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三界大戦記―好色皇子と三界の姫たち―  作者: 安里優
第一部:人界侵攻・開戦編
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第4回:誤算(下)

 資材を抱えて歩いていた兵がフウロの急な動きに驚いて、結果として荷物を落とすことよりも自分が転ぶことを選択したその時。


「おっと」


 軽い声と共に滑り込んだ影がある。

 自らの体が中空でとどまっていることに目をぱちくりさせる兵士。

 彼女は、自分を掴まえてくれた腕の存在を感じるまでしたが、それが誰かということまでは、とっさに頭が回らない。


 一方で、自身も駆け寄ろうとしていたフウロとスズシロはあきれたような顔つきになっている。

 スズシロに至っては大きく肩をすくめているくらいだ。


「あーあ」


 フウロがため息のようにそう言うことで、ようやく兵は自分が誰に抱き留められているか、はっきり認識した。


「で、で、殿下!」


 そう、彼女はスオウの腕の中にすっぽり収まっていたのだった。


「し、し、失礼いたしました!」


 飛び上がるようにしてスオウから離れ、ぴんと背を伸ばした兵は、顔をひきつらせ冷や汗を垂らしながら、謝罪の言葉を口にする。

 彼女が叱責を予期して身構えるのも当然だろう。

 転びかけたところを皇太子に抱き留められただけでも大事だが、それを旅団幹部であるフウロやスズシロに見られていたのだから。


「気にするな、ウツギ」


 だが、そんな彼女の緊張は、スオウの言葉がもたらす驚きで上書きされてしまう。


「わ、私の名をご存じなのですか!?」

「うん。知ってるよ」


 目をまん丸にしながら身を乗り出してくるウツギににっこりと笑いかけるスオウ。その後ろでは、フウロとスズシロがなにやら複雑な表情で目配せをかわしている。


「それどころか、ちゃんと全部知ってる」


 スズシロの口から声にならない声が漏れる。

 だが、彼女の伸ばした手がスオウの肩に届く前に、ウツギが応じていた。


「え?」

「君の名前は、金剛宮灰重部東流氏チリク支氏ユレノ分家ホヅチ分分家ヒタダミ分分分家ワサタヲ一家リヤの娘ウツギ、だろ?」


 魔界は皇帝の元に統治される社会ではあるが、その内実は氏族主義が色濃く残る。

 その端的な例が魔族一人一人の正式な名称で、根源となる氏族から家の名前、そして、母親の名前に至るまで、全てを内包している有様なのだ。


 これが、氏族中枢に近い者なら、そう問題はない。

 たとえば黒銅宮本家のユズリハなどはわかりやすい。

 彼女の正式な名前は、黒銅宮ツレズサの娘ユズリハであり、覚えるのも難しくない。

 フウロの、金剛宮尖晶部闇月氏タゴの娘フウロ程度もそう問題ではないだろう。


 だが、魔族のほとんどは、ウツギのように部、氏、支氏、分家、二次分家、三次分家……と幾重にも分かれた先にある家に生まれている。

 それが必要とされるのは正式な名乗りを行う場面くらいだ。現実的に、友人、知人、同僚などは、彼女を『金剛宮ヒタダミのウツギ』として認識している。

 これは、氏族の中でも、政治的経済的に一体となって動く単位が二次分家から四次分家程度であるためだ。

 ヒタダミに属しているとわかれば、金剛宮の中では穏健派だとか、カユヌビ分分家との抗争については触れないようにしようとか、つきあいの勘所がわかる。

 それで十分だし、それ以上は不要なのだ。


 親友と言える存在も、部隊の中での相棒も、彼女の正式な名前など知らない。興味も持っていないだろう。それは彼女自身も同じことだ。

 それがまさか、魔界の皇太子が自分の正式な名を知っていたとは。

