中空に折れた道
やはり彼女には片方を選ぶしか道はなかった。
二人の少年から思いを寄せられていることが、何よりも大きな悩みだった。
物心ついた時には、すでに彼らとは慣れ親しんだ間柄だ。彼らを抜きにしては、あの日々をどう語り得ようか。
笑ったり、怒ったり、泣いたり、あるいは喜んだことが何度あったかしれない。
彼らとなら、彼女は自分の心に抱いていることを自由に告げることができたはずなのに。
けど、知らないうちにそれはゆがんだしまったらしい。
二人は、自分をもはや親しい友人とは見ていなかった。
その目をよく見ると、こちらを貴重な、これがなければ他に価値などない、とさえ考えこんでいる様子だった。かつてなら、そこらへんにある、ごく身近な人間としてつきあってくれたはずなのに。
ある時、その間には座視できない状況さえ生まれることもあった。
彼女が憂えて言葉を発すると、彼らは矛をひっこめたが、どうやらまだ互いに反発する気まで静めてはいないらしい。
いつの間にか、この二人は昔とは別人になってしまった、と嘆くほかはなかった。
だが、時は猶予など与えずただ淡々と過ぎていって。
この思い出は、フクオカの港から一隻の船が離れ去っていったことで終わる。
二人は海を隔てた異郷の地に、生活の糧を求めて旅立っていった。
「安心しろよ、すぐに帰ってくるから」 アカルは波止場にたたずむ彼女に、海上で手を振る。空は赤みを帯びて、彼らの姿は影に染まっている。
「帰ったら、俺はお前を絶対自分のものにしてやる!」
ライトは最初の声に対抗するように叫んだ。
二人の男はそれぞれ、自分こそが彼女を手にするのだと意気ごんで離れなかった。
その姿が脳裏からずっと離れない。あれさえ忘れることができたら、なんと心が楽になることか。
フクオカ市からやや北にコガ市という街がある。大都市からさほど離れてはいないにも関わらず、全体的に人の少ない静かで、さびれた場所だ。
その住宅地の外れ、飾り気のない小さな家の中で、タケヤマ・キレイコはその日も売るための傘を整えていた。
これが彼女の家の生業であり、物心ついた時から、この仕事をずっと家族から手伝わされていたものだ。
自分の境遇に決して不満を持っていたわけではない。親の伝統にあらがわず受け継ぐことに違和感などなかった。
「おい、かみさん!」
家の中へ一人の客。
「これを張り直してくれないか? 前ふいてきた嵐で穴があいちまった」
「はい、簡単なことです」
その客は商売以外の場でもよく顔を合わせており、ちょっとした知りあいの関係だった。
くだんの傘を受け取って紙などを貼り合わせる作業をしていると、
「あんた、昔の幼馴染が大陸の方に旅立っているんだってな?」
客がいきなりそんなことを訊いてきたので、キレイコはやや戸惑う。
「あら、どこでそれを?」
「あんたの親戚のところから聴いたよ。何しろお前さんの家の人たちには色々と世話になってるしな」
表情からすると、客は決して好奇の感情でそれを問うているわけではないらしい。
「急に言ってすまなかった。何しろ、あんたはその幼馴染が帰ってくるのをまだ待ってる、と耳にしたからな」
どうやら、それには問題があるとでも言いたそうな表情。
あまりキレイコはいい気分ではなかった。
「――でも、そちらと何の関係があるんですか?」
あの二人が、なぜこんな人に取りざたされねばならないのだろう。
「関係があるよ。最近は早くからいい男を見つけておくことが重要だからね」
不意に彼女の動かす手が速くなっている。
「ナガサキで疫病がはやってるのはあんたも知ってるはずだ。年の若い奴がばたばたと死んでる。ナガサキ市長はこどもが絶えてしまわないように、早くからの結婚を市民に奬めているらしい。多分これはこっちにも拡散するぞ」
客はキレイコが少しゆがんだ顔になっていても気にも留めない。
「だから言うんだ。疫病が広まる内にさっさと結婚するんだ。どこに行ったかもわからない男二人を待ってるより――」
「わ、私があの二人を待っていることと、結婚することとは何の縁もありません!」
赤くなった顔をもろに見せていた。
「その二人、何でもアカルとライトとかいう名前だったな? 昔は向かい側の道に住んでいて、よく付き合っていたそうだが」
「だ、誰から知ったんです?」
「そりゃこの町じゃ有名な話じゃないか。アカルとライトはかなり気の早いガキでいつもけんかをしていたし、よく話題になったもんだ。そいつらはいつも一人の女の子を友達として連れていた。(いかにも感心するかのような顔で)近頃聞かされたんだよ、その子がお前なんだって」
まあなんとも物好きな男だ。
「じゃあ私、以上口を利きませんよ」 このままだと作業に集中できそうにない。
「いや、別に俺が言いたいのは他でもないんだ」
この様子に歯さすがに戸惑ったらしく客はごまかすようにすっかり真顔。
「今疫病がキューシューに広まっている。このコガにまでたどりつくのは時間の問題なんだ。家を断絶させないためには子どもは早くから手に入れた方が良い。だから結婚を勧めたんだよ」
納得できなかった。最初からそれだけ言えばよかったのに、とキレイコは鬱憤を隠せない表情。
サトー・アカルは気づけばそこにいた。空気のように、当たり前の存在だった。
キレイコは彼とよく広場に出かけたり、市庁舎の周りを走って競ったりしたものだ。
その体はなめらかな輪郭で、目や鼻は全体的に小さく、繊細な顔立ちだった。
アカルは町の人々には口がうまく正義感が強いことでよく知られており、困っている時にはいつも手伝ってくれる善い子だ、と誰かがしばしば褒めていたような気がする。そうだ、成長したら議員になるかも、というのがこの言葉の続きだったか。
「もう八年前か」
客は気後れした感じの顔つきで確かめる。
「だとすると今は二十六歳……」
「ある時には手紙を送ってくれた時もありましたが、今はもう……」
「ウミムコーはここ以上に進んでいるが、危険も多いところだからな」
「で、でも二人が帰ってこないなんて思いたくはありません」
「そいつらの生きてる見込みがないなんて言ってない。ただ、ウミムコーに出かけた途端そこの豊かさに惑わされて、あっちで骨をうずめる奴も多いのは事実だ」
またもや精神が押し倒されるのを。あの二人が、約束を違えて帰らないなんて思いたくない。特に、ライトは馬鹿正直な性格だから、それはありえない。
あのハヤシ・ライトが。
「でも、ライトは前手紙で絶対帰ってくるって約束してくれたもの」
キレイコはすぐに思いをめぐらしていた。
ライトはアカルとともに彼女の相手をしてくれた少年だ。アカルより獣面で、性格もやや武骨な所があったが、それでもキレイコを深く慕っていた。
あまり自分のことについて語りたがらない節があったが、いつもキレイコが自分の主人であるかのように付き従っていて、彼女がちょっとした怪我をしたり、病気にかかった時はまるで世界の終わりに直面した時のように大慌てでさわいでいた。
