第23回:偵察(下)
ネウストリア商会連合の議場に、緊張が走る。
それは、扉から入ってきた存在がもたらすものだ。
四肢と首につながれた鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら扉をくぐり抜けてきたそれを、何と呼ぶべきであろう。
四つ足で立っているというのに、その頭は人の背丈ほどのところにある。それを支える脚は、前肢と後脚で長さが極端に違っていた。
前脚は長くしなやかで、後ろ脚は太くがっしりと短い。
だが、いずれにしても、その筋肉に秘められた力の大きさは伝わる。おそらくは、鎖を解かれれば、すぐにでも跳ね回ることであろう。
そうなれば、あっという間にこの議場は血にまみれるはずだ。
それだけの暴力を予想させる外見であった。
ゆるやかに息を吐いている口は大きく、獲物の喉を食い破るのに適した歯が並び、足から出る爪は、大地にしっかりと潜り込むと同じように、獲物の肉にあっさりと潜り込むだろう。
だが、それらの点だけを見れば、大地にはびこる捕食動物と、そう変わることはない。
肉食の二脚竜や四脚竜のように鱗の生えた表皮ではなく、分厚い毛皮をまとっているのは珍しいが、同じように毛を生やしたコブトラやフクロオオカミのような種もいないことはない。
しかし、それらと決定的に違うのは、その顔と目だった。
人間の顔を押しつぶし戯画化したかのような顔と、意志の強い光が宿る瞳。それは、知性すら感じさせる。
獣であるはずなのに、人の名残を感じさせる。
それ故に、人々はそれを嫌悪し、恐怖するのだ。
「皆様、そのように恐れずともよいのですよ」
その存在を招き入れた男がすっと椅子から立つ。鎖を持って『それ』の傍に立っていた部下をも退け、『それ』ののど元に手を伸ばす。
それを見る誰もが、反撃か、あるいはそうでなくとも『それ』が身を引くと思った。端を持つ者が下がったため、鎖にはその程度の余裕があったからだ。
だが、『それ』は動かなかった。
男の動きを歓迎するでも、受け入れるでもなく、微動だにもしなかったのだ。
「よし」
男は言うと、ひゅっと息を吐いた。議場にいた者のうち数人は、その時甲高い音を聞いた。ほとんどの者が聞き取れなかったのは、音が小さかったからではなく、人間の耳が捉えきれるかどうかという類の音であるからだ。
ただし、『それ』にはその音ははっきりと聞こえるらしい。それまで動きもしなかったのが、ぺたんと尻を落とし、次いで前脚もたたんで床に伏せたのだ。
「これが、『猟犬』です」
今度は伏せた姿勢のまま動きを止めた『それ』を前に男は言い、議場に集まる皆の顔を見回した。
「我らの道具」
ゆっくりと、全員の頭に染み渡るように、その言葉を発する。
「なるほどな……」
誰かが納得したように言い、部屋の空気がようやくのように弛緩した。
「しかし、大きいな」
「ああ、狩猟人は見たことがあるが、一回り……いや、それ以上に大きいか」
「ですが、狩猟人を率いるのならば、大きさ、いえ強さもこの程度でなければならないのでしょうな」
「うむうむ」
口々に満足げな声を漏らす商会代表者たちを、若い男は嬉しげに見守った。
それからまたも口をすぼめて息を吐き、なにごとか命じる。すると、鎖を持つ男たちがひきずられるような格好になりながら、『猟犬』と呼ばれた存在は議場の扉をくぐり、外へと戻っていった。
「試験に用いている『猟犬』の様子はわかった。うまく扱えているようで喜ばしい限りだ」
扉が閉まったところで、年老いた男がまとめるようにそう宣言するように言う。緊張の後で揺るんだ空気が、再び話し合いの雰囲気へと変わっていった。
「だが、あれ一頭では話にならん。増産の予定はどうなっている?」
「そちらも順調です。一月もすれば二頭目が投入できるでしょう。その後は半年から一年をめどに五頭まで増やします。そうすれば、常に三箇所に狩猟人どもを投入することが可能となります」
その言葉に、疑問の声が上がる。
