第七章
第七章
僕は「カラスの行水」と母親に言われるほど風呂の時間が短い方なので、入浴のために部屋を空けていた時間はごくわずかだと思う。
なのに部屋に戻るとアヤメさんがお茶を啜りながらすっかりくつろいでいた。
「あ、おかえりー」
パリんっと煎餅を囓ると『寝台特急で行く女子旅』とかいう雑誌をパラパラめくりだす。次にそのままゴロンと横になったかと思うと、うにうにと身体を捩ってベストな体勢を探り始めた。
「ずいぶん用意がいいね?」
なんでいるの? とかは聞かない。不毛だからね。
「んー? ママさんが出してくれたよ。ママさん的にはサンライズ出雲がお勧めだって」
母さんもいつの間にもてなしたんだろうね。
「んで、こんな時間になんの用?」
実は今日の日中はめずらしくアヤメさんに絡まれなかったのだ。絡まれないとそれはそれで寂しく感じたり感じなかったりするとかしないとか……あぁ、いや、ちょこっと寂しかったです。はい。
「あー、実は彼岸で調査をしていてさぁ、こーちゃんがなんで幼女生成術を開発したか動機がわかってきたんだけど……」
「――その言い方やめてくれない……ん? 動機がわかってきた? そんなことはわかってたんじゃないの? 未来から来たわけなんだし」
「ふぇ? あたしは未来から来たんじゃないよ? さすがにそんなことはできないもん」
心底びっくりしたという表情でアヤメさんが目をパチクリさせる。
「だって、未来の世界で問題になったから、僕のタマシイをどうこうしようって来たんじゃないの?」
今更何を言っているのさ。自分でそう説明してたじゃん。
「いやいや、彼岸はね、未来を予測しているに過ぎないの。様々な条件や変数から未来に何が起こるのかを割り出していて、別にタイムリープとかできるってわけじゃないよ?」
「えぇー!? 未来から来たんじゃなかったの!? 予測って……じゃ、必ず当たるとは限らないじゃん!?」
「そう、15年以上先になると的中率は73%まで下がるわ」
「じゃ、間違いがあるかもしれないよね!?」
「んー、逆に15年以内なら的中率は100%なの」
なんだと!? そんなことができるの!? じゃ、僕がロリコンの神になることは確実なのか!?
「じゃ、じゃあ、わかってきたっていう、僕の動機はなんなの?」
そう尋ねると、アヤメさんは視線を落として少し俯きながら口を開いた。
「――あたしのせい……みたいなんだよね」
「はいっ!?」
いや、なに言っちゃってんのさ? おかしいじゃん。
「だって、ロリコンが問題なんでしょ!? アヤメさんとどーいう関係があるのさ!?」
むしろ矯正しようとしてたじゃないか。いや、それはおかしいか。元々ロリコンじゃないんだから矯正ではないよね。でも、やろうとしてたことはそういうことだ。ロリコンとは逆のアプローチのはず。
すると、アヤメさんはツンとそっぽを向いて答える。
「――だからさ、こーちゃんはあたしを生成しようとしたんだって」
なんですと?
