ヒトラーの魔術
中
ヒトラーの予言(1)
神崎とゆみが金華山寺を後にしたのが正午前後。昼食も摂らずに東浦の自宅に帰り着いたのが午後3時頃。
隣の清水のおばさんに連絡を入れたのがその20分前だ。
玄関先で、おばさんと2人の警官が待機したいた。少し離れた所でパトカーが駐車してある。
神崎は車を自宅の駐車場に入れる。警察官と清水のおばさんが近寄ってくる。警察官がまず家の中を調べるようにと言う。2人は玄関を開ける。家の中の1階から2階まで見回る。部屋の中は荒らされてはいない。物色された跡もない。預金通帳や印鑑なども盗まれてはいない。
「もしかしたら・・・」ゆみはパソコンのスイッチをオンにする。ディスプレーを見ながらキーボードをたたく。
「やっぱり!」ゆみの大きな声。
「ヒトラーに関する資料がコピーされている」
ゆみはパソコンの画面を指さす。パソコンのデーターをコピーすると、コピーした回数が表示される。ゆみの指さした先には2の文字が表示されている。1回目はゆみがCDにコピーを取っている。2の数字は誰かがコピーした事を表している。
2人は一階に降りる。玄関先には2人の警察官と清水のおばさんが立っている。神崎は盗まれた物はないと話す。警察官は後で気づいた事があれば連絡してくださいと言って玄関を出ていく。
神崎は清水のおばさんをキッチンに招き入れる。おばさんは早口でまくしたてる。
―――午前11時頃、名古屋市北区にある大手家電量販店の小型貨物車が、神崎の家の駐車場に乗り入れる。たまたま窓から見ていた清水のおばさんは、外に出てきて、そこは今日は留守だと話す。
家電量販店のユニホームを着た運転手と助手席の男が、愛想よくおばさんに頭を下げる。
「ルスは承知しています。ご注文の商品をお届けにきましたので、勝手口から入れさせてもらいます」
運転手の男が見せつけるようにして勝手口の鍵をチャラチャラさせる。
2人は段ボールの荷物をかかえて裏手にまわり、勝手口に入っていく。
清水のおばさん、まさか物取りとは思わない。神崎とは話ができていると思った。
しかし、30分ぐらいして、2人が家から出てきた時、・・・あれ・・・と思った。運び入れた筈の段ボール箱を持って出てきて、貨物車に載せて走り去る。
おばさん、おかしいと気付く。すぐに110番する。パトカーが来てから事情を説明する。警察からこの家の主人に電話したほうがよいと言われる。慌てて神崎に連絡した次第だ。
神崎は、ヒトラーの事を調べている。その資料をコピーされたとは言いづらい。黙っておばさんの話に聞き耳を立てるのみだった。
夕方、警察から電話が入る。例の家電量販店から小型貨物車の盗難届が出ましたとの事。
2人は重苦しい空気の中でその日を過ごす。今更ヒトラーに関する調査を断念するとは言えない。とにかくこれからも調べていこうという事になる。
今回はゆみがパソコンで検索した”ヒトラーの予言”を調べることにした。
三島由紀夫の”わが友ヒットラー”の一節を紹介する。
―――ヒトラーね、彼がやった事は世界中の人が知っている。だけど、彼がほんとは何者だったのか誰も知っちゃいない。ナチの独裁者、第2次世界大戦の最大戦犯、アウシュビッツの虐殺者、悪魔・・・。これがいままでのヒトラー観だ。ほんとはそれどころじゃない。
彼のほんとの恐ろしさは別のところにある。
それは彼が、ある途方もない秘密を知っていたってことだ。人類が結局どうなるかっていう秘密だ。彼は未来を見通す目を持っていて、それを通じて、その途方もない未来の秘密に到着しちゃった。―――
―――だから五島君。もし君が10年後でも20年後でも、ヒトラーの事をやる機会があったら、そこんとこをよく掘り下げてみることだ。もし君にいくらかでも追求能力があれば、とんでもない事が見つかるぜ。ほんとの人類の未来が見つかる。やつの見通していた世界の未来、地球と宇宙の未来、愛や死や生命の未来、生活や産業の未来、日本と日本の周辺の未来・・・。
なにしろ”我が闘争”の中にさえ、やつは未来の日本や東アジアの事を、ずばり見通して書いているくらいだから。まだ30代かそこらで、あいつは、それほど鋭い洞察力を持ってたって事になるよな。―――
約1時間のインタビューの間に三島由紀夫は、これ以外にも五島勉氏に強烈なインパクトのある”ヒント”を2つ授けている。
―――1つ目は太古の日本民族と古代インドを結ぶ妖しい関係で、またそこから発展してくる人類の超古代文明全体への、目くるめくような壮大なヒント。
もう1つは人間の死後と転生についての画期的なものであった。―――
ヒトラーの予言(2)
―――ナチスは敗れる。第2次世界大戦で敗れる。しかしそれは、単に私の作戦が間に合わなかったというだけだ。我々が敗れようと敗れまいと、新しい人類の歩みは進む。
超人へ、脳と肉体の進化へ、自己と世界を完全にコントロールできる新しい種族。・・・それが現れる。ハーケンクロイツの日に現れる。
その時ナチスは甦る。全てに勝ち、全ては変わる。その日こそ、人類はもう一度、我々の前にひざまずくのだ。―――
ヒトラーの山荘予言
南ドイツのオーバーザルツべルク山荘で語られた。
「もっと霊感の湧く場所が必要だ。私の望む場所はあそこだ」ヒトラーは、そう言って、南ドイツの名勝地ベルヒテスガーデンに、不思議な山荘を作らせた。それがオーバーザルツべルクの山荘だ。
今はほとんど破壊され、観光用の防空壕ぐらいしか残っていない。そこは本来、賢い悪魔が見通したような21世紀型の地下都市だった。
―――こういう地下都市にやがて人間は住むようになる。いや、そういう場所にしか住めなくなるだろう―――
―――毒物や毒光がいずれ人類、少なくとも人類の一部に降りかかる。各文明国はそれを避けて、地下に商店や会社や住居を作る。ここはそのためのプロトタイプなのだ。―――
1932年春。
ヒトラーは権力を握ると、前からあったログハウスの別荘に加えて、不可解な洞窟式の巨大山荘を作り始めた。そこは完成時に、いずれ将来、眼に見えない毒気が進入するからというヒトラーの指示で、空中のどんな有害物も通さないナチス技術の粋のような浄化装置が付けられた。
食物も将来は汚染されるからとい指示で百年も保つ缶詰類が蓄えられた。またそこから伸びる地下通路とインターフォンが、現在と同じ性能の短機関銃を持つ護衛兵に守られて、他のナチス幹部の山荘と何重にも連結される。
―――このように、最高の頭脳がシステム化して結合する。それが未来の形だ。一つの意志がここから全国民を動かすのだ。それが人間の頭脳であろうと、頭脳のような機械であろうとやることは同じだ・・・―――
希望通りの山荘が出来上がってくると、作業現場を見回りながら、とうとうと未来について語る。これらをひっくるめてヒトラーの山荘予言と呼ぶ。今は一部しか残っていない。
―――ロケット、ミサイルの出現を予見―――
近い将来、男の性器そっくりの兵器ができるだろう。私の勃起した男根を、何百倍にも大型化して小さな翼を付けたようなものだ。
それが将来の戦争を支配する。さしあたって、それが飛んで行ってイギリスを焼き尽くす。いずれはペルシャ湾にもインド洋でも飛ぶだろう。愉快なことだ。私の勃起した男根が地球を燃やす事になるのだからな。
・・・ヒトラーは予言しただけではなく、側近の前でスケッチを描いた。V1号、V2号ロケットが開発された・・・
―――コンピューターやロボットの出現を予見―――
私はまた、機械全体の未来も判る。男根兵器が一つの例だが、未来の機械はすべて生物か生物の部分と酷似してくるのだ。人間を含めた生物の部分の機能を、機械が代わって果たすようになる。単純な労働はそういう機械がやるようになる。
人間の脳そっくりの機能を持つ機械も現れて、人間の方がその機械にものを尋ねるようになるだろう。
・・・コンピューターやロボットの出現を予言。ヒトラーのヒントで、ペーネミュンデ研究所が開発に着手。第2次世界大戦末期、ナチスは初期のコンピューターとロボット兵器のテストに成功している。
ヒトラーはただ予言するだけではない。そのひな型を命令して実際に作らせた。強大な権力で未来の一部を実現する。ここに魔性の予言者+独裁者としての特徴があった。
―――国民車とアウトバーン出現の予言―――
カブト虫。やがて赤や青や黒、白の輝くカブト虫が動脈の上を走るようになる。世界中が、我々のカブト虫と白い動脈を走るようになる。
・・・1932年、自動車設計のポルシェ博士に語った。この時ヒトラーは、形が未定な国民車と、まだ設計段階だったアウトバーン(制限時速のない世界最初の高速道路)の事を見通していた。
アウトバーンは間もなく作られ始め、白い動脈の名にふさわしい威容をそなえた。フォルクスワーゲンの開発は第2次世界大戦のために中断されたが、戦後再開される。敗戦国、西ドイツの奇跡と驚かされた。その優れた性能と先進的な大量生産の技術で、世界市場に長く君臨した。そのボデイ・デザインはヒトラーが見通した通りのカブト虫型であった。
―――宇宙旅行・月探検を予言―――
そのあと、月から戻ってくる者もいる。しかし戻ってきても、その者は、ここがそれ以前のドイツかどうか気付かない。
・・・これはヒトラー研究家ヨアヒム・フェストが記録した言葉だ
宇宙旅行か月探検を予言した言葉と言われている。
「しかし戻ってきても、その者は、ここがそれ以前のドイツかどうか気付かない」とは何か、月面か宇宙船の中で何かが起こり、パイロットが記憶を失ってしまうか、それとも、その時地上で何か破局が起こって、ドイツ一帯が焼け野原か砂漠みたいになっているのか、これはもっと将来の、おそらくヨーロッパ諸国が打ち上げる宇宙船=アリアンの予言と言われている。
―――同盟国日本の参戦に関する予言―――
もっと差し迫った現実の見通しも言おう。我々ナチスは間もなく第2次世界大戦に突入する。世界を相手に戦う。しかし我々に味方する国も現れる。それは日本だ。
日本の戦力は諸君が思っているよりずっと強い。日本は太平洋とアジアから、アメリカとイギリスの勢力を追い払う。見ていたまえ。「カルフォルニア」も「ネバダ」「ウェールブの王子」も日本の火薬で地獄へ吹っ飛ぶぞ。
・・・これは予言というより、ヒトラーの作戦計画の一部だったと言われている。ヒトラーは1937年頃から、当時の外交官、松岡外相や大島大使と、第2次世界大戦の日独共同作戦を打ち合わせている。このため、ヒトラーの側近達は、カリフォルニア、ネバダ、ウェールズの王子も、アメリカ西海岸の地名やイギリスの王族の称号を引用して、ヒトラーが米英を罵ったのだと受け止めた。
しかし、第2次世界大戦が始まる。日本軍はハワイの真珠湾を攻撃、戦艦カルフォルニアとネバダ以下、多くのアメリカ軍艦を沈めた。
またマレー半島沖で、当時イギリスが世界最強を誇っていた巨大戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズの王子)も、僚艦レパレスと共に日本軍の飛行機に沈められた。つまりヒトラーが予言の中で言ったのは戦艦の名前だった。・・・
―――原子爆弾に関する予言―――
その報復として、米英を背後で操るユダヤが、日本を絶滅させる恐れがある。ユダヤの天才的な科学者達が、炎の絶滅兵器を開発するからだ。
彼らはそれをアメリカ軍に与え、日本に対して使わせる。日本の都市3つがこれで火星のような廃墟になる。そうさせる最初の契機に、イギリスが深い関りを持つ。
また決定段階ではユダヤの真実の男が、より深い関りを持つようになるだろう。
・・・原爆投下の予言と言われている。
原爆は1938年頃、イギリスにいたユダヤ人の原子物理学者レオ・シラードが思いつく。先輩のアインシュタインは当時のユダヤ系アメリカ大統領ルーズベルトに知らせる。
ルーズベルトはオッペンハイマ―博士などユダヤ系の天才科学者達を動員して、1944年に最初の数発を完成させた。
それを実際に命令して広島、長崎に投下させたのは、ルーズベルトの後任者でユダヤ系アメリカ大統領トルーマン(TRUMAN)だった。
真実の男(TRUE MAN)というつづりとE一つしか違わない。
予言の内外れたのは日本の3つの都市がその兵器で廃墟になるというところだ。
ヒトラーが原爆を予知していたのなら、どうして同盟国日本に知らせなかったのか、実は知らせていたのだ。
かってNHKは衝撃的なドキュメント”ベラスコの証言”を放映している。
「第2次世界大戦中、日独側に立って働いていたベラスコというスペイン人のスパイが、当時ナチスから受け取っていた情報として、巨大な絶滅兵器をアメリカ軍が日本に落とそうとしていると、暗号無線で日本に知らせている。日本はそれを無視してしまった。
・・・ヒトラーは”我が闘争”の中で、「ユダヤは日本に対して絶滅戦を準備するだろう。英国がそれに係るだろう」
―――ソ連とゴルバチョフ書記長に関する予言―――
我々ナチスは日本と協力して、ソ連とも戦う。それが第2次世界大戦の最大の山の一つになり、我々はおそらく勝てるはずだ。だが、もしソ連とアメリカが――背反するはずの民主主義と共産主義が手を組んだら、我々は敗れる恐れもある。その時はソ連とアメリカが、激しく競り合いながら、その後の世界の覇権を分け合う事になろう。
そうなれば、それにふさわしい強力な指導者を試練は持つようになる。それはレーニンより強く、スターリンより賢明な指導者だ。彼は共産主義と民主主義を結合し、マルスの座から世界を支配するだろう。
彼は額に”赤いしるし”を持つ男だ。
・・・当時のヒトラーの側近たちは、これを対ソ戦への戒め以上のものとは思わなかった。赤いしるしも、共産主義のシンボルとしか理解できなかった。
1988年のソ連のゴルバチョフ書記長の額には、赤いしるしがついている。その男が共産主義と民主主義を結合して世界を支配するという言葉が強い意味で迫ってくる。
―――その他の山荘予言―――
我がナチスは、一兵たりとも損なわずにマジノ線を突破し、パリを占領する。
