第22回:婚約(下)
天幕の奥に飾られた花嫁衣装を前に、エリは複雑な顔をしていた。
婚約の式典で身につける衣装であるから、実を言えば花嫁衣装と言っていいのかどうかよくわからないところもある。
だが、いずれ行われるはずの婚礼では魔界風の衣装を仕立てようという話も出ているから、これを花嫁衣装と言ってしまっても差し支えはないだろう。
「とはいえ」
ぽつりと彼女は呟く。
「『私たち』の礼装でもないのだけれど」
その言葉を耳にする者がいたら――ショーンベルガーの住人であれ魔界からやってきた者であれ――困惑の表情を浮かべずにはいられなかったろう。
それは魔界の言葉でも、ソウライ地域で用いられる北方語でも、ゲール通商語でもなかった。
おそらく、いまこの陣城にいる者で、この言葉が実際に使われているのを聞いたことのある者は皆無であろう。そんな珍しい言語であった。
「まあ、それでも」
北方語に切り替えて、エリは独りごちる。
「綺麗なのは間違いないよねぇ」
ため息のように彼女はそれを賞讃した。その琥珀色の瞳がきらきらと輝く。
それもそのはず、彼女の前にあるそれは実に美しく手の込んだ衣装であった。
基本的には、いまエリ自身も身に着けている衣服とそこまで構造に変化はない。
上衣の上にくびれた腰と胸を強調することになる胴着をつけ、そこから裳裾が広がる。
違うのは、胴着が皮ではなく何枚もの布を重ねて実に丁寧に形作られていることであり、通常は胴着から一枚前に垂らす布が何枚もに分かれて全方位にふんわりと広がっていることであり、その裾がひきずるほど長いことであり、その全面にびっしりと金糸銀糸で美しい刺繍が施されていることであった。
純白の地を埋めてしまうほどのそれらの刺繍をエリはじっと見つめた。
「いいのかなあ。『エリ』じゃなくて私が着ちゃって」
言ってから彼女はぶんぶんと頭を振る。
「いやいや、それはしかたない。うん……しかたない。」
それよりも、と彼女は頭にかぶる飾り布を取り出し、それにも丁寧に施された刺繍を指でなぞった。
「そう、それよりも……」
エリの口調に憂いが乗る。それまでは輝いていた瞳も色を失っていた。
「ふう」
悩ましげな息を吐き、彼女は手に持っていた飾り布をぽすんと頭に乗せる。普段からかぶっている布の上で、美しい飾り布がふわふわと揺れた。
天幕の外から誰かの声が聞こえてきたのは、そんな時であった。聞き慣れた声が一つ。後は気配がするような気がするものの、わからない。
「ミズキさん……かな?」
おそらく話しているうちの一人であろう人物を思い浮かべて小首を傾げる。なにか用事でもあったろうかと。
「エリさん」
垂れ幕が持ち上がり、思った通りミズキが顔を出した。
「あ、はい。なんでしょう、ミズキさん」
かぶっていた飾り布を取って、丁寧にたたみながら、彼女は応じる。
「少しお時間をいただけまして? あなたにご紹介したい人物がおりますの」
「はあ。私は構いませんが」
思ってもみなかった申し出に戸惑いつつ、了承の言葉を口にした。
カラク=イオに協力しはじめてからは、交渉ごとに顔を出すのもかなりの頻度となっていて、こうして人を紹介されたりするのにも慣れてきていた。
人界、特にソウライ地域の人々がカラク=イオとの交渉を行おうとした場合、自分を窓口とするのを慣例化したいのだろう、とエリは推測している。
そうすることで、エリの地位を保証しようとしている。そんなスオウたちの意図を感じていた。
ただ、さすがに今日ミズキが連れてくるほどの大物と対するのはなかなかにあることではない。
だから、黒髪も美しいその美女が天幕の中に入ってきた途端、エリは目を丸くした。
「こちら、リディア・ゲルシュター様と、オリガ・ゼラ=ゲルシュター様ですわ」
彼女の驚いた様子を気にした風もなく、ミズキは淡々とその二人を紹介する。
一見ただの旅人にしか見えない衣服を身にまといながらも凛とした佇まいが目を惹かずにはいられないリディアと、柔らかな表情ながらも精悍さを隠せないオリガ。
二人の存在感に、エリは思わず目を細めていた。
「すでにご存じでしょうけれど、リディア様はゲール帝国第十一皇女であらせられます」
言わずもがなのことを付け加え、ミズキは口を閉じる。
