2 ぐるがる:ゾンビイーター
教室でのひと悶着を経て、渉真と志牙は一緒に購買に向かっていた。志牙は弁当箱を両手に提げながら、渉真の背中に隠れるようについていく。
昼休みだけあって、色々な生徒が廊下を行き交っていた。
羽を生やした女子、顔も手も鱗で覆われたリザードマン系男子、犬頭人間と色々だ。
まるでカーニバルのようだが、全員が学生服を着用しているため、奇妙に統一感がとれている。種族ごとの体に合わせて、学生服は多少改造されてはいたが。
「…………」
志牙は足元だけを見つめ、黙って歩いている。
流れで一緒に教室を抜け出したものの、
(……うーん、気まずい。どうしよう、何か話題振るか?)
渉真はちらりと背後に目をやった。
ちょうど顔をあげたところに目が合い、
「ひぅっ……!」
志牙は慌てて下をむいた。
気まずい。
そのまま、しばし沈黙が続き、
「……阪井、くん」
後ろから、おずおずとした志牙の声。
救いの手、とばかりに渉真は志牙の方を向く。
「あっと、何かな、人未さん」
「う、うん……あの、気になってたことがあってね。た、大したことじゃないんだけど……大したことないから、その、答えてくれなくても、いいんだけど……」
「いや、もちろん、僕が答えられることなら答えるよ。だから、気にせず続けて」
教室ではいかにも打ち解けたような口調で話しかけたが、渉真と志牙の交わしてきた数少ない会話は、本来こんな互いに距離を測るような感じのものだった。
うん……と志牙は頷き、それでもしばし逡巡して、ようやく意を決したように息を吸ってから、言葉をつむぐ。
「――52枚のトランプって、余りが出ないように使わなきゃ、ダメなのかな?」
「今までずっと考えてたの!?」
渉真は思わず突っ込んだ。
ひうっ、と小さく声をあげて志牙は縮こまった。
「あ、いや、大声出してごめん。あれは、いじわるクイズっていうか、とっさに口に出ただけの適当なやつでさ。そんな真面目に考えなくても良いっていうか……」
「ご、ごめんなさい……。あれは、そうだよね。阪井くん、わたしのこと、かばってくれたんだよね」
「いやいや、昼食べに行く相手いなくてさ。人未さんのこと、巻き込んだだけだって。こっちの方こそ、ごめんなさい、だよ」
渉真が手を振ると、慌てたように志牙は胸ポケットに手を入れて、生徒手帳を取り出した。
「う、うん。それで、あの……これ」
「ん?」
疑問符を浮かべる渉真の前で、志牙は手帳を開くと、カバーと手帳の隙間から折り畳まれた五千円札を抜き出して、
「焼きそばパンって、これくらいで、足りる?」
「ひっ、人未さん、それ、しまって! ものすごい勢いで誤解を受ける絵面だって!」
おずおずと男子生徒に紙幣を差し出す女子生徒の姿に、廊下を行き交う生徒たちの視線が刺さる。
「あわっ、ご、ごめんなさいっ」
「謝らなくてもいいよ、人未さん。こんなことくらいで、腹を立てたりしないって」
「ごめんなさ……あっ」
ぎゅっと唇を結び、志牙はうつむいた。小さな声で、ごめんなさい、とまた呟き、
「……謝るの、癖に、なってるの。こんな口だけの謝罪なんて、人をいらつかせるだけって、わかってるのに」
自嘲的な口調だった。タイミングを計ったかのように、廊下を行き交う生徒の往来が途絶え、急に辺りが静まり返る。
「そこまでネガティブにならなくても、いいと思うよ」
うつむく志牙に渉真は続けた。
「人未さんは人未さんなんだしさ。ただ、さっきの連中みたいなのは、面白がって増長するから、謝るよりも真正面から抗議してみたらいい。ああいう手合いは少しでも自分の思うように事が進まなくて、面白くないと思ったら、意外とあっさり引いたりするもんだよ」
「そっ、そんなの、無理だよ……」
「まあ、面と向かって言うのは勇気がいる、かもだけど」
志牙のような極端に引っ込み思案な性格ではなくても、自分が標的にされたとき毅然とした対応をとるのはなかなか難しい。
「でもあいつら、自分たちはギャグでやってるつもりだろうけど、結果、自分で自分のこと貶めてるだけなんだから。気にしない……のは無理だろうけど、適当にあしらってればいいんだよ。周りの皆だって、口には出さないけどそう思ってるはずだって」