・・・マジノ線は、フランスが誇った強大な要塞線だったが、ヒトラーの霊感命令で、渡れないはずの湿地帯を迂回してパリに突入する。
神崎はインターネットの画面に食い入るように見つめる。
・・・ハーケンクロイツの日・・・何度もつぶやく。
「ゆみ、ハーケンクロイツの日って何だろう」
ゆみは大きな眼で夫を見詰める。
「さあ・・・」頼りない返事だが、判らなくて当然だ。
―――ハーケンクロイツ―――ナチスドイツの国旗だとばかりに思っていた。それには違いないが、それ以上の意味が隠されている。
・・・何だろう・・・日というからには、何年何月何日という日があるに違いない。いつの事を言うのだろうか。
予言というからには未来の出来事だろう。
「何かあるに違いない。もっと調べてみよう」神崎はゆみを促す。
ヒトラーの予言(3)
以下は首都ベルリンの地下官邸で語られたヒトラーの指名予言である。
1939年8月31日
――― 雨の降り続く冷夏の深夜、ヒトラーは突然飛び起きる―――
「今だ!私は命じられた!進め!ポーランドへ!」
・・・これで第2次世界大戦の幕が切って落とされた。・・・
北欧やオランダへの急進攻、宿敵フランスとの短期決戦、英国へのV1号、V2号攻撃、米ソの参戦、さらに日本の真珠湾攻撃と、僅か1年ほどの間に、世界は血と硝煙の中で目まぐるしく動いた。しかもそれは、マジノ線突破から真珠湾奇襲、ノルマンディー上陸まで、ヒトラーが山荘で予言したのとほとんど違わない展開を見せた。
だが強力な独裁者であることが裏目に出る。一切の指揮の責任がヒトラーの一身に集まる。彼は毎日、声を涸らして部下に作戦を命令し続けなければならなかった。
ヒトラーは開戦と同時にオーバーザルツブルクの山荘を離れて、総指揮の為に、ベルリンの総統本部に移っていた。そこには雪に輝くドイツアルプスの姿はない。洞窟の奥の未来都市もない。形ばかり大げさに飾り付けられた広い会議室と軍服姿の将軍たちの顔があるだけだった。
開戦後、勝利が続いている内はまだ良好な雰囲気が漂っていた。米ソが参戦する。ナチスが東西から押され気味になってくる。ヒトラーは歯を剥きだして将軍たちに当たり散らす。
「こんな陰気な宮殿の中で貴様らの顔ばかり見ていると、霊感もしぼむ。貴様らと会議するたびに、私は退化して猿に戻っていくような気がする。私がもし猿並みの人間になったら、それは貴様らのせいだぞ!」
間もなく奇妙な変化が起こる。ナチスの旗色が悪くなる。米軍機の爆撃が激化する。ベルリンの街は、家々の外側のコンクリートだけを残して、墓場のような廃墟となる。かろうじて生き残った市民は、防空壕や地下鉄の構内でおびえていた。ヒトラーの総統本営も、地上の部分は瓦礫の山となり、地下深く潜ることになった。これがヒトラーの予知能力に再び火をつけた。
「私は負けたモグラじゃないぞ」そう怒りながら、いやいや地下の私室に入る。翌日、眼をぎらつかせて側近たちの前に出てきた。
「ここは山荘の洞窟に似とる。おかげでひらめきが戻った。」
ヒトラーは地の底から響くような声で言った。
「しばらく会えなかった”あいつ”ともまた会えた。”あいつが”が未来を見せてくれた。前より一層鮮明にだ。聞け諸君、これは私の未来というより諸君の未来だ」
その後、ヒトラーは毎日の作戦会議の前後、時には途中でも立ち上がって私室に側近を呼びつけ、新しい霊感に照らされた未来を、しわがれた声で喋った。
それは山荘予言とは異質なものだった。側近達を名指しで呼んでは予言する薄気味の悪いものだった。
ナチスの敗色が濃くなってきた混乱期に語られたため、資料は少なく、断片をつなぎ合わせたようなものになった。
―――ゲーリングとヒムラーへの指名予言―――
「やあヘルマンハインリッヒ、ここの地下生活はどうかね。私は不愉快を通り越して快適だ。頭が前よりさえてきた。君たちの事も、前よりよくわかるようになった。
君らとゲッペルスは、わがナチスの最高幹部だ。私の忠実な友人だ。
しかし君ら2人は、私にははっきり見えているが、私の最後の日の7日前に、共謀して私を裏切るぞ。君らはアメリカと気が合うからな…」
・・・これは1944年12月ごろ、地下本営の昼食会でヒトラーがヘルマン・ゲーリングとハインリッヒ・ヒムラーに突然語った言葉である。
ゲーリングはナチスの空軍大臣でヒトラー側近のナンバー2。ヒムラーは親衛隊と秘密警察の総司令官で、側近ナンバー3。ともに第2次世界大戦の実質上の推進者で、ヒトラーの献身的な部下だった。
1945年4月23日
ヒトラーが自殺する敗戦の7日前、自分たちだけでも助かろうとして、ゲーリングとヒムラーはアメリカに極秘の和平交渉を申し入れた。
「我々を逃がしてくれるなら、総統を捕らえて米軍に引き渡す」と言った。
これをヒトラーはその半年前に見抜いていて、先のような言葉で警告した。その時はゲーリングも、まだナチスの勝利を確信していた。ヒトラーを裏切るようになるとは全く意識していなかった。
それだけに2人は真っ青になり、ヒムラーは食べ物を喉に詰まらせ、豪快な2メートルに近い巨体のゲーリングは15分程震えていた。
―――侍医のモレル博士へ・・・―――
モレル、君は軍人じゃないから、何でも話せる。軍人に話せば気力を失くするようなことでもね。私の予知では、ナチスは間もなく負けるよ。負けて何もかもなくなって、ここらへんは美しい芝生になる。
しかも誰も遊びにも見物にも来ない。この近くには、”長い壁”ができて、ドイツを真っ二つに裂く。そこへ今世紀の終わりまで、世界中から見物人が来るが、ここへは来ない。芝生の隅には小さな看板が立って・・・そう”ここにナチスの本拠地があった”と書かれるようになる」
1944年12月ごろ、米軍機の爆撃の合間に地上に出たとき、ヒトラーがモレル博士に言った言葉だ。
モレルは天才的な医者で、ヒトラーが激しいストレスや胃腸障害や不眠症で苦しんでいた敗戦直前、ぎりぎりにヒトラーの健康を支えた。それでヒトラーの厚い信頼を得ていた。
・・・戦後、総統本営の跡は、ヒトラーの予言通りになった。近くにはソ連が作った東西ドイツを分断する”ベルリンの壁”が出来た。
そこからやや東ドイツ寄りの場所に、予言の芝生があるが、訪れる人はほとんどいない。”ここにナチスの本拠地があった”と刻まれた小さな石碑が建っているだけだ。彼の予言で当たらなかったのは、看板が立つと言ったが、実際には石碑が建てられたという事だけだ。
ベルリンの壁は1961年に東ドイツが建設したが、ヒトラーが生まれてから丁度百年目の1989年、東西ドイツの国民によって、ベルリンの壁は打ち壊された。
ヒトラーの予言通り1989年を境にして、戦後史は劇的に転換していく。
―――愛人エバとレ二へ・・・―――
「レ二、こんな時期にこんな所へよく来てくれた。でも、君はここを去って2度と戻っては来ないよ。君は長生きして名声を得るだろう。また死ぬまで映像の美と共にあるだろう。
今世紀末から来世紀初めの文明国では、君のように結婚もせず、子供も産まず、一生、男以上の働きをする女性が増える。しかし、それは当然、女性の見せかけの地位の向上と共に、その民族の衰亡、ひいては、人類の破滅につながる。」
「エバ、君もここを去って2度と戻ってこない方がいい。しかし、君は戻ってくる。それは、君がエバだからだ。それが君の運命で、私の運命でもある。君は私との運命の秘儀の為に戻ってくるのだ」
・・・これは地下での新春のパーティでの予言である。
1945年1月の新年会がヒトラーとナチスにとって、最後の華やかな宴になった。モレル博士の証言では、10人程の美女が集まり、当時32歳のエバ・ブラウンがヒトラーと並んで座った。
エバはヒトラーの正式の愛人で、このパーティの後、空襲を避けてオーバーザルツブルク(一説ではミュンヘン)へ疎開した。だがヒトラーとベルリンに最後が迫った時、予言通り、ためらわずベルリンに戻ってきた。ヒトラーと結婚式を挙げた後、2人で謎の自殺を遂げた。・・・
・・・レ二・リーフェンシュタールはヒトラーに強い影響を与えた。彼の精神的な愛人とも言われた。
バレリーナで女優でモデルでシナリオ作家。34歳の時、永遠の傑作と謳われたベルリン・オリンピックの記録映画”美の祭典”の監督を務める。ナチスの発展期に、民衆の前に出る時は、いつも純白の長いドレス、背中まで垂れた栗色の髪、神秘的な冷たい笑みをたたえて、大衆をナチスに惹きつける巫女的存在であった。
戦後は戦犯として裁かれるところを、不可解な強運と米ソへの何らかの取引で切り抜ける。ヒトラーの予言通り映像の仕事を続ける。
神崎はここまで目を通して、一休みする。ヒトラーの予言はまだ続くが、遠い未来の社会構造のものが多い。今は、ハーケンクロイツに関する予言だけに焦点を当てたいと思っている。
ヒトラーの予言で1つ大きな収穫があった。ヒトラーはエバ・ブラウンと結婚式を挙げる。その後死んだとされる。その死の一時間前に、ヒトラーはエバと運命の秘儀を行ったとされる。
神崎はとっさに”ハーケンクロイツの秘法”と解した。
―――ハーケンクロイツの秘法とは何か、ハーケンクロイツの日とはいつか―――
今後解明しなければならない問題だ。
・・・今日はここまでか・・・
神崎とゆみは、いったんパソコンから離れる。
緑の手袋
平成22年4月上旬
神崎の携帯電話が鳴る。相手は名古屋市内に住む、旧友の村岡誠一。母親が亡くなったから葬式に出てくれないかというものだ。
村岡は小学校、中学校と神崎と同級生だった。
中学校卒業後、父親の仕事の関係で名古屋市北区に引っ越しした。毎年開かれる同窓会には必ず出席する。神崎が名古屋に行く時は電話を入れる。名古屋で仲間と一杯やる時も声をかける。幼い頃から気の知れた友人である。
彼は名古屋の某大手自動車販売会社に勤務するサラリーマン。車を買う時は彼の顔を立てるようにしている。
神崎はゆみに事の次第を話す。
友人の葬式の為に3日間外出し、夜9時頃帰宅すると伝える。
村岡の葬式も無事終了する。告別式は昼の1時に終わる。告別式の後、会食があって葬式の後始末のために時間が長くなると思っていた。だが初7日は告別式の後に行っている。後片付も葬儀社が行っている。
・・・これが今どきのやり方か・・・神崎は、昼の会食の後に初7日を行い、墓参りをするものとばかり思っていた。
1時半、喪主の村岡の挨拶の後会食、村岡は出席者への挨拶や接待に忙しい。それに学校の同級生は神崎ただ一人だ。周りは村岡家の親戚縁者や村岡の会社の同僚ばかりだ。
神崎は会食をすますと、ビールを注いでいる村岡に「また今度一杯やろうや」と耳元で囁く。
村岡は大きく頷くと、連絡を待っているからと、頭を下げる。
村岡家の葬儀は名古屋市北区中切町の葬儀社で行われている。北側に庄内川が流れている。川の向こう側は春日井市だ。
村岡に帰ると挨拶をして車に乗り込む。時間を見るとまだ2時だ。
久しぶりの外出だ。このまま家まで直行するのは勿体ない。今日はゆっくり羽を伸ばそうと考えた。
・・・そうだ。花山さんの家によってみよう・・・
花山さんとは父親の親戚筋にあたる。律儀に毎年年賀状をくれる。2年ぐらい前に行ったことがある。今は代が替わっている。3年に1度ぐらいは神崎の家に来てくれる。
住所は犬山城の近く。ここからは30分くらい。電話番号がわからないので、飛び込みで行く。留守ならば単なるドライブで終わる。
名鉄犬山線の犬山駅から徒歩5分の犬山高校の近くだ。北のほうにある犬山城まで歩いて10分。
花山邸に着いたのは2時40分。玄関のチャイムを鳴らすが留守のようだ。犬山城に行ってみようと思ったが、にぎやかの所はあまり好きではない。近くに明治村があるのを思い出す。その近くに大県神社がある。父が健在な時に一緒に行ったことがある。
・・・そうだ、大県神社に寄ってみよう・・・
明治村から約2キロほど南西に行ったところにある。古びた茶舗があったはずだ。静かでゆったりと寛げる場所だ。車で行っても10分の距離だ。
3時、大県神社のレストラン茶舗に到着。周囲は山の緑で覆われている。建物は入母屋式の、農家を改造した店と聞いている。駐車場は広い。平日だから客の入りはまばらだ。店は100坪はあろうか。店の入り口にカウンターがある。建物の真ん中に厨房設備がある。それを囲むようにしてテーブルが並んでいる。テーブルや椅子は古いがピカピカに磨き上げている。木枠の窓もピカピカである。床は那智石で敷き固められている。天井の真っ黒な梁が逞しい腕のように天井を支えている。8寸の太さの柱が2間間隔で立っている。店内の照明は裸電球だ。
神崎は奥の角のテーブルに腰を降ろす。
3月中旬とは言え、山の中は肌寒い。室内は適温に温められている。彼は喪服姿だ。
・・・4時頃までここで粘ろう。夕食は東浦町の近くで摂ろう。帰宅は7時か8時か・・・
若いウエイトレスにコーヒーとチーズケーキを注文する。窓際から外を眺める。樹木の間から赤い鳥居が見える。ガラス窓に室内燈の光が反射している。淡く神崎の顔が写っている。丸顔で3分刈の頭、眉が太く目が切れ長だ。長い鼻に小さい唇。平凡な顔だ。印象が薄い。
神崎は窓ガラスに写った自分の顔を眺める。
・・・こんな俺にゆみが結婚してくれた。・・・
ここへは、今度ゆみを連れてこようと考える。チーズケーキを食べながらコーヒーを飲む。
・・・ヒトラーか、歴史上の人物で、ヒトラー程特異な人間はいないではないか。善悪は別として、調べれば調べる程、深みにはまっていきそうだ・・・
神崎はぼんやりと窓の外の景色を眺める。
「相席よろしいですかな」突然声がかかる。驚いて声の主を見上げる。黒一色の背広姿だ。緑のネクタイを締めている。緑色の革の手袋をしている。大柄な体だ。
客の入りは5名ほど。席はガラガラに空いている。男はサングラスをかけているが柔和な表情だ。
「はい、どうぞ」鴨崎は思わず声が出る。
男は神崎の向かい側に席を占める。注文取りのウエイトレスにコーヒーを注文する。コーヒーが運ばれてくる。
