第3回:誤算(上)
しかしながら。
その頃人界では、皇弟たちの予想も、スオウたち自身の期待も裏切って、現実は思いも寄らぬ推移を見せていた。
メギの語った戦陣の様子は、ほぼ現実と同じものであった。
それは、彼の観察眼と知識が確実であることの証左であろう。いかにその評価の仕方が皇太子親衛旅団にとって悪意あるものであったとしても。
けれど、ただ一点。
真龍が姿を現さなかったがために、それはまるで意味のないものとなってしまっている。
街を囲んでから既に十日を過ぎるというのに、空が真龍で覆われるどころか、飛竜の一頭すらその姿を見せていないのだから。
「んー……なんつーか、暇だね」
両手を頭の後ろに回してぶらぶらと歩いているのは、フウロだ。放っておくとはねる性質なのか、後ろから見ると、その赤髪は短髪ながらつんつんと尖って見える。
「まあ、敵が現れませんからね」
そう応じるのは彼女の後ろを行くスズシロ。
その横にはスオウもいるが、彼は二人の会話に加わる素振りがない。
というのも、いま歩いているのが、配下の兵の誰が通りかかってもおかしくない陣中だからである。
そういった場所で、皇太子である彼に話しかけるとなると、スズシロもフウロも改まった態度を取らざるを得ない。
そんな気遣いをさせるのを嫌って、彼は口を閉ざしているのであった。
これが幹部勢しかいない天幕の中ともなればだいぶくだけられるのだが、一日中天幕の中にいるというのも味気ない。
そんなわけで、彼らは兵の士気高揚も兼ねて、ゆっくりと陣中を巡っているのだった。
三人は、数々の黒い天幕によって形作られている『道』を行く。
天幕群は所詮は木と布で組まれているとはいえ、その漆黒の色もあって、少々威圧的でもあった。
「しかし、これもうちの軍はいいけど、他は大変だな」
通り過ぎる天幕を横目で眺め、フウロが呟く。その後ろでスズシロが小首を傾げていた。同じように、スオウも不思議そうであった。
「なにがですか?」
「色だよ、色」
「ああ、なるほど」
魔軍の天幕は、大きさなどによって規格が何種類かあるものの、基本的には同一の製法でつくられている。
その過程で、防水塗料を塗布するのだが、これがかなり濃い赤茶色なのだ。そのため、黒や茶のような色以外に加工するのが難しい。
親衛旅団は黒太子の名の通り黒を象徴色としているため黒一色で問題ないが、他は大変だろう、というのがフウロの主張であった。
「たいていは、象徴色の布を垂らすくらいのようですが、メギ殿下の部隊は、上から別の布で覆ってしまうとか」
「やらされるほうはたまらないね……。ま、皇族直下の兵なんて、そういう部分も仕事ではあるけどさー」
そんなことを愚痴りながら、三人は天幕の群れを抜け、本陣の端へとたどり着く。
この陣では周囲に空堀を設け、そこで出た土を四隅に盛り上げて、見張り台としている。三人がまず目指しているのはその見張り台であった。
見張り台、とは言っても、現状ここに監視の人員は配されていない。
真龍の接近を発見するための要員は本陣よりずっと離れた所に用意してあるし、人の動向は包囲部隊が警戒している。
なによりも、このあたりは、リ=トゥエ大山脈から大陸中央部に徐々に傾斜しつつ続く大草原地帯の一部で、視界を遮るような自然地形などほとんどない。
この『見張り台』は万が一本陣で戦闘になった場合に高所を取って戦えるよう設置されているにすぎなかった。
むしろ、この見張り台に登ることで、本陣内部を一望できる効果のほうが大きかった。
そんなわけで、三人はなだらかに盛られた土のてっぺんに登って、陣内を観察していた。
「……たるんでいる、というほどではなさそうですね」
「そうだな。まあ、あんまりぴりぴりしすぎるのも逆効果っていうからなあ……」
「実戦を経験していらっしゃる旅団長の言葉は重いですよ。傾聴すべきです」
「まあなー」
兵たちの動きを見て、そんな会話が交わされる。
特に激しい訓練でも知られるフウロは多少不満もあるようだったが、ハグマから何事か言い含められているのか、あえて不備を指摘しようとはしなかった。
そんな彼女がふと体の向きを変え、手を掲げて目の上にひさしを作った。
「あっちはぴりぴりしてっけどな」
そちらには、彼女たちが包囲する人の城郭都市がある。
ここから見えるのは、二重の城壁と、その間にある畑、それに都市の中央に立つ城くらいのものだ。
人々の居住区は内壁のさらに内側にあるらしく、ここからは眺めることが出来ない。
だが、低めの外壁の上で、なにやら作業しているのは見て取れる。
おそらくは、そこに詰める兵たちが少しでも防御力を高めようとなにかの工夫をしているのだろう。
