第5話 雪を待つ間
「海洋館? 白井と? あんたマジで言ってんの、何度も言うけど。てか何度でも言ってやる」
電波に乗せて私を責め立てるご立腹な声が聞こえる。……もう切っていいかな?
電話の相手は友達でクラスメイトのおりちゃん。冬休み中だと言うのに、朝の七時半からクリスマスイブはどこにも行かなかったからどこかに行こう、って内容の電話をかけて来た。今日は二八日だからイブから四日経っているのに、それを遊ぶ口実にする不自然さ、そして自分から電話をかけておいて怒鳴り散らす機嫌の悪さ、そして朝早くからの着信。ということは、
「また彼氏とケンカしたでしょ?」
「……悪い? だからなぐさめてよー」
当たったけど全然うれしくないや。多分、彼氏と一緒に夜を明かして、早朝の別れ際でケンカになったんだろうな。
おりちゃんにとってはこういうことは珍しいことじゃない。確か半年くらい前も丑三つ時に電話がかかって来て、ビビりながら携帯を握ったことを覚えてる。
まあ、今回もいつもと同じ、ケンカという名のじゃれ合いでしょ。すぐ仲直りするのは目に見えてる。
「おりちゃんのストレス発散剤じゃないの、私は。普通の人と遊ぶ約束ならおりちゃんの為に断るけど、今日はターニングポイントなの」
「ターニングポイント?」
「恋の」
そう言うと、落胆を感じさせる深い溜め息が聞こえてきた。人が決意を込めた言葉に溜め息を吹きかけるなんて、なんて不届き者だろう。溜め息の後の言葉も長い付き合いだから大体わかる。どうせ「幼いわね」とかそう言うことでしょ。
「恵那はいいわね、ちゃんと好きだから、それで恋してる……」
あれ? いつもと違うこと言うね。それにちょっと悟りって感じがする。にしても言ってる意味がわからないよ。
「おりちゃんだって恋してるじゃん。好きなんでしょ彼のこと」
「好き……さあ?」
さあ? って、好きだから付き合ってるんでしょ? だからケンカするんでしょ? わけわからないことばかり言って。
さてはこうやって私を混乱させて白井くんへの興味を逸らそうとしてるのかも、きっとそうだよ。そうとわかれば情が移る前に切るのが良策。
「ごめんおりちゃん。話し聞いてあげたいけど、もうそろそろ行かなきゃダメなの」
「ちょっと早くない? まだ八時過ぎでしょ」
「まだパジャマなの。今からシャワー浴びて化粧とかいろいろしなきゃだから、ごめんね!」
「ちょっ――」
呼び止めようとするおりちゃんの声を、途中でバッサリと切る。すぐに鳴る着信音を無視して私は出発の準備を進めることにした。確か九時半に海塚駅だから何のトラブルもなく、普通に準備できれば間に合う時間だ。自分で決めたタイムスケジュール通り行動が進むとすごく気持ちよくって、充実感がある。時間ってすごい。
そんなことを考えながら、シャワーで濡らした髪を、洗面所でドライヤーを使って乾かしていると、珍しい姿が鏡に映った。それもこっちに伝染するくらいの眠気眼で。
「美那。今日は早いね、おはよ。この前借りた服また借りるね」
日曜日以来の早起きだ。あのときは私に用があったからだったけど、今日も何かあるのかな?