「神崎さんですな」男はコーヒーを一口飲み干すと、神崎に声をかける。
神崎はびっくりする。思わず男の顔を直視する。サングラスで表情が判らない。口元が微笑している。精悍な顔つきだ。
「そうですが・・・」あなたはどなたと言い返そうと思ったが声が出ない。唾を飲み込むと、黙って男を見詰める。
「ヒトラーの事、ハーケンクロイツの秘法調べ、進んでいますかな」
「あなたは、もしかして、私の家に泥棒に入った・・・」思わず声が大きくなる。
男は苦笑する。何も盗んではおりませんよと軽くいなす。ヒトラーの事、どこまで進んでるか調べさせてもらっただけだと言う。
「危害は加えませんから、ご安心を・・・」男の口調は和やらかい。
「あなたはどなたですか」と神崎。
「緑の手袋とでも言っておきましょうか」
男は手袋をはめた両手を広げる。黒い服に緑のネクタイと手袋。異様な雰囲気だ。
「神崎さん、よろしいかな。ヒトラーを背後で操っている者に注目してください。ハーケンクロイツの秘法を解く鍵になります。」
男はそれだけ言うと、すくっと立ち上がる。
「またお会いしましょう。お勘定は私が払いましょう」
茫然として見送る神崎を尻目に、男は悠然と立ち去っていく。
神崎は茶舗を出ると、ゆみに電話を入れる。今までの経過を話す。夕方5時までに帰ると話す。途中で鮨を買っていくから、夕食の支度はいらないと付け加える。
帰りの車中、神崎はあれこれと考えをめぐらす。興奮して考えがまとまらない。
・・・緑の手袋・・・一体何者なのか。牛島のおじいちゃんの時にも、まとわりついた連中に違いない。
―――ハーケンクロイツの秘法―――を解明したとしても、あの連中とどんな関係があるのか。
5時半に帰宅。スーパーで買ってきた鮨を食卓に並べる。
・・・緑の手袋・・について、ゆみに話す。
「何か、怖いわ、見張られているみたい」ゆみは不安そうな顔をする。
「危害は加えないと言った」神崎はゆみを安心させようと男の言った話を付け加える。
「この3日間ね、パソコンに張り付いていた」ゆみは話題を切り替える。
ゆみはパソコンと向き合っていたほうが気休めになるという。
「ヒトラーのね、最高秘密の予言ってのがでてきたの」ゆみの眼は勝ち誇ったように輝く。
ヒトラーの究極の予言
ゆみがパソコンで見つけた最高秘密の予言とは、ヒトラー予言の中でも究極の予言と呼ばれている。
二―ベルンゲン復讐騎士団のメンバーのみに語った最高秘密の予言である。
この中に、ハーケンクロイツの日を暗示している予言があると、ゆみは語る。
―――1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、分かれていく。
若い頃私は”我が闘争”に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが1989年以後の状態だ。人間が思い上がって、宇宙の自然を犯すため、宇宙が人類に復讐の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を想像を絶する究極の状態に導いていく。私が生まれてから150年後、21世紀に来る究極に―――
1989年・・・、神崎は呟く。この年は確か、昭和天皇崩御の年ではないか。
昭和から平成へ、この年の前後から日本のバブル経済は崩壊していく。
―――20世紀末はたとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、我々ナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望む通り、強く支配する国と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃が代わる代わる地球を襲うだろう。――― ・・・この予言の後にハーケンクロイツの日と思われる予言が出てくる。・・・
―――だからその中から”超人”が現れる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するために人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが私の予知する21世紀の世界である。
しかし諸君、さらに重大なのは、私が今、これを話している百年後の事だ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から百年後と言えば、すなわち2039年1月25日だ。
諸君には判らないだろうが、その時人類は真の究極の状況が起こっている。その時人類は―――すくなくとも、今言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。―――
・・・この予言はまだ続く。未来の人類の運命そのもののような残酷な予言だ。この予言はニーベルゲン復讐騎士団のメンバーに語られた。
このメンバーはヒトラーの最終人選によってえらばれたエリート中のエリート達であった。人数は120人。家柄や財産や年齢なども一切関係なし。たとえ20歳未満でも、予知能力や霊感、指導力―――ヒトラーが認める特別な能力―――が必要とされた。
並外れた体力、天才的な戦闘力、そして何よりも人に抜きんでた高知能、米ソやユダヤや既成の世界への激しい怨念を持っている事、これらも選別の基準となった。
ヒトラーはその1人1人を”マイン・ゾーン(私の息子)”と呼んでかわいがった。公式の政策会議には参加させなかったが、内輪の集会には招いて意見を聞いた。狙った国にクーデターやパニックを起こさせるといった重大な影の任務を命じた。
「君ならわかる」と言って、側近のゲッペルスにさえ話さない秘密の見通しや未来の世界を、熱っぽく語った。
2039年の人類についての”ヒトラーの究極予言”もこの騎士団だけに話されたものだ。この話はヨハヒム・フェスト(ドイツのヒトラー研究者)によって記録されている。それは1939年1月25日の夜だった。
以下究極予言の続き
―――2039年、人類が残らず滅亡するという意味ではない。確かに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのために一部の恵まれた国を省き、多くの国が飢える。2000年以後はそれが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカも中東も完全に荒廃する。
しかし人類はそれでも滅びない。我がドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。
それでも人類はいなくなるのだ。今の意味での人類は、その時もういない。何故なら、人類は2039年1月、人類以外のものに”進化”するか、そうでなければ”退化”してしまっているからだ。―――
・・・この長い予言はまだ続く。要約すると、進化する人類は神人と呼ばれる。残りの退化する人類はただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、機械的な反応しか示さないロボット人間になる。
ロボット人間は神人達の認める範囲内で、多くのものを与えられる。ただ彼らは、与えられ、操られている事を意識出来ない。自分の意志で選択し、生きていると思っている。
こうして人類は天と地のように2つに分かれる。一方は神のように近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものになっていく。これが2039年の人類だ。その先も人類はこの状態を続ける。
おそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになる。
超人へ、脳と肉体の進化へ。自己と世界を完全にコントロールできる種族、それが現れる。ハーケンクロイツの日に現れる。・・・
ここまで目を通した時、神崎とゆみは身震いする・
―――何という予言だ―――
ヒトラーは優秀な人種を作るために犯罪者やユダヤ人を使って、人体実験を行っている。これは後日触れることになる。
神のような人間になる―――これがヒトラーの理想ではなかったのか。あるいは”緑の手袋”が語ったようにヒトラーの背後で操っている者の希求なのか。
不思議な世界
平成22年4月、神崎昭太郎と妻のゆみは、犬山の大県神社のレストラン茶舗にいた。
花山さんの家に寄ろうと思ったが、ゆみが行きしぶったのでやめることにした。
2人は以前神崎が座った同じテーブルに座った。
神崎は”緑の手袋”なる人物について話す。ゆみは大きな眼で夫を見詰めている。
「ねえ、その人、あなたがここにいる事、どうして知ったのかしら」
「さあ・・・」神崎には答えようがない。1つ理解できた事は”彼”は敵ではない。いやたとえ敵であったとしても、ハーケンクロイツの秘法という共通の目的探しがある。それまでは”味方”という事だ。
昼間なのでランチを注文する。
「ねえ、この後、どこへ行く?」ゆみが尋ねる。
昼食が運ばれる。神崎はウエイトレスに「この近くに何か面白いところはありませんか」と聞く。
「面白い所ね・・・」ウエイトレスは少し考えた後に、ここの東の方に尾張信貴山って山があります。その北に本宮山があります。本宮山の北の方に明治村が見えます。
ウエイトレスは言いながらじっと神崎とゆみを見る。
「この本宮山の南側の麓に不思議な世界があります」行ったらどうかという顔付きで言う。
「不思議な世界・・・」神崎はオウム返しに答える。
「行かれればわかります」ウエイトレスの声はにこやかだ。
「面白そうね。行ってみましょうよ」ゆみのこえが弾んでいる。
大県神社の北に東西に走る道がある。道路は尾張信貴山と本宮山の間を走っている。車で走っても10分くらいだ。
周囲は灌木の林。人家さへ見えない。この道はこのまま東行すると明治村と小牧を結ぶ県道に出る。何もないが・・・と思った時、本宮山への入り口の看板が目に付く。
「本宮山の方へ行ってみよう」神崎はゆみの同意を得て車のハンドルを切る。
しばらくして、
”不思議な世界”にようこそという看板が立っている。本宮山の麓だ。雑木林が切り払われていて視界が広がる。一軒の家がある。30坪ぐらいの平屋だ。家の前に1台の車が駐車してある。
神崎はその横に車を置く。家は築50年ぐらいたっていようか。素人目で見ても古い。
家の中央に玄関がある。神崎は玄関ドアを開ける。
「こんにちは」おそるおそる声をかける。
家の中は暗い。玄関の左半分が壁で仕切られている。右半分が板の間だ。テーブルが4つある。玄関の正面が洗面室のようだ。
「いらっしゃい」甲高い声と共に、左側の間仕切りの壁のドアが開く。
「お待ちしていました。レストラン茶舗からお見えのお客様ですね」背の高いひょろりとした男が顔を出す。柔和な表情をしている。
「ここに不思議な世界があるとか・・・」
「詳しく説明しますから、まずは席にお座りください」
神崎とゆみは玄関の右側の部屋に入り。
男がコーヒーを運んでくる。
「ここは?」と神崎。
「不思議な世界を演出しています」
「ここはお店ですか」ゆみが横やりを入れる。
「個人の家です。趣味で不思議な世界をやってますので」
この家の主人は町田という。彼の詳しい説明によると、
音響、照明の仕事が本業で、色々な会社からの依頼で、音響や照明設備の設置ををする。
この家は自分の別荘みたいな所で、仕事のない日にはここで過ごす。レストラン茶舗のウエイトレスは自分の妻だという。
ここの不思議な世界は商売ではないので宣伝しない。たまたま、レストラン茶舗に来た客が、この辺にいいところはないかと尋ねたりする。こんなところがあるのだがと、ここを紹介する。
「まあ、1か月に2,3人程度ですね。来てくれる人は」言いながら不思議な世界を体験してみないかと進める。
「面白そう・・・」ゆにはしゃいでいる。神崎は頷く。
この家の地下に洞窟がある。洞窟は岩盤でできている。スピーカーで低重音の音楽を流す。人の耳に聴こえるか聴こえないかという程度のもだ。
言いながら町田は以下のような説明をする。
スピーカーから流れる低重音は、人間のアルファー波という脳波に近い。洞窟全体のこの音を流すと、反響し合い、洞窟全体に広がる。音楽は落ち着きのあるクラシックだ。耳には聞こえない。つまり意識出来なくても、人間は無意識の層で感じ取っている。
洞窟内にベッドがあるので2時間ばかり横になる。それだけでも、脳波がアルファー波状態になる。落ち着いたゆったりとした気持ちだ。横になってゴーグルを着用する。元は紫外線防止用の眼鏡だが、眼に当たる部分を改良して、淡い光の点滅が出るようにする。眼をつむると、ゴーグルから発せられる光の点滅で、意識が集中できる。
その状態で低重音を、アルファー波からシータ波と言われる、熟睡状態に移していく。やがてレム睡眠といわれる状態に入る。
「つまり夢見の状態にする訳です」
自分は夢を見ているのだなと、何となく意識する状態は浅い夢見の状態と言われる。
「経験ありませんかな。夢見感覚がなくなって、現実にそこに居るような、生々しい夢を見ることが・・・」
神崎もゆみも頷く。神崎は水の上を歩いたり、空を飛んだりする夢をみる。水の冷たさや空気の爽やかささえ感じる。それの光景が妙に鮮やかなのだ。眼が覚めた後でも、夢の内容をよく覚えている。
―――そのような夢を人為的に作り出そうというものだ―――
ただし、と町田は油気のない髪の毛に手をやる。
「どのような夢見になるかは、私の方ではわかりません」
「面白そう」ゆみは神崎の手を握る。やってみようという合図である。2人は町田に同意する。
2人は板壁で仕切られた部屋に通される。部屋は10帖程の大きさ。奥にダブルベッドがある。北側がキッチンだ。色々な音響設備が所狭しと並んでいる。
