3 アームチェア・アルラウネ:ほとんど動かない探偵
国立鯨渦学園、P組。
通称、“架空公園”と呼ばれる区画である。常緑樹に区切られた中に庭園があり、巨大なポンプを内蔵したアーチが植物園の上空を縦断し、中央にはガラス張りの温室ピラミッドが屹立している。
生垣で出来た巨大迷路を抜け、階段状になったアーチを登ると、高山テラスに出る。そして、その空中庭園の一角に、古今東西の薬草が植えられたハーブ園がある。
1年P組、高根騒雨祢はそこにいた。
「わあ、渉真君だ。渉真君だ。昨日はゾンビ相手に大立ち回りを繰り広げた渉真君だ。傷もまだ癒えてないと思うのに、わざわざ来てくれて嬉しいよ。さあさあ、大したもてなしもできないけど、こっちへこっちへ」
階段を登ってきた渉真の姿を見ると、雨祢はぶんぶん腕を振り、ベンチを薦めてきた。渉真も包帯の巻かれた右手を挙げて挨拶した。
「昨日の今日だってのに、あいかわらず耳が早いんだな。高根騒」
雨祢と話すため、渉真はベンチを動かし、向きを微調整した。ベンチの正面には花壇があり、そこには――
土から一人の少女が生えていた。
膝から下が深緑の茎に包まれ、幅の広い大きな葉が下半身を覆っている。膝から上は、花壇につきそうなほど長い髪が緑色といった幾つかの点をのぞけば、渉真と同世代の女子といった姿で、しっかり指定の制服も着ていた。なぜか麦わら帽子もかぶっている。
半身が植物の女子、雨祢は楽しそうに笑いながら、渉真に語りかける。
「耳が早い? うん、そうだよ。ここに根を下ろしていても、ポプラ並木でゾンビと生徒が活劇を演じた話も、L組での不純異性交遊のゴシップも、私の耳にはしっかり入ってくるんだよ。安楽椅子探偵に必要なのは、現場に赴かずとも事件を解明する推理力ではなくて、骨を折って現場から情報を持ってきてくれる親切な友人をどれだけ持っているかってことだってのが私の持論なんだけど、君はどう思う?」
「よくわからないけど、どっちも必要なんじゃないか」
植物系の“通境者”は寡黙な者が多い、というのが世間一般のイメージだ。
しかし雨祢は、話好きの、噂好きの、多弁な多年草である。
「どっちも必要。うん、そうだね。その通りだよ。こんな僻地に根を張っている私も、少なくともその一つを持っている。だよね、渉真君?」
「推理力か」
「『推理力か』とか、即答しないでよ! 悲しくなるよ!」
「いや、高根騒って色々物知ってるし、謎解きが得意だし。褒めたつもりなんだけど」
「褒めてない、褒めてないって! 二者択一でそっち選ぶと、まるで私がぼっちみたいじゃんか!」
雨祢は頬を膨らませた。抗議するように足元の葉っぱもざわざわと鳴っている。
「でも僕以外に、ここ訪れてるの見たことないぞ。まだ、1ヶ月しか通ってないけどさ」
「ふ、ふふ……渉真君以外にも、私には色々な人脈と言うか、妖精脈があるんだよ。文字通り、シルフが風の噂を持ってきたりしてくれるんだから。こう見えて、妖精友達はいっぱいいるんだ」
……本当だよ、と雨祢は強調した。
「まあ、たしかに高根騒は事情通だしな」
「高根騒、なんて、他人行儀じゃんか。もっとフレンドリーに“雨祢”とか“あーちゃん”とか呼んでくれたっていいんだよ。友達なんだから。なんなら私も、もっと親しみを込めて“しょうちゃん”って呼ぼうか? 友達なんだし」
「い、いや。それはやめてくれ……友達なら」
「やめてくれ、というならやめるけど――他ならぬ友達の頼みだしね、ふふ」
などと相好を崩していた雨祢だったが、渉真の視線に気づくと、こほんと一つ咳払いをして、
「さておき。妖精というのは気まぐれな性質なのが多くて、妖精づてよりも人づての方が具体性があるんだよね。そして、直接その人本人から聞ければもっといい。――今日は首吊り事件のことを話しに来たんでしょ、渉真君。そして君は疑問に感じているところがあって、私には安楽椅子探偵の役を演じて欲しいってことだよね?」