 あまりの予想外の事態に、ウツギの意識は飛んでしまい、完全に固まってしまっていた。

 同じようにフウロもぽかんと口を開け、スズシロもスオウに手を伸ばしたまま、動きを止めている。


「……あなた」


 ようやくのようにスズシロの唇が動いた。まるでさび付いたはさみを開くかのようなぎこちない動作であった。


「は、はい」


 普段とはまるで違う迫力を持った参謀の声に、ウツギの意識が回復する。

 小柄な参謀はスオウとウツギの間に体をねじ込むように移動し、調子を整えて、改めて問いかけた。


「殿下のおっしゃったのは正しい?」

「は、はい。合っております。も、申し訳ありません。とっさにお答えできず……」

「いえ、それはいいの。……いいですよね?」


 ぶるぶると震え出したウツギに意図して柔らかに声をかけてから、スオウに横目で問いかけるスズシロ。スオウはそんな彼女の姿に小さく笑った。


「おいおい、そこで、だめって言ったら、俺がなんでもかんでも細かいところに目を付けて威張り散らす奴みたいじゃないか」

「そんなことは思ってません。一応の確認です」

「はいはい」


 二人の気安い――正直なところ、儀礼からは外れた――やりとりに、静かに安堵の息を吐くウツギ。少なくとも、これからなにか悪い方向に転がるとは思えない雰囲気であった。


「まー、その、なんだ。驚かせて悪かったな」

「い、いえ」


 ようやく驚きから醒めたのか、フウロが赤い頭をかきながら詫びを入れる。

 これにも緊張して応じるウツギだったが、スズシロがもう行っていいという風に手をひらひらさせているのに気づいた。彼女は荷物を抱え直し、礼を示してから歩き始める。

 その背に、さらに思いもよらぬ声がかかった。


「邪魔して悪かったね。これからも励んでくれ」

「はいっ! 光栄であります!」


 ウツギはスオウの声に弾かれたように振り返り、礼式通りの敬礼をよこす。その後も何度も振り返り、スオウに頭を下げつつ遠ざかっていった。

 遠くから見てもわかるほど、興奮で顔を紅潮させながら。


「……ありゃあ、もう太子に首ったけだな」

「悪いことではありませんよ」

「まあな」


 そもそも兵の士気の鼓舞もこの散策の目的の一つである。それがたとえ一人相手でも、スオウが役目を果たしたことに変わりない。

 だが、なにか釈然としないものを感じる女性陣であった。


「それにしても……」

「なんです?」

「あのさ、ちょっと殿下に確認しても?」

「私に聞かないでもいいんですよ?」


 あくまで自分に話しかけてくるフウロに小首を傾げるようにするスズシロ。

 彼女としては、自分がすでに儀礼に反した言動をしてしまっているので、もはやそこまでかしこまる気がないのだろう。

 一方で、精悍な顔つきの女は、いや、そういうわけにゃいかないだろう、とかもごもごと呟く。

 結局、フウロが踏ん切りを付ける前に、スオウが声をかけた。


「どうせ話すなら、落ち着いて出来るところでしよう」

「ああ、それもそうですね」


 そうして、三人は当初の予定通り、陣の中を少し回って、兵たちに笑顔をふりまいたり、激励の声をかけたりした後で、スオウたちに用意された天幕へと戻るのだった。



                    †



 スオウは、幹部勢が集まる大天幕ではなく、自分の天幕の一つへと二人を誘った。


 天幕は外見的にはいずれも黒一色で、一見寒々しくも見えるものだ。

 だが、中に入ればその印象は一変する。


 暖かな色の奔流が、入る者たちを迎えるのである。

 外布を支える支柱や木組みからして朱塗りの派手なものであるし、一般的な兵の天幕でも、折りたたみ式の寝台などの家具が設置され、色とりどりの美しい壁布がかけられているのが普通だ。