それが面倒くさくて時に迷惑でさえもあったが、心のどこかではうれしくもあった。
「おい、聴いてんのか?」
「いや、今ライトのことを考えていて……」
「まだあいつのことを覚えてるのか。昔のことに頭を沈めるのも時にはいい。だが」
客にとって、二人は結局『確か、いた人間』でしかないのだろう。
キレイコはそのことを悟ると、もうそれ以上彼に対し負の感情を向けることはやめた。
「より育ちも良くて金もある人間がこのまわりにはいるはずだ。世の中は流転が激しい。昨日いた人間が今日いないなんてことなんてざらにある。気づかないだけで、たくさんいるに違いないよ。だから……」
ある日から、二人はキレイコに友人以上の何かを見出し始めていた。
コガの広場、ある式典から帰る途中――都市が建設されて数十年になるのを記念する、長ったらしい演説を聞かされていた――のこと。
「もし僕が大人になったら、議員になるんだ」 アカルはキレイコにそう語った。
「そんな。議員なんて、私たちみたいな庶民になれるものじゃない」
キレイコにとって、彼らは雲の上の人間だった。
「大丈夫だよ。弁論術の先生に弟子入りするための資金を父さんがたくわえてくれてるんだ。他にも必要な準備はしてある」
態度からして、明らかに本気。
「その時には、僕は君に特別な分け前を与えてやる。何しろ政府からたくさんの恩賞がもらえるからね……絶対に生活に困らないくらいのお金も手に入るはず」
「何言ってるんだよ、アカル」
横から、ライトが冷めた目で見つめている。
「俺たちはこのままでいいじゃないか。議員なんてよく分からない争いに巻き込まれるだけだし、関わらないだけましだ」
「いや、僕はこの町のためになりたい」
アカルはそれまでにない目つき。
「ここはフクオカみたいに豊かな都市じゃない。連合を形成している都市の中でも小さい方で、いつも大きな都市の使い走りにされてるような存在だ。もし他国との戦争に巻き込まれれば、諸都市連合の指導者は僕らの町からたくさんの人間が戦地に送りこむだろう。そういう扱いを受けるとも限らない」
こういうことを彼から聞くのは初めてだったので、ライトもキレイコも少しきょとんとしていた。
「町を豊かにしなければならない。これは僕にとって一番しなければならないことだ」
「なんだ、上の空で聴いてたんじゃなかったのかよ」
「上の空で聴けることじゃないよ。その時被った損失を町はまだ引きずっている。だからコガに活力を与えなきゃならない……それにキレイコのためでもある」
その時、ライトは初めて何か複雑そうな表情で彼を見つめていた。
ライトがキレイコと二人きりだった時。
「俺は、もしかしたらアカルと一緒にいるべきではないのかもしれない」
不安がその顔に。
「えっ、どうして?」 肩透かしを食らったようにキレイコは顔をひそめる。
「前はアカルのことを単純に友だとは思ってたが、最近はそうでもなくなったらしい」
最初、一体何を言おうとしていたのか、理解しなかった。
「俺はアカルを悪く思いたくはない。だが、あいつがその気なら俺もその気になる」
「何のことなの?」
物わかりが悪いな、とでもそしるような顔。
「アカルはキレイコにすっかり夢中らしいな。もしできればお前を自分のものにしようとするつもりでいるみたいだ。昔ならあいつと俺で一緒にあんたと付き添ってたのに、今は一人一人で話すことが多くなった」
いつしか、物心がついてきた頃、三人はあの頃の三人ではなくなってきたのだろう。
もう、こんな関係を続けるわけにはいかないと知っていたはずだった。自分は、そう、二人と同じではないのだから。
「アカルの野郎、よそよそしくなってきたんだよな。日常の話題なら昔通りなのに、あんたのこととなると急に頑固になる」
それが何を意味するか、あの頃ははっきりと理解したくなかった。
「ねえ、こんな時に一体何を――」
いきなり目を見開いて、彼は質問を投げかけた。
「キレイコ、アカルをどう思ってる?」 脅すようなたけだけしさがそこに。
かつてのライトなら、なかった表情。
「そんな。私たちは、いつだって……」
昔なら、簡単に言えた言葉が出てこない。
それは、彼女にしても認めざるを得ない事実だった。
ふと、重苦しい沈黙がさす。
「ああ、俺が悪かったよ。いきなりこんな話持ち出して来て……」
キレイコはうつむいて何も口には出さなかった。
今支配してくる感情の正体を解き明かす勇気など、どこに。
「けど、キレイコ。俺は必ず、お前の心をつかんでやる」
ライトはあまりに率直な性格だった。自分の示したい意思をそっとしては置かない人間だった。この気質が時として衝突を生むのはよくあること。
しかし、まさかそれが自分を原因として起こるなど、キレイコには想像も及ばなかった。
「じゃあ、キレイコはお前のためのものとでも言うのか?」
食べていた飯をいきなりほっぽかして、椅子から立ち上がるライト。
「違う。そんなことは言ってない」
角のある響きでアカル。
「キレイコは一人では生きていけない。だから僕がその体の片方になってやるんだ」
「じゃあ、その片方は何なんだよ。キレイコは体が半分ないというのか?」
ライトは、自分がまるで疎外されているように感じたのだろう。
「誰だって一人だけじゃ完全じゃない。手助けがない体なんて不完全な体なんだから」
「お前とキレイコは二人で一人っていうわけか。じゃあ俺はどうなるんだよ」
キレイコは何も言えずに、立ちすくむしかなかった。
「ライトも僕らにとって大切な人間だよ。たとえば、闇の中のたいまつみたいにさ」
「何? ならお前らの付属物に過ぎないのかよ!」
ライトがますます激した様子でいるのを見て、人々がこの間に割って入る。
「言葉通りに受け取る必要なんてない。なんでそういう風に悪く考える」
だが、ライトはすっかり激してしまいもう手のつけようがなかった。
アカルはもうあきれ果てるような目で目の前の情景を眺めている。
「もう、やめてよ!」
ライトのはしたない様子を目の当たりにすることに耐えられず、キレイコは叫んだ。
「私たちは最初、こんなのじゃなかったはず……」
彼女の声にライトは静止した。それから、人々から身を引くと、舌打ちをして、その場を去る。
いつの間にか、二人の仲が悪くなってしまったのだろう。もしかしたらその原因は自分にあるのではないのか。
だとしたら――少女はこの体を激しくいとった。
けど、ある日、事態が変わった。
「終わった……」
「何が?」
アカルは最初、はっきりと答えてくれなかった。
「もう、これ以上がんばっても、何にもならない」
太陽が沈みかかり、空が橙色に変わりつつあるとき。
憂いをふくんだ顔が陽光に照らされ、まるで感情がその顔立ちさえ変えてしまったように。