「でも、わたし、皆と違うから。彼女たちが、わたしのこと、警戒するのも、わかるんだ。わたしも、臆病だから……。――人が、怖いから」
「……それを言ったらうちの学校の場合、皆どっかしら決定的に違っていて、皆怖いって話だよ。気にすることはないし、そのうち慣れるって。それにあいつらの場合は人未さんとは違う。ただ面白がってるだけだ。人間を食ってるとか、適当なことでっちあげてさ」
元気づけるように、渉真は一息でまくしたて――
「え、わたし、人を食べたことは、ある……よ?」
一瞬の間。
「――えっと、そうか。それは、あれだ。人未さんは食屍鬼で人間が牛や豚を食べるくらい自然なんだからそれを材料に馬鹿にするってのはやっぱりないんだよ、倫理的に問題ないし、うん、間違いないよ」
渉真は早口で切り上げた。はっと志牙も怯えた顔をあげて、
「あ、あのっ、もちろん、生きてる人を襲ったりとか、そういうのじゃなくてっ! そのっ、ちゃんと、法的にもだいじょうぶなやつだからっ」
「う、うん。わかってる。法的に問題ないよね。僕の方こそ、何かごめん、人未さん」
「さ、阪井くんが、謝らなくても、いいんだよ? わたし、気にしてないからっ」
「あ……ああ」
先ほど志牙にかけた言葉が返ってきた。何か言おうかと思ったが、言葉は出なかった。志牙もぱくぱくと口を動かして、『あっ』と気づいたように、牙が見えないように口元を押さえた。
「…………」
「…………」
二人はまた黙って歩き始めた。
だが、気まずい沈黙はそれほど続かなかった。歩き出して間もなく、購買に着いたからである。さっきまでとは打って変わり、今度は志牙が気遣うような調子で、
「……あ、焼きそばパン、だよ、阪井くん。150円、だって。ほら。ね?」
「……人未さん、五千円札はもう出さなくていいから」
◇ ◇ ◇
第3体育館の角を曲がると、木漏れ日の指す遊歩道が現れた。
「わあ」
志牙は思わず声をあげた。
「学校に、こんな場所あったんだ。静かで、森のなかみたい……」
「無駄に広くて入り組んでるからね、うちの学校。普段のコースから外れて、ちょっと角曲がるだけで、がらっと印象変わるんだ」
牧歌的な雰囲気に、さっきまでの緊張も解け、渉真も宝物を自慢するような口調だった。
「この先はめったに人の来ない道だけど、ちょっとした散策には最適なコースなんだ」
「阪井くんって、行動的、なんだね。わたし、教室と校門の往復くらいしか、してないよ」
「校風っていうか、生徒たちの生存環境にあわせて作られた場所もあるから、人間が気軽にうろつくと危ない場所もあるのは確かなんだよ。水棲系のA組は巨大な地底湖とつながってるとか、C組には万年雪が積もってるらしいとか」
鯨渦学園の敷地は広大だ。牧場もあるし、近代的な設備を備えた研究棟もある。
様々な“通境者”に対応した環境設備も整っており、たとえば巨人族を集めたG組などは、校舎一棟まるごとが一クラス分として割り当てられている。
「そうなんだ。でも、わたし、そういう場所があることを、知ろうともしてなかった気がする」
志牙は木漏れ日に手をかざして言った。
春の陽気に足取りも軽くなる。遊歩道を歩いていくと、先にポプラ並木が見えてきた。風が吹き抜け、新緑の匂いと共に、隣接する木々が各々の枝葉をこすれさせながら奏でる、さらさらという波のような音を一緒に運んでくる。
木の下には花壇のスペースがあり、遊歩道に沿って木製の小さな柵が立てられていた。道のわきには備え付けのベンチもある。
「ここら辺で食べようか。あまり校舎から離れると戻るのが大変だし」
「うん。でも、本当に、ピクニックに来たみたい」
「ああ。風も気持ちいいし、緑の匂いも――」
渉真は志牙の方を向き、そして、怪訝そうな顔をした。
ポプラ並木を吹き抜ける風に、ふわふわしたショートヘアを揺らしながら、志牙が立ち止まっている。
前髪からのぞく金色の瞳。それは、鋭く前方を見据えている。
くんくん、と小さく鼻をならしながら、志牙は表情を硬くした。
「……人未さん?」
ただなら志牙の様子に、渉真の声も低くなる。
志牙は小さく呟いた。
「匂いがする」
「え」
「死体の、匂い。……この先から」
志牙の声から、いつものおどおどとした調子が消えていた。
