河童少年のモイスチャー日記 其ノ二十
「お前をカッパ巻きにしてやろうか?」
放課後にクラスメイトの小暮君とカラオケに行ったら、マイク越しにいきなりそう言われて震え上がってしまった。なんでそんな歌を知ってるのか知らないけど、なんでも苗字がおんなじ人が歌っていた昔の曲の歌詞を僕向けにアレンジしてみたらしい。
そういえば僕がそのミュージシャンのことを「その人」って言ったら、「悪魔だよ!」と小暮君は食い気味に訂正してきた。年齢が十万歳を超えてるなんて、おかしなことも言っていた。
そう来たら僕だって、「そんなのいるわけないじゃないか、この陰謀論者め!」って言ってやりたかったけど、「だったらお前だっているわけないんだよ!」って言われるのが火を見るよりも明らかだったから、やっぱりやめにしておいた。あそこでもし言い返してたら、間違いなく水掛け論になってただろうな。純粋な「水掛け」だったら、人間に負ける気はしないんだけど。
まあたしかにカッパ巻きは河童の大好物ではあるわけなんだけど、だからって自分がカッパ巻きにされるのはご免だ。言うまでもない話だけど、好きなものとなりたいものは違う。焼き肉が好物だからといって、焼き肉になりたい人はいないだろう。
そもそも自分が食べるものに自分の種族の名前がついているというのも、実はまったく納得はいってない。人間が「人間巻き」をパクパク食べているようなものなので。せめてカタカナにして表現を和らげているつもりだけど、「河童巻き」と漢字で書くといよいよ共食い感が半端ない。もうちょっとネーミングを考えてはくれないものだろうか。
そう思ってカッパ巻きの名称の由来を調べてみたら例によって諸説あるみたいで、「キュウリが河童の好物だから」説と、「キュウリを輪切りにした際の切り口が河童のお皿に似てるから」説が有力であるらしい。
前者はまあわかるような気もする。でもその理論でいくと、人間が好きなものを巻いた寿司は全部「人間巻き」ってことになるけど、それでいいんだろうか? そうなると巻かれた具がマグロであろうとかんぴょうであろうとそれこそキュウリであろうと、全部「人間巻き」ってことになってしまう。
まあ人間はキュウリのことを河童ほど好きじゃないにしても、「カッパ巻き」って言ったら普通キュウリじゃなくて河童が巻かれてると考えるほうが普通なんじゃないかって話。
それに後者の説に関しても、カッパ巻きのキュウリって普通輪切りじゃなくてなんか扇形みたくなってるから、それを皿に見立てるのはちょっと無理があるんじゃないか。これってなんだがすごく後づけくさくって、いかにも「諸説」のひとつって気がする。それに河童だけでなく人間だって、河童の皿を巻いた寿司なんて食べたくないと思うんだけど。
そんなこんなで家に帰ってからふざけて爺ちゃんに、「お前をカッパ巻きにしてやろうか?」って例のフレーズを言ってみたら、爺ちゃんは意外にも「おっ!」って前のめりになって食いついてきた。爺ちゃんはそのバンドのこと結構好きだったみたいで、急にわざとらしく悪魔的なダミ声を作って「我が輩は十万七十八歳である」とか言い出すので面倒くさかった。爺ちゃん曰く、シンプルに十万を引けば人間の年齢になるらしい。
「人間の年齢? 河童の年齢じゃなくて?」僕は咄嗟にそう思ったけど、そういえば河童の寿命ってよくわからない。ネットで調べてみても、三十年とか人間より長生きとか不老不死とかやっぱり諸説あるみたいで、これ漫画の登場キャラだったら設定が適当すぎて編集に怒られるやつなんじゃないか。
そして待ちに待った夕飯の時間。「まったくツメが甘いんだよなぁ~」とかなんとか言いながら食卓に出てきたカッパ巻きをノールックで口に放り込んでみたら、キュウリとシャリのあいだからわさびがニュインとはみ出してきて涙目。
【ChatGPT氏による解説】
この短篇を読み終えると、まずその奇妙なタイトルにこめられたユーモアと湿度が、じわじわと全身に染みてくる。「河童少年のモイスチャー日記 其ノ二十」——河童でありながら“少年”であり、“モイスチャー(日記)”という保湿的な言葉が添えられている。水気に満ちた存在が、乾きの象徴のような日常を記録しているという、この矛盾した組み合わせ自体がすでにひとつの詩だ。
本作に登場する“僕”は、自分が河童であることをあたりまえの前提として生きている。友人に「お前をカッパ巻きにしてやろうか?」とからかわれ、真面目にその意味や由来に頭を悩ませる。つまりこの作品のユーモアは、河童という非人間的な存在が、あまりに人間的な理屈で世界を解釈しようとする、その齟齬から生まれている。河童が人間社会の言葉や習俗を受け入れようとするたび、論理は思わぬ方向へ転倒し、日常は不条理へと滑っていく。
この語り口の軽やかさは、まるで随筆のようでもあり、少年の日記のようでもある。だが読み進めるうちに、作品全体を貫くのは“存在の揺らぎ”であることに気づく。たとえば「人間の年齢? 河童の年齢じゃなくて?」という問いの一瞬に、語り手は自分の存在の根拠をふと見失う。河童の寿命にも「諸説ある」とされるように、彼自身も確定的なアイデンティティを持たない。ここに描かれているのは、人間でも河童でもない、あいだの存在が抱える違和とユーモアの物語なのだ。
また、作中に繰り返し登場する「諸説ある」というフレーズは、この作品の核をなす。世界は曖昧で、由来も根拠も揺らいでいる。河童少年はその曖昧さを嫌うでも信じるでもなく、軽く笑いながら受け入れる。その姿勢は、現代の情報過多な社会を生きる私たちへの柔らかな風刺にもなっている。
ラストで「わさびがニュインとはみ出してきて涙目」になる場面は、まるで寓話のパンチラインのようだ。河童少年は涙を流すが、それは痛みの涙であり、同時に“人間らしさ”の兆しでもある。笑いのなかにかすかな切なさが宿るその瞬間、私たちは初めて、彼の湿った孤独を感じるのだ。
軽妙でありながら哲学的、不条理でありながらどこか優しい。「其ノ二十」という副題が示すように、この日記は延々と続くシリーズの一部であり、河童少年の思索と成長の断片でもある。ユーモアの水面の下に、深い思考の流れを潜ませた稀有な短篇である。