「分かってる、こんな時に黙ってちゃいけないなんてことは」
海を見渡す岸、そこに置かれたベンチに二人は座っていた。
「別に、辛いなら言わなくてもいいけど」
キレイコがアカルの顔をながめると、空虚な感情に支配されているかのような瞳。
アカルは、目をしばらくそむけていたが、やがて投げやりな口調で語り始める。
「今日、先生から謹慎処分を言い渡されたんだ」
「謹慎処分……?」
聞きなれない不思議な言葉。
「こんなの、ただのとばっちりだ」
このことに関して、詳しく教えてくれたわけではなかったけれども。
「同じ学友との間でいざこざがあったんだよ。先生の弟子の誰が一番偉いかってので言い争いになった」
この話題にはあまり乗り気でないらしい。
「はたから見ればばかばかしい争いだが、それに僕も巻きこまれた。先生がこの争いに気づくとすぐ、力のある奴らが自分たちがこの害を受けたって言いふらして、僕らのような対立していた方の弟子が悪いって誣告しやがった。それで僕を含む一部の人間が一時的だが家に引きこもらなくちゃいけないことになった」
「そんな……」
アカルは投げやりな表情で自分の身の上を嘆いている。
「多分、これで僕の目標はついえてしまっただろうな。たいしたつてもない僕がもう一度学業を修められるチャンスなんて、ありそうにない」
「でも、まだ何もかも終わったわけではないはずよ」
「これは君にわかることじゃない」 アカルはそこで、はっきりと負の感情をあらわにした。
一瞬キレイコの心臓に痛みが走った。
「いや……僕が悪かった。僕が元からこんなことに手を出さなければ……」
アカルは見かけ以上に深い痛みを刻んでいるのだと直感した。
「で、でも……それなら、どうするの?」 アカルが何をしだすのか、心配でならずに。
「まだ考えてない」
アカルはいささか当惑した様子だった。
けれど、すぐさまあきらめた顔つきになって。
「時間が経ったら考えることにするよ。まだ心の落ち着きが十分とれていないんだ」
その顔は、無理に元気らしさを出したとしか意えない。
どのような取引があったのかはわからない。しかし、何かが二人にそれを決意させたのは明らかだ。
いきなりアカルは、彼と一緒になって彼女の家にやってきた。
二人が息をととのえて並んでいる姿を見るのは久しぶりだったのでキレイコはやや緊張した。一体いかなる事態が発生したのかと。
アカルがこの来訪の目的を尋ねられた時、開口一番に。
「僕らはこのキューシューを去って、ウミムコーに渡ることにした」
本来なら、笑ってしまうような言葉だ。あまりにもたいそれていて。
「もうフクオカ都市同盟にいても場所がない。こんな汚名がついてしまった以上、ここでの出世の道は閉ざされているさ」
だが、全く乱れのないその音色に、彼の意思は偽物などではなく。
「俺も、アカルについていくことにした。一人で野垂れ死にさせたらいかないしな」
ライトが全て覚悟したように沈みこんだ表情を浮かべているのには、こっけいささえある。
「大陸についてしまったら、僕らはしばらく会えなくなるだろうね」
アカルの宣告。
「うそでしょ」
心の中の叫びと空間に起こる小さな息。
「嫌、そんなの、嫌!」
「もう家族に知らせてしまったんだ。変えることはできない」
床にたおれこむキレイコ。
「安心しろよ、すぐ帰るから。そうでなきゃまた別の男を探せ」
不意にライトを凝視する。何を意味するか、分かっていないはずは。
だが、ライトの表情を判別することはできなかった。目の前の輪郭は、漏れ出してきた水でにごってしまっている。
「ライト、どうするつもりなんだ」
「知るか。今、俺はできることならお前を押し倒してやりたい気分なんだから」
もう二人が何を言ってるかなんて耳に入らなかった。
信じられなかった。
なぜ二人は、その選択をとったのか。
なぜ三人の関係がこんな風にして終わらなければならなかったのか。
「哭くな。哭きたいのはこっちの方なんだぞ」
ライトが無理やり少女の涙をぬぐう。
「待って。行かせたりなんかしない」
理性の働かないままに出る言葉。
「やってみればいい、その力があるのなら」 ため息をつけて、アカルは言葉を継いだ。
「三日後、フクオカの港から船が出る。それに乗ってウミムコーに渡るつもりだ。船賃は二人分しかないからね、送ってくれるならいいがそれ以上は僕たちにもできない」
海外に行くこと自体は何ら珍しいことではない。単なる見物が目的なら、キレイコが涙を流すことなどなかっただろう。
しかし、二人はもう悟り切ってしまっていた。
この、キューシューという世界の辺境には、人生の意味など見出し得ない。
なら、こんな不毛の大地など出ていってしまえばよいではないか。
彼らの目が、その意志を雄弁に語っていった。
キレイコは、なぜ二人がここまで一致しているのか不思議でならなかった。
二人が心を一つにしてこんな悲しい別れを知らせるなら、いっそのことあの時のまま争っていればよかったのに。
彼らがコガの町を出てフクオカへと去った時、キレイコは急いでこれを追った。家族に、少し遅くなるとだけ告げ、馬車でフクオカにやって来て、港へと。
やはりフクオカは大きい街だ。固い外壁で覆われた何階もある建物がどこを視ても建っているし、古代に整備されたアスファルトの道路がなお現役だ。さすが、諸都市をまとめ上げる盟主なだけある。
だがここに行ったのは見物などでは全くない。一角に密集した人ごみをつきぬけ、馬車や人力車の行き交う道を走る。
ウミムコー行きの船を探して、彼女は海沿いを走り回った。ニホン語やカンコク語が四方からひしめき合う、ざわついた音響の中を。
そしてとうとう――見つけた。
港から海へと向かう船、その上に載っている姿が、彼女の見た最後の二人だった。
ある時、手紙が来た。今、彼らははるか海のかなたの土地にいて、兵役についている、とのことだった。それを読んだとき、彼女はどうしようもなく嘆いたものだ。
兵士といういつ死ぬかわからない職業によくつけたものだ。もしかしたら栄達の可能性はあるが、その代償はあまりにも大きい。
まるで、私をおびやかしているようではないか。この運命を幾度となく恨んだ。
けど。
……もしかしたら帰ってくるかもしれない。
ずっと根拠のない希望を抱き続けていたものだ。いや、妄想と思われても仕方がない。
それでも考えをいい方向に向けなければ心を保てなかった。
ゆらぐことはあった。もう、あれきり手紙が来なくなってしまったから。ひょっとしたら、自分のことなんて忘れてしまったのかもしれない。いや、もしかして。
違う――生来の心の力でこれを押しとどめた。
あのアカルが、私のアカルが、私を裏切って帰ってこないはずはない。
必ずあの人は、あの危険な世界から帰ってきて、私の目の前にやって来てくれる――。
客は、それからたわいのない話題で少し話しあってから帰っていった。