「死体の臭い、って……一体? あっ」
突然の物騒な単語に戸惑っていると、志牙が駆け出していた。慌てて後を追う渉真。
ポプラ並木のあいだを、風切りながら走り抜け、
「――うっ!」
渉真は立ち止まった。
もう、言われなくてもわかる。
辺りには、腐った酸っぱい臭いが漂っていた。
「ふぅ、ううっ……」
手の甲で鼻のあたりをおさえながら、渉真は臭いの元を探る。
すぐに『それ』は見つかった。
志牙も仁王立ちで、じっと『それ』を凝視している。
二人の視線は中空に固定されていた。
ぎしっ、ぎしっ――
軋む音を立て、ポプラの枝から縄でぶらさがった『それ』は、二人の目の前でぶらぶらと揺れていた。
「首吊り、死体? ……っく」
「阪井くん、だいじょうぶ……?」
腐敗の始まった『それ』をまともに見てしまい、吐き気に襲われた渉真を、志牙は心配そうに下からのぞきこんだ。
凄惨な臭いと光景に後ずさった渉真の足に、かつん、と何かが当たった。視線を落とすと、筒状の懐中電灯が遊歩道の上に転がっていた。
「……ああ。ちょっと、っ、臭いが目と鼻に、しみて……」
渉真は口元をおさえ、涙の玉をぬぐいながら、目の前――いや、正確には目の少し上の高さでぶらぶらと揺れる男の『それ』を、直視しないように観察する。
「それに、この、し、死体……」
渉真はねばつく喉から声を出す。
「うん。ゾンビ化、してる」
志牙は、小さく、しかしはっきりとした声で、言った。
二人の見上げる先で、『それ』は、空を掻くように手足をばたばたさせている。まるで、縊死者の断末魔が今もなお続いているかのような、グロテスクな光景だった。
かちかちかち、と歯が鳴る音がする。
濁った『それ』の黒目がぐるぐると動き、やがて自分を見上げる二人の姿を捉えると、ぴたりと止まった。
『ぃ、ぎぃぃぃぃぃ――』
『それ』は、まさしく絞め殺されたような、声帯を空気でただ震わせただけのような、声をあげた。
◇ ◇ ◇
“多元世界統合”は、世界のあらゆる事象、法則、慣習、常識に影響をもたらしたが、それは人という存在のしかた、それ自体にも及んだ。
ゾンビ化現象。
人は死ぬと、起き上る。
そして人を襲い、人を食う。
食われた人もまた、起き上る。
ゾンビ化現象が初めて確認されたとき、人類は恐怖におののいた。
ゾンビという感染拡大する脅威に対しては無論のこと。
それに何より。
――人が人以外の『何か』に変質する。
その事実に、人類は恐怖した。
それでは、まるで。
ゾンビ化しなくても、人はもう人でなくなってしまったのではないか。
だが、このような世界規模の自己喪失もまた、時間の流れという大きな修復力によって、日常の感覚へと変化していった。もしかしたら、それすらも“多元世界統合”が人の心に力を及ぼした結果なのかもしれないが、いずれにせよ、人はゾンビという存在を現実的に処理し始めたのである。
自然死した場合、ゾンビになる確率はそれほど高くはなく、せいぜい30%ほどだということも、統計調査の結果わかった。血液感染や空気感染によるケースはない、という調査結果も人類にとっては朗報だった。
しかし、ゾンビに噛まれて死亡すると、人は必ずゾンビになる。助かるケースもあるが、噛まれると人は高熱にうなされ生死の境をさまようことになる。
ゾンビ化のメカニズムはまだまだ不明な点が多いが、事実としてはそうなのだから仕方がない。嫌でも受け入れなければならない事実、というやつだ。
ゾンビ化現象はだいたい死後5~6時間で起こることもわかり、そのため、重病人や高齢者を見守る重要性も、今まで以上に高まった。
家庭用のバイタルサイン測定器や、監視器具(ゾンビの体温に合わせた人感センサーなど)が普及し、孤独死や自殺を避けるため、地域での見回りや声かけも奨励されるようになった。『ゾンビでつなぐ地域の輪』などといった皮肉な言い回しも生まれることになる。
とにかく、『ゾンビを目撃したら、すぐに最寄りの警察や担当機関への連絡を』。
それは今や世界各国、老若男女の常識だった。
『しぃぃぃっぎぃぃぃぃっ――』
人肉に、飢えているのだろうか。
首吊り状態のゾンビが、渉真たちを焦点のあわない瞳で見つめながら、しきりに呻き声をあげている。