雨祢は渉真と比べて頭二つ分くらいは背が低い。土に埋まっている根の部分も含めれば、意外と渉真よりも背が高いのかもしれないが。
とにかく、下から雨祢の意味ありげなエメラルドグリーンの瞳がじっと見つめてくるので、思わず青空を仰いだ。
そして、昨日の事件に思いを一瞬馳せる。
「そう、だな。確かに、ずっと頭にひっかかってる」
「ふふ。友の頼みとあれば、お悩みの“首吊りゾンビ事件”、解決してあげましょうか。この高根騒雨祢こと、“アームチェア・アルラウネ”がすぱっと竹を割ったようにね!」
「“アームチェア・アルラウネ”って、アルラウネが椅子座ってるだけじゃないのか」
◇ ◇ ◇
時間は少し遡って、昨日の晩のこと。
渉真と志牙はベッドの上で会話を交わしていた。
「疲れた……。今日は本当、大変だったな……。今も測定器いっぱいつけられて、動きづらい」
「そうだね。私も、採血されたり、機械でお腹の検査したりして……やっと、解放されたんだ」
会話内容は思春期の男女が交わすものにしては、爽やかさや潤いが足りない。
彼らが座っているのは、昼休みの事件後、担ぎこまれた学園内にある専門病院のベッドの上である。もちろん、同じベッドの上に並んで……などということはなく、それぞれのベッドに向かい合う形で座っていた。
「人未さん、本当に大丈夫……? その、ゾンビの……肉を、何だ、アレして……」
言いづらそうに、だが気づかうように志牙の具合を聞く。そう言う渉真もまた、水色の患者衣を着て、手から腕にかけて白い包帯、足首にも包帯をしている有様だった。さらにバイタルチェック用の小型測定器が指や腕、胸に巻き付けられている。
「だいじょうぶ、だよっ。わ、わたしたち食屍鬼は、人間の肉なら、どんな腐っていても、ゾンビでも、食中毒を起こさない体質なの。だから、へいきっ」
「そ、そうか。なら、いいんだ」
「でも、一応、様子を見るって。今週中は通院だって、先生が」
「『とりあえず、君たち一晩、隔離病棟ね』だからね。まあ、仕方ないか」
ゾンビと接触した者は、ゾンビ化現象や他諸々の感染症の疑いがあるため、保護された後、専門機関に一時隔離される。二人が夜中の病室で語り合っているのも、念のための検査と怪我の治療(これは渉真だけだったが)を何時間にもわたり受けたあと、ようやく人心地ついたからというわけである。
「阪井、くん」
「うん?」
「阪井くんこそ、手、だいじょうぶ……? 痛く、ない?」
「ああ……」
腕の傷はゾンビに飛び蹴りをかましたときに、こけて擦りむいたもので大したことはない。じっと志牙が見つめているのは、渉真の手の甲。彼女が噛みつき、血を啜った箇所に巻かれた包帯である。
「痛みはないよ。大丈夫。ただ、噛み跡を見て先生たちがかなり騒いだみたいだけど。なにせ、起きたらストレッチャーの上に固定されてて、口に拘束具はめられちゃってさ。必死に『ゾンビに噛まれたんじゃない』って説明しようとしても、うーうー唸ることしかできなくて、駆除係のおっさんにゴツい銃を向けられちゃったよ」
あはははと笑って誤魔化す。しかし志牙は顔を曇らせて、渉真の手を見る。どうやら逆効果だったようだ。
「あー、本当気にしてないんだ。むしろ、感謝してる。『逃げろ』なんて格好つけたけど、人未さんが何とかしてくれなかったら、あのままゾンビに生きたまま食われてたかと思うと……ゾッとする。命の恩人だよ、人未さんは」
「…………でも、でも……怖くなかったの?」
「もちろん怖かったよ。追っかけられてたときも、漏らしそ……いや、まあ、すごく怖かった。だから、人未さんのおかげで――」
「違うの、阪井くん。……わたしが、怖くなかったの?」