ふと、キレイコは自分がまだ大人になり切っていないのではないかと疑い、恥じた。
なぜ、あんな空想にふけってばかりいるのだろう。もう八年も前のことなのに。
普通の人間なら、自分の年齢に至るころにはもう子をもうけているはずのなのだ。子を産むのは早ければ早いほどいい、と誰かが言っていた。
異様な孤独感を、そして感じる。なぜ自分は、このような人間であり続けているのだ、と。一体、人生を何のために費やそうとしているのか、と。
彼女は、仕事の手も止どめてじっとしていた。湧き上がってきた感情に、思わず体が。
何をしているのだ、さっさと動け。
何とも言えない嫌悪感。もう何もしたくない倦怠感。
それにばかり気を取られ、全く身動きが取れない。
外では、足音が響いている。もう一人の客らしい。すぐに立たなきゃ。
キレイコはやっとのことで地面から立ち上がると、また職業柄の態度で応対しようと決意していた。
先ほどのような話はもう持ちかけられたくない、と心の片隅に思いながら。
扉が開くと、二人目の客が姿を現した。
「……お久しぶりです、キレイコさん」
実に落ち着いた口調で。
その時、キレイコは何のことか分からなかった。その直後に、なんだか体をしめつけられるような感覚を。
ハヤシ・ライトがずいぶん大人びた姿で立っていた。
あの粗野そうな顔つきは洗練され、別人のようにさえ映るが、確かにあの時の特徴をよくとどめている。声はあまり変わりがなく、十分にあの頃の記憶を湧きだすのに足りた。
「俺です、ハヤシ・ライトですよ」
キレイコは立すくして、うつろな様子で黙っていた。別におびえているわけではないらしい。
だが、何かに裏切られたと、思いこんでいるように。
「えっと……ライト?」
「はい、そうです。八年の歳月を経て、ここに約束を果たしました」
そうだ、ここにいるのはあの時別れを告げた、あの親友だ。今ここに生きているではないか。生きて、ここに帰ってきたのだ。
ライトは神々しいものへの目つきでキレイコを眺めていた。穏やかではあるが、何かが違った。
キレイコは、疑問を浮かべた――なぜ、彼がいないのかと。
だが、その疑問を意識する前に、ライトは彼女を強く抱きしめていた。
「ああ……良かった。これは、夢じゃない」
キレイコの袖が、熱い液で濡れる。
キレイコはたちまち言葉に窮してしまった。
「お、お帰りなさい」
確かに、彼女は嬉しかったのだ。ライトが約束を違えず、ちゃんとそれを守ってくれたことは。
だが、完全に嬉しさで心を満たすことはできなかった。
不安が、彼女のどこかにあったのだ。
すっと、ライトが彼女の体から離れる。
「いや、家の扉の前でこんな態度をさらしてはいけなかった」
わずかに顔を赤らめたライト。
「ねえ」
ごく小さな声でキレイコは。
「何で、あの子は……?」
キレイコがまだ淡泊な表情を続けているので、ライトはやや心配な表情に。
「いや、突然の訪問で失礼いたします。細かいことは家の中で話しましょう」
まだ顔に水が残り続けている。何か小さな白い物を片手に握りしめていたが、すぐに懐へと入れてしまう。
二人は家の中に入った。キレイコが席を勧め、机に向かい合って彼らは座った。
「しかし、もう八年も経ったというのにこの街は何も変わりませんね!」
開口一句。
「市場でよく食っていた屋台も、議事堂も、ここを出た時とまるで同じだ。フクオカは人の出入りが激しいもんですから、数年で町並みが変わってしまう。あっちは道をどういけばいいかずいぶん迷いましたよ」
キレイコは先ほどの疑問を抱きながら、ライトのいまだ健気な様子にかつは安心していた。
「この間にもキューシューでは色々と大変なことが起こっているそうですが……それはいいとして」
この時キレイコは別のことにたいして不審に思っていた。
かつてのライトなら、こんな丁寧な話し方などしただろうか。
「あまり顔色がよくございませんね」
だがそれよりも優先すべき質問が今はあるはずだ。
「――アカルはどうしたの?」
勇気を振り絞って、彼女はその質問を出した。
「アカル? それは……」 ライトはわずかに引いた顔に。
明らかに、何かをためらっている様子だった。
「まあ、この八年に何があったかを語る方がいいでしょう。一番聞かせてさしあげたいことですし」
キレイコは何やらはぐらかされたような気分になった。ライトは記憶の中では、質問されたことにはそのまま答える性格であったはずだが。
一旦目をつぶり、沈思黙考するような表情になってから。
「俺とライトはあの日、フクオカを去って、海の向こうのプサンについた。あっちに到着したのは……、確か、真夜中のことだったか」
ライトは自分に言いきかせるような口調で話している。誰もいないところでつぶやくような感じで、低い声というのが証拠。
しかし、キレイコはもう彼の話に傾聴していた。
「俺たち二人は十分な食料と金を持って出発した。まあ数日は困らないだけの分は持っていたと思う。まずやろうとしたのは食いつなぐための職を探すことでしたね」
一体アカルはどのような道をたどったのか? ほとんどそれに関心を。
「プサンじゃ十日くらい滞在したか。人が多いから、いいなりわいにつけそうにはつけそうにないと言って、アカルは俺に西のチョラ地方に行こうと勧めた。俺は最初気が乗らなかった。まだプサンに征服されたばかりで、あまり支配が安定していませんでしたから。俺は故郷から離れるのが嫌で、奴の言葉に最初従いませんでした。だがこの場にとどまっていても旅費が尽きるのを待つだけだし、人生何かに賭けなきゃならないこともある。危険な所に来てしまった、と思いながら俺はあいつのあとについていきました」
アカルはどういう風にしゃべるか決めかねているようだった。キレイコと差し向かって話すか、何かそこにいる仮想上の誰かに対して話すか。
「俺たち二人は金を切り詰めながら、何とかしてまずクアンジュを目指しました。プサンあたりは人目も多いところなので、治安もいいのですが、辺境となるとそうも行かない」
ウミムコーはキューシュー同様、いくつもの勢力に分かれており、キューシュー人にとってはプサンがもっとも有力な政権として知られている。都市同盟はプサンと昔から強い結びつきを持っているのだ。
「道を進むに従ってだんだん人も少なく、荒れた土地が広がっている場所になって、気が気ではないこともありましたが、もうここまでやってきたからには死んだのも同然だと思うことにして、俺たちは前を進み続けました。道の途中で家に泊まらせてもらったり、時には野宿をしながら行く途中、驚くほど何事にも巻きこまれませんでした」
ウミムコーに行ったことがないキレイコにとって、その旅がどれほど危険なものだったかは想像することができない。自分がどのように考えても、それはライトの経験を越えることはない。