ゾンビの足もとから地面まで、約1.5メートル。
首を吊るにしても、少し高すぎないか、と渉真はぼんやりと考えた。
(踏み台みたいなものも、ないのに)
首吊りゾンビはジャージ姿で、ランニング中といった格好だった。そして、なぜかヘッドホンをつけている。ヘッドホンから伸びたコードは首の部分で縄に締め付けられ、そしてジャージの襟元から中へと潜り込み、パンツのポケットの中にあるであろう携帯音楽プレーヤーへとつながっていた。
「うちの生徒じゃ、ないな」
渉真は、ゾンビを見上げながらつぶやいた。
すでにゾンビ化特有の急激な皮膚の腐敗現象が始まっていて、顔はよく判別できない。判別したくもない。ただ、その顔は青少年のものではなく、成人男性のそれだということくらいはわかる。
「でも、どうして、こんな所で……」
志牙は当然の疑問を口にした。
もちろん、渉真にわかるはずもない。ただ、足元に転がっている懐中電灯。これは、ポプラの枝から首を吊るし、歯を鳴らしながらもがくゾンビのものではないだろうか、と直感的に思った。
「わからない……。人未さん、携帯持ってたりはしない?」
「さ、さすがに、あんな高級品、持ってないよ」
怪電波、怪粒子の飛び交う“多元世界統合”後の世界において、大異変以前の携帯電話はただの音や映像の出る玩具となった。現在の携帯電話はアンテナから回路にいたるまで、先端技術や異端技術、果ては魔術的処理がほどこされた高級工芸品である。
『――ぎぃぃぃぃぃっ!!』
渉真たちの会話を邪魔するように、ゾンビが奇怪な鳴き声をあげて、宙で暴れた。ギシギシと枝が音を立て、深緑の葉が花壇にまきちらされる。
渉真と志牙は、弾かれたように首吊りゾンビの方を見た。そして、ゆっくり顔を見合わせる。
「とっ、とにかく、警察呼ばないと」
「でも、阪井くん、公衆電話は……?」
「この近くだと、並木道の先に確か――」
――ぼきんっ どさっ
音がした。
何かが折れるような音と、何かが大地に叩きつけられる音。
渉真と志牙は、恐る恐る音の出どころに顔を向け、
『あ』
同時に声をあげた。
そこには、恐れていた通りのものがあった。
『ぅぅぅ――ぅるる』
折れた枝。
枝にぐるぐる巻きにされたロープ。
もう一方の端には、首に縄を巻きつけたゾンビ。
二人との距離、またいで通れるような低い柵を挟んで、だいたい3メートル。
「………………人未さん」
「………………はい」
固い声の渉真に、志牙も硬直したまま答える。
柵の向こう側では、ゾンビが落下の衝撃のせいか四つん這いになって、しゅーしゅーと肺が破れたような声をあげていた。
「今来た道の方に逃げて。僕は反対方向に」
「え、でも」
「皆に伝えるんだ。電話もして。僕もこの先の公衆電話に向かう」
ゾンビがのろのろと立ち上がる。
と、足を取られたように、バランスを崩した。落下地点は窪地になっていて、それに足を取られたようだ。だが地面を強く、死人の足とは思えないほど強く踏みしめ、転倒するのをこらえ、ゾンビはギギギと首をもたげた。
濁った瞳が、獲物たちを捉える。
「こっちだ!」
弾かれたように、渉真は手に持っていた焼きそばパンを投げつけた。
もちろん当たったところで、ぐらつかせることもできない。だが、パンがゾンビの顔面に軽い音をたててぶつかると、
『――しゃっ!』
蛇を思わせる鳴き声と鎌首を振るような動作で、ゾンビは勢いよく渉真を睨み付けた。
「――走れ!」
一声叫ぶと、渉真は駆け出した。
動きに反応したかのように、ゾンビも地面を蹴って、縄を巻いたまま花壇の柵を飛び越した。
ガキッと縄の先の枝が引っかかり、一瞬後ろにつんのめるが、強引に走り出す。枝が柵の上で跳ね上がり、遊歩道の上に落ちた。
から から から から から から から から から――
走るゾンビに引きずられる枝が、遊歩道の上で激しく音を立てて、跳ねる。
全力疾走しているせいで、渉真の耳元で風がうるさいぐらい鳴っている。しかし、うなる風の中でもはっきりと背後から聞こえてくる、枝の音。
遠ざかることなく、しっかりと、全力疾走する渉真の背後から聞こえてくる。
(速すぎる――走るゾンビなんて、インチキだろ!)