「どーやら、あたしのことが忘れられなくて始めた研究みたい」
「いや、なんでアヤメさんのことを忘れられないって……それじゃまるで……」
「ま、まぁ、悪い気はしないけどね」
なんで顔ちょっと赤くしてるんですアヤメさん。
「あれ? 忘れられなくて始めたってことは、アヤメさんと会わなければ、僕は例の技術を開発しなかったってこと?」
「そこなの。予測ではこのタイミングで動機となる事象がこーちゃんに起こることになっていたのね。それを確かめる意味もあってあたしはやって来たんだけど、なんとびっくり。あたしが動機になっちゃったってわけ。」
「ってことは、本来の動機は違っていたの?」
「そのはず。今となっては確かめようがないけどね。前例がなかったからみんな誤解をしていたんだけど、あたしの前に誰かがやって来た時点で、もう予測とはズレ始めていたの。その誰かさんのおかげで、予測していた未来は変わってしまったってわけ」
「ハズレたってこと?」
「そう。初めて彼岸の予測がハズレたの」
「――これからどうなるの?」
「いま彼岸では予測のやり直しをしている。あたしがこのまま関与していていいのか、判断できないでいるみたいだから」
「じゃ、じゃあ、アヤメさんは帰っちゃうかもしれないわけ?」
急に不安感に襲われて動悸が激しくなるのを感じる。
「そうなるかもね」
アヤメさんの答えに僕は想像以上の衝撃を受けた。言葉が出てこない。
「だから、もしかすると、こーちゃんに会えるのも、これが最後かもしれないから挨拶に来たの。いつお別れになっても悔いが残らないようにね」
そんな急に言われても……。
「んじゃ、あたしもお風呂入ってこようっかな」
「えっ?」
「だって、こーちゃんはもう入ったでしょ?」
そう言うとアヤメさんは鼻歌を口ずさみながら部屋を出ていった。
こ、これは、もしかしてもしかするんだろうか? 僕は既に入浴済み。そしてアヤメさんが入浴に行く。二人は最後の別れかもしれない。んー、そういうシチュエーションっぽいな。とりあえずベッドの上はコロコロかけておくか。うー、緊張して来たぞ。やっぱ電気消した方がいいんだよね……。って、あー! わからん! これまでに十分過ぎるぐらいイメージトレーニングしてきたってのに! いざそうなったらどーしたらいいのかさっぱりわかんないよー! ま、まずは落ち着こう。床に正座して心を落ち着かせよう。すー、ふー、呼吸を整える。もう少しでアヤメさんの、あのたっぷりむっちりが僕の目の前で披露されるなんて……あぁ、海綿体の充血ぶりがハンパない! 鼻血でそう………。脳内シミュレーションをやっておくか。こう来たらこう返す、こうなったらこうする。こういう時はこんな感じで……うぁぁぁっ! 集中できないぃぃぃっ! はぁはぁ、先に気が狂いそうだよ……。
って、アヤメさんエライ遅いな。僕がアホなことやって身悶えしている間に二時間ぐらい経ってるぞ? オンナの人はお風呂が長いっていうけど、だいぶ長いんじゃないかな。そんなに気を使わなくても、僕はお風呂に入っていない方がむしろ興奮するぐらいだから大丈夫なのに。なんといっても、アヤメさんの匂いを胸いっぱいに吸い込んだら、間違いなくトリップできる自信があるからね。
ちょっと様子を見に行くか。部屋を出て階段を降りると、リビングの方から騒ぎ声が聞こえてきた。んー、なんだか嫌な予感しかしないぞ。
リビングの戸を開けると、飲んだくれているウチの両親と一緒にアヤメさんが騒いでいた。あ、ちなみに、ウチの両親はいわゆる「ザル」レベルで際限なく飲みます。少しは肝臓を労ってあげてね
お風呂上がりのせいなのか、ほんのり桜色に頬を染めたアヤメさんの姿は、なんとも言えず色っぽくて、見ているだけでドキドキさせられる。そして、とろんとした目付きは焦点が定まっておらず、ふらふら宙を彷徨って――って、うん、こりゃアルコール入ってるね!
「母さん! 親父も! こんなに飲ませちゃダメじゃんか!」
一応、表向きは高校生なんだからさ。そもそも飲ませないでよ。
「あー、こーしゃんだぁ! こーしゃんはほんろにかわいいれー」
ベロベロのアヤメさんが僕を捕まえる。もうぐでんぐでんだね。
「かわいいれーかわいいれー」
まるで猫でも可愛がるかのようにグシグシと僕の頭を撫で回す。親の前でやられると恥ずかしいことこの上ない。
「ふふふ、かわいいでしょ? じゃあねー、特別にアヤメちゃんにならあげてもいいよー?」
僕は母さんの所有物じゃないんで、誰に貰われるかは自分で決めます! って、貰われる前提の自分が恐ろしい。自立する気ないのかね、僕の深層心理は。
「勝手に人のことあげないでよ! んで、どんだけ飲ませたの二人とも?」