「それはいいけど、あんた二日間引きこもったと思ったらいきなり学校行って、そいで帰って来たらいつも通りって。……それにその上機嫌な顔。またデート?」
「また、って失礼だよ。妹の恋路をもっと喜びなさい」
「相手は白井って子だっけ? で、どこ行くの」
美那は興味のなさそうな声で訊いてくる。でも目は興味津々。本当にかわいくない姉だ。
「海洋館だよ、白井くんが割引券くれたの。すごいでしょ?」
私から誘ったんじゃなくて、向こうから誘って来てくれたんだよ。舗装されたような恋路をスイスイ思ったスピードで行けると、そりゃ顔も緩むでしょ。
「狙いは恵那じゃない、きっとあたしだよ」
「何言ってんの? なんで美那が」
美那はたまに何食わぬ顔で突拍子もないことを言う。今のはさすがに妹でもちょっとビックリだよ。
「そんな顔しなくても。冗談だよ、冗談。にしても……海洋館か、ならあたしらと会うかもね」
「美那が外出? ありえない、冬だよ冬」
それは天変地異の前触れか、ってほどありえない。
二年くらい前から美那は、一二月と一月は引きこもる性質を持っている。よくわからないけど突然そうなった。お母さんもお父さんも学校に行きなさい、と注意もしないのから、何か複雑な事情があるのかもしれないと思ったけど、きっとないだろうなと私は思う。というか祈っている。冬の布団は気持ちいいから、という理由ならいいなと。
そんな美那が外出すると言うから驚きだ。
「ちょっと引きこもりにも飽きたからね、大学の友達と行くんだよ」
「マジなんだ、冗談と思ったけど。で、何時くらいに行くの?」
「向こうには十一時くらいに着くかな? ……だめだ、やっぱ眠い。ギリギリまで寝よう」
美那はあくびまじりで言いながら寝癖頭をかいて、ゆっくりと自分の部屋に戻って行った。
そりゃいつも朝夜逆転生活しているから眠たいだろうね。このまま待ち合わせ時間まで眠ってしまって、約束破るかもしれないな。美那は一度寝ると結構深い眠りにつくから。心配だからあと一時間後くらいしたら電話かけてあげようっと、だらしのない姉の為に。
約二年ぶりに冬に外出するから特別な約束かもしれない。これを機に美那の冬限定引きこもりも治ってほしいけど。
ヘアアイロンの電源を入れて、髪を巻くよりも先に朝食をとることにした。美那のことばっかり考えている今の状態だと、髪のセットが上手にできないと思う。元からそんなに上手くないのに、そこからマイナスになると髪を巻くだけ無駄になってしまう。ご飯食べて気分転換しなきゃ。
昨日お母さんがパート先からもらってきた菓子パンと牛乳を味わいつつ、何を着ていくか、それと持ち物も考えて、時間短縮。イブみたいにギリギリの到着は嫌だからそうしないと不安が募る。掛け時計を見ると八時半、思っていたいより時間が進んでる。あと四五分後には家を出ないと間に合わない。少し支度のペースを早くしないと。
手の甲くらいのサイズまで食べていた菓子パンを口に押し込み、私は部屋に戻って着替えることにした。
そして出発の準備が終わったのは九時一五分。余裕で間に合う時間だ。
靴を履き、イアホンを耳につけて、久しぶりに思った通り緩く巻けた髪を撫で、その出来を確認しながら扉を開けた。
いつも通りの寒空には、ふわりと結晶が舞っていた。陽の光に反射してきらめき思わず目を奪われる。空中で姿を保つその結晶は、地に落ちるとそれまでの輝きを忘れさせるように瞬間で溶ける。
「雪だ」
この地域じゃ一二月に雪が降ることは珍しいから少し驚いた。美那が外出するとか言うからこんなことになるのかも。
見とれてる場合じゃないと気付くまでに数秒かかって、慌てて玄関に立て掛けているビニール傘を適当に取り、私は緩く巻いた髪がボサボサに崩れないことを祈りながら、雪が降る駅までの道のりを歩いた。思ったよりも寒くない。
………
駅までの道のりを自転車に乗って進んでいると、冷たい感覚が頬に伝わった。
「雪だ」
これには少し驚いた。天気予報を家から出る前に見たが、降雪なんて言葉を一言も聞いていない。それにこの街で一二月に雪が降るなんて何年ぶりだろう。
と、そこまで考えて、過去を思い返すことをやめた。つもりで思い返してしまう。
何年ぶり? 考えなくてもいつも頭の中にその答えはあるじゃないか。
時間の流れのように忘れようとしても忘れさせてくれない、因果。それは俺が生涯抱き続けなければならない、唯一無二の事情だろう。そうすることで、俺は自分の罪の大きさを理解しようとしている。けれど、きっとあいつはそんなことをしている俺を、冷たい目で見つめこんなことを思っているかもしれない。