心臓がバクバクと音を立てる。顔に血が上って、耳が熱い。
しかし、背筋は冷や水をぶっかけられたように、寒い。
ヘッドホンを装着し、首に縄を巻き、木の枝をひきずりながら疾走するゾンビ。
想像すれば、間抜けな図ではある。
しかし、それを振り返って確かめるタイミングも、笑う余裕も、全力で逃げる渉真にはない。
からからからからからからからからからからからからからからから
うるさい。
うるさい。
念じても、忌まわしい音は消えない。
むしろ、段々と、距離が近づいている。
恐怖と、酸欠で、口から荒い息が漏れる。
はっ、はっ、はっ、という荒い呼気が、隣で走っている志牙のものとも重なって――
「って、人未さんっ!?」
「阪井っ、くんっ!」
隣を、息を切らせ、真っ赤な顔で並走する志牙。
走る志牙の手にはまだ弁当箱の包みがあった。腕の振りに合わせて、志牙は勢いよく弁当箱を後ろに放った。
『ぎっ』
奇跡的にゾンビの顔面に命中したものの、一瞬進行を止めただけに終わった。
疲れを知らないゾンビの足が、邪魔だとばかりに地面に落ちた弁当箱を踏みにじって、逃げる二人に迫る。
(人のいる方へ逃げろ、って言ったのに――)
並木道はすでに抜け、公衆電話も通りすぎてしまって、がらんとした中世風の広場に出ていた。渉真は顔を前に向け、
「おーーーいっ! 誰かああああっ!」
大声で叫んだ。
冷たい風が喉の奥を痛めつけ、酸欠で目の前が明滅する。
だが血の出るような叫びも、虚しく辺りに響いただけだった。
周りは無機質な、窓のない建造物が並び、人の気配はない。
(V組――“封印校舎”――昼間は。誰も。外には――)
と、渉真の隣で、志牙が敷石につまづいて、足をもつれさせた。
ゾンビの足音と枝の跳ねる音は、もうすぐ背後まで迫ってきていて、
「くそっ!」
渉真は強引に制動をかけ、地面を蹴って、体をひねらせ空中で回転した。
風景が回り、目の前には、目前と迫った、歯を剥き出しにしたゾンビ。
回転した勢いそのまま、渉真は思いっきり左足を突き出した。
「――っ!!」
ズンと、衝撃が足から、体を貫いた。
回し蹴りとも言えない、ただの正面衝突。
渉真は吹っ飛び、敷石の上に思いっきり体を擦った。
ゾンビもごろごろと激しく地面の上を転がる。
「さっ、阪井くんっ!」
「にげ、ろ、ひと、みっ」
痺れた脚、鉛のように重い体。立ち上がろうにも、全身が言うことを聞かない。駆け寄る志牙にかすれ声で叫んだ。
しかし、倒れる渉真の体に寄り添うように、志牙は屈みこむ。
「阪井くん、阪井くん……血が」
「へいき、だ……ひとみ、はやく……」
霞む視界の片隅で、倒れていたゾンビが、ぴくりと動いた。
渉真は震える手で、早く逃げろと、志牙の肩を押す。
その腕を、志牙がぎゅっと握った。
「ひと、み、なに、を……」
「ごめん、なさい」
謝る必要はない。早く、逃げろ。
目で訴えかける渉真から視線を外し、
「――んっ」
志牙は渉真の手に口づけをした。
「っ!? あくぅっ!」
渉真の手の甲に、鋭い痛みが走る。