「ここが私たち夫婦の寝室兼居間です」町田はキッチンの横手の方へ行く。畳1枚程の床下を持ち上げる。階段がある。10段ぐらい下る。洞窟の中だ。天井には裸電球が淡い光を放っている。5メートル程歩く。間仕切りのドアがある。開けて中に入る。広々とした20帖程の洞窟である。天井には蛍光灯が3つ点灯している。洞窟内には大きなスピーカーが4基設置してある。ドアの近くには音響設備がある。洞窟の中央にシングルベッドが2つ並んでいる。空調設備が整っているのだろう。暖かいし、洞窟内のうっとうしい、べたついた空気はない。
「寒いようでしたら温度を上げます」
町田は、上着を脱いでベッドに横になるよう指示する。ゴーグルをかける。ベッドに横たわると、洞窟内の照明が薄暗くなる。
「私、上におります。何かありましたら、ベッド横のインターホンを押してください」町田が出ていく。
神崎はゆみの手を握っている。眼を瞑っていても、ゴーグルで点灯する光の渦が視覚に飛び込んでくる。
渦は反対まわりになったり、点滅したりする。心はこの光の変化にとらわれている。
10分ぐらいたったであろうか、視覚の光の点滅を意識しなくなってきた。暗い地の底に落ち込むような睡魔が襲う。
神崎は不思議な夢を見る。
周囲は薄ぼんやりしている。宙に浮いているような感覚だ。足元に水面がある。波が立っている。
やがて周りが明るくなる。抜けるような青い空が広がっている。
・・・水の上を歩いてみよう・・・神崎は心の中で叫ぶ。裸足だ。波立水面に足がつく。冷たい水の感触が伝わってくる。神崎は自分の体を見る。裸だ。子供のような小さな体をしている。
水面に足をつけて歩いていると思ったのに、段々と体が沈んでいく。膝頭まで水面に沈んだ時、神崎は悲鳴を上げる。水と思っていたのに、子猫程の大きさの人間が無数に群れていたのだ。彼等は押し合い、へし合いして、他の人を押しのけて上に這い上がろうとしている。他人の頭を押さえつけて這い上がる者もいる。這い上がってと思っていると、別の人間がその者の足を引っ張って引きずり落とす。その光景が、空から眺めた時、波のように見えたのだ。
神崎の体や足に無数の手が触れる。神崎の体を下へ下へと引き込もうとする。彼の体は頭だけを出して、沈み込んでいく。
・・・助けて・・・叫ぶが声にならない。これは夢なんだ。自分に言い聞かせるが、息苦しさ、圧迫される力強さは現実以上に生々しい。神崎の体も無数にいる人々と同じ大きさになっている。どの顔も凄まじい形相だ。他人を押しのけてでも這い上がろうとする。這い上がったと思うのも束の間だ。その体は下の方に沈んで消える。代わりの人間が這い上がってくる。
神崎は必死になって手を上げる。
その時、神崎の手がしっかりと掴まえられる。ぐんぐんと上に引き上げられる。神崎の体が人の群れから引き離された時、上を見る。
「おじいちゃん!」白髪の柔和な顔の牛島裕一がいた。
神崎の体が宙に浮く。足の下の人の群れは水面に代わる。水面は激しく波を打っている。
「おじいちゃん!」牛島の姿が消えている。天空には真昼の太陽よりも数倍明るい太陽が輝いている。
・・・上の方に上がっていこう・・・神崎は心の中で呟く。
体が上昇していく。
太陽の輝きを遮るかのように、黒い雲がわく。
雲―――と思ったのは、小さな虫である。それが天空一杯に広がる。その中に人の顔が現れる。巨大な顔が神崎を見下ろしている。厳めしい表情をしている。
―――ルシファー―――心の中で声がする。顔の主がルシファと言っているようだ。
と、その時、無数の黒い虫が神崎を包み込むように襲ってくる。
神崎は意識が遠のく。深い眠りに入る時の喪失感に襲われる。
「あなた!」体を揺さぶられ、ゆみの声で眼が覚める。気が付くと、洞窟の中のベッドの上だ。
・・・そうだ、ここは・・・ゴーグルをつけてベッドで横になっていたのだ。
「今、何時?」ゆみに尋ねる。ゆみが4時と答える。
「えっ!もうそんなに!」神崎は起き上がる。
洞窟の入り口が開く。
「いかがでしたか」町田のにこやかな顔が現れる。
ルシファの秘密
神崎とゆみはベッドから立ち上がる。洞窟を出て地上に出る。居間のテーブルに腰をおろして、町田の運んできたコーヒーを飲む。
神崎は夢の内容を話す。生々しい記憶だ。
「ゆみ、君は?」と尋ねる。
「私はね・・・」ゆみは子供のようにはしゃぐ。
ゆみは幼い頃から空を飛ぶ夢を見る。覚醒した後は空を飛んだという淡い思い出しか残っていない。
「この場合・・・」空を飛んで何をしたのか、記憶の細部まで生々しく思い出す事が出来る。
「すごく楽しかった」ゆみの顔が輝いている。
神崎はこんなゆみを見るのは久しぶりだ。
夕方5時、”不思議な世界”を後にする。
―――人はどうして夢を見るのか―――明快な答えはない。
今回の場合、神崎とゆみは夢を見た事で、心身ともに爽快な気分を味わうことができた。
「また行きたいわ」ゆみの気持ちがよく判る。
平成22年5月上旬
ゆみがパソコンから見つけ出したヒトラーの謎について調べ上げる。
ヒトラーの予言は、ヒトラーを調べている人達にとっては判りきった事実なのだ。そしてヒトラーがどうして予知能力を持っていたのか、その謎をヒトラー自身が答えていた。
―――あいつのおかげだ―――
ヒトラーのIQは150近くあったと言われている。霊感も高かったようだ。
時々、何かに憑依されていた事を、ヒトラー自身、実感している。ただ、”あいつ”が何者なのかはヒトラーのにも判っていなかった。
・・・1914年に始まった第1次世界大戦に、ヒトラーは志願して参戦している。この戦争の4年間で、40回以上の戦闘に参加している。伍長としては異例の1級鉄十字章を受章し、6回もの表彰を受けている。これはヒトラーが勇敢な兵士で、非常に幸運に恵まれた事を意味している。
記録に残っているだけでも、ヒトラーが危ういところを命拾いしたのは、4度や5度ではない。
ヒトラーはいつも前線で一番危険な任務である伝令兵をすすんで志願している。
彼は前線で何度も奇跡的に命拾いをしている。同僚の兵からは不死身の男と評されていた。
―――ヒトラー自身がイギリスの通信特派員ウォード・プライスに語った言葉が残されている。
・・・私はあの時、戦友達と夕食を摂っていた。すると突然、ある声が私に「立って向こうへ行け」と命じた。その声があまりにも明瞭で同じことを繰り返していたので、私は上官の命令を聞くように機械的に従い、20ヤードほど移動した。途端に、今までいた場所から衝撃と轟きが押し寄せた。その時に、私の所属していたグループの上に、流れ弾が炸裂して1人残らず死んでしまったのだ・・・
―――これは、ヒトラーの内部深くから噴き上げた何かの声、または異界から来た、ヒトラー以外の誰にも感知出来ない妖異な命令だった―――
・・・そうだ、それは”あいつ”の命令だった。あの時から、私は”あいつ”が憑くようになった。怖ろしい事だ。私は”あいつ”に選ばれて取り憑かれたのだ。・・・
―――後で、ヒトラーは側近達に語っている―――
・・・語っている最中、ふいに立ち上がって目を剥く。
「あいつだ、あいつが来た。また私に未来を教えにきたのだ。そこにいる、そこだ!」あらぬ方向を指さして絶叫する事もあった・・・
―――第1次世界大戦の戦場での、生死のぎりぎりの衝撃が、ヒトラーの深層意識に火をつけたのだろうか。
とある沼地のほとりでハッと気が付いた時、ヒトラーは自分がそれまでとは全く違う人間に変わってしまったと感じた―――
思い出として、第1の側近のゲッペルスに語っている。
・・・異常変化だった。これから起こることが全部判るように感じた。実際に判った。人類の未来が、すべてありありと見えだした。「そうだ、その通りになる。お前には判る。お前はその力を持った」”あいつ”が耳元で囁いた・・・
―――第1次世界大戦が終わっても”あいつ”はヒトラーから離れなかった。そして様々な未来を囁き、予知以上の事まで告げはじめる。―――
・・・アドルフ、お前は選ばれた。試練にも耐えた。お前にはドイツ民族を率いてヨーロッパを制覇する。新しい世界を打ち立てる。それがお前の使命だ。
お前がやらなければ、今世紀後半も21世紀も、ユダヤが地球を支配する事になる。金も食料も兵器もユダヤが支配する。世界はユダヤとその代理人どものものになる。だからユダヤを倒せ。打ち倒せ。
そのために、まず政権を握れ。片足の不自由な小男が見つかる。その男は天才で、お前の最大の協力者になる。その男を充分に活用すれば、お前は45歳になるまでに政権が手に入る。50歳で世界征服の戦争が始められる。
それを忘れるな。お前は25歳で選ばれて能力を得た。
生まれてから50年目、お前は世界征服の大戦を起こすのだ。
さらに生まれてから100年目、150年目―――つまり1989年、2039年―――もうお前はいないにしても、その時人類は、新しい次の段階を迎える。それが何か、いずれお前だけに教えよう・・・
―――ここで語られる片足の不自由な小男とは、プロパガンダの天才、ヨーゼフ、ゲッペルス(ナチス宣伝相)の事だ。ヒトラーとゲッペルスが最初に対面した時、ヒトラーはナチ党の党首で、ゲッペルスは組織の末端にいる専従職員でしかなかった。それなのに、ヒトラーはゲッペルスを旧知のように厚遇した。
1925年10月14日のゲッペルスの日記
「この人は何者なのか。人か?神か?キリストか?」と書いている。
ゲッペルスはヒトラーの最後までヒトラーの忠実な片腕だった。ヒムラーやゲーリングのように、決して裏切るような事はしなかった。―――
―――”あいつ”とヒトラーとの関係は、40回以上企てられたヒトラー暗殺計画にも大いに関係がある。
1933年3月
ヒトラーがケーニヒスベルクで演説する際に、爆弾を投げつけられるという暗殺計画が、共産主義者達によって立てられた。計画は事前に発覚して未遂に終わる。犯人グループは全員逮捕される。
ミュンヘン・ビアホール事件(1939年11月8日)では、ヒトラーの演説中に爆発するよう、演壇のすぐ後ろに巧妙にに時限爆弾がセットされた。ヒトラーの演説は2~3時間行う予定だった。
しかしこの日、ヒトラーは突然演説を1時間足らずで切り上げて姿を消した。その6分後に時限爆弾が破裂。爆弾の威力は凄まじく8人が死亡、63人が負傷した。ヒトラーが立っていた場所は2メートルもの高さの瓦礫に覆われた。もしヒトラーが演説を続けていれば確実に死んでいた。
ドイツ軍がフランスを征服した1940年には、パリで行われる勝利パレードに臨席するヒトラーを暗殺する計画が立てられた。だがパレードが中止されたため、失敗に終わる。
1943年3月13日、東部宣戦を視察に訪れたヒトラー専用飛行機に爆弾を仕掛けて、飛行中に爆発させる計画(閃光作戦)が実行に移された。しかしヒトラー専用機は無事に目的地に降り立ってしまう。ロシア上空の寒気が原因で機内の温度が低くなり、起爆装置が作動しなかった。もし起爆装置が作動していたら、ヒトラーは確実に死んでいた。
その8日後のベルリン博物館事件(1943年3月21日)、捕獲兵器の説明役の将校が自爆するつもりで両ポケットに爆弾を隠していた。ヒトラーを殺すための準備が整えられていた。見学は30分の予定だった。だがヒトラーは博物館に入ると、急に通用口から出た行ってしまった。
同じく1943年にヒトラーが臨席した軍の演習中に兵士が爆薬を投げつけて殺害しようとした事件があった。事前に爆薬が発見されたため未遂に終わる。
1944年7月20日、ヒトラーに反対するシュタゥフェンベルク大佐などの、国防軍の一部を中心とするグループによって、大規模なヒトラー暗殺計画が決行された。これは総統大本営、通称”狼の巣”に爆弾を仕掛けて、ヒトラーを殺すというものだった。
この計画は未遂に終わる。事件発生後24時間以内に700人の加担者が逮捕され、シュタゥフェンベルク以下200人が処刑された。
この時、シュタゥフェンベルク大佐の仕掛けた爆弾がヒトラーの間近で爆発。室内にいた24人全員が吹き飛ばされ、その内4人が死亡。
ヒトラーが寄りかかっていた机は爆風で飛び、部屋はめちゃくちゃにに破壊された。しかし、ヒトラーは死ななかった。軽傷を負ったのみだった。
ヒトラーは自分の生還を”神に御業”と考えた。「私は不滅だ!」と主治医に言った。
ヒトラーの反ユダヤ政策
神崎とゆみはパソコンの画面に食い入るように眺める。
・・・ルシファだ。ヒトラーに取り憑いたのはルシファだ・・・神崎は独り言のように喋る。
「あなた!」ゆみが驚いて声を上げる。
「緑の手袋が言っていた。ヒトラーを背後で操る者がいたと」
ルシファは、キリスト教の伝統的解釈によると、元々は全天使の長であった。神から人間に仕えよと命令された。この事に不満を感じ反発して神と対立する。天を追放されて神の敵対者となる。
ルシファは最高の能力と地位と寵愛を神から受けていたので、自分が神に成り代われると傲慢になり、神に反逆して、堕天したと言う説もある。
「ゆみ、ナチスとユダヤは避けて通れない問題だ。ハーケンクロイツと結びつくかどうか判らないが調べてくれないか」夫の言葉に、ゆみは大きく頷く。
「あなた、変わったわ」ゆみは感慨深げに言う。
今までの神崎は、ゆみがパソコンで調べた事をそのまま聞いていた。
犬山の本宮山の”不思議な世界”へ行って以来、神崎の行動は積極的になっている。これを調べてくれ、あれを確認してくれ。パソコンの何々にこの資料がある筈だから、コピーしておいてくれ。
積極的にゆみをリードしている。ゆみは神崎に言われるままに、ユダヤ問題を検索する。
歴史上の反ユダヤ政策
1933年1月30日、ヒトラー政権誕生。この時すでに、路上でのユダヤ人襲撃や不当な逮捕、口頭や書面による多数の反ユダヤ的宣伝が行われていた。
同年3月23日、共産党議員の登院禁止、一部社民党員を不当逮捕する中、国会で全権委任法が成立。ヒトラーは独裁権を得る。7月までにナチ党以外の全政党が解散。この頃からドイツ国内に強制収容所が作られる。3月4月だけでも2万5千人を収容。