あれは優に引き金を引かれたわけじゃなくて自分自身で引いたの、だから優は悪くない、と。
俺はその言葉で罪の意識を中和して、心臓の高鳴りを抑える。
でもそんな思いは所詮、俺の妄想。実際にあいつの口から聞いたわけじゃない。その真実を知りたいが、今となっては知るすべもない。
だってあいつは、明里は死んだのだから。
二年前の一月、寒い雪の日に。
落ちる雪は、すぐにコンクリートと解け合い美しい結晶としての姿を無くす。それを見て、明里への思いもこの積もらない雪のように溶けてくれればと、ありふれた詩のようなことを思ってしまう。
本当にオリジナリティもセンスのかけらもない詩だ。
また冷たい感覚が頬を伝う。右手でそれを触れると雪ではないと気付く。
涙というものが、意識しなくても自然に出るということをこのとき初めて知った。
待ち合わせ場所である駅のホームに着くと、先に羽田は到着していたようで、ベンチに座っていた。耳には白いイヤホンが付けられている。
俺は羽田の元に寄り、声をかけようと思ったがためらった。あまりにも無表情だからだ。その顔は、テストの為に興味のない数式を覚えようとしているクラスメイトと似ている。
音楽を聴いているのにその表情は間違っている気がする。好きでないのならそのイアホンを取ればいいのだから、音楽など聞かなければいいのだから。
ということは、もしかして自称異星人の多重人格面が表に出ているのかもしれない。
俺は決心して声を発した。
「待たせたな、一体何を聞いてるんだ?」
………。
どれだけ音量が大きいのだろう? 普通の声で話しているのに、どうやら羽田の耳には届いていないようだ。仕方ないので羽田の左隣に座り、イヤホンを取ってやった。
「あっ、白井くん。おはよっ」
やっと気付いたか。その表情を見る限り、色があるので、羽田恵那本人に間違いはないだろう。二重人格の方は感情が薄いということになっているから。しかし、いつも表情をコロコロと変える羽田が、あんな無表情を持っているとは少々驚きだ。
「何を聞いてるんだ?」
「えっ、コレ?」
羽田は聴く? とうれしそうな顔で訊ね、左耳に付けていたイヤホンを俺の右耳にそっと付けた。
流れる音楽は愛だの好きだの切ないだの、そういう類の言葉で尽くされた、新鮮味のない大衆音楽だった。音楽は芸術と世間ではくくられているが、この右耳に伝う音楽は果たして芸術と言えるのだろうかと首を傾げたくなる。来る途中に雪を見て思いついた俺の詩と大差がないような気さえする。
「これ何て言う曲だ?」
問う俺に、羽田はありえないと小さく呟き、目を大きく開げた。
「これオリコン三週連続トップ3入りの曲だよ? 知んないの?」
そうか、なるほど。だから感動できなかったのか。
ありふれた歌詞、どこかで聞いたことのあるような曲調。それらは簡単に音楽を売ることの出来る一つの方法だろう。浅く広く人の感動を誘う音楽。オリジナリティの微塵も感じ取れないコレを、俺は音楽と呼べても芸術とは到底呼べない。
イヤホンを外し、羽田の膝元に軽く放った。
「ありがと。あんまよくないな、この歌」
不思議そうな顔をして羽田は俺に訊ねる。
「そうかな? 売れてるよコレ?」
「売れている曲が良いなんて安直な考えはよせ。それにこの音楽を聴いているお前の顔は、とてもじゃないけど良い音楽を聴いている顔ではないように思えたけどな」
羽田は俺のつまらない音楽論を聞くと、俺から視線を外し、切なげにうつむいた。
「そんな顔してた?」
そして作り笑いだと即座にわかる下手な笑顔を俺に向ける。
もしかすると、羽田は本当にこの音楽が好きだと思っていたのに、実際はその逆であることを俺に指摘されて初めて気付き、気を落としたのかもしれない。
しかし俺は嘘を言っていない。
「無理しているように思えた。罰を償う方法として、イヤホンを付けているように思えた」
その姿は少し俺に似ていると思ってしまった。
明里の死を背負い続ける俺と。
「それは正解かもね、案外鋭いじゃない白井くん」
明るい声で言いながら、うつむいた顔を上げるその表情に、羽田恵那はいなかった。
「お前は……」
顔をうつむき、上げる。その数秒の間に、羽田の面影は消えていた。
実際、目の前で変わられたのは初めてだから、思わず声が詰まる。その何気ない変化に秘める異常性を感じ取れずにはいられない。
「…私は羽田恵那じゃないよ。わかってる? そこんとこ」
「わかってるよ。そんな異様な雰囲気を持つ人間なんているか」
本当にこいつのことを異星人じゃないかと思ってしまうほど、人とは別の印象を与える。それくらい異質であり、無感情に包まれている。