志牙は渉真を見つめる。
吸い込まれそうな、金色の瞳。その瞳孔は、人間のものは微妙に異なる楕円形で、ネコ科のそれを連想させた。
「怖くないよ」
渉真は本心から答えた。
犬歯を自分の血で染め、恐れるものなど何もないように立つ志牙の姿が、脳裏にフラッシュバックする。
「むしろ――」
超越的で、背徳的で――とても、魅惑的に、見えた。
「……格好よかったよ」
「か、かっこよかった?」
本人を目の前にしては、さすがに口に出すのも恥ずかしく、適当な言葉で誤魔化した。緊張して固くなっていた志牙は目をぱちくりとさせた。
「それでさ、やっぱり、あの行為って……僕の血が、何か人未さんの役に立ったって考えていいのかな?」
「え、あ……うん。わたしたちは、食屍鬼は……人を、食べる。でも、わたしの家族は、なんて言うかそういう本能もあんまりないの……ほ、本当だよ。それに、特殊な力もないし、腕力も何もかも、今はほとんど人間と同じ。けどね、本能というか、先祖帰りみたいな感じでね、人の血肉を摂取すると……一時的に、人並み以上の力が、出せるの」
「なるほど……。それって、人の血じゃないと、ダメなの?」
「多分……。わたしたちも、本当はよくわからないんだけど……魔術とか、呪術とか、そういうのじゃなくて、血の味で本能が刺激されて、脳のリミッターが外れるみたいなことなのかもしれないって。昔のわたしたちは、顎の力だけで……肉を、その――してたから」
ライオンやハイエナの噛む力は、人間の何倍にもなるということを渉真は思い出した。
獲物の肉を、己の牙だけで解体する肉食動物の力。
食屍鬼がナイフやフォークで食事していたという伝説は、あまり聞いたことがない。
「そっか、わかった。普段は表に出さない力まで使って、僕を助けてくれたってことが、よくわかったよ。やっぱり、人未さんは命の恩人だ」
「……わたしは、ただ、何とかしなきゃって、思っただけで……」
「そして、何とかしてくれた。――ありがとう、いつか必ず恩は返すよ」
「お、恩なんて」
志牙はぶんぶん手を振った。指に付けてた測定器が外れそうになり、慌てて押さえる。渉真は軽く笑って、
「外れたら大変だ。『患者がゾンビ化したぞ!』って先生や駆除係が来るかも」
「そ、そうだね。それに、阪井くんと、ふ、二人きりなところ見られたら、注意されちゃうかも……」
「消灯時間までには、まだ時間もあるし、大丈夫じゃないかな。あ、でも、やっぱり、男と二人きりは、人未さんも嫌?」
「いいい嫌じゃないよっ」
今度は手ではなく、首を思いっきり横に振る志牙。
「昼は、あんなことになっちゃったけど、ピクニックみたいで楽しかったし、この病院だって、何かキャンプみたいだもん。楽しい、よ」
「入院がキャンプか……人未さんって意外とポジティブだね。まあ、明日も学校休んでいいってことになってはいるけど、そしたら本当にピクニックでも――あ、そうだ」
「ど、どうしたの?」
「いや、明日の検査が終わったら……放課後にでも、学校行ってみようかなって」
「え。どうして?」
「うん、実はちょっと事件のことが気にかかってて。人未さんも不思議に思わなかった? なんで、あんなところに首吊り死体があったんだろうって」
「たしかに、少し、不思議かなって……思う」
「友達にさ、こういう謎解きが得意で、趣味の一環で、いつも謎を探してるやつがいるんだよ」
「友達」
「明日は無理でも、いつか人未さんにも紹介するよ。あいつ、人の話を聞くのも趣味なんだ」
「わ、わたしなんか紹介されても、迷惑かも……」
「『なんか』、じゃないよ。さっきも言っただろ、人未さんはぼくの命の恩人なんだ」
「だっ、だから、命の恩人はやめて……阪井くん」
「まあ、ちょっと重い、かな」
渉真は首肯した。