4月1日
ナチス宣伝大臣ゲッペルスの指令により、全国的なユダヤ系の商店、開業医、弁護士などのボイコットが一斉に行われる。この処置により、当時ユダヤ人の経営するデパートや商店の売り上げは、28パーセント以上減少している。
4月7日
職業公務員再建法が施行される。正式にドイツ国内の非アーリア系官吏や公務員、ナチス政権にとって好ましくない官吏は強制退職させられて、一掃された。
またアカデミックな分野でのユダヤ人(科学者)の追放が始まり、全科学者の4人に1人が、物理学者では3人に1人が大学や研究所から追放される。
4月22日
ユダヤ教の儀式上欠かす事の出来ない動物の屠殺を全面的に禁止。ユダヤ人開業医は国民健康保険から締め出される。ユダヤ人医師に診断を受けた者には保険が適用されなくなった。これはユダヤ人開業医にとって事実上の廃業を意味した。
4月25日
ユダヤ人の学生に対する就学制度が導入される。
5月10日
ユダヤ人系又は共産主義的文学作品や書物の焼却破棄(焚書)が全国的な規模で組織され、実地された。指揮を取ったのはゲッペルスであったが、ナチスを信奉する学生達が、観衆として動員される。この焚書によって2万冊が燃やされた。
7月14日
ワイマール共和国成立以後にドイツ国籍を得たユダヤ人の市民権、国籍は無効とされる。これは主に外来者、東方ユダヤ人に向けられた処置であったので、東方ユダヤ人の多くは早期にドイツを去っていった。
9月22日
国家文化省設置法が成立
10月4日
著作家法が成立。9月の国家文化省設置法と共に、ユダヤ人はドイツでの文化活動から締め出される。
1934年
1月14日
ユダヤ人医学生に対する国家試験の禁止(ユダヤ人は医者になれなくなる)
6月7日
ユダヤ系出版社のナチ系出版社への強制買収
12月8日
ユダヤ人薬学生に対する国家試験禁止
1935年
5月8日
全ドイツで反ユダヤ的宣伝の看板が公に掲げられる。将校になる事の禁止。
7月25日
ユダヤ人の軍役資格の剥奪
9月15日
ニュ-ルンベルク法の成立、ドイツ人との結婚、性交渉の禁止。
11月14日
選挙権の剥奪
11月21日
ユダヤ人公証人、医者、大学教授、教員などの職業禁止
1936年
ベルリンオリンピックのため、一時的に反ユダヤ政策は緩和される。なおオリンピックの聖火リレーを最初に取り入れたのはヒトラーである。彼はオリンピックを国威発揚に利用した。現在これは当たり前の事業となっているが、ヒトラーが最初に行っている。
1937年4月15日
数々の職業禁止
1938年3月12日
ドイツ軍がオーストリアに進入。翌日、同国を併合。
3月28日―――ユダヤ教の宗教団体は公法団体としての地位を取り消される。
4月26日―――財産の登録義務、ユダヤ人財産の没収準備。
6月15日―――反社会分子に対する6月行動、約1500人のユダヤ人が強制収容に。
7月23日―――ユダヤ人に特別の身分証明書交付。
7月25日―――ユダヤ人医師、ユダヤ人の患者のみ診察可。
7月27日ーードイツ各地のユダヤ人名を持つ道路の取り消し、改称(これはナチス政権初期にも行われ た)
8月17日―――ユダヤ人にサラかイスラエルの名を付けるように強制。
9月27日―――ユダヤ弁護士の営業禁止。
10月5日―――ユダヤ人の旅券没収、以後大きく赤字でJとみ表記。
10月26日―――在独ポーランド系ユダヤ人約1万7000人、を国外へ強制退去。
11月7日―――パリでドイツ人外交官フオン・ラートがユダヤ人青年に狙撃される。
11月9日―――水晶の夜事件発生。ナチ政権による全国的組織的な迫害。
ドイツで数百のシナゴークが焼き払われ、96名のユダヤ人が殺される。ユダヤ人の商 店、デパートなどの略奪、破壊、2万6000人のユダヤ人が逮捕され、強制収容所へ送 られる。
11月12日―――外交官フォン・ラート暗殺の賠償金として10億マルクがドイツのユダヤ人に課せられ、
迫害で生じた損害はユダヤ人自身の費用で早急に復興する事が義務付けられる。
同日、職工、サラリーマン、アカデミーとしての職業禁止(ユダヤ人はまともな職につけ なくなる)。ユダヤ系企業のアーリア化。
11月25日―――ユダヤ人子女の公立学校への通学禁止。
1939年
1月24日―――ゲーリング、「ユダヤ人出国中央本部」の設立を指示、本部長にハイドリヒ。
2月17日―――ユダヤ人の所有する一切の貴金属拠出令。
4月30日―――借家住まいのユダヤ人に対する法的保護の撤回。
9月1日―――ポーランドへ侵攻、第2次世界大戦開始。ユダヤ人に対する夜間外出禁止令。
9月23日―――放送機器の所有禁止、拠出令(ユダヤ人からラジオを取り上げる)
9月27日―――国家保安本部(RSHA)を設置、テロ、抑圧措置の統合機関となる。
11月2日―――ポーランド総督府、在住ユダヤ人に、シオンの星(白地に青いダビデの星)を描いた腕章 の着用を義務化。
1940年
2月6日―――衣料配給券の給付取り消し。
2月12日―――強制大量輸送開始。
6月~8月―――ドイツ外務省と国家保安部、ユダヤ人のマダガスカル島への移送を計画。
7月4日―――食料購入の1日1時間制限。
9月27日―――日独伊3国軍事同盟成立。
1941年
3月7日―――残存ユダヤ人に対する強制労働義務の導入。
6月22日―――ドイツ軍、ソ連へ侵攻。
9月1日―――ドイツ本国の満6歳以上のユダヤ人に黄色い星を義務化。
9月12日―――公的交通機関の利用は勤務先へのみに制限される。
10月3日―――労働法上の保護撤廃。
10月8日―――アウシュビッツ=ビルケナウ収容所が設立される。
10月18日―――ドイツ系ユダヤ人の東方におけるゲットー及び強制収容所への大量強制輸送の開始。
10月23日―――ドイツ本国よりの国外移住を禁止。
11月25日―――強制輸送されるユダヤ人の財産は没収。
11月21日―――公衆電話の使用禁止。
12月7日―――夜と霧と呼ばれる法令が成立。
この法令は、当局がこの人間はドイツの安全に害を及ぼすと思ったら、国籍のいかんを問わ ず誰でも拘束できるというものだった。多くの政治犯は真夜中に逮捕され、即刑務所に移送 された後、強制収容所に送られた。
1942年
1月10日―――所有する毛皮、ウール衣料の拠出令。
1月20日―――ヴァンゼ―会議が開かれる。
2月7日―――新聞、雑誌等の購入禁止。
4月24日―――公的機関の利用一切禁止。
5月~6月―――西欧占領地で”黄色い星”を義務化。
6月19日―――電気製品、光学機器、自転車の拠出令。
7月30日―――メタル製ユダヤ教祭器の拠出令。
10月19日―――肉類、乳製品配給券の給付取り消し。
1943年
2月26日―――ナチスはユダヤ人だけでなく、ジプシー(ロマ民族)も迫害した。この日以降、ナチスの支 配圏となった12ヵ国のジプシーがジプシー収容所へ連行された。
4月19日―――ワルシャワ。ゲットーの数万人のユダヤ人が蜂起。ドイツ軍はその鎮圧に手を焼く。5月半 ばまで抵抗が続く。
6月19日―――ベルリン、ユダヤ人ゼロを宣言。
7月1日―――切の法的保護の剥奪。
1944年
110月21日―――ドイツ人を配偶者としているユダヤ人の強制輸送。
1945年
1月27日―――アウシュビッツ収容所、ソ連軍により解放される。
4月29日―――ダッハウ収容所、アメリカ軍により解放。
5月7日―――ナチスドイツ、連合軍に降伏。
11月20日―――ニュウルンベルク国際軍事裁判開廷。
ユダヤ問題の真実
インターネットの画面を見終わった後2人はしばらくは口がきけなかった。
「人間って、ここまで悪魔になれるのね」ゆみがポツリと言う。人間は服従を好む習性があるのか、目上の命令とあれば簡単に人殺しさへ行う。
平和な時代は殺人は罪悪である。だがいざ、戦争となると殺人行為は英雄行為として称賛され、ほめたたえられる。
”敵”を殺すとなれば罪の意識は感じない。戦争が終わって「何故殺したのか」と問われれば、上司の命令だからと答える。自分の意志ではない事を強調する。
「ヒトラーはどうしてここまでユダヤ人を追い詰めねばならなかったのか」神崎が呟く。
ヒトラーはユダヤ人ゼロ計画を推進しようとしていた。地球上からユダヤ人を一掃する。気が狂ったとしか思えないのだが、当の本人は真剣に考えていたのだ。
「これもハーケンクロイツの秘法に関係があるのかもしれない」神崎の声にゆみは声を失う。
「ねえ、あなた、ナチスドイツの安楽死計画と民族衛生学っていうのがあるの。見る?」
ゆみはパソコンのキーボードを操作する。
安楽死計画―――暗号名T4作戦
1939年から1941年8月までに約7万人の障害者を、生きるに値しない生命として抹殺された。
安楽死計画の中央本部がベルリンにティアガル4番地の個人邸宅を接収して、ここに置かれたことから、T4作戦と呼ばれた。この部門の責任者ラインホルト・フォアベルクは灰色に塗り直したバスをドイツの旧領土中およびポーランドの占領地域にまで送り、各地の精神病院から患者を安楽死計画施設に移送している。このT4作戦は、1941年8月にヒトラーの命令で中止となる筈だったが、それ以後も障害者は陰湿な方法で殺されていった。
1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッソ博士が民族衛生学という言葉を初めて用いた。当時人種と遺伝学、医学との結びつきは新鮮なものだった。
1923年に民族衛生学はミュンヘン大学に開設されたばかりの最先端の科学だった。
生殖や生命を社会的にコントロールし、社会問題を、生物的、医学的に解決しようとする考え方が多くの知識人をひきつけた。この時代は科学主義の時代であった。科学が人々を説得する有力な武器となったのだが、ユダヤ人についての伝統的な偏見が生物学、人類学などの科学と結びついていく。
1927年9月、カイザー・ヴィルヘルム人類学、優生学人類遺伝学研究所が設立される。1942年までの研究所所長はオイゲン・フィシャーである。
彼は混血の政治的意味という報告で劣等種族の血を受け入れたヨーロッパ民族は精神的、文化的衰退を被ったとする。この研究はナチスに受け継がれる。
1933年、優れた人間を”生産”するためのレーべンスボルン計画を目的とするアーネンエルベが設立される。
アーネンエルベの研究は捕虜の生体実験や、数々の非人道的研究実験が行われた。
優越民族アーリア人種の純潔保存のために、”劣等民族”を絶滅させる目的で、アウシュビッツ収容所の囚人に対して新種実験が行われている。
レーべンスボルン計画というのは生命の泉計画の事で、劣等民族絶滅の研究として、支配民族を育てる”交配牧場”を作る計画があった。IQの高い者同士、運動能力の高い者同士のSS隊員とゲルマン女性から、より優れた人間を作ろうとしていた。彼らは将来ナチスのエリートとなる。
「常軌を脱しているわ」ゆみは苦し気に呟く。
「でもやっている当の本人は至極真面目なんだね」神崎の声にゆみは頷く。
「ゆみ、エドガー・ケイシーを検索してみて」神崎の声にゆみはパソコンのキーやマウスを動かす。
エドガー・ケイシーは眠れる超能力者で、催眠透視という特殊な能力を持つアメリカ人だ。彼の行った膨大なリーディング記録は、バージニア州にあるエドガー・ケイシー財団に保管され、一般に公開されている。
彼は政府高官に招きで、ホワイトハウスでリーディングしている。この時は1939年9月25日で、第2次世界大戦開始から24日しか経ていなかった。
この日、1人のユダヤ人が、第2次世界大戦の真の目的を知りたいとして、エドガー・ケイシーにリーディングを依頼したのだ。
「今回の戦争の本当の目的は何か?」という質問に対して、ケイシーは以下のように答えている。
―――ダニエル書の最後の2章を読みなさい。また申命記31章を見なさい。そこに答えを見出すだろう―――
ケイシーがこのユダヤ人に読むように勧めた旧約聖書の申命記31章は、ユダヤ人が祖国に帰ることに関係したものである。申命記のこの章はユダヤ人がヨルダン川を越えてパレスチナに入る直前にモーゼが説教する様子が叙述されている。
ケイシーは他のリーディングでも、ヒトラーがドイツの権力の座についた理由は、ユダヤ人が彼らの祖国パレスチナに帰るようにするためである事を、繰り返し述べている。
ヒトラーについてのリーディングの中で、戦争が起きる前の1933年11月4日に行われたリーディングの内容は興味深い。この日、ユダヤ人の未来とヒトラーの政策についての質問が提出されている。
この中で、ケイシーは、ユダヤ人は神の掟を破ったために長い事散らされていたが、今や時が満ち、故国パレスチナへの帰還が迫った、と予言した。
ヒトラーについては、意外にも”霊的に導かれている”と高く評価した上で、古代イスラエルのエフー王にヒトラーを対比している。
古代イスラエルのエフー王は、旧約聖書の列王記に、好戦的な将軍で、信仰とは全く無縁な人間だったが、偶像崇拝に堕した当時の北イスラエル王国を罰するため、神に遣わされたと期している。
エフー王は、預言者エリシャに下った神の命により、大軍を蜂起して、当時バール神礼拝に堕していた先王アハブと妃イゼベル、その他無数のユダヤ人を根絶やしにした。
残酷な方法ではあるが、これによって、国民の精神面での純潔が回復された。
ケイシーが予言(霊視)したように、ヒトラーのユダヤ人迫害は、19世紀から始まっていたシオニズム運動(イスラエル建国運動)を最大限に推し進める事になった。
ヒトラーなくしてシオニズムの成功はなかった。シオニズムなくしてヒトラーのユダヤ人迫害は無意味だった。
ある意味、ヒトラーはイスラエル建国の影の功労者であった。1948年5月、イスラエルは中東に誕生した。
「ねえ、あなた、エドガー・ケイシーの予言って興味津々ね」ゆみは紅潮した顔で画面に見入っている。