都市そのものを攻めるつもりがない魔族たちにしてみれば無駄なことを、という感覚ではあるが、なんとかしようとする気持ちは理解できるので、それについては口にしない。
「人はなんだって、あんな風に畑を囲い込んでるんだ? 家畜もあそこにいるっぽいけど」
その代わり、フウロは以前から疑問だったことを尋ねてみた。
城壁自体は、特に不思議ではない。魔界にも城塞はいくつかあるのだから。
魔界と違って綺麗に切り出した石と煉瓦を併用しているのは物珍しくも思えるが、それくらいだ。
「それは、あそこで食物を生産するからでしょう」
「いや、だからさ。このあたりを開墾すればいいじゃん。広いし」
いま彼女たちが立っている場所も、本陣を作る前は色濃く草が生える草原だった。おかげで騎竜たちに食べさせる餌には困らない。
草だけではなく、少し土を掘れば、コウラネズミとその餌である虫たちが顔をだすくらい肥沃な土地だ。
それだけに、なぜ農耕をするならこの土地を使わないのだろうとも思うのだった。
「我々ならそうするでしょうが……。彼らにとっては『浄化』されていない土地は毒まみれですよ?」
「え?」
振り返るフウロに、スズシロは北方を指さしてみせる。その先に、彼女たちが通過してきた谷があった。
フウロは、その谷で見た、きらきら光る岩がごろごろ転がる光景を思い出した。なにかの金属の塊らしきものが岩の表面に露出していたのだ。
「あー、そういやそうだっけ。ああいうのがあいつらには毒になるんだったな」
「そうです。彼らの家畜はまだましですが……。それでもこの高原には、リ=トゥエ大山脈由来の鉱脈が多いですからね」
「やっかいだなあ、人ってのは」
フウロはそうため息を吐くように言って、改めて城壁のほうを眺めやった。
あの壁の中だけが――人の言うところの『浄化』された大地のある場所だけが、人が食物を作り、生活出来る範囲なのだ。
それは必死で防衛しようと思うことだろう。
何とも言えぬ感覚に襲われて、彼女はじっと人の住まう都市を見つめる。スズシロもまた黙ったままだったのはなにかの感慨にふけっていたからか。
「我ら魔族はこの大地の特性に自らを合わせることを選び、神々は彼らだけの楽園を築き、人々は己が身をそのままに大地に抗い続ける道を採った。ある意味で、彼らこそが永遠の闘争者であるとも言える」
そんな中、発言したのはスオウだった。途端に残る二人の驚いたような視線が向くが、当人は口を開いた覚えもないというような顔つきでそっぽを向いてしまう。
なんとなくそれをきっかけに、三人は見張り台を下り、再び陣の中に歩を進めた。
しばらく行ったあたりで、うーん、と一つ唸った後、赤毛の女が確認するように尋ねかける。
「真龍だけどさー。予定だと数日で来るはずだったんだよな?」
「過去の記録だとそうなっていますから。相手は空を飛べるわけで」
「どっかで嵐とか……もありそうにねえな」
大地を行く者が地形に左右されるのに対し、空を行く者は気候状態に大きく影響される。いかに真龍とて、天候まで支配できるわけはないのだから。
しかし、見上げる空は見事に晴れており、この近辺の飛行を阻害するとも思えない。
横を歩くスズシロに、スオウがちらと目配せをする。その意図を察して、彼女はこほんと一つ咳払いをした。
「真龍が現れない理由として、考えられるのは三通り」
スズシロの拳が持ち上げられる。
「連絡手段の欠如、真龍と人類との盟約の変化、真龍が他の武装勢力へ当たっている」
ぴっ、ぴっ、ぴっ、と上がっていく指三本。フウロが振り返り、スズシロのほうを向いたまま後ろ向きに歩き出した。
「っていうと?」
「まず、大前提として『赤月盟約』については知ってますよね?」
「あー、うん。真龍が人を守るって約束だろ?」
「そうです。四百三十年前に起きた『大会盟』の破約に伴い、真龍族は人との間に新たな盟約を結び、人界の守護者となりました。魔族と神族、どちらの侵略に対しても、真龍は人界の平和を守るために力を貸すと誓ったのです」
少々心許ない返答に、スズシロは詳しく説明してみせる。
「と言っても、神界の支配は精神的なものが中心ですから、自然、真龍の武力は魔族へと向けられることになりました」
そこでスズシロは軽く肩をすくめた。
「……少なくとも二百年前までは」
「『双子の悪魔』の前までってことだよなー」
「そうなりますね」
沈黙が落ちる。
何とも言えないそれを引き起こしたのは、フウロの発した『双子の悪魔』という単語だ。
これは、魔界に存在する二つの火山――ザマ山とセンゲ山のことを指す。
だが、それだけではない。
彼女たちに、否、魔界の全ての民に様々な感情の絡み合った複雑な心境をもたらす、そんな重い言葉なのであった。
†