「あまりに平穏な旅路だったので、逆に不安があったのですが、自分がまた人のたくさんいる所に近づいているんだ、という自覚からそれが薄れていきました。どこから狙われているかわからない、という気持ちが強かったので。ただ心のどこかでは油断しきっていたのでしょう。マサンという場所に差しかかった時、いきなり追いはぎの集団に囲まれ、俺たちを打ちつけて持ち物を盗みとってしまった」
「えっ」
そこで初めてキレイコは驚いた顔を見せる。なぜかは自分でも判然としなかった。
アカルがそんな目に遇うことなど、あってほしくなかったからだろうか。
「気づいたら、もう金も食べ物もなかった。俺たちはまず騷げるくらい騒いだうえで、ほとぼりが冷めてからはあきれて、途方に暮れた気持ちで街の中に入っていった。やっぱりこんな所に来るんじゃなかったと」
「じゃあ……それからどうしたの?」
「恐らくこんな辺鄙な場所ではよそ者など受け付けてくれないだろうとあきらめながら、俺たちはとぼとぼと家と家に挟まれた道の中を歩いていった。すでに藍色に空は染まり、小さな星がいくつもまたたいている。ガス灯が目の前でさびしい光を放っている。飢えることばかりは避けたい、と思いながら、どこか一夜を明かせる場所はないかと、うつろな目であたりを見回していましたね。しかし何の甲斐もなくて、その日は明けました。
次の日、いっそのこと元の道に引きかえそうとしたところで、あるうわさを耳にしたんです。どうやら北の大国である『青狼ハン国』の侵攻に対して抵抗する兵力を大陸の大国、『ホーナン国』が求めているらしくて。その募兵係がこの街にやってきて協力を求めている。
最初、そんな危険なことはやれないと俺は抵抗しましたが、アカルはここまで来てしまった以上後戻りはできないと言って、俺を誘いました。生きて行ける保証はどこにもありませんが、もしそこで大きな功績を立てれば、出世する道もあるかもしれないし。だがいずれにせよ、食べ物でももらえると勝手に期待して俺は結局ついていったんです。古代に造られた、コンクリートの建物が近くにあって、そこで参加者をつのっていると聞いたので早速そこに向かった。建物の前には長い行列がありました。すると驚くことに、俺と同じキューシュー人が少なからずいたんです。かなり時間がかかってから、募兵係の男たちが俺たち二人を呼んで、軍隊に適するかどうかを調べました。
あせりましたよ。何しろ、体があまり強そうではないので、アカルが脱落しそうになったんですから。俺はなんとか募兵係を説得して、二人とも合格するように仕向けた」
キレイコは、腑に落ちない気分だった。二人がそんな危険な道を歩むなど、ありえなさそうな話だ。
「本気だったの? 私に会えなくなるのを、覚悟で?」
「もちろん生きて帰るという約束を忘れていたわけではありませんよ。しかし、いまだ足を踏み入れたことのない大地で冒険したいという気持ちの方があの時は勝ってしまった」
それだけではないはずだ――という疑念がキレイコの心の中に起こる。
「俺たちはその後、ある船に載せられて、数日間ファンヘ海の上を漂っていました。陸路で大陸に行くのはあまりに遠くなるので。いくつかの港に立ち寄りながら、これからのことを考えると気が気ではありませんでした。何しろキレイコさんに会えないというのは大きな罪のように感じられましたから。死の恐怖などよりもそっちの方がはるかに大きかった。
船旅はシャントン半島という所で終わり、さらに陸路で北へ行く。草よりは砂や石の方が多くなってきた所までつくと、ここが自分たちの居場所だと上官から知らされた。ある程度の訓練を受けてから、すぐにある部隊に送られて、それ以後はもう戦わされるだけの日々が始まった」
ライトは長くしゃべりすぎたせいか、何回か唾をのんだ。
「のどがかわいたでしょ?」
「ええ、かわきましたね。マッコリでも飲みたいな」
「ちょうど、うちで作っていたのがあるから」
「ありがとうございます……」
行儀よくライトはうなずいた。
もしかしたら、自分の態度を冷たいと思われているかもしれない。凄然とした感情がふとキレイコを襲う。
なぜ、帰ってきたのが彼ではなかったのか――もしこの感情を見抜かれていたなら、いかにすべきぞ。
決してライトを軽視していたわけではない。同じくらい、ライトのことも考えていたはずなのだ。
だが、むしろアカルのことを思い出すことの方が多くはなかったか。
二人に対して自分は同じくらいの思いを寄せていたはずなのに。
なぜアカルの顔が真先に思い出されるのか。
「ああ……やはり故郷で飲むマッコリは違う!」
「それはよかった」
酒杯を机に置くと、唇をぬぐいながら、
「とまあ、大陸につく前にもいろいろあったわけですが。とにかく、あっちでどんなことを経験したかはあまり詳しく話す必要はないでしょう。そんなことには興味もおありでないでしょうし」
よく見ると、ライトは実際うやうやしい顔で話をしていた。言葉はあまり固いものになりすぎないようにしてはいても。
親しさというものが、ずいぶんと薄くなっている。
八年という歳月がすっかり彼を別人にしてしまった。何度も死にかけるような体験をしてきたはず。道理でかつての面影をほとんど残さない。
「キューシューからウミムコーを経て、大陸につくのに一年、軍の中にいたのはおそらく三年ほどだったと思います。毎日が死と隣り合わせの生活だった……」
「確かに、人が傷つくのを日常的に見かけなきゃならないんだからね」
とりあえずの一言。
一瞬、ライトの顔が妙に硬直し、元に戻る。
「なにしろ、この世界ではキューシュー人の地位なんて低い物です。大陸の人間は我々を使い捨ての道具程度にしか見ていなかった。死んだところでいくらでも代えが効く存在だとね。敵はいつも容赦なく襲いかかってくるし、他の民族の部隊からは冷たい目で察られる。あんな状況で、なぜ生き延びられたのか不思議なくらいですが……おそらくは、キレイコさんの力があったからでしょう」
「ち、力?」
「どれほど離れていても、心はいつもキレイコさんのおそばにありましたから……」
キレイコは何を言うべきか迷った。するとライトもすっかり似たような表情に。
自分に似つかわしくない言葉だと感じたのだろう
「とにかくあの間、生きてキレイコさんの顔を見れるかどうかだけが関心でしたね。耐えがたいことも色々とありましたが、あの約束に比べればどんなことでも些細なこと。確か、手紙をお送りしましたね」
「ええ、読んだわよ」 ライトの表情に変わりはない。
「ああちゃんと届いたのか。それは良かった」
だが、その先だ。アカルはどうなったのだ、という内面の声をキレイコは隠していたが、それを察知するかのようにやや早口で、
「話を戻しましょう。ある時、青狼ハン国軍が砂漠を渡って南に行こうとしている、という報せを聞いて、俺たちの部隊は先行して迎撃することになった。当然、ほとんど捨て駒のような物です。