「でもユダヤ人の神は厳しいというか、残酷だね」神崎は呟きながら眼を瞑る。
「ゆみ、ルシファ憑依説をもう一度出してくれ」
ゆみは神崎の言葉通り、ルシファの項を検索する。以前検索した項とは異なった解釈が出てくる。
・・・アドルフ・ヒトラーこそ、悪魔の頂点に君臨する大魔王のルシファが憑依した人物だった。この事実は、アメリカや旧ソ連、イギリス、フランス、イタリア、日本などのトップクラスの人間は皆知っていた。ある程度ヒトラーの行動を黙認していた。
ヒトラー(ルシファ)の行動の根本的な目的は、
「人間に1度、戦争という行為の愚かさを、とことん教えておく必要が、この時期にある。だから、私は戦争、差別、虐待などをおこなう・・・」
ルシファについては―――ルシファは熾天使(上級第1位の天使)のリーダーで、神の寵愛を最も強く受けたトップエリートの天使だった。
己の力と美貌に酔いしれたルシファは天界に反旗を翻し、天界の3分の1にも及ぶ反乱軍を率いて絶対神に戦いを挑んだ。大激戦の末、天界は勝利を収め、ルシファ側は天界を追放される。
ルシファとはラテン語で光り輝く者、光を与える者を意味している。悪魔や堕天使を指す言葉ではなかった。
「ゆみ、これは違うと思う」神崎は答える 。
「何が違うの?」ゆみの不審な声。
―――「人間に戦争の愚かさを教える?第1次世界大戦が終わって間がないんだよ」神崎の声に峻烈な響きがある。
「ハーケンクロイツさ、ハーケンクロイツの秘法を成就するための生贄の儀式だったのだ」
「あなた・・・」ゆみは夫の変容に声をのむ。
神崎は 呟くように以下のように言う。
・・・古代、神への捧げ物は人であった。旧約聖書、創世記第22章に、神がアブラハムに命じて、彼の愛する1人児イサクを燔祭として捧げる場面がある。
聖書によれば神はアブラハムの忠誠心を試すために命じたとある。だが古代は神への捧げ物は人が普通であった。
戦争で負けた側の捕虜の肉を食らう儀式があった。これは捕虜の生命力を付加する為に食うのだ。
アブラハムの場合、愛するイサクの代わりに羊や牛を燔祭 にしている。時代が下るにつれた、人の代わりに羊や牛が燔祭となっていく。
日本でも古墳造りに奴隷が生き埋めとされた。仁徳天皇 の頃、奴隷の代わりに埴輪がとって変わられる。
中世でも、城を造ったり土手を築く時、人柱を立てる事があった。
以上の事は風習であったが、一種の魔術的な要素を持っていたのである。
ユダヤ人の歴史の啓蒙部局
しばらくの沈黙の後、
「ゆみ、神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ2世について検索してくれ」神崎は唐突にゆみに言う。ゆみは即座にパソコンのキーボードを打つ。
画面に表示されたのは、ユダヤ人の啓蒙部局という文字だ。
「ねえ、あなた、これなに?」
「ユダヤの魔法だ。ヒトラーが一番恐れていた・・・」
神崎の眼はパソコンを見ていない。あらぬ方向を見ている。ゆみは画面の文字を読み上げる。
―――第2次世界大戦侍、ナチスドイツはチェコの首都プラハを徹底的に蹂躙した。プラハはナチスにとって、戦略的には重要ではなかったが、ヒトラーが恐れていたのだ。
ユダヤ人がプラハに住みつくようになるのは10世紀ごろからだ。
プラハは16世紀に、ユダヤ神秘思想”カバラ”を研究する街として重要な意味をもっていた。ヨーロッパでは最大級のユダヤ人の街となっていた。
プラハは”魔都”と呼ばれていた。それもユダヤ人が関係している。
16世紀から17世紀にかけて、プラハではカバラの巨星ラビ・レーフが活躍していた。彼はプラハのユダヤ人から”高徳なレーフ師”とよばれ、崇拝されていた。
後世、ラビ・レーフの名が有名になるのは”ゴーレム”つまり人造人間を造り出したと言われたためだ。
ゴーレムの創出は、ユダヤ神秘思想カバラの奥義中の奥義である。ラビ・レーフが高徳と呼ばれたのは、信仰心からではなく、カバラの秘儀をマスターし、それを実践した事への意味合いがある。
ラビ・レーフが活躍していた時代に、プラハは神聖ローマ皇帝のルドルフ2世が支配していた。
ルドルフ2世は、16世紀のヨーロッパで最大の富と権力を誇ったハプスブルク家の出であった。当時ボヘミア=ハンガリー王も兼ねていた。
政庁をウイーンからプラハに移し、丘の上の城に籠った。現在のプラハ城である。
ルドルフ2世はカバラの研究に熱心だった。当然ユダヤ人を積極的に登用する。
ルドルフ2世は変わり者の皇帝だった。
後にウイーンで作成された”大公建白書”によると、
―――閣下は魔術師や錬金術師。、カバリスト達に興味を持っていた。秘宝と名の付くものを集める為に出費を惜しまなかった。その上秘術を学び敵を呪う方法を会得するためには金銀さえも拠出している。ありとあらゆる魔術書が陛下の元に集められた―――と述べている。
ルドルフ2世は、プラハの丘の上の壮大な城に閉じこもって、ほとんど人に会おうとはしなかった。
ルドルフ2世に謁見が許されたのは、錬金術師、オカルティスト、異端の芸術家、永久機関を完成させようと目論む時計職人達などわずかな人々だった。
イギリスの宮廷占星術師ジョン・ディー博士、天文学者ティコ・ブラーエ、惑星運動の研究家ケプラーなども招かれていた。
試験管で人造人間を造ろうとしたパラケルススはすでに世を去っていたが、その後継者達はプラハに移り住んだ。
ルドルフ2世の秘密の庭園には、身の毛もよだつような奇妙な植物や、おぞましい動物などが人目に触れぬように、栽培、飼育されていた。
カバラの巨星ラビ・レーフとルドルフ2世は交流があったろう事は想像にかたくない。2人はカバラをめぐって知識を交換し合ったであろう。
ルドルフ2世のバックアップもあり、プラハには妖しいユダヤ神秘思想の文化の花が開いたのだ。
この頃のプラハはあたかも第2のアレクサンドリアであった。魔術の街でもあった。現在でもプラハには錬金術との関連から名付けられた 黄金小路と呼ばれる通りがある。
1939年
ヒトラーはチェコを勢力圏下に置く。プラハにナチス親衛隊大隊長カチョルスキーをリーダーとする”特別調査機関=正式名、ユダヤ人の歴史の啓蒙部局”を設立する。
プラハ占領と同時に、市内に住むユダヤ人の商店には目印を付けるよ指令が出される。
「ユダヤ人立ち入り禁止」のプレートが各所に取り付けられた。その後、ユダヤ人全住民の戸籍簿を作成する。ユダヤ人の商店やシナゴークの閉鎖、ユダヤ教の祭事の禁止へと、その締め付けが強くなっていく。
ナチスドイツのチェコ併合の表向きの目的は、高い工業力に基ずく富の収奪にあったとされる。
だが――、それだけが目的ではなかった。
特別調査機関の主な任務は、ユダヤ人が人類に向けた企んでいる陰謀を示す証拠品の収奪にあった。
特別調査機関の元には、プラハ市内だけでなく、ボヘミア一帯の町や村から、陰謀に関する証拠品が次々と送られてきた。ドイツ軍兵士の警備するトラックが”ユダヤ人の歴史の啓蒙担当部局”というプレートを掲げた建物に到着すると、職員が倉庫室に証拠品を運び込む。
トーラ(律法)の巻物、燭台、祭事に用いられる皿、施物箱・・・。集められた品々は膨大な量にのぼった。
調査はドイツ本国から送られた来た専門家が行った。ユダヤ人名簿によって安全とされた者が、徹底した身元調査されたうえで雇い入れて、これら職員の助手となった。
調査内容の口外は禁じられた。秘密を洩らした者は死刑となった。
こうした詳細な調査結果は、責任者カチョルスキーの手から、親衛隊長ヒムラーの元に極秘文書として届けられた。調査結果の内容は、ヒトラーとヒムラーの2人しか知ることはなかった。
証拠品として集められた物は、ユダヤ教に関する書物や文書、祭事に用いられる諸祭具、シナゴーク(ユダヤ教会)に残された記録文書などばかりだった。これらの品々の中に陰謀を示す証拠はなかった。
ヒトラーは、それらの収奪品に何を求めていたのか。
一説には、ヒトラーがプラハで捜し求めていた物は、”カバラの叡智”で、ラビ、レーフが活躍したプラハはナチスにとって叡智獲得のために最重要と考えられていた。もしそうならば、ユダヤ人の歴史の啓蒙部局がプラハに設置された謎が判明する。
常識的に考えれば、同じ年に占領し、10倍近いユダヤ人が住むポーランドのワルシャワに置かれるのが普通だ。
もう1つ、ヒトラーがチェコを最重要と考えていた傍証がある。
1941年、当時の親衛隊保安部(SD)長官のラインハルト・ハイドリッヒが、チェコの副保護官に任命されたことだ。副保護官は実質的には総督にあたり、保護領チェコの最高指導者だ。
ハイドリヒは、ヒトラーが信頼する部下の1人である。当時の重要度から見て、ヒトラーが最も信頼する部下を、たかが保護領の総督に命じるには、違和感があった。
しかし、ヒトラーの最大の目的がユダヤの叡智の獲得にあったとするならば、当然の人事と映ってくる。
副保護官に着任したハイドリヒは、直ちにチェコ国内に戒厳令を敷いて、レジスタンス組織の摘発と処刑を強化し、特別調査機関を従えて、何かを探すように徹底的なユダヤ人狩りを行った。
翌1942年、ハイドリヒは暗殺される。犯人はイギリスのチャーチル首相が差し向けたチェコ人レジスタンスである。
ナチス首脳部は逆上し、犯人逮捕のための苛烈な捜査を開始する。暗殺に対する報復として、プラハ郊外の村リディツェを完全に破壊する。約340人の村人を虐殺した。この暴虐にチェコの人々は震え上がった。
―――破壊されたリディツェの名前は、ナチスによって公式記録から抹殺された―――
ゆみの朗読が終わる。
神崎昭太郎はゆっくりと眼を開ける。
「ヒトラーはね、カバラの叡智を我が物にしようとしてしていた。そして、ユダヤ人から魔術を取り上げようとした」
ヒトラーが恐れたのは、世界の金融を支配するユダヤ財閥だけではなかった。古代から連綿と続くユダヤの魔術の恐れていた。
魔術発祥の地はエジプトだ。それを継承したのは出エジプトを果たしたモーゼである。モーゼの後を継いだのがユダヤ人なのだ。
「ゆみ、今度、不思議な世界へ行こうよ」
神崎の声には力がない。物の怪が解かれたような表情をしている。「あなた大丈夫?」ゆみが心配そうに声をかける。
「疲れた。少し横になる」神崎は言うなり、ベッドにもぐりこむ。
黒魔術の帝国
平成22年6月中旬
神崎ゆみは1人黙々とパソコンに向かってキーボードを打っていた。
神崎昭太郎は、犬山の本宮山の、”不思議な世界”に行って以来、物の考え方が積極的になった。これはゆみにとって喜ばしい事だった。だがそれだけでは済まなかった。インターネットから、あれを検索しろ、これを調べろと、矢継ぎ早に指示してくる。それが昂じると、神崎の口から、ヒトラーやユダヤ問題が飛び出してくる。まるで何かが憑依しているような雰囲気だ。
ゆみは実際に何かの霊が取り憑いていると見た。
霊が神崎の体から去る。神崎の表情がガラリと変わる。顔がひきつって、ぎらついた眼差しが消える。神崎の放心した顔がある。眉が太く、切れ長の目があらぬ方向を見ている。
・・・しばらく休む・・・と言ったきり、パソコンの画面を見ようともしない。毎日コーヒーを飲んだり、テレビの娯楽番組を見て過ごしている。
不思議な世界に行こうと言い出したものの、一向に動こうとはしない。ゆみはテレビの娯楽番組は好きではない。パソコンに向かって、気に入ったソフトを開いていた方が楽しい。食事や買い物のときは、普通の夫婦のように会話に花が咲く。ゆみは1人でパソコンに向かう時は、ヒトラーに関する資料集めに専念する。
・・・ナチスのオカルト、黒魔術・・・
一般の人はナチスが黒魔術やオカルトを駆使していた事は信じないだろう。だがこれは事実なのだ。
ナチスは世界制覇の目的で、体系的にオカルトや黒魔術を使っていた。
ナチスのオカルト兵器は戦車や航空機、ロケットと同じように自在に駆使されていた。中には馬鹿げたものがあった。例えば地球は空洞で、それを立証しようとして莫大な資金を浪費した。
だがオカルト本来の分野、人間や時として物質さえもコントロールするマインド・パワーの研究だ。これらの分野に精力的を注いだ時はもののみごとに成功している。
思慮深いオカルティストは、ナチスの戦争マシーンの目標追求に黒魔術の利用が成功した事を警戒している。それに対抗しようとして独自の白魔術を用いる。
戦争が勃発すると、特にイギリスはオカルトを大いに利用してナチスに対抗する新兵器を開発する。ロシアもアメリカも同様に対抗する事になる。ナチスは独特なオカルト局を持っていた。これにアメリカが原爆開発に費やした以上の予算を注ぎ込んでいた。
オカルトは人の心にある、ある種の力を活用する事にある。だが現実と何らかのつながりがなければ魔術としての効力はない。
ヒトラーは空洞の地球をレーダー代わりに活用しようと試みたができなかった。これはヒトラーが戦時中に試みた数々の愚行の1つである。
ナチスの指導者は日常の判断にオカルトを利用していた。その最も愚劣な事例が独ソ戦であった。
ヒトラーはドイツ兵にロシアの冬の準備をさせなかった。その理由はオカルト局のヘルビガー主義者の行った天気予報にあった。
ナチ運動の全体が魔術とオカルトに深く根ざしていた。ヒトラー、ヒムラー、ゲーリング、ローゼンベルグ、さらにはゲッペルスまでが魔術、およびオカルト思想にどっぷりと浸かっていた。
チャーチル、ルーズベルト、そしてスターリンまでも、ナチスの脅威に対抗する武器として、オカルトや魔術を活用していたのだ。
ナチスがオカルトを利用したのは政治だけではない。芸術や家庭生活、結婚などの個人的問題までも政治的に利用しようとしていた。
アートで言えば、ピカソやシュールや抽象画を頽廃芸術として否定した。
医学―――ドイツでは古くから精神療法が根を張っていた。ナチス幹部たちは、自分の精神ストレスが治療できるかどうか、まず試している。
