河童少年のモイスチャー日記 其ノ二十一
「お前、立候補してみたら?」
算数の授業中に前の席の小仏くんが急に振り向いてそう言ってきたので、思わず頭の皿が浮いた。そして皿と頭皮の隙間を、冷たい風が通り抜けるのを感じた。
どうも近ごろヘッドソーサーの具合がイマイチなのか、動揺すると皿が浮いてるように感じることがある。「服装の乱れは心の乱れ」って言葉があるけど、河童の場合は「皿の乱れは心の乱れ」ってことになるのか。逆に「心の乱れは皿の乱れ」って可能性もある。どっちにしろ人にしろ河童にしろ、心と体はつながってるってことを感じる。
小仏くんはそれだけ言うとすぐにまた前を向いて、ちょうど前を向ききったところで黒板に算数の式を書いていた先生が、「うるさい!」と言いながらこっちを向いた。そうしたら頭の皿を浮かせてビックリまなこの僕と完璧に目が合ってしまい、なぜか僕がこっぴどく怒られるハメになった。
そうなれば僕だって冤罪を主張したかったけど、にしても小仏くんが言った台詞の意味がさっぱりわからなさすぎて、ここで下手に反論するとかなり面倒なことになるのは目に見えていた。
というのは、ここで僕が「僕じゃありません」と反論すると、きっと先生は「言いわけをするな」とか「人のせいにするな」とかなんとか言ってくる。そうなると頭が沸騰した先生は、「〈お前〉ってのは俺のことか?」「俺に何に立候補しろと言うんだ?」という感じに、変に質問の意図を掘り下げてくるに違いない。
けど僕はそもそも小峠くんの言った台詞の意味がさっぱりわかっていないので、「あ、いえ、その、えっと……」と何も答えられずにしどろもどろになってしまう。でもそうなると先生はさらに、「言いたいことがあるならハッキリ言え」「河童だからって許されると思うなよ」みたいなドイヒーなことまで言ってきて、結果として僕はさらにコテンパンに怒られることになるような気がするからだ。
といっても先生はそこまで悪い先生じゃなくて、たぶんこれは僕の取り越し苦労だとは思うんだけど、意味のわからないことの説明をさせられることほど面倒なこともないわけで、僕は今日は僕の一日じゃないのかもしれない、と思った。
それで休み時間になって、小仏くんにさっきはいったいなんの話をしてたのかと訊いてみると、彼はポケットからおもむろに一枚のカードを取り出して机の上に置いた。それはポケモンカードでも遊戯王カードでもなく緑色のぶ厚いSuicaで、
「だってペンギンが引退するらしいじゃん」
としたり顔で言ってくる。その話なら僕だって知っていて、なんでいまさらキャラクターを変えたりするんだろうと不思議に思っていたところではあったけど、だからといってそれが自分に関係のあるニュースだとは思ってもみなかった。
「これってチャンスだろ」
つまり小仏くんは僕に、「もうすぐクビになるこのキャラの枠に立候補しろ」と提案しているらしかった。でもこれって、立候補とかできるものなんだろうか? そこを疑問に思った僕がそう訊くと、小仏くんは、
「それは知らんけど」
と投げやりに返すと、Suicaをポケットにしまいながら誰にともなく「ドッヂ行くべ」と宣言して、走って教室から出ていってしまった。時間のある昼休みならば僕もドッヂボールに参加するんだけど、授業と授業の合間のたった五分の休み時間にわざわざ校庭まで出るほどの気持ちは僕にはなかった。
けどそれからあとの時間僕ははずっとSuicaのことばかり考えていたのだから、小仏くんの発言もさほど的はずれではなかったというか、むしろ的確に僕のハートを射抜いていたと言えるのかもしれない。
僕はSuicaの表面に、一匹の河童である自分が描かれている様を想像した。するとそのデザインは、けっして悪くないように思えた。いやだからといって僕はナルシストってわけじゃないんだけど、なんというかペンギンと河童って意外と近いように思うのだ。
何よりどっちも水陸両用という決定的な共通点がある。とはいっても《陸へあがった河童》なんてことわざもあるくらいで、それって河童が陸に上がると本来の力を発揮できないって意味らしい。でも実際はまあヘッドソーサーの湿度さえキープできていれば全然そんなことはなく、もしかすると昔は違ったりいまも個体差とかあるのかもしれないけど、少なくとも僕の家族は水陸両用だと思って生きている。
つまりなんていうか河童とペンギンは質感が近いというか、なんとなく湿度が同じくらいの感触があって、しれっと置き換わっても違和感なく馴染むんじゃないかなと思う。でも改めて冷静に考えてみると、そもそも湿り気たっぷりのペンギンが、水分が故障の原因になりかねない自動改札にあてがわれまくってるってのも妙な話で、なんでもっと乾いた動物にしなかったんだろうとか思わないでもない。
けどたぶんSuicaのペンギン人気にはそのしっとりとした湿度感も含まれてるはずだから、同じくいい感じの湿度感を漂わせられる河童の僕がマスコットキャラクターになってもやはり人気が出ることは間違いなく、そういった方向でプレゼンしてみたいと考えてるんだけど、こういうのはいったいどこに話を持ってけばいいんだろうか?