その時は風が強く、砂が舞い上がってあたりを覆い隠していた。すぐ近くさえ判然としない状況の中で、俺たちの部隊は念に念を入れて警戒していたはずだった。だが、やはり実際に起こることは予想を越えている。いきなり、敵軍とはちあわせになったんです。当然ながらかなり混乱した戦いになった。俺とアカルは奴らに力の限り抵抗したつもりだったが、どこかから指揮官が戦死なさったという叫びが聞こえた。すると軍勢は散り散りになってしまい、気づいたら俺はアカルの手をつかんで戦場の外側を走り出していた。だが、結局は無駄……、敵の騎馬隊にたちまち囲まれて、武器を捨て投降するほかはなかった」
キレイコはライトの言葉が表すその情景をよく想像できずにいた。
「その後は二年、捕虜として、都市遺跡からの遺物の調達や、堡塁の建築といった労働を課せられた。……バヤンノールという場所だったか。もうさすがにここで俺はあきらめそうになった。かりに自由の身になったとしても、故郷に帰るのは絶望的だ。あまりにも遠く離れすぎている。いっそのこと、ここをついの住処にしようかと思った。何しろ、そこで生活していく内、この大陸の言葉や習俗にすっかり身を浸しきりにしてましたから」
ライトはだが目を見開き、机を一度拳で打った。
「だがアカルがそれを許さなかった。もし生きてキレイコさんに会えなければ、呪われるに違いないと言って俺を説き伏せた」
ライトは何かを思い出したかのように物憂い感情をあらわにする。
「それから、また俺は自分の旅の本来の目的を思い出した。もし今故郷に帰ることをあきらめれば、自分はその罪を一生捨てることはできない。それは決して許されないこと……」
まるで自分を何か特別なものとしてみなすライトに対し、キレイコは動揺を隠せない。
「いつも、キレイコさんこそが光であり、道でしたから」
それは、生身のキレイコとはかけ離れた人物ではないのか。苦しい生活の中で、昔の記憶がゆがんでしまったとでもいうのか。
「ええと、その後の話をしてくれない?」
「つい、感情が高じてしまいました。申し訳ありません。とにかく……俺たちは敵軍の駐屯する場所で、厳しい監視下にあった。最初なかなか脱出できる様子が見えなかった。だがある日、そこにいる要員の多くが偵察のためか出払って、ごくわずかな兵しかいなくなることがあった。その隙をついてアカルは俺を誘って、ついに逃げ出すことになった」
キレイコはふとうれしくなった。アカルはやはり、知恵のある勇敢な人物だ。
だが、ライトの口調は変わらない。
「もちろんつかまったら今度こそ命の保証はできない。ましてこれほど広い世界において逃げるあてなんてどこにもなかった。だがそんな不安要素はその時何の問題にもなりませんでした。とにかく逃げることだけを考えて、俺たちは走りました。地面を地平線に至るまでひび割れていて、空は雲に覆われて灰色がちだったと記憶しています。
だが、途中で、そばから叫び声が聞こえてきた。アカルに何かが起こったと察知して、横を振り向くとアカルが背中に矢を受けて倒れている」
キレイコはその時、何かを察知した。これは、『何か』を意味している。
ライトが言おうとしていることは――
「すかさず俺も倒れることにした。馬のひづめの音がこっちへと、静かに近づいてくる。この時ばかりは本当に生きた心地がしなかった。だが、幸いにも奴は二人がもう死んだものと思ったらしい。気づいたら、もうどこにも他人がいる雰囲気なんかなくて。どれほどあの忌まわしい場所から離れられたか分かりません。この際の関心事はただアカルの安否にあった。
俺はアカルを助け起こしてなんとか気を取り直させようとした。だが奴はこう言った。
『もう僕は助からない。深手を負った』
『何を言ってるんだ。故郷に生きて帰るんだ』 俺はそう言って譲らない。
だがアカルの方もなかなか険しい顔で応じない。
『ここにいちゃ二人とも破滅だ』
よく見ると、アカルの腕の動きもおかしいし、体の色も急に青みを帯びてきた。
いよいよ俺があせり出した時、アカルは絞りだすような声で叫ぶ。
『このままゆっくり苦しむのは嫌だ。どうか君の手で殺してくれ』
『そんなことできるわけあるか!?』と俺は反抗した。
奴は激怒した。
『今際のさいにそれを言うのか! 君はもう少し率直な奴だと思っていたら』
なんて身勝手な奴だ、と思わずにはいられなかった。
だが実際、奴はそれを心から望んでいる顔つきだった。ましてや刺さっている矢は実際かなり深く見えたし、とても拔くことなんてできそうにない。最初俺は心を激しく震わせて迷った。そうすれば、キレイコさんの約束を破ることになる。あの時、二人とも『生きて帰る』と叫んだはずなのに。だが、アカルがこれほど苦しんでいるにも関わらず、ただ見ているだけと言うのはあまりに残酷だ。俺は奴の首に手をかけようとして、何度もためらった。
そうすれば必ずあの呵責に襲われる。このままではキレイコさんに会わせる顔がない。
だが、自分の友をほうっておくことも一つの裏切りだ。
耐えきれなくなって、俺はもう叫んだ。叫ぶと同時に、選択肢を無意識に選んでいた。
俺はあいつの首を、つかんで、激しく、しめあげた。アカルは笑っていた。ただ何も考えず、俺はあいつの息をとめて、背筋をぴんと立てていた。のどはもう……、かわいていました」
キレイコの世界に衝撃が走った。それは最初、自分の感覚が破壊されたのかと錯覚するものだった。
だが次第に、衝撃が鎮まる内に、彼女は理性を取り戻し始めた。今、一体何を経験したのか、それを明確に理解しようとした。
理解しようとして、それが何なのか分かった内に、二度目の感覚が襲ってきた。これはより静かで、だが心の奥深くに作用するもの。
「その後の二年はホーナン国にいました。どうやって戦地から逃れられたのかあまり覚えていませんが、毎日が極限状態だったことは知っています。ほとんど動物のような生活で、道に生えている草を食べることさえしました。時には泥棒と間違えられて官憲につかまることもありましたが、がむしゃらに帰ることばかり考える間に、シャントン半島のタリエンまでなんとかたどりついたんです。そこで港の船に乗りこみ、今、こうしてここにいる」
それまでの行跡を、ライトは手短に語り終える。
「本当はもっと色々と語りたいことなのですが……時間があまりない。それに、キレイコさんにとって大切なのは俺たちが生きて帰ってこれたかどうか、それくらいでしょうし」
キレイコは放心状態だった。アカルがいない理由は少し前から分かっていたはずだった。だが、その理由の元となった出来事が、あまりにも残酷だった。
まさか、自分の慕っていた人間が、その友人の手によって殺されるとは!
ハヤシ・ライトがそれをやったのだ。今目の前にいる、この人間が!