「五頭おるなら五箇所でよかろう」
「いやいや、あれとて疲弊しましょう」
「ああ、なるほど。交替も含めて三箇所ですか。人足と同じですな」
「奴隷と同じ、とは仰らないので?」
「奴隷ならば使い潰しても惜しくはありますまい?」
「これはこれは」
いくつかの笑いが起き、若い男はその様に苦笑を浮かべるしか無かった。改めて、先ほど場をまとめた老人が発言する。
「順調ならばよし。だが、これまでは情報の秘匿もあって一任してきたものの、実用化となれば、ある程度は知らせてもらわねばなるまい。今後は定期的に報告が欲しいな」
「もちろん、結構です。連合がそう決めたのならば、私も当然に従います」
「よかろう。では、そちらも決を採ろう。『猟犬』に関する情報を、商会連合代表者の間で共有することに賛成の者は挙手を」
提案者と、要求されている当人である若い男以外の全ての手が挙がり、これもまた可決された。
「では、そのように」
にこやかに若い男が微笑み、商会連合の会議は終わりを告げる。
そうして、彼らは――ネウストリアに混乱をもたらす戦を強烈に推進する彼らは、それぞれの活動へと戻っていく。
奴隷を狩り、奴隷を使い、奴隷を買い、奴隷を売る、日常へと。
†
ドミニクが、それを打ち明けられたのは、三番目の配属部隊でのことであった。
「つまり、君の話を総合すると」
部隊の先輩でもあり、教育係という立場にある魔族の女性――金剛宮ヒタダミのウツギの言葉に、考えるようにしながらドミニクは言う。
「僕が男であるか女であるかを察知させないような仕草をしているのに、違和感を覚えるということだね?」
「いや、正直気持ち悪い」
「気持ち悪いってそんな……」
がっくりと肩を落とすドミニク。その芝居がかった仕草も、計算されたようにしか見えないのだから、魔族にしてみれば警戒しても当然だ。
当人にそれを言ってもわかるのかどうか、ウツギには予想がつかなかった。
「正直に言えって言ったのはあなたじゃないの」
「そ、それはそうなんだが、こう、手加減というものをだね」
「生意気言わない。それともお客さんのつもり?」
「う……」
黙り込むドミニクを他所に、ウツギは周りの仲間たちの様子を窺った。
彼女と同じ部隊に所属する魔族たちは、その視線の先でいくつかの布や人界の服を自分の身にあてて、きゃいきゃいと何事か言い合い、笑い合っている。
いま、彼女たちの部隊は、ショーンベルガーの仕立屋に来ているのだった。
雰囲気は緩いものの、これもれっきとした軍務である。
今後の人界への潜入のため、人間たちの身に着けるものに慣れておこうという試みである。
これまでは、そうした潜入任務に長けた者や、任務前に必要となった者たちが行ってきたことだが、今後の活動拡大に向けて、多くの隊員が命じられていたのだった。
ことに偵察大隊の者はその比重が大きい。
だが……。
「ちょっと」
言って、彼女はドミニクを店の隅へと引っ張っていった。仲間たちと布地を見るより、いまはドミニクと話をすべきだと判断したウツギであった。
「いいのかい?」
一方ドミニクは周りを示して問いかける。ウツギは厳しい顔で首を振り、断固として店の隅に向かった。
「ええ。私はあなたの話を聞くことも任務のうちだから」
「なるほど。この僕のことを探れと上から言われているというわけだね?」
「そんなことは言われてないわよ。だいたい、なんで、上があんたに興味持つと思うの」
「そう売り込んだからに決まってるじゃないか」
「ふうん」
自信満々の態度にウツギはひるんたような顔つきになったが、とりあえずは流しておくことにしたようだった。
実を言えば、ドミニクの言う通り、探ってみるように言われてもいる。
この場合、ドミニクの来歴がどうこうというより能力の方が重要視されているのだが、当人にとってはそれでも狙い通りであろう。
「で、実際どうなの?」
「男だとか女だとかいう話かい?」
「うん」
もちろん、ドミニクがカラク=イオの中でも軍にも関わると決めた時点で、監督官により体の隅々まで調べられ、記録が取られている。