そもそもキャラクターを売り込むとはいっても、普通はキャラクターをデザインした描き手が手を挙げるものなんじゃないんだろうか。描かれる側のモデル(?)が立候補するなんて話は聞いたことがないけど、河童のくちばしはご覧のとおり電車のパンタグラフみたいに見えないこともないし、いざその姿を目の前にすれば納得してもらえるような気がしないでもなくて。
と、そんなことを考えているうちに一日の授業が終わってしまい、家に帰るとちょうどそのタイミングを測ったように爺ちゃんからメールが届いた。ちょっと駅まで替えのパンツを持ってきてくれという謎のお願いが、河童の土下座してる絵文字つきで。
何をした結果そんなものが必要なのかわかんないけど、持ってったついでに駅でちょっと顔を売っておこうという浅はかな狙いもあって、僕は袋に入れたパンツを持って駅へと向かった。
改札の手前でキャラクターっぽい笑顔を作りながら待っていると、向こうからびしょ濡れのじいちゃんが手を挙げて走ってくるのが見えた。そして爺ちゃんが甲羅と背中の隙間から取り出したSuicaを自動改札にあてがった瞬間、その湿気のせいかなんなのか自動改札がトリッキーな誤作動を起こして、脇から飛び出してきた扉がじいちゃんの股間を何度も何度も繰り返しひっぱたきはじめたのだった。
それを見ていた僕は手を叩いて笑いながらどこか哀しみに襲われて、そして頭の皿がパカパカと浮いて晩秋。
【ChatGPT氏によるちょうちん解説】
この短篇の魅力をひと言でいえば、「湿度のある不条理」である。あるいは「瑞々しいズレ」と言い換えてもいいかもしれない。舞台はごく普通の小学校の教室だが、主人公は“河童の少年”である。だが作者は、その異類性を奇抜な設定としてことさらに強調するのではなく、むしろ日常の些細な心の揺れを照らし出すための微妙な“湿度計”として活用する。これが実に巧い。
たとえば、序盤の「動揺すると皿が浮く気がする」という感覚は、思春期の不安定さや過敏さを、河童という存在を媒介にして鮮やかに可視化してみせるものだ。皿と頭皮の隙間を通り抜ける風――それは心の乱れが身体の表面にほころびとなって現れる瞬間であり、読者はそこに自分の記憶の湿気を思わず呼び起こされる。
物語の軸となるのは、クラスメイトの小仏くんが「お前、立候補してみたら?」と唐突に言い出す場面だ。読者は主人公と同じく、この台詞の意味を掴みきれないまま読み進めることになる。しかしこの“意味のわからなさ”こそ、作者が本篇全体に通わせているリズムである。世界のほうが主人公の理解を少しだけ先回りし、あるいは斜め上から飛び込んでくる。この、現実と認識のほんのわずかなズレこそが、本作のユーモアと不条理の源泉である。
小仏くんの差し出すのは緑色のSuicaカード。ペンギンキャラクターの“引退”というニュースが、河童少年の将来的キャリア(?)の話へと滑らかに接続される。この脱線の仕方がじつに軽やかだ。ペンギンと河童の「湿度的共通点」という理屈にもならない理屈が、しかし妙に説得力を帯びて響くのは、作者が“物語における非科学的な因果”の扱いに長けているからだろう。読者は知らず知らずのうちに、この世界特有の論理に順応していく。
終盤の、駅の改札で繰り広げられる悲喜劇的な場面も忘れがたい。自動改札の誤作動が生む、痛ましいのに笑ってしまう光景。その「哀しみと笑いが同じ一点から湧いてくるような感情」は、たぶん河童少年にとっての日常なのだ。彼は世界をたしかに受け止めようと努めているが、世界のほうが彼の皿の湿度をまるで気にしない。それが彼の日記に、あの独特のモイスチャー感――湿り気とほの暗い光沢と、季節の底にたまる水分のような感覚――をもたらしている。
本作は、作者の他の短篇と比較しても、とりわけ「子どもの目線の透明さ」と「世界のあまりに理不尽な作動原理」の交差点が美しく描かれている。「僕は今日は僕の一日じゃないのかもしれない」という一文に漂う哀しさ。それは大人にもよく覚えのある、世界にうまく順応しきれない日の手触りに近い。
河童を主人公にしながらも、本作が描いているのは“人間の湿度の記録”である。心が揺れ、皿が浮き、世界が少しだけきしむ。そのきしみの音に耳を澄ませられる読者にとって、「モイスチャー日記」はなぜだか忘れがたい一篇となるだろう。
静かに、じわりと心を湿らせてくる一作である。




