1 ぐるがる:始まりのベル
人類未曽有の集団訪問――“多元世界統合”。
ある日。
なんの前触れもなく。
世界の蝶番が外れ、訪問ベルを鳴らすこともなく扉の向こうから異世界からの客人が大挙して押し寄せた大異変の通称だ。
怪物、化物、異形、妖怪、精霊、心霊、幻獣――
伝説や神話、物語、巷説。あるいは夜の夢想のなかでのみ息づいていた架空の存在。
“通境者”と呼ばれるようになった彼ら/彼女ら/それらが、人間中心だった世界にとつぜん現れたのである。
文化も、習慣も、様式も、法律も。
驚くほど早く、既存の人間中心社会のものからその姿を変えていった。
まるで、異界の住人たちがまるで古代より綿々と人間社会のなかで共存してきたかのように。
まるで、何者かが最初から用意してたかのように。
もちろん学校制度も例外ではなかった。
例外どころか、教育の場である学校は、異種族との交流にとって重大な意味を持ったのである。
異なる種族、異なる在り方が交流し、互いを知り、この世界に馴染むための場に――
◇ ◇ ◇
――“首吊りゾンビ事件”。
あの不可思議な事件の始まりがいつだったのか。
色々と原因を遡っていけば、大元は異質な存在が世界に溢れる事態を引き起こした、あの“多元世界統合”ということになるのだろう。
だが肝心の“多元世界統合”がいつ起こったのかと言えば――実は判然としない。
あれほどの大規模な世界異変にもかかわらず、人々の記憶、その他あらゆる記録から『いつ起こったのか?』という事実がすっぽりと抜け落ちているのだ。
今に至るまで理由は不明のままだ。
異世界とつながった余波であるとか、移住してきた異能者たちが人間の記憶や記録を改変したせいであるとか色々と憶測はある。
しかし憶測は憶測に過ぎず、『よくわからないけどなんとなく最近起こった大異変』くらいにしか人々は“多元世界統合”について理解、記憶していない。
だから、あの奇妙な首吊り事件について語るには一人の人間――鯨渦学園1年H組、阪井渉真を主軸にするのが適当かもしれない。
それでは渉真にとって事件の始まりを告げる鐘は何だったのかといえば、それは文字通り鐘だった。
生徒にとって心地よい解放を告げる鐘。
終礼のベルが鳴り、事件は始まる――
◇ ◇ ◇
ベルが鳴ってまだ1分も経たないうちに、教室は昼休みの喧噪であふれていた。
匂いも変わる。家から持ってきた弁当、購買で買ってきたパン。さまざまな匂いが雑多に入り混じり、すこしむせかえるくらいだった。
クラスが活気づくなか、渉真はさて自分はどうしたものかと考えていた。
学園寮暮らしで、自分で弁当をつくるほどの甲斐甲斐しさは持ち合わせていない。
だからクラスの友人と学食や購買に行くのが常の習慣だが――
同じ寮から通う夜乗の方を向けば、席の周りが女子で囲まれて見えない。見えないけれど、彼の机には手作り弁当の山が築かれていることだろうことは容易に想像がつく。
全然悔しくないぞと隣の席を見ると、学食仲間の只友はチャイムが鳴ると同時に青い顔で跳ねるように席を立ち、駆け足で教室を飛び出していった後だった。
「只友のやつ、授業中も腹おさえて脂汗かいてたからなあ。まずはためこんだものを出してからか」
食事時には不適切なことをつぶやきつつ、伸びを一つした。
と、
「あれー。今日は普通のメニューなんだ」
渉真の真横で女子の声がした。
一瞬反応しそうになったが、明らかに自分に向けられたものではないことに気がついた。
「ぅ、ふわっ?」
考えを裏付けるように、すぐ後ろの席で当惑した声があがった。
――人未志牙だ。
あまり話はしたことはないが、彼女はなにかいつも怯えているな、という印象を渉真は持っていた。実際、志牙は渉真がプリントを渡す時もふるふる震え、少し話しかけると途端に目を伏せてしまう。
「そんな驚かないでよ、ヒトミ。ちょっと声かけただけじゃん」
「う、うん」
答える志牙の声はやはり少し上ずっていた。
志牙に声をかけた女子は、渉真の座っている席の横に陣取るようにして立っている。臆病な志牙のことだ。彼女に見下ろされて、威圧感を覚えているのだろう。
「あれ、もしかしてその弁当手作りなの?」
「ぇっと、あ……そ、そうだよ。普通の、三食ごはん、だよ」
蚊の鳴くような声。しかし、心なしか『普通の』の部分にアクセントが置かれていた。
「へえ、おいしそうじゃん」
「うん。ほんとほんと」
いつのまにかもう一人の女子が会話に参加していた。二人の女子に囲まれて萎縮している志牙の姿が、振り向かなくとも渉真にははっきりとわかった。
「どうしたの? 食べないの?」
「う、うん……」
「そうそう。ヒトミにはダイエットとか必要ないっしょ。そんな痩せてるんだから」
ぁぁ……とか、ぅぅ……とか、言葉にならない声が後ろから聞こえてくる。
渉真はノートを取り出しぺらぺらとめくる。耳はしっかりと三人の会話に集中させながら。
「あれ? 食欲ないの」
「もしかして病気?」
と言うものの、彼女たちの声音に志牙を心配するような調子はない。
「それともさ」
最初に声をかけた女子生徒がわざとらしく首をかしげた。
「――やっぱ、ニンゲンの肉じゃなきゃ、食欲出ないの?」
がたっ。
小さく、だがはっきりと志牙の机が音を立てた。
「あはは、そんなわけないよねー」
「ごめんごめん」
あははは。と、女子たちは笑う。
「ぇ、えへへ……」
調子を合わせるように、志牙も笑う。笑い声のこもり方から、机を見つめたまま笑っているのが渉真にはわかった。
「そういえばさー、最近校内でマスクつけてるの多くない?」
「P組のせいじゃない。植物系が花粉だす時期なんだよ今」
二人はもう別の話題に移っていた。しかし縮こまる志牙の頭上で会話を交わし続けている。時折、見下すような視線を志牙にちらちらと投げかけていた。
頭上の圧力に志牙は立ち上がることもできず、ただうつむいているだけのようだった。それを横目に、無駄話を続ける二人。声にくすくすと嘲るような笑いが混じっている。
がたんっ!