志牙の歯が、女食屍鬼の鋭い牙が、肌を噛み破り、肉に食い込んでいた。
「ぃっ、あ、ひっ人未っ、なにをっ」
「んっ、じゅるっ――」
志牙の唇が、渉真の血で染まる。
「あむっ、れろ――」
「人未……」
ゆっくりと、志牙の舌が、手の上を滑り、ぬらりとした唾液の跡を残していく。舌で傷穴を穿り、じゅるるるっと音を立てて啜り、白い喉を微かに鳴らし、なかから掻き出した渉真の熱い血を飲みこんでいく。
置かれている状況も忘れ、渉真は呆然と自分の手にしゃぶりつく志牙を見つめた。
『ふぅぅぅぅっ……』
志牙の背後でゾンビが、ゆっくりと立ち上がった。
志牙も渉真の手から口を離し、立ち上がる。
から から から――
引きずられた木の枝が音を立てる。
しかし、志牙は気にする様子はない。ただ優しい表情で、
「阪井くん、ここで待っててね。わたしが、なんとかするから」
微笑む。
「なんとかするって……人未っ、何考えてるんだっ! 逃げろっ」
渉真は、ようやく声をあげた。志牙は、笑みだけを返して、ゾンビの方へ振り向いた。そして、
「平気だよ。だって、わたし、――じゃないから」
ニンゲンじゃないから。
ぽつりとつぶやくと、振り向くことなく、向かってくるゾンビから目を反らすことなく、志牙はゆっくりと歩みを進める。
対するゾンビの足取りは、さらに速くなる。
ぐにゃぐにゃした死人の足が、大地を激しく蹴る。
から からから からからからからからからからかららららららら
アスファルトの上で木片が激しく跳ねる。
待ちきれないかのように、ゾンビの口が顎関節の限界まで開いた。
志牙の小さな体が、ぽっかりと開いたゾンビの口へと吸い込まれていくように見えた。
志牙の柔らかそうな肉を、食いちぎろうとする歯が体液でぬらぬらと光る。
「――人未ぃぃぃっ!」
ようやく、硬直していた筋肉が反応した。
渉真は勢いよく跳ね起きた。全身に痛みが走ったが、関係ない。そのまま走りだそうとしたとき、志牙の歩みがぴたりと止まった。
「え?」
からからからかららららららららららららららら
突進してくるゾンビ。
堂々と、微塵の動揺もなく、真正面に立つ志牙。
二人の距離はかぎりなく、ゼロ。
――志牙の体が揺れる。
「え。
――え?」
次の瞬間。
眼前で起こったことを、渉真の脳は理解できなかった。
網膜に映った情景は、ただ一言で説明できる。
ただ一言、『志牙がゾンビの喉に食らいついた』と。
もっと詳しく言うならば。
人より尖った犬歯を、死人の肉に突き立てて――
ぐじゅぐじゅと、血と肉汁と髄液と唾液の混じった音を立てて――
志牙は、ゾンビを、顎の力だけで、おさえつけていた。
ゾンビのが救いを求めるように、必死に手足を震わせる。がちがちがちと、ゾンビの歯が激しく打ち鳴らされる。
「ふっ、うぅぅ、るるるるるるるるるぅぅぅぅぅぅぅ」
金魚のようにせわしなく開閉する死人の口。
その更に奥、喉の深部から奇妙な唸り声が辺りに響き渡る。
これは、
(――人未の声、なのか?)