 派手派手しいとまではいかずとも、その中で過ごす者の気が滅入ることのないよう、天幕の中は明るく、穏やかな空間となっているのであった。


 スオウの天幕も、基本的にはそれと変わらない。

 壁布に施された刺繍が実に細やかで美術的価値もありそうなものだったり、兵たちより多めの家具の全てに精緻な彫刻や象嵌が施されているくらいのものか。

 彼は天幕に入ると、自分の椅子に腰掛け、二人に卓を挟んだ対面に座るよう促した。

 それらの椅子はいずれも収納家具を兼ねていて、柔らかな座面を跳ね上げるとものが入れられるようになっている。

 フウロは座ってから自分のお尻の下にどれだけの価値があるものが入っているかを考えかけ、無理矢理に無視した。


「さて、なんだい、フウロ」


 みなが落ち着いたところで、彼は途切れた会話を再開する。


「いや……あたしの思い違いかもしんない……じゃなかった。しれないんですけど……ね」

「うん」

「もしかして、旅団の全員の名前覚えてたり……します?」

「まさか」


 ああ、そうだよな、というようなほっとした空気が流れた。

 これはフウロだけではない。スズシロも同感のようであった。

 だから、二人は、その後に続いた台詞にとっさに反応できなかった。


「俺が覚えてるのは、顔を合わせたことのある二千五百人ほどだけだよ」

「は?」

「さすがに離宮の警備してる現地雇いの団員とかはなあ」


 皇太子が――太子である間だけ――所有する城や狩り場、荘園といったものが、魔界では伝統的に存在している。

 それらの管理や警備も親衛隊の職掌となるのだが、実際には代々その土地に居着いた人間が代官を務めるのが通例だ。

 それらの代官や守衛たちは、名目上それぞれの代の親衛隊に所属しているが、スオウが顔を合わせることはまずありえない。


 だが、そんなことはどうでもいいのだ。


「に、にせんごひゃくって、実働部隊全員じゃねえか!……あ、ごめんなさい!」

「そうなるな」


 荒々しい言葉遣いを思わず謝るフウロを気にすることもなく、さらっと言ってのけるスオウ。

 フウロは再び目をむいて黙り込んだ。

 一方で、ウツギの件から時間が経ったことで冷静になったのか、スズシロはあくまで落ち着いた様子を崩さなかった。無意識にか、長く一本垂れた自分の髪を指でいじりながら、感想を漏らす。


「殿下がそこまで物覚えがいいとは知りませんでした」

「ふふっ。宮廷の夜会で鍛えられた記憶力をなめちゃいけないな。……と言いたいところだが」


 背後に置いた私物の中を探って、なにか短冊の束のようなものを取り出す皇太子。彼は、ぽんと卓の上にその束を置いた。


「実際はこれだ」

「紳士録?」

「紳士録……ですか?」


 フウロは出てきたものに見覚えがある様子だったが、スズシロはその単語自体に聞き覚えがないようだ。


「ああ。それこそ、夜会の面子を覚えるためのもんだ。宮廷に出入りするやつらの顔と名前が載ってて……。まあ、いいとこのお坊ちゃんお嬢さん方のためのもんだな」

「なるほど。フウロ先輩もそれで勉強したと」

「あたしは放り投げたよ。……って、また懐かしい呼び方だな、おい」


 士官教育の場である校尉こうい学校時代、フウロはスオウやスズシロたちの一年先輩だった。

 そんな頃の呼び方で呼ばれたことに、なにか照れくさそうにスズシロをつつくフウロ。

 つつかれたほうは涼しい顔で、一つ肩をすくめただけだった。


「話がしにくそうなもので。いいわよね? スオウ様?」

「ここには俺たちしかいないからな」

「そりゃ、あたしは楽だけどよぉ……」


 同じように肩をすくめて認める皇太子に、一人顔を白黒させるフウロ。

 校尉学校時代はかなりくだけた調子で話していたものだったが、いまとなっては少々くすぐったくも感じてしまうのだった。


「まあ、フウロ先輩の言うとおり、書式は紳士録と同じだ。団員の似顔絵と名前が載ってる」


 彼女の戸惑いには構わず、スオウはとんとんと卓の上の束を叩いてそう説明する。


「これで覚えたのか……。いや、それにしたって、なんで?」


 しかたなく、ぱらぱらとその短冊の束を引きよせ、めくってみせるフウロ。そこには、彼女も見覚えのある部下たちの顔と名前が一枚ずつにしっかり記されていた。

 その束は百程度の短冊を綴じたものだったので、おそらくはこれ以外にも何束もあって、ちょうどフウロの部下が載っているのを取り出したというところだろう。


「ん……」


 なぜこんなことを、という問いに、スオウは視線を二人から外してどこか宙に向けた。

 その態度に、フウロのほうはどうしたのだと小首を傾げていたが、スズシロはいじっていた髪からも手を離し、鋭い視線を向けていた。


思宮おもいのみや殿下の手配り……ですよね?」

「皇女殿下の?」


 ためらうように視線をゆらめかすばかりの太子の様子に我慢仕切れずといった調子で、鋭く言葉を放つ。そんなスズシロの姿にフウロは驚きを隠せなかった。

 思宮――すなわちスオウの亡くなった妻であるサラ皇女の手配りだという発言はもとより、その態度に。

 彼女は思う。

 この参謀殿は、なにをそんなに苛立っているというのだ?