だが、書類上のことより、魔族に対してまで偽装することの出来るドミニクの口から直に聞きたいという気持ちがウツギにはあった。
「もったいぶるようなことではないけど、肉体的には女性というやつだろうね」
「だろう?」
「僕には性というのがよくわからないんだよ。そうして育てられたものだから」
無言で促すウツギに、ドミニクは素直に言葉を続ける。
「僕の養育者……まあ、世間的には両親と呼ばれるであろう存在は、僕のことを去勢された男性として育てたんだよ」
「はい?」
「男性器を切除した男性ってこと」
「いや、わかるけど。なんの意味があるの、それ」
目をぱちぱちとしばたたかせているウツギを、ドミニクは冷ややかな目で見つめる。
「血縁者ならば考えがわかるとでも思うのかい? さすがにそれはあまりに浅薄な思い込みというものだろう。まあ、僕としては、あれらとの血のつながりも否定したいところだけどね」
「ああ……うん。そう言われればそうよね。ごめん」
素直に謝るウツギ。その様子に、ドミニクは拍子抜けしたようだった。
少ししてから、穏やかな調子で先を続ける。
「どんな意図があったかはともかく、男性器が無いこと、声変わりなどの男としての成熟の様子がないことをしばらくのあいだごまかす効果はあったし、その後も混乱させる効果はあったね」
「……家の中でそう信じさせられていたら、疑いようもないものね」
「その通り。僕の世界が広がるまでは、疑いを持つこともなかった。だから、僕の男女観は後からできあがったもので、それ故にいまひとつ馴染んでいないんだ」
その言葉に、ウツギは考え込むように黙り込む。
彼女はその思考と共に視線を忙しなく蠢かし、最後にじっと真っ直ぐにドミニクを見つめた。
「あなたのその話が本当なら……」
「いや、嘘だよ」
「え?」
間髪を容れず帰ってきた言葉に、ウツギの喉がひゅっと鳴る。
「全部、嘘」
ドミニクは軽い調子で言い、ひょいと肩をすくめた。
「実を言うと、あと何種類か、似たような出生の秘密を考えてあるんだよ」
「あ、あなたねえ……」
「ただ、困ったことがあってね」
怒りにまなじりをつり上げるウツギをよそに、ドミニクは真剣な調子で首を傾げる。
「真実味を出すために、一つ一つの話を信じることにしてみたんだよ。そうしたら、どれも本当のことのように思えて、僕自身、どれが僕の生い立ちだったのかさっぱりわからなくなってしまったんだ」
「はぁ?」
「僕はどうしてこうなってしまったんだろうね。あるいは、どれも真実では無いのかもしれないな」
そんなことを言うドミニクに、ウツギはもはや言葉を発する気力も無い。
だが、その一方で、彼女は目の前の人物が、泣いているかのような錯覚を覚えた。
「一つ確実なのは、いまここにいる僕にとって男女の性差なんてものは大したものではないってことだよ。自分のものも、他人のものもね」
そうして、ドミニクは笑うのだった。
「それだけだよ」
寂しげに、けれど、どこか誇らしげに。
†
抜けるような青空。
それを横切っていく一頭の竜の姿がある。
だが、それに気づく者はいないだろう。
その空色の鱗は、周囲の景色を反射して余計にその存在を視認しにくくしていたし、なによりも、眼下に広がる森の中から上を見上げたとしても、木々の葉が彼女の姿を隠していたはずだ。
森の上を行く空色の竜――ラー=イェンという名を持つ真龍はその翼をほとんど動かすこと無く、気流に乗って、高空を滑るように飛ぶ。
彼女の遥か下方には鬱蒼とした木々を抱える森が広がっているが、その左手――東に飛ぶ彼女から見てのことであるから北方――には峻厳な山並みがある。しかも、彼女が進むにつれ、その高山群はこちらに近づいてくる。
リ=トゥエ大山脈がぐっと南方に突き出した大突出部。そこにラー=イェンは近づこうとしていた。
空色の真龍はその高山の群れをしばらく眺めていたが、すっと右手に向きを変え、南東のほうへ向かう。