そうだ。間違いない。
「ぅぅぅぅぅ、ひゅるるるるぅぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁ――」
ゾンビのものと混じって、志牙の声がたしかにした。
志牙は死者の喉奥深くまで牙を突き立て、放さない。
激しく暴れる男の体を、志牙は顎の力だけで制圧していた。
志牙の口の端から唾液がぶくぶくと泡立つ。赤いあぶくが垂れて、細くて白い喉を汚す。
「るぅぅぅぅぅあああああああううううううううううぅぅぅぅぅ」
志牙の呼気が、ゾンビの声帯を震わせている。
捕食者の唸り声と、獲物の悲鳴が奏でるコーラス。
いつもか細い志牙の声が、ゾンビの口から何倍にも拡大されて、呆然と立ち尽くす渉真の鼓膜を震わす。
ぐちゅっ
湿った音をたて、志牙の牙はゾンビの喉肉を食いちぎった。
「――ぺっ」
そして、地面に乱暴に吐き捨てた。
喉を引き裂かれたゾンビは、独楽のようにくるくると回って、地面に倒れこんだ。だが、四つん這いの姿勢で、何とかこらえる。
勢いよく顔をあげ、真っ赤になった目で渉真をにらみつけた。ぱっくり開いた喉から、どす黒い液体がびちゃびちゃと滴り、敷石を汚す。
人を襲うようになったゾンビに、理性や知性はおろか、自衛本能すらないと言われている。
だが、死してなお残る、弱肉強食の本能か。ゾンビは、志牙ではなく、渉真を獲物と判断したようだった。地面を、四つ足で蹴った。
からからからから――
四つん這いでゾンビが駆けてくる。喉から血を溢れさせながら、思わぬ速さで這い寄ってくる。
渉真は身を強ばらせながらも、迎撃の構えを取った。
(頭。頭を蹴り下ろして、噛みつきを防ぐ――できるのか?
できる。できる。できないと、噛まれて、僕も――)
足をあげて、ゾンビの突進に合わせようとした瞬間。
『ぐげっ』
今まさに噛みつかんとする距離で、ゾンビは呻き声をあげて、停止した。
停止したというよりは、後ろから強引に引っ張られたようで、噛み裂かれた喉元に、ぎりぎりと、ロープがめりこんでいた。
「彼に、手は出すのは、許さない」
ロープの端を握りしめていたのは、志牙だった。片手だけで、四足ゾンビの動きを制している。
がりがりがりと爪で地面を引っかくが、ゾンビは一歩も前に進めない。まるでリードを必死に引っ張る小型犬のようだった。
地面に突っ伏しながら、ゾンビは敷石に垂れた渉真の血をべろべろと舐め始めた。
が――
「彼の血をぉ――」
ずずず……と、ゾンビが徐々に後退していく。
志牙が、ロープをたぐりよせていた。
「舐めるのだってぇっ――許さないっ!」
ぶん――と、志牙はハンマー投げの要領で、腕を振るった。
ゾンビが。
皮膚は腐り落ち、体液は垂れ流され、嵩が減っているとはいえ、成人男性の死体が。
ふわりと、宙に浮いた。
「夢?」
渉真が思わず呟いた。
志牙がロープから手を離す。
投擲されたゾンビの体が、石棺のような“封印校舎”の壁に、激しく叩きつけられた。
裂かれた喉を、恐るべき力で縊られ、腐肉を削がれ、ゾンビの首が皮一枚を残し、べろんと垂れ下がった。
一瞬遅れて、壁から剥がれ、死体は地面にぐちゃりと落ちた。
校舎の壁に、真っ黒な染みだけが残る。
冷たい金色の瞳でゾンビの様子を観察する志牙。
もう動かないことを確認したらしい。
渉真の方を振り向いた。
「阪井くん……」
泣きそうな顔をして、渉真のもとへ駆け寄る。その口元は鮮血で染まっていた。
「だ、だいじょうぶ? 腕、止血、しないとっ。消毒も、破傷風に、なっちゃう」
「あ、ああ。腕は擦っただけだし、平気だよ」
ずきんと、手の甲の傷が疼いた。志牙の犬歯に穿たれた二つの穴から、血が溢れだしている。痛みはない。ただ、熱い。
はっと気づいたように、志牙は渉真の手を取った。溢れる血をおさえるように、ぎゅっと握りしめる。制服の袖口が、みるみる赤く染まる。
「制服、汚れるよ」
「ごめん……なさい、ごめんなさい、わたし、必死で……」
志牙の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「だいじょうぶ。わかってる。たぶん、あのゾンビを撃退するのに、必要なことだったんだろ。僕の血が、人未には、必要で――」
痛みもなく、恐怖もない。
ただ世界が、すうっと遠くなっていく。
真っ白に霞む視界のなか、渉真には、泣きながら自分を抱える志牙の顔が――
自分の名を呼ぶ志牙の口からのぞく、人間とゾンビの血を啜った牙の赤が――
やけに、鮮明に見えた。