「んー、間違ってビールを一口ぐらいかな? 飲んじゃったのアヤメちゃん。ねー、おとーさん?」
コクリと頷く親父。そのままテーブルに突っ伏してイビキをかき始める。こりゃあ、こっちは相当飲んだようだね。きっと、アヤメさんが相手してくれて嬉しかったんだろうな。
「びっくりするぐらい弱いのねー、アヤメちゃん」
おそらく親父と同じぐらいは飲んでいるだろうに、この人は普段となんら変わらないよ。
「こーくん、ベッドで寝かせてあげて。あ、チャンスだからって変なことしちゃだめよ?」
「し、しないよっ!」
理性が保てれば……ね。
「母さんは信じてるからねー、こーくんのこと」
そう言って母さんはニコっと満面の笑みを浮かべる。
うっ、信頼が重い。裏切らない自信はぜんぜんないのに……主に海綿体あたりが。
支離滅裂な言葉を呟いているアヤメさんをゆっくり立たせると、側で支えながら僕の部屋へと向かう。どうもアヤメさんが着ているパジャマに見覚えがあると思ったら母さんのだった。着る人が変わると服の印象もだいぶ変わるね。母さんが着ると少女趣味な感じで年甲斐もなく――なんて思っちゃうけど、いやいやどーして、アヤメさんにはぴったりで違和感がまるでないよ。
こうして近くにいるとシャンプーのいい匂いがしてくる。これは僕も使っているやつだから、基本的には同じ匂いをさせているはずなのにな……ぜんぜん違う匂いに感じるから不思議だ。
アヤメさんを支えている僕の手に、パジャマの薄い布地を通して、ふにっとした柔らかで温かい感触が伝わってくる。必要以上に触りたくなる衝動に抗うことは、なかなか精神力を要求される高等技術だったりする。
部屋に入るとコロコロをかけておいたベッドに、アヤメさんをゆっくり横たわらせた。
「――こーしゃんはかわいいら……」
もにょもにょと、うわ言のようにアヤメさんが呟く。こうしているとすごく不思議な感覚に捉われる。アヤメさんに母親のような、姉のような、妹のような、親愛の情を強く感じる。
なんとなく満たされた気持ちになって床に敷いてあるラグの上に座り込んだ。顔を上げて白い天井をぼんやり見つめていると、規則正しいアヤメさんの寝息が聞こえ始めた。騒がしかったけど、なんだかんだでこの数日は楽しかったな。そっと目を瞑り記憶を反芻していると、知らない間に僕は寝落ちしていた。
カーテンから漏れてくる薄明かりに目を覚ますと、いつの間にか隣で寝ていたアヤメさんに抱きつかれていた。さながら抱き枕といったところだろうか。両手両足でしっかりと挟み込まれて身動きがとれない。この適度な締め付け具合はスゴく心地いい……柔らかいし、人の肌から伝わる温度はやたらと心が安らぐ。それに、この状況はスゴくドキドキして、その……ある一部が充血してくるというか、もうしてるというか非常にマズイ状態にトランスフォームしているわけでして、若いリビドーを持て余している僕にはなんとも酷な試練であって……ちょっとぐらいなら、いいよね?
比較的自由な右手をそろそろと伸ばす。とりあえずは、あの凶暴なおっぱいを触っておかないことには死んでも死にきれないからね。よっと、ん、もう少し……。アヤメさんにがっちりホールドされているせいで、腕の稼働範囲がかなり狭い。指先がパジャマのたわみを掠る。数ミリ伸ばせば届く……この手にふよんたぷんとした魅惑の感触がやってくる……。っと、その時、部屋の扉の僅かな隙間が目に入った。まさかとは思うけどね……まさかねぇ?
アヤメさんの手足を慎重に引き剥がすと、僕は素早く扉を開けてみた。
――廊下には、クルミの口を塞ぎながら押さえ込んでいる母さんと、寝巻きの袖を激しく噛み締めている親父がいた。
「みなさんは何をしていらっしゃるんで?」
「おはよう。こーくん。アヤメちゃんはもうちょっとだったね。惜しい!」
「――こんな青春があっていいわけがない……そもそも青春とは暗く鬱屈した灰色の時代であってだな……」
「ぷはっ、こーくん。ロリコンじゃないなんて見損なった」
「覗いていたことを詫びるとか、言い訳するとかないわけ……」
揃いも揃ってこの人たちは……。
「んー。おはよー、こーちゃん」
そうこうしているうちにアヤメさんが起きてきてしまった。
普段は見ることのできない、無防備で悩ましいアヤメさんの姿を堪能できなかったじゃないか。
「――あたしは、なんでここで寝てたん?」
どうやら記憶がないようだ。あぁ、ますます悔やまれる。覚えていないなら、あんなことやこんなことをやっておけばよかったよぉぉぉっ! ドチクショー!
――結局、そんなおバカな騒ぎが最後となった。
その日を境に、アヤメさんは僕の前からいなくなってしまったのだ。