魔界全土を俯瞰してみるならば、北極海に突き出した二つの大型の半島と、両者に包まれる内海からなることがわかるだろう。
ザマ山とセンゲ山は、それぞれ東半島と西半島の突端にそびえ立つ。
この二つの山は、大昔――魔族が入植するよりもずっと前――には一つの巨大火山であったと考えられている。
それが、二万年ほど前、大噴火を起こした。
大火山そのものの大半が吹き飛ばされるほどの大噴火は周囲の地盤の沈下を招き、北極海の海水が大火山の南方にあった盆地に流れ込むこととなる。
これがいまに続く内海の誕生である。
ザマ山とセンゲ山は、いわばその大火山の残骸であったが、比較的活発な火山として、常に噴煙を上げていた。
それが、二百と八年前に、噴火した。
正確に言えばまずザマ山が噴火し、その七ヶ月後にセンゲ山も噴火したのである。
しかも、それまで幾度か起こしていた小規模な噴火とは比べものにならないほど、激烈なものであった。
ザマ山の噴火だけでも火砕流による直接的な被害、火山活動に伴う融雪によって起きた土石流、降灰による土地の荒廃と、社会を混乱にたたき込むには十分なものがあった。
その上、センゲ山まで同様に激しく噴火したのである。当然のように、魔界はとてつもない痛手を被った。
この二百年というもの、魔族はなんとかして自らの社会を再建することにだけ注力してきたと言っていい。
だからこそ、『双子の悪魔』――それは火山そのものであり、それがもたらした災厄全てを指す――という言葉に含まれた意味は大きく、そして、誰しもが重く感じているのだった。
だが、そんな災厄を背負う沈鬱な社会の雰囲気を吹き飛ばすためにも、スオウたちはここにこうして出張ってきているはずなのだ。
「こっちでも色々あったのかもしれないさ。色々と、ね」
沈黙を破ったのはまたもスオウだった。
今度は、二人も驚いたりはせずに受け流す。実際、スズシロは太子の言葉など聞いていないかのように、話を続けた。
彼女は掲げたままの三本の指のうちの一本を折る。
「さて、まず第一の連絡手段の欠如、ですが」
「んー。包囲を厳しくしすぎたとか?」
とっとっと、と器用に後ろ歩きを続けるフウロが彼女なりに考えられることを口にすると、スズシロは小さく首を振った。
「いえ、そうではなく、通信網自体が機能していないのでは、と」
「ん?」
「考えてもみてください。記録では、真龍は城市を囲んで数日で到達したとあります。関を出たのを察知していたとしても、徒歩、あるいは騎乗による直接連絡では間に合うものではありません」
「ああ、そっか……。いくら真龍でも、報せが届くのに何日もかかってちゃ、数日で来るのは無理だもんな」
「その通り。本来は緊急事態を即座に知らせる機構があったのでしょう。魔界のように雷樹の根を利用したものかもしれませんし、別物かも知れませんが……」
「なるほどね」
フウロが納得したところで、スズシロは今度は二本の指をまとめて折った。
「第二、第三の理由は、いずれも人界の情勢変化によるものです。これについては、情報不足すぎて、なんとも言えません」
「そっかぁ……。となると……」
何事か考えこむようにしながら、フウロがくるりと向きを変える。
実を言えばその行動は、兵が近くにいると気配で悟った彼女が、その兵を驚かさないようにと考えて取った行動であった。
自分の組織の幹部が、後ろ歩きでひょいひょいと飛ぶように進んできたら、驚かないまでも注意が向くものだろう。
陣中の兵は大半が軍務中なのだから、下らないことに煩わせてはいけないという、いわば彼女なりの思いやりであった。
だが、やはり、そこは兵とそれを率いる将校との感覚の違いであったろうか。
梱包された資材をとある天幕に運ぶよう命じられて陣中を進んでいた兵のほうは、ずいぶんと遠くの時点で一行が歩いているのに気づいていた。
そして、それからずっと注視していたのだ。
そう、ぴりぴりと気を張り詰めて、一挙手一投足に気を配って。
それが、いきなり大きな動きをしたものだから、ついつい慌ててしまった。
そのまま普通に歩いていれば、三人の進路を邪魔することもなく、ただ、敬礼してすれ違えたはずの彼女は、そこで地面のくぼみに足を引っかけ、つんのめってしまった。
「わっ」
それでも、魔族の身体能力からすれば、立て直すことは出来たはず。
だが、無理に体をひねれば手に持った資材を落としてしまうと判断した女性は、あえて倒れて自分の体で荷物を守ろうとした。
だが、次の瞬間に彼女は気づく。
己が大地にたたきつけられず、柔らかな、けれど力強いなにかに支えられていることを。
第3回登場人物一覧
スオウ:魔界の皇太子。あだ名は黒太子あるいは好色皇子
[皇太子親衛旅団]
スズシロ:参謀
フウロ:第一大隊長