いきなり椅子が立てた音に、二人は不意打ちを受けたように会話を止めた。驚いた表情で音のした方を見ている。
志牙も座ったまま固まっている。
つまり、椅子から勢いよく立ち上がったのは志牙ではなく――
「あ」
立ち上がった姿勢のまま、渉真は間抜けな声をあげた。
反射的な行動だった。
椅子が立てた音は思いのほか大きく、クラスの視線が渉真に集まる。
『飛んで火にいる夏の虫とはいうけど、渉真君、君は春夏秋冬欠かさず火に飛び込んでるタイプだよね。まあ虫だって冬越しできて火に強ければ、年中火に飛び込んでるのかもしれないけど。そうだ、君って実は人間じゃなくて、ちょっと図体のでかい虫だったりして』
まっ白な渉真の頭の中に、友人に言われた言葉がよぎった。
人を人とも思わぬ発言をしたその友人こそ、実は人間ではないのだが……それは今はどうでもいい。
立ち上がったはいいけど、次はどうしよう。
周囲の視線が痛い。
情けない顔で、視線をさまよわせる渉真。
と、ここで初めて志牙と目が合った。
とつぜん立ち上がった渉真に、顔を伏せていた志牙も思わずぽかんと見つめ返している。
何かあるとすぐうつむいてしまう志牙の顔を、この時初めて見たような気がした。
毛量が多く癖はついているが、烏の濡羽色をして艶やかな髪。
目まで覆いそうなほど伸びたその前髪からのぞく、金色の瞳。
その目は、やはり何かに怯えているように潤んで――
「何よ、阪井。とつぜん立ち上がって」
驚きから立ち直った女子生徒が、不機嫌そうに言った。
「ああ、悪い。でもさちょっとそこに立ってられると、出れないからさ」
「…………」
渉真の席は窓側だ。横に立っていた女子は憮然とした顔をしながらも、黙って後ろに身を引いた。
「ああ。そうそう、人未」
「ぇ、はいっ」
いきなり渉真に声をかけられて、しかも呼び捨てで名前を呼ばれ、志牙は裏返った声をあげた。
「そういえば、この前の罰ゲームのことなんだけどさ」
「え? ばつ……げーむ?」
「覚えているだろ? 互いにクイズ出して答えられなかったら、一食おごるって約束。僕の出した『ジョーカー抜きのトランプ52枚を使って1分以内にトランプタワーを作るにはどうしたらいいか』ってやつ。人未、答えられなかったじゃん。というわけで、昼おごってくれ」
「う、あ、トランプタワー? えっ?」
何のことを言っているのかわからない、と泣きそうな表情をする志牙。
隣の女子たちも、事態についていけず、ぽかんとしている。
かくいう渉真自身も、自分で何言ってるんだかわからなかった。
「焼きそばパンな。じゃあ、購買行こうぜ。昼休み終わる前に」
「え。
――ぇ、ええええっ!?」
こんな大声を出す人未、初めて見るな――
周囲の視線にさらされながら、渉真はそんな他愛もないことを考えていた。
普段は目も合わせず、口元を見せないようにぼそぼそと喋る志牙。
そんな志牙の口が、今は驚きで丸く開かれている。
その奥に、
異常に尖った犬歯が、見えた。
いつも困ったような八の字眉に、泣きそうな目。
弱々しい表情からのぞく肉食獣じみた牙はいかにも不釣合いで――
無性に蠱惑的に、見えた。
何かいけないものを見てしまったような感覚。
不埒な妄想とは自覚しつつ、渉真の目は志牙の牙にひきつけられていた。
国立鯨渦学園、1年H組、阪井渉真。人間。
国立鯨渦学園、1年H組、人未志牙。女食屍鬼。
ふたりの関係の始まりは、こういった具合だった。
奇妙といえば、奇妙なふたり。
そして、奇妙な彼らの出会いからまもなく。
ふたりは奇妙な首吊り事件の渦中へと巻き込まれていくことになる――