彼女も含めて、なんとも濃い面々が天幕の中に詰めていることになる。元より広い天幕でもないが、妙に狭くなったように感じるエリであった。
ともあれ、彼女はその場で跪き、正式の礼で口上を述べた。
「お初にお目にかかります、皇女殿下。エルザマリア・ショーンベルガーと申します。田舎領主の娘にて不調法なところもございましょうが、どうかご寛恕を賜りたく」
その挨拶に、リディアはこれも優雅な南方風の礼で応じた。すらっとした格好であるというのに、豪奢な装束の裾がひるがえるのが幻視出来るような、そんな答礼であった。
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。……しかしながら」
「はい」
「エルザマリア様がお望みならば、私めもいくらでもおつきあいいたします。ですが、本当にそれでよろしいのですか? この場を、ただ空疎な儀礼のやりとりで終わらせたいとお望みでありましょうか?」
「いえ、そのような。ぜひおくつろぎいただきたく」
その答えに、リディアの瞳が鋭く輝く。
「ほんとだな?」
「あ……えっと? はい」
突然変化した口調に戸惑いつつ、エリはこくこくと頷く。その間にミズキが折り畳みの椅子を三脚用意し、リディア、オリガ、エリにそれを勧めた。
「じゃあ、気楽に行こうぜ。お互いよ。……お前もそれでいいだろ?」
椅子に腰を下ろして、リディアが横のオリガにそう問いかけると、短髪の女性は苦笑のような表情を浮かべた。
「アタシが文句言うわけないじゃないっすか」
そこでオリガはエリに向けてぺこりと頭を下げる。
「すいません。アタシもリディアの姐御も、ほんとは堅苦しいの苦手なんすよ」
「あ……はい」
その言葉をまるきり信じたわけでもないが、エリは頷いて椅子に着いた。
一人、ミズキだけが彼女の横で立つことになるのを横目で見ながら、エリは改めて歓迎するようにリディアにほほえみかける。
「実際、あんただって貴族の娘なんだからわかってんだろ。称号だ爵位だって言ったって、そんなもの大したもんじゃねえ。なんか意味あるかって言ったら、ありゃしねえんだ。そりゃ、はったりは利くけどよ」
「そうですね。うちも公爵と言ったって、王族の血が昔に入っただけで、実際には一都市の領主でしかありませんし……」
リディアの態度を、あえて伝法に振る舞っているのだろうかと疑いながらも、エリも普段の態度で応じた。
「まあ、それでもよ。立場やら礼儀やらってのは便利なもんだ。無難な挨拶をひたすら引き延ばして、中身なんざなにもない会話もできるからな。嫌いなやつと同席しなきゃならないとなったら、そういうのも重要だ」
「つきあいというのはどうしてもありますからね……」
「そうそう。つきあいってのはある。腹の探り合いもある。だがよ、いま、ここに因縁のある奴なんざいないはずだ。少なくとも、いきなり嫌いあう必要なんかあるわけねえ。そうだろ?」
その一方で、とリディアは続けた。
「こっちの本拠地は南のゲール帝国、エルザマリア嬢がいるのはソウライだ。今度会うのはいつになるかもわからねえ。と来たら、まだるっこしいしゃべり方なんざもったいないだろ? 違うかい?」
その時向けられた悪戯っぽい笑みに、エリはなんとなく思った。
この人とは本当に仲良くなれるかもしれない、と。
この言葉遣いも態度も論理展開も、あるいは、他人の懐に入り込む技なのかもしれない。だが、それでも少なくともリディア自身の生き方の一端を示してはいるだろう。
そうして、その示されたものを、エリは嫌なものとは受け取らなかった。むしろ好もしいと思った。
「はい。その通りだと思います。ですから、ぜひ、私のことはエリと呼んでください」
「お。そうか。ありがとうな、エリ」
にかっと笑うその表情に、思わずこちらも柔らかに微笑んでしまうエリであった。
†
「それにしても、綺麗ですねぇ」
ミズキがお茶を淹れ、皆で一服したところで、オリガが奥にある花嫁衣装を見て、そんな風に呟いた。
「ありがとうございます。一応、公爵家に伝来のものなんですよ。いつの頃からかってのは実はよくわからないのですが」
「代々のもんか。仕立て直しはしてるんだよな?」