今日で出会うのが二度目だが、まだ恐怖心をぬぐい去っていない。
いや、来るまでは、実は言うと楽しみにしていたほどだ。二重人格者など、生きているうちにお目にかかれるかどうか微妙な確率だから、この機会に観察しようと思い、その好奇心で水族館に誘ったのだから。
しかし目の前に彼女の存在をとらえると、そんな感情は深海へ潜るように暗く消えていく。
そんな思いに耽っている俺の服の袖を、恐怖の対象者がくいっと引っ張る。
「なんだよ、一体」
「…電車だよ」
彼女の指差す方向には快速列車が止まっていた。
電車が来た音に気付かないほど物事を考えるなんて俺もどうかしてるな。
ゆっくりとベンチから立ち上がり、彼女の後に続いて電車に乗った。
扉は、空気の抜けるような音を機械音に変えたように鳴らし閉まる。
平日の九時半という中途半端な時間なので車内は人が少なく、座席をちらと見るだけで、空いていることを確認できた。
抜け目がないと言うのかどうなのか。彼女は俺より先に座席を確保し、その隣へと手招きをする。電車で空いている席があれば座るというのは羽田の知識なのだろうが、俺は生憎電車では立ったままでいる方が好きだ。けれど、二重人格面の彼女に反抗すると何をされるかわからないと言う恐怖心があるので、俺は大人しく彼女の隣に座る。
…………。
手招きした割に何も話さず、じっと窓から景色を眺める彼女に、俺はしびれを切らして声をかける。
「今日どこに行くかお前は知ってるのか?」
昨日の旧図書室では伝える前に羽田恵那に戻ってしまったからな。
「…知ってるよ。海洋館でしょ、魚の動物園でしょ」
言葉に大きな間違いがあるけど、何となく意味が分かるところが悔しい。
「それは羽田の記憶から引用したのか?」
「…そうだよ、引用して私なりに答えを導いたの」
「惜しいが間違いだ。動物園は動物がいるところであって魚がいるところではない。でもニュアンスは合ってる」
「…じゃあ合ってるじゃん」
……こいつ反抗する気か? かわいくない奴だ。歯向かわずそうですね、と言っておけば良いものを。
「合ってないから言ってるんだよ馬鹿。俺はこの星の、この国の住人だ。だから間違えるはずがない」
「…じゃあ、何でいつも嘘ばかりつくの? 嘘だらけのあなたの言葉を信用できない」
彼女は残念と、呟くように言う。
「お前感情ないんだろ? じゃあ、俺が嘘ついてることなんてわかんないだろ、それも羽田の知識か?」
俺は思わず声を荒げる。唐突に発した彼女の言葉が鋭く胸に刺さり、驚いてしまった。
「…違うよ。私たちの星の人はほとんど無感情なの。感情なんて、ほんのほーんのちょびっとしか持ってないの。だから私たちにはそのちょびっとの感情を読み取ることが当たり前だった。だから、あなた達のような感情豊かな生物が、隠す感情くらい簡単に読み取れるよ。それが喜怒哀楽のどれかはわからないけど」
「じゃあ、何で俺のことを異星人と間違った?」
「…あのときはまだそれを『嘘』と言うものだと理解していなかったからわからなかったのよ。先入観もあったかも。それにそんな原始的な感情を、あなた達のような高度な感情を持った生物が持っていると思わなかったの。浅はかだったよ」
と言ってはにかんで見せたが、そこはそんな表情をするところではない。
こいつの言ってることはあまり感情がこもっていないのでイマイチ真相がつかめない。まるで活字を読んでいる気分になってしまう。でも俺が嘘ばかりついていることについては間違いではない。
「ついでに言っておくと、この羽田恵那も大嘘つきだよ、白井くんレベルの嘘つきかも」
「羽田が嘘つき? どういう意味だ。あいつはいつもボケーッとしてボケーッと話してるだけじゃないか」
「…だね。でも羽田の頭の中を見れる私が間違ったことを話すと思う?」
残念ながら思わない。そしてそんな嘘をつくメリットもないしな。でも何故こいつはそんなことを言ったのだろう? そこだけが気がかりだ。
「せめて私には嘘つかないでね。他の人には良いけど」
「考えとく」
いきなりそんなこと言われたって理由も聞かされていないのに承諾するわけにはいかない。こちらにだって嘘をついて過ごして来た意味があるのだから。
……でもこいつは羽田の二重人格という存在だ。そう思うと別にそこまで意固地になって嘘をつく必要はないのではないかと思えてくる。
「…水族館に着くまでに答えを出してね。じゃあ」
「ちょっと待てよ!」
俺はまだ聞きたいことが沢山あるのに、そんな自分勝手に羽田恵那に戻るなよ。
と思っても遅かった。
そこには顔をきょとんとさせ、俺を見つめる羽田恵那が座っていた。
「何を待つの?」