1939年秋、CG・ユングはヒトラーの精神病治療を依頼されている。
1940年から2年間、女流精神治療家エリカ・ハンテルは生薬治療としての”生物学的サナトリュウム”に参加、SS幹部の多くを治療する。
また、独特の薬食療法を考案したコンスタンツェ・マンツィアリーはヒトラーに採食を勧めている。
ナチスは極端なまでに精神病に関心を払っていた。ユダヤ人のフロイトの精神療法を否定している。代わりにアーリア的精神療法の開発を計っている。
精神病を単純に劣等遺伝と結論づけている。その理由はユダヤの血による劣化と考えていたのだ。
アガルティ思想は1970年代に世界のオカルト研究家の注目を集めていた。それは19~20世紀東洋系神秘主義者の大立者ニコラス・レーリヒやブラバッキ―夫人の研究が大流行した事による。しかしそれは19世紀のフランスにあいついで登場した古代崇拝系のオカルティスト、ファーブル・ドリヴェとサンリティーヴ・ダルヴェドルらの再評価によるところが大きい。
ナチスのオカルト政治家はこのアガルティ思想を利用した。
ドリヴェはナポレオンの政敵だった。魔力を持つ古代言語の再興と、神秘的絶対政権の樹立を夢見ていた。サンリティーヴはこのドリヴェの夢想を具体化しようと、アガルティと称する謎の王国の情報を広めたのである。
この王国には12人の最高秘儀伝授者と世界の王が君臨して、オカルティックな方法で地球の全生命を支配している、というものである。この発想は、19世紀末の神智学運動にとりこまれて、各国におけるユートピアじみた霊的革命の拠り所となった。ナチスはその典型だった。
ナチスドイツは、アインシュタインとフロイトを代表とするユダヤ科学と精神医学を否定していた。
それは現代哲学との決別を意味していたが、ドイツにはオカルトばかりではなく、宇宙旅行協会のロケットをはじめとする壮大な夢が渦巻いていたのだ。
ドイツ全体が科学から哲学、芸術までも含めた、1つの巨大な新世界を作り上げようとしていた。その中でオカルティズムや疑似科学が果たした役割は、そのまま、20世紀の奇想精神の系譜を物語っている。
ドイツのオカルティックな道は、日本の第2次大戦裏面史にも通じている。
ゆみは魔術戦争の中で重要な役目を負ったアレイスター・クロリーを見つける。
アレイスター・クロリーは20世紀最大の魔術師として名高い。
彼は自分を”獣666”―――キリスト教時代に終わりをもたらす魔人と信じていた。
第1次世界大戦を”古い時代を破壊する血の洗礼”として歓迎している。その後、もっと破壊的な世界大戦が訪れると予言している。自らは邪悪な魔術にふけるようになる。そのために社会的信用を失うが、イギリス軍情報部が、彼に協力を要請する。アレイスター・クロリーを起用するように上層部に働きかけたのは、007の作者イアン・フレミングだった。
クロリーはイギリス中の魔女を集めて、ヒトラーにイギリス上陸を防ぐ呪術儀式を行う。第2次世界大戦の最中、何十もの魔女集会が開かれる。いくつもの目撃者証言が存在している。
ヒトラーは怒涛の電撃戦を行っているが、イギリス本土侵攻には本気にならなかったと言われている。魔女たちはこの事について,ナポレオンの時代と同じ事が起きただけと語る。
第2次世界大戦中にウインストン・チャーチル首相が初めて使用したVサインがある。このサインは連合軍の士気を高めるに役立った。
このVサイン(アポフィスとタイフォンのサイン)を生み出したのはクローリ―である。Vサインはペンタグラムの魔力を応用している。実際魔法で使用されるVサインのシルエットは悪魔になる。
ドイツにカール・エルンスト・クラフトという天才占星術師がいた。ナチスの高官の多くは彼に心酔していた。
ナチス宣伝相ゲッペルスはクラフトに、ノストラダムスの諸世紀をベースに、ドイツに有利な予言を作らせた。当時のドイツではオカルトが一大ブームとなっていた。
ナチスが領土を拡大していく事が、ノストラダムスの予言や占星術に出ていると大衆にアピールする事で、ドイツの軍事行動は神がドイツ国民に与えた使命と信じ込ませる事が出来る。
しかしクラフト自身はドイツ軍の勝利が長く続かないと予知していた。1940年の時点でクラフトは以下のように告げている。
―――ドイツは1942年から43年にかけての冬までは連勝を治める。しかいその後の星相は最悪で1942年末までには休戦すべきだ―――
しかしこの不気味な予言は黙殺される。クラフトはこの発言のために自らに悲劇を招くことになる。
一方のイギリスも参謀本部のメンバーとして、占星術師ルイ・ウオールを採用していた。イギリス軍はナチスの指導者達がオカルトに傾倒している事を知っていた。
ドイツが占星術によって作戦を練っていると考えていた。そこで同じ占星術のロジックによってナチスの作戦を予測出来ると確信していた。
イギリス軍はイギリス外務官オー・サージェント卿の指揮の元、”チレア計画”というプロジェクトをスタートさせた。占星術師のウオールにナチスの作戦を逆解読させた。(イギリス軍情報部には、後に魔術小説家として有名になったデニス・ホイトリーや何人ものオカルト信奉者がいた)
ウオールの仕事、ナチスのイギリス本土上陸作戦の逆解読は見事なまでの成功を収めた。ウオールはナチスのクラフトの立てる占星術的戦略を次々と解読していく。
ウオールはその成果を1941年8月、アメリカのオハイオ州で開催された”米国科学的占星学者連盟”で発表。
席上、ウオールはヒトラーの作戦と星の運行を比較して、ヒトラーは最高の占星術師を軍事顧問として抱えていると断言、さらに、ナチスの今後の戦略を逆解読して見せた。
クラフトとウオールの対決は、軍事戦略面だけでなく、プロパガンダの舞台でも繰り広げられる事になる。
クラフトはノストラダムスの予言をナチスに有利になるように解釈して各国にばらまいた。イギリス軍の参謀本部はそれに対抗するプロパガンダを作成、普及させる使命をウオールに与えた。
ウオールはドイツ国民の感情を揺さぶる戦略に出る。それは、ドイツ国内に偽造した占暦を送り込んだ事だ。
ドイツは天頂という占星暦が有名だった。ウオールは天頂の極めて精巧な偽物を造る。そこにはナチスにとってマイナスとなる情報が盛り込まれていた。
偽天頂作戦は大成功だった。この占星暦は多くのドイツ人に行き渡る。国民の動揺は静かに広がっていく。
偽天頂の中の具体的な情報の一例として
――4月4日、もし船長のホロスコープがよくなければ、海に出ない方がいい。
――4月20日、Uボートに最悪の事態が発生!
これらの予言は、当時、最強、最新鋭を誇るナチスのUボートの乗組員達の士気をそぐのに大きな効果があった。
この占星術戦争は、奇妙な形で、突然幕を下ろす。
それはヒトラーの片腕と言われたナチスの副総統、ルドルフ・ヘスの奇行に端を発していた。
1941年5月10日、ヘスは突然、単独でイギリスのスコットランドに乗り込み、逮捕された。
一説に、ヘスは就寝中に”イギリスへ行け!”という幻覚的神秘体験を体験する。それがきっかけで、チベット仏教のお守りを握ってイギリスに乗り込んだ。
また一説には、星の導きによってイギリスに乗り込んだと言っている。彼は自分が訪英する事で、大戦の行方を大きく変える”奇跡”が起こると信じていた。
当時のヘスをよく知っていたヒルデブラントは語る。
―――ヘスは占星術によって、敵の意志を改変する為に、出来る事をすべて行わなければと信じていた。というのも、4月の終わりから5月にかけて、ヒトラーの星相は非常に凶悪なものになる。そこでヘスはヒトラーを救い、ドイツに平和をもたらすのは、自分の使命だと思い詰めていた。
ルドルフ・ヘスの奇行で激怒したヒトラーは、ドイツ国内にウオールがまき散らした占星暦を一掃した。またドイツの占星術師までが、ホロスコープからナチスの敗戦を読み始めたいたので、ヒトラーはドイツ国内の占星術師をも弾圧、検挙した。
・・・ヘスを失ってからのヒトラーは、以前ほどの霊的感受性の冴えを見せなくなった。
クラフトの逮捕と機を同じくして、ドイツ軍は武運を失っていく。1943年1月31日、ソ連に進攻していたドイツ軍は、スターリングラードで敗北して、以後急速に後退していく・・・
ゆみはコピーをとり、神崎の机に置く。いずれ神崎が眼を通す事を知っている。
ゆみは神秘的なものに興味がある。
―――ナチスとオカルト―――こんなにも根が深いとは思わなかった。魔窟は底なしに深い。この魅力に取りつかれたら、一生這い上がれないかも・・・。
ゆみはパソコンを見ながらため息をつく。
秘密結社”緑の手袋”
平成22年の夏も終わる。
神崎は朝7時に起床。7時半に朝食。30分のコーヒータイム。この後は、いつもならパソコンの前に座る。今はぼんやりとテレビを観たり、アマゾンジャパンで購入したDVDの映画を見たりして過ごす。
ゆみはパソコンに向かって、ヒトラー、ナチスに関する情報を収集している。情報を整理して、ゆみはため息をつく。ハーケンクロイツの秘法に関する情報は皆無なのだ。
ため息はつくものの、ゆみの表情には失望感はない。
魔術、オカルト―――これらは歴史の表舞台には決して登場しない。・・・面白いわ・・ゆみは眼を輝かせて、画面に釘付けとなる。
昼からは夕方まで2人で外出する。あてもなくドライブをする。喫茶店に入ったり、買い物を楽しんだりする。夕方は酒の席となる。7時から9時まで、ビールや酒を味わう。
2人の会話にはヒトラーに関する話は一切出ない。ゆみも夫の方から言い出さない限り、話題に載せない。
9月に入る。ある夕刻、食事の後、神崎は神妙な表情で
「ゆみ、もう一度、あの”不思議な世界”へいってみよう」と切り出す。ゆみは軽く頷く。
9月中旬、2人は自宅を出発。今は道路事情がよくなっている。知多半島自動車道路、東浦インターから北上する。名古屋高速に入る。小牧から降りて犬山まで直行する。朝8時に出ても10時には犬山の本宮山に到着する。
「あれ!、看板が亡くなっているわ」ゆみの不審そうな声。大県神社から本宮山の麓を走る道路沿いに、”不思議な世界”の看板があったはずだ。畳半分ほどの大きさだから見落とす事はない。不審に思いながらも、神崎は本宮山の方へ車を走らす。少し行くと、右手に不思議な世界の古びた建物が見える。右折方向を示す立て看板も消えている。それでもとにかく行ってみようと、建物の方へ車を走らす。
建物の前の駐車場は空き地になっている。2人は車を降りると建物に入る。内部はガランドウである。接客用のテーブルもなければ間仕切りの壁もない。室内も奥の床下が黒々と口を開けている。2人は車から懐中電灯を持ち出す。床下の階段を下りる。洞窟の内部はヒンヤリとして空気が冷たい。洞窟の中は何もない。
2人はしばらくは茫然と立っていた。狐に化かされたとはこのことだ。
大県神社のレストラン茶舗に行ってみようと言う事になる。ここは今でも営業中である。
茶舗に入ると、神崎は注文を取りに来たウエイレスに尋ねる。正直に事情を話す。
「町田さんですか?」若いウエイレスは首をかしげる。
「ちょっとお待ちくださいね」小走りに去っていく。しばらくすると、エプロン姿のマスターが現れる。
「不思議な世界ですか・・・」マスターは眼鏡の奥から神崎とゆみを眺める。
「5月に建物を出ていきましたよ」
驚いたのは神崎だ。4月に訪問している。その僅か一か月後に店を閉じたというのだ。
「町田さんの奥さん、ここで働いておられましたが・・・」
マスターは怪訝そうな顔になる。
「町田さんという名前の方は、働いておりませんが・・・」
神崎は不思議な世界について、知っている事だけでも話してくれないかと頼み込む。
マスターは何か理由があるのだろうと、1人合点する。以下のように話す。
―――今年の4月上旬、神崎が茶舗を訪れる10日程前に、本宮山の麓の建物を1か月ぐらい借りたいとの申し出があった。あの建物は元々本宮山を訪れる参拝者のための休憩所だった。無人の建物となって久しい。管理は大県神社が行っている。
「あなたが仰っている、町田さんの奥さんと言われる方、石田さんという方と思いますが・・・」
マスターはその女性の人相などを説明して、神崎の同意を得る。
この人も、やはり4月上旬にここに見えた。パートで働きたいという。丁度女の子が1人辞めた後なので雇う事にした。だが町田が本宮山の麓の建物から退出すると同時に辞めていった。
マスターの話を聞いて、神崎とゆみは茫然とするのみ。
マスターは遠いところからやってきた神崎とゆみに同情したのか、ここを経営している大県神社の神主を尋ねてみろと言う。女の方はともかく、町田と名乗る男の方は、大県神社の神主に会って、、本宮山の建物について尋ねているはずだ。
「何なら、今から神主さんに電話しておきますが・・・」マスターの問いかけに神崎とゆみは顔を見合わせてOKする。神主はいるから来てくださいと言うマスターの返事。2人は大県神社に向かう。
神社はレストラン茶舗から歩いて、3分位の距離。
石の鳥居をくぐる。参道は石畳。正面奥に神殿が見える。人気はない。神殿前で神崎とゆみは柏手を打つ。両手を合わせて頭を下げる。
茶舗のマスターに教えられた通り右手に行く。入母屋の立派な建物が見える。神殿とは渡廊下でつながっている。玄関のチャイムを鳴らす。家の中から声がする。両開きの玄関引き戸が開く。
「どうぞ、お入りください」玄関のおくから、白髪の背の高い老人が出てくる。白装束姿だ。玄関は畳4枚敷きの広さだ。玄関の上がり框で靴を脱ぐ。玄関は3段の段々となっている。上がると、左手は神殿の方への渡廊下、正面の廊下の奥の突き当りは応接室となっている。
神主は2人を応接室に通す。すぐにもお茶を運んでくる。部屋は出来て新しいのか、木の香りがする。洋風の部屋でテーブルがある。神崎とゆみは神主と対坐する。
「町田さんの事をお尋ねとか・・・」神主は2人を交互に眺める。
神崎は、茶舗で”町田さんの奥さんに会った事から”不思議な世界”に行ったと話す。