見るからにエリにぴったりの大きさのその装束を見て、リディアが尋ねると、エリがそれを肯定する。
「はい。私の体に合わせてありますね」
「ふうん。それにしては無理がない。元がいいのと職人の腕が良いんだな」
「ゆっくりやってきましたからね。体格に合わせたのはここ一年ですけど、六歳になってから十年かけて刺繍の直しとかをしています」
「そりゃ手をかけてますねぇ」
エリの説明に、オリガが感心したように言って、もう一度衣装を見つめた。貴族家に昔から伝わる衣装や装身具というのはあるものだが、こまめに手入れされているものは実はそこまで多くない。たいていが夜会の直前に慌てて直しに出されるという実態を、オリガは知っていた。
それだけショーンベルガーに余裕があったということだ。経済的にもだが、なによりも精神的に。
「先を見る目、か……」
オリガのその呟きは口の中だけに留まり、外には漏れずに消えていった。
「で、その花嫁衣装をとうとう身に着けるわけだ」
「そう、ですね……」
一方、リディアが尋ねるのに、エリの顔が曇る。
「不満かい?」
すぅっとミズキの顔から表情が消えたのを意識しつつ、リディアはずばりと切り込んだ。
「……これでいいのかなって思う部分はあります」
ためらうように何度か口を開きかけ、最終的に思い切ったようにエリはそう吐露した。
「不安なのは、魔界と繋がることかい?」
「いえ、それは別に」
あまりにあっさりとした返答に、聞いていたオリガががくんと体を揺らしかける。一方、リディアの方は面白そうにその答えを受け止めていた。
エリはリディアとオリガの顔を見比べて説明の必要があると思ったようだった。しばし考え込んでから、彼女は話し出す。
「リディアさん……とお呼びしても?」
「ああ、もちろんだ」
「では、リディアさんたちはアウストラシアの情勢をどれほど知っています?」
「まあ、商売が出来る程度には、だな。一応皇族としての知識もあるにはある」
うんうんとエリは頷く。
「では、世の大半の人よりは理解してるってことですよね。ソウライの立ち位置も」
「そうだな」
要するに、前提となる情報は大半を共有しているということだ。だから、くどくど説明することなく、エリはこう告げたのだろう。
「ソウライ地域の平和は、要するに戦王国群の混乱が故でしかありません」
「ふむ」
アウストラシア地域は大きく区分すると、大河セラートを境に、北のソウライ・南の戦王国群と分かれる。
南方の戦王国群は名前でもわかるとおりに群雄割拠の続く戦乱の地である。地域を制する国家を生み出すこともなく、百年単位で戦乱を続けている。
そのため、南方ではかつては存在した安全な耕作地が激減していた。人類を蝕む『大地の毒』を除去した土壌が、戦乱の中で荒らされ、汚染されてしまっているのだ。
「戦王国群は、ソウライ産の食物と水に大きく依存しています。ソウライと戦王国群はアウストラシアの中で『都市と村落』の関係にあると言えるでしょう」
人界において、都市は汚染の除去された農地を囲い込んだ城塞都市であることが一般的だ。
一方、そうした都市に住まわない者たちもいる。その理由は様々であろうが、彼らにも生きる糧はあった。『毒』を秘めた大地であっても、人の口に入るものでなければ育てることは出来るためだ。
たとえば綿花や地麻のような植物を育てて布を織ったり、ヨロイナシヨロイウシを耕作に用いるかたわら皮革を得たり出来る。
農作物については都市との取引に依存するため、なかなかそれらが手に入らない冬期には、全面的にヨロイヒツジやヨロイヤギに頼る村落もあったりするという。
アウストラシアでは、そんな都市と村落の関係が、ソウライと戦王国群の関係に拡大されているのだとエリは説明する。
「ただし、一般の都市と村落の関係と大きく異なるのは、戦王国群が武力を持つことです。それも、かなり強力な」
「まとまってはねえけど、か」
「はい」
戦乱の続く戦王国群には、その中で鍛え上げられた兵がたくさんいる。それらが集まった傭兵団も数多くある。さらには膨大な数の武器の流通により、子供の頃から武装するのが当然の風潮だ。
いまのところそれらの戦力は大規模に組織化されていないものの、まとまれば当然ソウライ地域を圧倒するだけの力を持つ。