そのまま彼女は誰にも見えぬ境界を越え、人界北西部から人界北東部の上空に入ると、かつてのソウライの都ハイネマンを目指す。
正確にはその郊外に設けられた魔族の出城を。
陣城には及ばぬまでも、土盛りで囲まれた出城に見事に着地すると、ぐうとのど元を開いて、人身と龍身にその身を分けた。
龍身は再び空に舞い上がり、人身は近くにいた魔族に着るものをもらって、城の中の天幕へと向かう。
司令部天幕に着く頃には、龍身の体液で濡れたところも拭って一応の体裁は整えられていた。
ただし、肌の上に直接一枚羽織っているだけなので、人界の基準では、はしたないということになるかもしれない。
とはいえ、この出城内にいる人間はごくわずかに過ぎない。魔族と真龍のほうがずっと多く、それらの常識では、さほど気にされるものでもなかった。
「ラー=イェン。戻りました」
「お帰りなさいませ」
優雅な声で彼女を迎えるのは、灰金の髪の『毒姫』ミズキ。現在のこの出城の責任者である。
彼女は書類に目を落としながら、ぶらぶらと足を揺らしていた。
苛ついているのか、あるいは退屈しているのか。まだつきあいの浅いラー=イェンには判断がつかない。
だが、慎重に対処するにこしたことはないだろう、と彼女は思う。
ラー=イェンは真龍と魔族との同盟における真龍側の代表者である。おかしなことをして、彼女の主たる真龍の長ツェン=ディーの顔を潰したくは無かった。
「もう少ししたら、うちのウズが参りましてよ。それまで、一息おつきなさいな」
「ありがたく」
言って、ミズキは天幕に詰めている者に茶を用意させる。ラー=イェンは言葉通りありがたくそれをいただいた。真龍にとっては人界の茶は少し渋みが強い傾向にあったが、魔族たちの入れ方ではそれほど渋さが目立たないので、彼女としてもすんなり受け入れられた。
あるいは、種族の根が同じことも関係しているのだろうかとも思う。
「いかがでして、ネウストリアの空は」
茶を味わっていると、ようやく書類から目を離したミズキがそんな問いを投げかけてくる。
ラー=イェンはごく素直に応じた。
「面白いですな。ことに、すぱっと森が途切れてアウストラシアの平原と綺麗に分かれているのが」
「ネウストリア種というのはそういうものらしいですわね」
「ええ。人界全てが森で覆われずに済むのはありがたいことではありましょう」
茶を味わいながら、そんなことを話していると、司令部天幕に一人の女性が入ってくる。
わたわたと慌てたようにミズキたちに近づいてくるのはキズノのウズ。防諜部隊の副隊長である。
「遅くなりました」
「そんなに待ったわけでもありませんことよ」
「はい。それでもお待たせしました」
緊張した様子で言って、ウズはきびきびと応じる。
ラー=イェンは何度かこの人物に会っているが、常に緊張感をもって接してくるところを気に入っていた。
それが、破壊工作のために潜入していたら、暗殺失敗を機に取り立てられたという奇妙な経緯で防諜部隊の副隊長になってしまったウズの精一杯のやり方なのだということまでは、彼女にはわかっていない。
「では、お二人の報告をそれぞれお聞かせかいただけまして?」
そうして、ラー=イェンは真龍を用いて、ウズのほうは防諜部隊に増員された人員を用いて集めたネウストリアとその周辺情報を各々ミズキに報告し始める。
「なるほど……。まず、ネウストリアの実情はおくとして、周辺に何事もなさそうなのは朗報ですわね」
「確かに。腹背両面に敵を受けるなど考えるだけで滅入ってくるというもの」
「とはいえ、気は抜けません。ネウストリアの西は海ですから西側は気にしなくていいとして、背後の東方に占領地を残し、北には魔界があり、さらに南は我らにはいまだわからぬことも多い土地です」
安堵したように言うミズキたちに、ウズは厳しい声で告げる。
その様子をミズキは面白そうに受け止めていた。一方、ラー=イェンは少し首を傾げ、思い出すように言う。
「しかし、南方は人界では『穢れた地』として忌避されているのではなかったか? 抜ける術を持つ者も少ないとか」