「どちらかというと、人未さんとは友達になりたいかな」
「とっととととと友達っ?!」
「……そこまで、びっくりしなくても」
いきなり友達になりたい宣言とか寒かったかな、と反省する。しかし、臆せず言葉を続けた。
「本当だよ。人未さんと友達になりたい。だから、恩を返させてほしい」
「? それって、どういう……?」
「恩を返せば、ほら、ひとまず貸し借りはなし。命の恩人という重い関係はなくなって、人未さんとも友達になれる。一挙両得だ」
「そ、そうだねっ。わたしも、それで、いいよ」
我ながら無茶な理屈だな、と渉真は思った。命の恩人という事実が消えることはないし、そんな大きい恩をどうやって返していいものかもわからない。
だが、何としても志牙にお返しがしたい。そして、志牙と普通の友達になりたい。
渉真の偽らざる本心だった。
「じゃあ、ひとつ、いいかな……?」
志牙がおずおずと口を開いた。
「もちろん。でも、一つだけでいいの? お願い事は三つって昔から相場が決まってるし、人未さんになら特別におまけにもうひと――」
「『人未』」
「え」
「『人未さん』、じゃなくて……あの、昼みたいに、『人未』……って呼んでほしい、かも」
「ひ、人未?」
予想外のお願いに面喰って、思わず、無意識に志牙を呼び捨てにしていた。
志牙は嬉しそうに微笑んだ。
「これで、友達、だね?」
◇ ◇ ◇
「ふーむ、むむーん」
足元から生えた巨大な葉を背もたれに、ゆらゆらと揺れながら、事件当日の話を聞いていた雨祢だったが、眉をぴくりとあげると、
「……私としては、病院の夜についてもっと詳しく知りたくなってきたよ。可愛い女食屍鬼のクラスメートと、どんなパジャマパーティーを繰り広げたのかなー」
「何言ってるんだ……ちょっと消灯時間前に人未と話してただけだって」
「ひーとーみー。苗字なのに名前みたいで、なーんか、隅に置けないね。あーあー、渉真君が女子の名前を呼び捨てだー、アツアツだー」
「小学生男子かよ」
「小学生かー。男女七歳にして席を同じゅうせずっていうのにー、同部屋で一晩とか卑猥だなー」
「なっ」
何でそれを。
「何でわかったかって? そりゃ二人ともゾンビ監視用の測定器でぐるぐる巻きだったんでしょ? そんな動き回れないだろうから同じ部屋って思ったんだけど。当たってた?」
「それは、あの、緊急搬送されて同部屋になっただけで……ちゃんと消灯時間にはパーティションで部屋区切ったし!」
「じー」
雨祢が不審そうな目で見つめてくる。
「そっ、その話は置いておいて! 話を戻すけど、実は、事件の最中は逃げるのに精一杯で、病院では検査漬けで、首吊ってたのが誰なのかすらもよく知らないんだ」
情景も含め、なるべく詳しく話したつもりだが、そもそもあの事件で渉真はゾンビに追われ、気絶しただけである。調査などしている暇はなかった。
しかし、雨祢はぴっと人差し指を立てると、
「首を吊ったのは茶谷直也。32歳。会社員。家族なし、飼い犬一匹。住まいは隣の市、ここから電車で20分ってところかな」
すらすらと個人情報を並べて見せた。
「……すごいな。そんなことまで『風の噂』でわかるのか」
「『風の噂』、かあ……どうやら私のことを侮っているみたいだね。アルラウネ、という言葉はね、『秘密に通じている』って意味でもあるんだよ。ふふ、君はさっき『“アームチェア・アルラウネ”って椅子座ってるだけじゃないか』とか言ってたけれど、まさしく椅子に座ってるだけで秘密に通じる……どんな事件の謎だろうと埋蔵金の隠し場所だろうと答えられるのが、この私なんだよ」
『どうだ』と胸を張る雨祢。小柄に見えるが、意外と出る所は出ている。
「それは、なんていうかすごいな……。でもおとぎ話だと、そういう奇跡には代償があるってのがお決まりだけど」