戦王国群に強大な統率者がいないからこそソウライは平和を享受出来ているものの、それは実に危ういものなのだとエリは言う。
「果たして混乱はいつまで続くものでしょう。永遠に続くなどということは、まずないでしょう。いずれはなんらかの勢力がソウライを呑み込みにかかります」
そして、とエリは続けた。
「戦王国群の一部なりともまとめ上げた強力な勢力に、一都市で抵抗することは難しい。かといって、ソウライにあるのは王家の一元的な支配を拒絶した都市群です。まとまることなどなかなか……」
となれば、なんらかの手を考えねばならない。全てとは言わずとも近隣都市と協力するか、あるいは攻め寄せた勢力のいずれかと手を組むか。
ショーンベルガーにはその覚悟が元々あったと彼女は明らかにした。
「これは、おそらくソウライの領主層では共通の認識であったはずです」
「かもな。だが、たいていは自分の代でとは思ってなかったろうぜ」
「それは、まあ……」
リディアの指摘に、エリは苦笑する。
それはそうだろう。あくまでも、それはずっと先のことのはずであった。
だからこそ、本気で近隣都市と手を結ぼうとする都市国家が現れなかったのだ。それはショーンベルガーも例外ではない。
「たしかに、私自身も真剣に危惧するほどではありませんでした。ましてや、南からではなく、北から来るなどとは」
それでも、彼らは来た。
二百年の沈黙を破り、彼らはなだれ込んできた。
「さすがに予想できないよなあ」
「ええ。それでも、結局は事が早まっただけです」
「事が早まった、か」
リディアは舌の上でエリの言葉を転がしてみた。
自分がもし彼女の立場にあったとして、それだけの事だと言い切る事が出来るだろうか。
出来ないだろう、とリディアは思う。
少なくとも、手を組む相手を信頼していない限りは。
「なるほどな」
すました顔をして黙ったままのミズキを見上げ、リディアは深く頷いた。
「ただ、一つ誤解を解いておかないといけないと思うのですが」
そこに、エリが小首を傾げて言葉を重ねた。
「私たちが協力するのは魔界ではなく、スオウ様たちです」
この言葉に、オリガが軽くのけぞるようにし、リディアは目を細めた。
しばらくエリを見ながら考えた後で、リディアは慎重にエリに尋ねかける。
「それは……大きな違いか?」
「ええ」
はっきりとエリが頷く。その琥珀色の瞳が、穏やかな決意を籠めてまっすぐにリディアを見つめていた。
「なるほどなあ」
もう一度、リディアは深々と頷くのだった。
†
「ところで」
もう一杯お茶を飲み始めたところで、オリガが尋ねかけた。
「カラク=イオとの同盟関係に利があると納得してるなら、なにがひっかかってるんすか?」
魔界や魔族への忌避感はこの際気にしてもしかたない。それらもひっくるめて、ショーンベルガーは有利不利を判断しているはずだ。
少なくともオリガはこれまでのエリの説明でそう判断した。
であれば、残るは個人的な感情となるだろう。
「皇子様が……その、気に入らない、とか?」
ミズキのまるで変化しない表情を気にしながらオリガがこそこそと言うのに、エリは驚いたように手を前に出し、ぶんぶんと振った。
「え? そんなことは! スオウ様はいい人です」
「そうなんすか」
その勢いに半ば呆れたように、オリガは頷いた。しかし、それならばなにが原因なのだろうか。
「はい。いい人です」
改めて言ってから、エリはちらっと横のミズキに視線をやった。
「まあ、その……。恋人さんはたくさんいますけど……」
「じゃあ、側室とかの悩みっすか?」
「いえ。スオウ様の御正室はサラ様ですから」
「……ですわね」
固い声で返すエリと、それに同意するミズキの様子に、これは軽々に触れるべきではないとオリガもリディアも悟った。
「じゃあ、なんだ? 皇子当人の問題じゃあないのか?」
ずばっと切り込むリディアに、はじめてエリは視線を逸らし、顔をうつむかせた。
「まあ、スオウ様の問題かと問われるとそういう問題ではなく……」
もじもじと手の指を絡ませながら、エリは小さな声で呟くように言った。
「……スオウ様のお嫁さんに私なんかでいいのかなあって」
恋する乙女の悩みじゃねえか!
思わず心の中で怒鳴ってしまうリディアであった。