神主は成程と、神崎の話に1つ1つ相槌を打つ。
「町田さんという方、どこの方か知りませんが、変わった方でしたな」神主は町田と会った当時の事を話す。
4月10日頃、町田が大県神社を訪ねてきた。本宮山の麓の建物を1か月借りたいと切り出して、10万円をポンとおいた。驚いたのは神主だ。ミソにもクソにもならないあばら家を10万円で借りたいという。小遣い稼ぎになればと思って承諾した。何に使うのかと尋ねたところ、建物の地下にある洞窟内で音響の検査をしたいという。
その時、変な事を言い出した。
”不思議な世界”という看板を立てたいので承諾願いたい。それと、4月中旬に若い男女がこの建物を訪ねてくる。その後9月になって、その2人が、町田の事をききにやってくるという。
その時はまさかと思ったが、名刺を置いていって、2人が見えたら、この名刺を渡してくれという。
「私はね・・・」神主は頬骨の突き出た顔を2人に向ける。
「変な事を言う人だなと思ったのですよ」
神主はあくまでも真顔だ。
「建物に来るのなら、そちらで手渡した方が早いではないですか」神主にしてみれば当然の返事だ。
町田はもっともだと大きく頷く。柔和な表情を崩さない。しかし、次の町田の言葉が神主の心の内を刺し貫く。
「神主さん、あなたと、お見えになる2人の方は深いご縁で結ばれています」
町田の柔和な表情が消える。この名刺は私とあなたと、2人の訪問者を繋ぐものです。
この時、神主は肌寒さを感じた。何故か不快な感情に襲われた。できる事なら会いたくないと思った。
この事は、レストラン茶舗には一切知らせなかった。
9月になって、たとえ2人がレストラン茶舗に来ても、マスターが私の事を話さなければそれでよいと考えた。
だが結果は町田の言ったとおりになった。神主は町田の名刺を神崎に手渡して、改めて自己紹介する。
大県神社を預かる本居総太郎79歳。独身。
神崎は今までの事をすべて話す。以前、不思議な世界で、まさに不思議な体験をした。以来何かが乗り移っているような感覚に囚われている。
本居神主は驚きの眼で神崎を見ている。
「ヒトラーの事を調べておられるのですか」本居神主は魅せられるように神崎の口元に釘付けとなっている。
神崎は物の怪に取り憑かれたように、熱っぽく話す。
ハーケンクロイツ、オカルト、魔術、そして牛島裕一に話がおよんだ時、本居神主は大きな声を出す。
「牛島さんをご存知なのですか!」
その声に、神崎は我に還ったように、はっとして声をつむぐ。
・・・深い縁とはこの事か・・・本居神主は感嘆の声を漏らす。
ゆっくりと、しわがれた声で話す。
45年前、大県神社に1人の男がやってきた。仙台のとある神社の紹介状を持っていた。ここでしばらく奉仕したいという。紹介状を読んで雇う事にした。
牛島は神事の儀式に詳しかった。神社には1年を通じて数多くの行事や神事が行われる。忙しい時にはアルバイトを雇って臨時の巫女さんや世話係を頼んでいる。だが素人なので行儀などを教えなければならない。
その点、牛島はすべてをてきぱきとこなしていく。もともとお寺にいたと言うが、神社の事にも造詣が深い。それに彼には不思議な能力が備わっていた。未来を見通す力を持っていた。氏子や参拝客、信者さんの人生相談に、ズバリと答えていく。結婚相談であればいつ頃結婚するか、幸福になれるかなど、人生相談は多岐にわたるが、ズバリと当てる。評判を聞いて参拝者が増える。
「この神社の運営にも相談に乗っていただきましたな」本居神主は懐かしそうに喋る。
ここに居たのはわずか2年であったが、一生忘れられない人となった。
本居神主の話が終わる。室内に沈黙が漂う。神崎はほっとしてあたりを見渡す。
壁や床はヒノキ材が使用されている。贅を凝らしたと言えなくもないが、簡素である。装飾は何もない。天井の蛍光灯が淡い光を放っている。暖かい雰囲気に包まれている。
神崎は本居神主から手渡された名刺に見入る。ゆみが覗き込む。
―――町田隆志―――名前の下に携帯電話の番号がある。住所はない。
「これが名刺?」ゆみはおかしそうに笑う。和やかの気配が流れる。神崎も思わず笑う。
「電話してみよう」神崎は携帯電話から電話を入れる。数秒後「町田です」ソフトな声が流れてくる。
「私、以前お世話になりました神崎ですが・・・」
「はい、よく存じております。電話お待ちしておりました」
町田の滑らかな声。だがその後、今レストラン茶舗にいる。昼が近いから一緒に食事でもしないかと言う。よかったら本居神主さんもご一緒に・・・。後は一方的に電話が切れる。
神崎とゆみ、本居神主は唖然とした表情になる。今日ここに居る事は誰にも知らせてはいない。ここに居る事がどうして判ったのか、茶舗のマスターから聴いたのか?
「気持ち悪いわ」ゆみは顔をゆがめる。神崎たちの動きを予知して、先回りしている感じだ。
「とにかく、行ってみましょうか」本居神主に促されて神崎とゆみは立ち上がる。
レストラン茶舗に数台の車が駐車している。店内に入ると4組の客が昼食を摂っている。
マスターは本居神主をみると、先導して奥の間仕切りの部屋に案内する。引き戸を開けると、8帖の広さで、テーブルが2脚並んでいる。履物を脱いで中に入る。
「やあ、いらっしゃい」町田のにこやかな顔が神崎を見る。隣には”町田の奥さん”が腰かけて会釈する。3人は招き入れられるようにして入る。壁は土壁で和室風だが床は板張りだ。すぐにも食事が運ばれる。
町田は改めて自己紹介する。「石田です」女性が微笑して言う。食事をしながら、町田はゆっくりとしゃべる。他の4名は聞き役に回る。
町田の話を聴いて、神崎は驚きを隠さない。食事を摂ることも忘れて、町田の口元を見ている。
町田の話は以下の通り。
―――神崎さんがここに見えたのは、さるお方の導きがあったからだ。本宮山の麓の建物の洞窟内に急ごしらえの音響設備を整えたのも、不思議な世界の看板も、さるお方の指示でやった。今日、こうしてここに来てもらったのも、さるお方の意志によるもの―――
「それじゃ、私たちは・・・、自分達の意志で来たんじゃないのですか」ゆみは建前で話す事は苦手だ。ズバリ本音が出てくる。
神崎と顔を見合わせる。そんな馬鹿な・・・、今日ここへ来ると決めたのは神崎とゆみの2人の意志なのだ。
町田はそうだとも違うともいわない。微笑するのみ。
「何の目的で、あの不思議な世界を・・・」造ったのかと神崎が言おうとした。
「もう、判ってらっしゃるのではありませんか」町田の表情が真顔になる。神崎を直視する。
「自分であって、自分でないような。・・・、何か物の怪が取り憑いたような・・・」神崎はあやふやながら答える。
「ハーケンクロイツの秘法・・・」町田は低い声で呟く。
「あっ!」神崎は息をのむ。
「ヒトラーのやったハーケンクロイツの秘法は、もっとスケールがでかいですが・・・」町田の声。
しばらく沈黙が続く。
「以前、ここで緑の手袋とお会いしましたね」町田は尋ねる。神崎は頷く。
「緑の手袋は、ヒトラーの要請で日本に出来た秘密結社です」町田は食事が終わると、隣の石田を促す。彼女は頷くとカバンの中から緑の手袋を取り出す。1つを町田に手渡す。2人は手袋をはめる。
神崎もゆみも、本居神主も茫然と見ている。
・・・ヒトラーの要請で作られた日本の秘密結社・・・
町田は緑の手袋の秘密結社の成り立ちを話す。
「優生人種を知っていますね」町田は当然知っているはずとばかりの顔をする。
―――体力的に優れた者や知力の優れた人間を造り出す事はさほど難しい事ではない。スポーツの振興や教育の奨励で、”大量生産”が出来る。
だが予知能力を持つ者や透視能力などの超能力は、普通の者でも訓練を積めばある程度は発現する。しかい相当長い時間がかかる。むしろ生まれつきその様な能力を持った者を探し出して訓練した方が早い。
ヒトラーは卓越した超能力者を作り出して優生人種のリーダーとして育て上げる事を計画していた。
ヒトラーが日本に要請したのも、理由がある。
ヒトラーはイタリアをそれ程強国とは信じていなかった。日本を列強国の同盟国とみていた。
以下ヒトラーのテーブル、トーク
・・・ユダヤ菌の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争はパスツールやコッホの戦いと同種のものだ。一体どれ程の病気がユダヤ菌によって引き起こされている事か。日本はユダヤ人を受け入れなかったので、菌に汚染されずに済んだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる・・・
・・・ユダヤ人は日本人こそが彼らの手に届かない敵と見ている。日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内からは日本を攻撃できないという事は判っている。となると外から叩くしかない。本来、イギリスとアメリカにとっては日本との和解には多大な利益を意味する。その和解を阻止しているのがユダヤ人なのだ・・・
ヒトラーの遺言、以下
・・・我々にとって日本はいかなる時でも友人であり同盟者でいてくれるであろう。この戦争のなかで我々は日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬する事を学んだ。
1938年8月16日にヒトラー・ユーゲントが来日。日本とドイツの連係は一層強固なものとなる・・・
ヒトラー・ユーゲントの来日と前後して、ヒトラーは日本の一外交官に、”緑の手袋”という秘密結社の結成を提案している。提案であるから強制力はない。だがナチスドイツの総統の提案だ。無視はできない。極秘に超能力者集めに奔走する事になる。
”緑の手袋”とは、ヒトラーが直々に創設したニーベルンゲン復讐騎士団のメンバーが緑の手袋をはめていた事による。緑の手袋はナチスにおいてはエリートの象徴であった。
だが日本では超能力者というと、いかがわしい眼で見られる。戦前の日本は古い因習が支配していた。家柄や血縁が重んぜられる。”出る杭は打たれる”のたとえで、体力や知能の優秀な者は注目されるが、超能力を持つ者はいかがわしい眼で見られる。
それでも必死であつめたものの、30名足らずであった。
やがて戦況は悪化の一途をたどる。もはや超能力者集団どころではなくなる。
戦争が終わる。昭和30年代後、世の中が落ち着いてくる。”緑の手袋”は昔の仲間が集まってくる。1人1人が特殊な能力を持っている。自分達と同じ能力を持つ者を密かに探し出す。仲間の数は増えていくが、決して他人には洩らさない。
”緑の手袋”のヒトラーの意図はなんであったのか、彼らは悟るようになる。
”未来の優生人種のリーダー”も1つの目的であろう。ヒトラーについて調べていく内に、ハーケンクロイツの秘法に突き当たる。
”緑の手袋”集団は、ハーケンクロイツの秘法を達成する為に利用されたのでは・・・
「我々の仲間には予知能力を備えた者や、テレパシー能力に優れた者もいます」
町田はひょろ長い体をぐっと伸ばす。背骨をしゃっきとする。柔和な表情だ。
「神崎さん、あなたはハーケンクロイツの秘法を見つける為に生まれてきた」町田の厳しい眼が神崎を見る。
神崎は無言で町田を見ている。
その時、本居神主が姿勢を正す。
「私は何の役を・・・」落ちくぼんだ目で町田を見る。
町田は柔和な眼つきになる。
「本居さん、チベットに知人がいますね」
近い将来、チベット密教の力を借りる事になる。是非力を貸してほしい。町田は頭を下げる。
本居神主は正座する。白衣のまま、両膝に手をついて頭を下げる。
再び沈黙が漂う。
「神崎さん。これから調べてもらう事が沢山あります。ただし、奥さんがすでにパソコンで検索ずみばかりですが・・・」町田はゆみを見て微笑する。
この場は町田の一人舞台のようだ。ほとんど彼が1人で喋っている。神崎は浮かれたような町田の饒舌ぶりを見ている。
「町田さん」神崎に口から洩れる。
「以前、私とゆみが知多半島の中央自動車道路を走っていた時ですが、後ろから尾行されました。」
「家の中に泥棒が入ったわ」ゆみが覆いかぶせる。
「これって、あなた達の仕業なんですか」神崎は不信感をあらわにしている。
町田は微笑しているが何も言わない。場の雰囲気がまずくなる。町田が真顔になる。
「神崎さん、私達が味方である証拠をお見せしますよ」
もうすぐ、さるお方が見えるという。そうすれば信じてもらえるというのだ。
神崎は黙ってお茶を飲む。
この時、神崎の心の中に激しい衝動が走る。
・・・おじいちゃん・・・、牛島裕一の顔が脳裏に浮かぶ。
「おじいちゃんだ」神崎は座敷の外に飛び出す。建物の黒光りした天井には蛍光灯が輝いている。何故かその光が眼に焼き付く。神崎はその場を逃れるようにして表に飛び出す。
外は広大な駐車場だ。西の方は国道27号線が走っているが、ここからでは見えない。周囲は山の中だ。
神崎はレストラン茶舗の入り口前で立ちつくしている。
南の方から1人の男が歩いてくる。背が高い。灰色の背広姿だ。髪の毛が白い。ゆっくりと神埼の方へ近づいてくる。
・・・おじいちゃん・・・懐かしさがこみあげてくる。彼がいなかったら、神崎はこの世に存在しなかったのだ。
神崎との距離は百メートルほどだ。目鼻立ちもしっかりと見える。表情が厳しい。全身が輝いている。
神崎は走り寄って、おじいちゃんと声を上げようと思った。
・・・何か、おかしい・・・神崎は戸惑う。心のなかで二の足を踏むようなためらいが感じられた。
老人の姿があと10メートル程になった時、
・・・これはおじいちゃんじゃない・・・心の中で声がする。
神崎は呆然として、老人が近づいてくるのを見守った。
―――つづく―――
お願いーーこの小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織 等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情 景ではありません。