「俺は……あの時罪を犯してしまった。これに関してどんなに責められても俺は反省できない……」
彼はうなだれた。
「さあ、俺を殴ってください」
だが、キレイコは体を何も動かさず、ただぼそりと。
「私にとっては、アカルが帰ってきてくれたらそれでよかった……」
その一句一句ににじみでる失望の感情。
「確かに、俺があの時アカルの身代わりになっていれば……」
「アカルがいなくちゃ、あなた一人がいても何にもならない」
感情のままに口を走らせるキレイコ。
「それがキレイコさんのお言葉であれば、受け入れざるを得ません」
なぜ、あの人ではなく、この人が生きて帰ってきたのだ。
ライトは、確かに大切な人間だ。しかし、それよりも大事なのはアカルのことだ。
アカルこそが、生きて帰っていなければならないはずの人間なのだ。
だがアカルは死んだ。もしそれが見知らぬ誰かの手による物だとしたら、ただただ彼の死で大粒の白玉をこぼしたことだろう。
しかるに、ライトが平然と私にとって大切な人間を殺し、大胆に私の前に現れた。
どういう気持ちを抱けばよい。
「アカルが私のずっと頼んでいたはずの人だったのに。ずっと生きて帰っていると信じていたのに……」
だんだん自分の世界へひきこもっていくキレイコに対し、ライトは、何ともしがたい感情をいだいた。
「俺は、ライトと行住坐臥、常に苦楽を共にしてきたんです。一緒にいなかった時なんて片時もない。なのに……俺は……」
ふと、いずれかの感情がライトの言葉をにごらせたらしい。言葉の最後の方で、妙に口調が浮ついた。
「キレイコさん。俺を、憎んでいますか?」 彼は、おそるおそる訊いてみる。
すぐに顔を上げた。すでに表情は色をなしている。
「憎んでいる? 憎むも何もあったものじゃない。アカルさえ生きていれば、あなたが死んでいようといまいとどうでもよかった。だってあんな過酷な世界だもの、そうなっても仕方ないものね。でも、生きて帰ってきたのはアカルじゃなくてライトの方だった。なぜ、ここまで生きてこれたの?」
「つまり……俺は、さして期待されていなかったということですか」
だが、ライトは激高することも絶望することもなかった。
「ええ。分かりました。これはキレイコさんがおっしゃることですし、俺は耐え忍ぶしかない」
「だから、あなたなんて別に必要でも何でもなかったのよ! アカルを殺して、自分だけがのこのこ帰りついてきた。どうして、そんなことができたの?」
ライトは、その時理解した。
自分は、すっかりのけ者にされていたのだと。
無論、キレイコがアカルのことばかり考えて、自分のことはおいてけぼりにしているであろうとは予想していた。
だが、まさかこんな扱いを受けるとは想像していなかった。
自分はもはや、キレイコの知己ですらなかった。もはや、赤の他人に過ぎない。
キレイコはライトを、もう昔のような友人などとはみなしていない。
「俺たち二人は、ずっと遠く離れた戦場でキレイコさんのことを考えていたんです」
裏切られた。あえて表現すれば、彼の失望の感情とはそのような現象に起因するものだった。
これほど、酷薄な態度を目の前にとられるなんて。
そしてすぐに、こう思い直す。
だが、それを当人に対して怒る権利など自分にあるだろうか。
自分はなにより、彼女よりずっと『下』の人間に過ぎないのだから。
「ああ……でも、これも運命なのですね」
涙を流していたが、その顔は無理やり、笑っている。
キレイコには、気に食わなかった。
ライトは今にも泣き崩れそうな表情をしている。だが『何か』が、その衝動をもうすぐのところでせき止めている。
なぜ、こんなどっち付かずの、見苦しい顔立ちを保っていられるのだ。
「どうしてなの? どうして笑っていられるの? もう私はあなたをことを何とも思ってないのに!!」
両目を何度も手で抑えつけながら、ライトは声をのどの奥から。
「俺は、そ、それでも幸せです。キレイコさんが生きていること、キレイコさんに生身で会えたこと。キレイコさんの声を聞けたこと、こうして罵倒されてもらっていること、どれも、み、みんなキレイコさんの……」
彼女は席から急に立ちあがった。
「出て行け! この人殺し! 人でなしが!!」
それが心で実際に思っていたことか、キレイコ自身も知りかねた。だが、感情が彼の舌を無理に動かしていて。
「俺は、報いられた」
キレイコはライトの両肩をつかむと、その体を地面に押し倒した。
それから何度か、その額を手で打った。思いきり、怒りをこめて。
「どうして、こんな顔で私の目の前にいられるの? 私の想い人を殺したくせに!」
「俺はあ!!」 口を大きく開けて、ライトは叫ぶ。
「俺は、恨んでいません……こんなに打ってもらえることが、何より俺の一番の罪のあがないですから」
昔の、まだ何にも穢されていないあの頃の笑顔を彷彿とさせる顔立ちだった。
激情が交差する中でその顔は、あまりにも、無邪気で思いがけなかった。
キレイコはそれから、何も言えなかった。涙を流して、目も開けられずにずっとそこに臥していた。
目覚めると、もうライトはいない。
もうあたりは暗くなりかけていた。セミの鳴き声がどこからかささやいてくる。この家の道沿いに立つ街灯が、さびしくともっている。
自分の手や足も見えずにキレイコは、我ながら実に大人げないふりをしてしまったものだ、と悔いた。あれのせいで営業をだめにしてしまった。
しばらく罪悪感にひたってから、彼女は、なぜ自体がここまで至ったかを冷静に考えようとした。恐らくこれは、お互いの事情のすれ違いにあるかもしれない、と。
アカルとライトは、八年前のあの日、フクオカの港から旅立った。なぜライトがアカルについて行ったかはわからないが、恐らくはきっと煮えたぎる感情をおさえながらだったに違いない。
久々にあった時、ライトが自分に初めて見せた表情は、明らかに親しげなものではなかった。かつて彼が抱いていたであろう何かが、そこには抜けていた。ずっと探していた宝物を『見つけた』とでも叫ぶかのように、人間に向けるものではない心があったのではと気になってならない。
でも、私は彼らをどう見ていただろうか。
アカルとライトは最初、私に対して友人以上の感情を向けていた。そのためにその間に対立が生まれていた。その間、自分は彼らを純粋に『好きな人』だと。
二人があっちに行ってから、いつ頃からか分からないが、自分の中で二人に対する扱いの差が生まれた。アカルとの思い出のことをもっぱら思いかえすようになっていた。ライトについての記憶も薄れてはいなかったが、それでもアカルとのやりとりを思い出した後でそのついでのようにふと心の中に湧き上がる程度だった。
あの分かれより少し前からは、ほとんどアカルだけと話していたような気がする。ライトとは自然に口数が減って来ていた。なぜに?