「皇女殿下ってことは、お亡くなりになる前に……?」

「そうだ。俺の立場を少しでもよくするために、サラはたくさんのことを用意してくれていた」


 亡き妻の名を、スオウは近しい故人というよりは、まるであこがれの人のように呼んだ。その途端、ぴくんとスズシロの眉が跳ね上がったのを、二人は気づかない。


「この襲撃行もまた、思宮様のご提案だった。そうですよね?」

「……ああ」

「ええっ!? そうなのかよ。てっきり陛下の立案かと思ってたぞ」

「陛下も賛成なされたことではあるけどね」


 フウロの驚きを柔らかな笑みで受け止めてから、彼はスズシロのほうを向き、そして、わずかに顔を曇らせた。


「それにしても、よく気づいたな」

「あの方の作戦案は、校尉学校時代に嫌と言うほど読み込みましたから」


 サラ皇女は校尉学校の生徒としてはユズリハと同年で、スズシロたちからすると三年、フウロからすれば二年先輩にあたる。

 校尉学校で――その出来はともかくとして――奇抜な作戦を立案した場合、それは保存され、後年の学生に対して参考資料として提示される。


 サラは、近年では最も資料となる作戦を考え出したことで有名であった。あまりに常識外れなものばかり提出するため、首席を取り逃したとも言われていたが。


「なるほどな……」

「いやー、すげえな。あたしにゃさっぱりわからなかったぜ」

「この人は昔からそうなんですよ。そういう前提で見ればすぐ気づきます」


 なにかがおかしい。

 なぜ、こんなにも、彼女は興奮しているのか。

 フウロは膚の感覚でそう感じ取ったものの、どう口を挟めばいいか、とっさに言葉が出てこなかった。


「いつもいつも……。この人は、サラ様のことばかり……っ」


 だから、残念なことに、その制止はわずかに間に合わない。


「あなたは! スオウ皇子は一体なにがしたいんですか!」


 しん、と天幕に沈黙が落ちた。

 叫ぶように言い放ったスズシロも、問い糾されたスオウも、あっけにとられているようなフウロも、誰も動かなかった。

 動けば、なにか決定的なものが壊れてしまうと知っているかのように。


「……失礼しました。出過ぎたことを申し上げました」


 スズシロがまるで感情のこもらない平板な声でそう言い、


「……いや、いい」


 と、スオウが手を振るまで、どれほどの時間があったろう。沈黙の中で身じろぎもせずにいたフウロにはわからなかった。


 ただ、そこからスズシロがなにか退出の言葉を述べて天幕を出て行くまでは、そう時間はかからなかった。

 流れるような動作で出口の垂れ布の向こうに消えていくスズシロの小さな背中とスオウの青ざめた顔の間で、何度も視線を往復させた後。

 フウロは思い切って黙りこくっている太子に声をかけた。


「殿下?」

「うん」

「その……スズシロには」

「なんのことだ?」


 訓戒や懲罰の言葉を出す前にスオウの言葉がかぶる。さすがに意図を悟って、フウロは言葉を呑んだ。


「では、その、あたしも失礼します。大天幕にいるんで……」

「うん」


 そう挨拶して、天幕を出ようとしたところで、振り返る。スオウは、先ほどと同じ姿勢のまま、彼女のほうを見ていた。


「あのー……皇子?」

「なんだい?」

「……いや、なんでもありません」


 結局、なにも声をかけられず、フウロは天幕を出た。

 しばらく進んで、周囲に人影がないのを確認してから、がっくりと肩を落とす。彼女はいらついたように赤毛の頭をがしがしとかきむしり、こんなことを呟くのだった。


「……ったく、やっぱ後宮部隊なのかぁ?」


 そうして、しばらくしてから立ち直ったらしい彼女が司令部の大天幕に戻った頃。

 包囲している街から使者が来たと報せが届くのであった。

第4回登場人物一覧


スオウ:魔界の皇太子。あだ名は黒太子あるいは好色皇子

[皇太子親衛旅団]

スズシロ:参謀

フウロ:第一大隊長

ウツギ:一般兵

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