「代償。ふふ、そうだよ。渉真君、私のミネラルなパワーの代償を支払えますかな?」
「ミラクルな。いや、そこは、具体的に言ってもらわないと何とも。踏み倒すかどうかも決められないじゃん」
「踏み倒さないでよ。私、回収しにいけないんだから。そうだなあ、バスタブ一杯の赤ワインとかどう?」
「そんな成金道楽できるほど、僕の財布事情は良くない。それに僕達、学生だし、アルコールは色々まずいんじゃないか」
「まずいかあ。じゃあ、精液」
「……それも学生的にはどうだろう」
「そうだね。私もどっちかというと尿のほうが飲みたい」
「マニアックすぎる!」
「マニアックじゃないよう。アルラウネは首吊りにされた死刑囚が排泄したものから生まれるって伝説もあるんだから。だからさ、渉真君。私が君の首を絞めて、君は私に向かって放尿するってのはどうかな?」
「乱歩もびっくりな猟奇犯罪な画じゃねーか!」
青空の下、空中庭園に、渉真の叫び声が響いた。
「むー。まあ、本音はさておき」
「冗談って言ってくれ……」
「冗談はさておき、私は確かにそういう不思議能力は持っているけど、そう軽々に使えるものでもないから。あくまで奥の手、ってことで」
「え。でもその能力、今、あの男の身元を割るのに使っちゃったんじゃ……。ネットでも調べられそうなことなのに」
ふと、渉真は三つの願いの話を思い出した。金銀財宝望むままの魔法の力を、腹を満たすためのソーセージに使ってしまった男の話だ。
「すごいね、渉真君、大正解。実はあらかじめネットで検索してたんだよ」
雨祢は葉っぱの陰から、新埃舎のロゴが入ったノートパソコンを取り出した。
「何だったんだよ今の話!」
「私のことを君にもっと知ってほしくて。私は飲尿プレイもいける口だって」
「これっぽっちも知りたくなかった!」
「もちろん肥料的な意味じゃないよ。肥料も歓迎だけど、直接ぶっかけるんじゃなくて、堆肥化するなりそれなりに手順を踏んでほしいな」
「もういいって!」
突っ込み疲れてぜーぜーと息を整えてると、ふと頭に疑問がよぎった。
「……あれ? でも、処刑場に生える草の伝説って確か、アルラウネじゃなくてもっと別の話だったような」
「別の話……。もしかして、マンドラゴラのこと?」
雨祢が葉っぱの上に乗せたパソコンを立ち上げながら言った。
「ああ、それだ。黒魔術に使うとかいう薬草で、根が人型で抜くと恐ろしい悲鳴をあげるって言うやつ」
「引き抜かれたら、私も悲鳴をあげると思うけどね。今では枝分かれして語られることも多いけど、実際、今の私たちと彼らは大分違うんだけど……マンドラゴラと私たちは、まあ同じ存在といっても良いんだよ。だから首吊り死体から垂れた精液や尿から生まれるって言い伝えは、どっちも共通してるの」
「ふーん、ヴィーナスとウェヌスみたいに同じものが違った呼ばれ方してるわけか」
「ウェヌスは読み方が違うだけだから、アフロディテとヴィーナスが同一視されてる感じかも。それにしても君に美の化身に例えてもらうと、何か面映ゆいね、ふふ。さて、首吊りも出たし、そろそろ君の事件に話を戻そっか」
「遠回りしたな」
「急がば回れ、だよ。無駄話だって無駄じゃないかもよ。で、ニュースサイトやゾンビ監視ネットで報じられた名前、『茶谷直也』で検索して出てきたブログがこれ。この人で間違いない?」
雨祢はケーブルが抜けないように注意しながら、画面を渉真の方に向けた。
そこには個人ブログが表示されていて、紹介欄には飼い犬であろうセントバーナードと一緒に写っている男の写真が載っていた。
朗らかに笑った写真の顔と、皮膚が腐りずり落ちていたゾンビのものとは、上手く結びつかなかった。
「……よくわからない。わからないけど、多分、この人だと思う」
