される」

 いつの間にか、ロビー内で生きている人間は二人を含めて数えるほどしか居なくなっていた。ほとんどの人間は死んだか逃げたかでここから消えている。

「ああ、行こう……」

 庄平は青白い顔で立ち上がった。

 化け物たちが他の人間を食っている隙に二人は食堂の方へと走った。すぐ後ろの階段を上ってもよかったのだが、二階からも悲鳴が聞こえてきたためそれはやめた。すでに二匹増えているのだ。もう一匹化け物が居ることは十分ありえる。

 食堂に着くと、二人はそのまま左の奥にある調理場へ駆け込み扉を閉め鍵を掛けた。奴らの筋力がどれほどかはわからないが、掛けないよりはいくらかマシのはずだ。

「はぁ、はぁはぁ……悟、どうする? ここもすぐに見つかるぞ」

 庄平が息を切らしながら聞いてきた。悟は高まる動悸を必死に抑えながら周囲を見回す。するとあるものが目についた。

 包丁だ。さすが総人数五十人以上もの、合宿参加者の食事を担っている調理場だ。包丁の品揃えも多い。

 悟はそのうちの二本を布のカバーごとベルトに挟み、一本を右手に構えた。

「庄平も持っとけよ。あの化け物に効くかどうかは怪しいけど、気休めにはなるだろ」

「ああ、そうだな」

 庄平も悟と同じように三本ほど包丁を身につける。

するといきなり調理場の扉に大きな音がなった。一瞬びくっ、となる二人。

「ギュァアアアア!!」

 野生の獣のような声が食堂から響いてくる。

「あの化け物だ! もう来やがった」

 庄平が怯えた声で叫んだ。

 悟も恐怖に押しつぶされそうになったが、こういうときこそ冷静にならなくてはいけないと必死に気持ちを抑えた。

「調理台をこっちに押せ! バリケードを作るんだ!」

 悟と庄平は無我夢中で調理台を動かした。

 金属同士がぶつかる衝撃音が鳴り響き、扉の揺れが激しくなっていく。

 調理台が扉の前に置かれた瞬間に扉の鍵が壊れ、隙間から化け物の赤く血走った大きな目が覗いた。まるで、『悪魔』だ。

 どう見ても調理台だけでは押さえきれないだろう。扉の隙間は段々と大きくなっていく。

「くそ、どうすればいいんだ!?」

 悟は焦った。

 そのとき、どこからか庄平が調理用のガスバーナーを持ってきた。すぐにそれは隙間から覗く灰色の顔へ放射される。

 高温の火炎をもろに顔で受け止めたその化け物は、首を絞められた鶏のような声を上げ、一目散に逃げていく。

「うひょ〜やったぜ! 火に弱いらしいな」

 化け物の後ろ姿を見ながら庄平は勝ち誇った顔でそう言った。安心すると隣にいたはずの悟がいないことに気づく。後ろを見ると、悟はありったけの形態食料やマッチなどをリュックにつめこんでいた。

「ここから出るなら今しかない。必要なものをさっさと集めよう」

「お、おう」

 急いで庄平も非常用リュックを部屋の隅から取り出した。悟は黙々と作業を続けていく。悲しむのも、動揺するのも、後でいい。今はただ、どうやって生き延びるか、どうやって逃げるか、ただそれだけが大切なことだった。




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