ラー=イェンが指摘するように、ネウストリア南方は『黒森』と呼ばれる忌み嫌われる土地であり、さらに南方の『荒れ野』に繋がる地域を抜けられるのは限られた者たち――主にゲルシュターの隊商団――だけだ。
だが、それは……。
「仰るとおりです。しかし、それは人界の常識に過ぎません」
「……まあ、そうですな。そこから外れている私たちが言うことでも無いか」
ラー=イェンは感心したように頷いた。
真龍は空を行くし、魔族に人の忌み地は意味を成さない。
そうした存在が南方にあるかはわからないが、安心しきることは許されないことだろう。
「とはいえ」
ミズキはゆるやかに巻き癖のついた灰金の髪を指にからませながら、楽しげに笑う。
「優先順位というものがありましてよ」
「はい。わかっております」
南方の警戒という意味で言えば、ゲール帝国第十一皇女の存在もある。秘密同盟を結ぶリディアの情報が間に合わないほどの激変はいまのところ予想しがたかった。
それでも、警戒は続けた方がいいという意見も間違いではない。
そこで、ラー=イェンはふと思いついたことを尋ねてみた。
「魔界の方は、実際には?」
「鳳落関に関しては、しばらく前の小競り合い以後、沈黙を守っております。陣城にも近く、監視は続けておりますが……」
「なるほど。しかし、こちらにも関はあるのでは?」
「ありますわね。虎伐関、竜絶関と」
ウズの答えにさらに質問を重ねるラー=イェンに、ミズキが応じる。
「場所で言えば、竜絶関がネウストリアとアウストラシアの境、リ=トゥエ大山脈の大突出部にあり、虎伐関はかつてのカライ近辺にありましてよ」
言いながら、ミズキは卓に置かれた地図の上で指を蠢かした。
カラク=イオが用いる地図は真龍との同盟以後、格段に精度を上げている。なにしろ、上空からの情報があるのだから、まさに見てきたように描くことが出来る。
ラー=イェンもミズキが指差した場所を地図から読み取り、飛行の際に得た感覚とすぐにすりあわせることが出来た。
「ただし、虎伐関のほうは、諸々の報告を聞く限り、いまやその周辺に都市がありませんの。いずれも森に飲まれたのでしょう」
「ああ、たしかにカライ王国の崩壊後は、そういうことがよくあったようだ」
「おそらく、そちらから魔軍が長駆して攻め込んでくるなどということはありませんでしょう。そもそも我らが西へと攻め込むことなど察知しているわけもありませんもの」
「となると、竜絶関か」
ラー=イェンはついつい嫌そうにその関の名を口にした。真龍という種族からすれば、その名が持つ意味を嫌悪するのは当然であろう。
「いえ、それもないのではないでしょうか。竜絶関はリ=トゥエ大山脈の中でもかなりの高地にあります。空から攻めてくる神族を警戒するための監視場所であって、人界への入り口とは言い難いものです」
「歴史上も、あそこから攻め寄せたことはありませんわね」
「ふうむ」
ウズとミズキの二人に言われ、ラー=イェンは小さく首を振る。
「では、やはり鳳落関。つまりはソウライ」
「ええ、根拠地こそが最も重要。占領した民や、南方の戦王国群も含めて」
「ふうむ」
今度はラー=イェンが地図の上で指をひらめかす。
それから、彼女はふっと微笑んだ。
「東方には我らの本拠地もあります。いざとなれば即応は可能ですな」
「可能ですわね。そうしようと思えば」
その言葉にラー=イェンの人身はすっと目を細めずにはいられなかった。
「我らが裏切るとでも?」
「まさか。ただ、窮地に陥った我らを救うほどの義理もないとは思いませんこと?」
口元を隠して尋ねるミズキに、ラー=イェンは先ほどと同じような微笑みをもって応じた。
「残念ながら」
首をふりふり、彼女は言う。
「我らは……いえ、我が主ツェン=ディーは、なかなかに義理堅いのです。それに」
「それに?」
「あの方は、一度やり始めたことを途中でやめるのがお嫌いなのですよ」
こればかりは自信を持って、彼女は言い切るのであった。