「多分……ね。まあ、無理もないか。あまり更新はしてないみたいだけど、ブログの話題は、だいたい飼い犬についてのことが多いかな。それで一番最近の記事が、飼い犬が病気になって悲しい、っていうもの。1ヶ月くらい前だね」
「犬が病気……って、どうなったんだろうな」
「どうなったかは、書いていない。でも、もしかしたら最近ペットロスした可能性も、ないとはいえないかな」
「自殺の原因になるとすれば、それ……なんだろうか」
「自殺の原因なんて、他人にはなかなかわからないと思うよ。ましてやブログにそんな重要な悩みを書くかどうかも怪しいし」
「うーん。はけ口というか、誰かに気づいてほしい叫びみたいなものを思わず書いちゃうってこともあるんじゃないか」
何気ない渉真の言葉に、雨祢は意味深な顔で、
「叫び。叫び……。叫び、かあ」
「やっぱおかしいか?」
「ううん、おかしくはないよ。ただの独り言だから気にしないで。でも、まあ自殺する理由があったにしろ、わざわざ遠く離れたうちの学園で、しかも奥まった場所にあるポプラ並木で首を吊る必然性はあったのかなって」
事件当日の渉真たちと同じく、やはり雨祢も当然の話題を口にした。
「そうだよな。あと、あんま思い出したくないけど……かなり高いところで宙ぶらりんだったんだよ。首吊るための台みたいのもなかったし。わざわざ木に登って、ロープ結んで、飛び降りたとかなら考えられるけど、やっぱ不自然だ」
「うん、不自然だね。ポプラなんて、枝ぶりも柔さも、首吊るには気の利いた木じゃないもん。それに、ヘッドホンの件もあるよね。何で、音楽を聞いたまま自殺? まあ、他にもいろいろと突っ込み所はあるけど……ここが現場で間違いない?」
雨祢は画面も見ずに、器用にブラウザのタブを切り替えた。鯨渦学園のサイトで、校内の風景を紹介したページのようだった。雨祢は画像をクリックして、渉真の記憶に新しいポプラ並木の風景写真を拡大した。
「ああ。それは間違いない」
「それなら、どの木?」
「ん……写真じゃ、よくわからないな」
「わからない? よーく見て。この写真に写っている可能性は高いと思うんだ。だって、学校案内にポプラ並木の写真はこれ一枚きりだし」
雨祢の言葉に、渉真は違和感を覚えた。
「え? 高根騒、それってどういう――」
写真は並木道の全景を写したものではない。しかし雨祢の口ぶりは、まるで、首吊りの木がそこに写っているのが当然で、前提条件であるみたいな言い方だ。
しかし雨祢は答えず、上からディスプレイをのぞきこみ、木を次々と指さしながら、
「それ? どれ? これ? 私はこの木じゃないかと思うんだけど」
雨祢の指が示した木は、たしかに枝ぶりが似ている気がした。
「あ、あーっと。確かに、あえて言うならこれ、かな。でも……」
「でも?」
「撮られた時期が違うせいかな。何か花壇の様子が違う」
「違う? もしかして、窪地になっていたとか」
雨祢の言葉に、記憶が刺激された。
写真に写っている花壇には、小さな赤い実をつけた観葉植物があり、細長い葉を何枚も放射状に伸ばし、その土地を占有している。しかし、ここからこの植物を取り除けば、記憶の中の現場と、寸分たがわないように見えてきた。
「ああ、そう。そうだ。縄が切れたとき、ゾン……故・茶谷氏は窪地に足を取られて、こけてたんだよ。高根騒、なんでそれがわかったんだ?」
「なんでそれが、と言えば、まあ想像力を働かした結果かなあ。――でも、これだとあべこべだね。ふん、すごい皮肉かも」
「あべこべ? 皮肉?」
「皮肉、ってよく考えると猟奇的な字面だね。うん、猟奇的な事件だ、これは」
どこか遠くを見ながら、ぶつぶつと雨祢がつぶやく。いつになく、神妙そうな表情だった。
「おい……高根騒、様子が変だぞ。大丈夫か?」
思わず声をかけた。
「殺しだよ」
「え」
「――この事件は殺しに間違いないと思う、渉真君」