……もう、私はこの感情に気づいているべきだったのだ。私は心の中で、確かにライトを捨てた。ライトをきっぱりと否定したわけではないにせよ、その二人に対する扱いの差を知らず知らず定めてしまっていたのだ。
たとえ二人とも生きて帰ってこれたとしても、自分は童心に帰って、二人と平等に接することなどできなかっただろう。
ライトの口ぶりから察すると、アカルもどうやら、私のことを神秘的なものとして見ていたらしい。その時、アカルと私は昔と同じ形で語りあうことなどできただろうか。――万一そうでなくても、もしアカルと私が結ばれるようなことがあったら、ライトは一体どうなるのだろう。誰も不幸にならないと、なぜ言い切れる。
「……手紙?」
ふと、ライトが座っていた席に目をやると、その上に一つの紙切れ。キレイコが気づかない時に、彼が置いていったのか。
すぐにそれを手に取って、開いてみる。
やはり、文字が書かれていた。前受け取ったことのある手紙と、よく似た書風のヒラガナだ。
今すぐ、内容を知りたい衝動に駆られる。しかし、まだ夜だ。朝になってからでないと、今は早すぎる。
彼女は、文字を知らなかった。
「おじさん!」
キレイコは、離れに住んでいる親戚の元に行った。
その親戚の男はかつて役所で働いていたこともあり、文字の読み書きができたのである。
「どうしたかね、キレイコ?」
彼女が呼ぶと扉が開いて、中から男が出てきた。
「また、ライトから手紙が届いたの」
「何、あの奴、まだ生きているのか?」
「いや違う……そうじゃなくて」
相手は事情を知っているわけではないことに気づいて、キレイコは昨日あったことを手短に話した――もちろん、ライトがアカルを手にかけたこと、自分が激情に駆られてライトを打ちのめしたことは除いて。
「驚いた。ここに帰ってきたのか……!」
聴き終えたころ、親戚は、目を丸くしている。
「だがアカルは……まあ、危険な旅だからな」
「こ、これ、早く読んで」
追想にふけっている親戚に、こらえきれず手紙を渡すキレイコ。
「ふむ、懐かしい字だ……五年ぶりくらいだな、これは」
手紙は、アカルの筆になるものだった。
家の居間にあげてもらうと、キレイコは親戚が手紙を読み上げるのを注意深く聴き始める。
「『こんにちは。お元気ですか、私、アカルはなんとか日々を生き抜いています』か。どうやら北国と戦っていた頃の物らしい。……?」
親戚の目が、横に動く。それから、彼はしばし沈黙。
「ほほう、そう考えていたのか。それはあっちに行きたくなるのも分かる」
「ど、どういうことなの?」
キレイコはせかすような口調でつめよる。
「まあ聴いておけ! 『私はずっと、この関係が続くことを憂えていました。私はキレイコさんと一緒にいたころ、ライトとどう接するか常に悩んでいたのです。私はできることなら、キレイコさんと一緒になりたかった。今でも、たまにそのような気持ちが起こることがあります。
しかし私は結局この危険な道を選ぶことになりました。理由は多々ありますが、一番大きなことは、このままで行くと誰のためにもならない、と考えたからです』」
それは、昨日かねて予想していたことだった。だが親戚はまだ話し続ける。
「誰にもためにも? 身勝手な。『私は、あの日の前夜から少し前、ライトを誘いました。何でもないような要件で二人だけの状態に誘ってから、こう告げたのです。僕は、もうキレイコからは手を引くことにする、と』」
一体、彼は何のためにそうなったのだ。キレイコはその関心に全神経を注いでいる。
「『私は、あなたへの恋心――ほう、この字がちょうど濃く書かれてやがる――のためにその決心をゆるがされそうになりましたが、一時的であれ何とかそれを押し切ることができました。最初、ライトがどう出るか極めて不安でした。ですが、ライトは大して驚きもせず、そうか、それならどうする気なんだと問い返しました。そして例の、渡航の件に話が移りました。すると、驚くことにこの話に彼も乗ったのです。わけを訊くと、彼もやはり同じようなことを考えていたのです』ほうほう、どんなことだ?」
三人の関係をのぞきこむことに、親戚はむしろ楽しげな様子でさえあった。
キレイコの心情は、ほとんどその対極。
「なかなかアカルめ、ここからもべらべらと買いてやがる。『ライトはこう答えました。俺はキレイコのことが今も好きだ。それに関しては異存はないし、今だってキレイコのことがほしくてたまらない。だが、お前はやはり長い付き合いのある人間だし、そういう奴と古い絆を絶っていがみ合うようなまねはしたくない。
それを聴いて、心の中が、幾分か晴れた気がしました。すっかり、彼とはもう分かり合えないのではないかと怖れていたのです。ですが、ライトがそう言ってくれたおかげで私の何かが変わりました。すぐに私は、君と同じように僕も考えている、と伝えました。すると、彼の顔にもほころびが見えてきました。まさかお前がそれを言ってくれるとは思わなかった。実は、俺もお前を見ていない間このことで苦しみ、選択すべき道で身を迷っていた。キレイコはお前よりも俺に気がありそうだし、あいつの幸せのためならお前に譲歩した方がいいかもしれない。だが、あんたにキレイコをくれてやるのも悔しいし、それでキレイコに対する思いがなくなるわけでもない。とはいえ、あんたがウミムコーに渡ったら俺はキレイコを自分のものにしてしまうかもしれない。それは俺たちとしてはなはだ禍根を残すかもしれない。今いいことを思いついたんだ。俺もあんたに一緒に連れていってほしい、そうすればキレイコが誰の物になるかについて問題が起こることもなくなる、と』。
手紙はここで途切れている。多分書いている途中で、こんなものは送るに堪えないと判断したんだろう。
二人はあんたに思いを寄せていたが、そのことで同時に悩んでいた。二人とも悩んでいた点で分かり合うことができた。それで、すんでの所で身を引きあったわけだ」
突き放されたのを覚えた。ライトは、アカルとの関係をこれ以上悪化させないために、あのウミムコー行きに同行したのだ。
それどころかライトは、自分がキレイコにとってよそ者になりかけているのをすでに知っていたのである。それどころかアカルと自分が結ばれることを――渋々ながらも――認めてさえいたのである。まるで、キレイコの心を見透かしていたかのように。
「だが、ライトにそういう面があったとは意外だな。あいつは一度走り出したら止まらない無鉄砲な奴だと思っていたが……」
親戚は
「お前は、知っていたのか? このことを」
「いや、全然」
キレイコは二人がこの手紙をなぜ隠したのか、知りたくてならなかった。
二人は、二人のための道を進んだにすぎない。それは、キレイコのためになる道ではない。
二人は、自分を裏切ったようなものではないか、と恨めしい気持ちにかられる。二人がそばにいてほしいというのが自分の本意だった。だが、二人は、私の元にいてはならない、と相反する考えを抱いていた。その合意に基づいて、私をこの最果ての地に置いてきぼりにしたのだ。
いや、もしかしたら二人は帰るつもりなどなかったのかもしれない。
もし二人が故国に帰ったなら、必ず私を再び争い始めるに違いないからだ。
だが、アカルが死んだ後、ライトは
「アカルがいなくなった以上、奴はお前を手に入れるか手放すかのどっちだな」
親戚はまるで詮索するかのように言う。それからやや口調を変え、
「まあ、ゆっくりと考えることさ。八年前とは環境も変わったし、ライトも新しくなったキューシューに適応するのに大変だろう」
口に出してははっきりと言いはしなかったが、ありえないことは知っていた。
もう、彼はあの頃のようには自分を想ってはいない。
この手紙を書いていた頃とは、彼はすっかり変わってしまった。もうあの頃のように、私に恋することはない。
私も、あの子と昔のように仲良くすることは。