第1回:過誤
「一体どういうことなのです」
戦場から帰還したマハーシュリーは、マハ・メルに帰ったその足で、大神ヴリトラハンの元に出向いた。
識空間に接続することもなく物理的に顔を合わせることにしたのは、最初に彼に浴びせかけた言葉でもわかるとおり、彼女の感情が荒れ狂っていたからだ。
感情を制御できない状況で情報空間に接続した場合、意思疎通どころか、ろくに言葉を交わすことすら難しくなる場合がある。
それよりは、声を荒らげてもなんとか通じる物理空間で、と考えるくらいの冷静さは彼女にもあった。
ただし、ヴリトラハンが寝そべりながらその四本の手を使って器用に書類を繰っているところに、ずかずかと踏み入るくらいには頭に血が上っていたのも確かだ。
「世界維持神の考えることは一つ。神界の安寧だ」
一方、茶褐色の膚にぎょろりとした目、たくましい四本の腕という、異形の姿を持つヴリトラハンは、シュリーのたたきつけるような抗議に顔色も変えなかった。
常に恐ろしげな顔をしているため、顔色をうかがうのが難しいのはおいておくとしてもだ。
「彼は……いや、彼らはそのために作り上げられ、いまもそのために活動している。知っていることだろう?」
「衛星軌道から砲撃を加えることが世界の安寧のためになると!?」
「そう判断したのだろうよ」
ヴリトラハンは体を起こし、四本の腕のうちの一つを使って己の額をこすった。
「崑崙の東華帝君も賛同してのことだ」
「しかし……!」
シュリーの上官は、声を詰まらせる彼女の様子を見て、ため息を吐くように言った。
「落ち着きたまえ、シュリー」
その呼びかけに、シュリーは息を呑む。
上司である彼の目に、これまで見たことの無いような感情の高ぶりがあることに気づいたためであった。
「まずは腰を下ろすといい。幸い、話す時間はある」
「はい」
すすめに従い、ヴリトラハンの部屋が用意した――床が盛り上がって形を為した――椅子に腰を下ろす。
ゆっくりと椅子自体が、彼女の体を支えるのに最適な形状に変化していくのを感じながら、ようやくシュリーの頭は冷え始めた。
「先ほど、世界の安寧と口にしたが、ナーラーヤナにとって守るべき安寧とは、神界のそれであって、外の世界のことではない」
「それは……」
ヴリトラハンの言葉に反論しかけたシュリーは言葉が続かずに、唇を噛みしめる。
彼女がどう思うかは別として、神界の指導層、あるいはその層の意を受けた者たちが気にかけているのが神界であって世界全体ではないことは間違いの無いことなのだから。
それでも、彼女はなんとか声を絞り出した。
「我が身を守ることは重要です。それを無視してまで、よそを尊重しろとまでは私も言いません。しかしながら、今回のやりようは度を超しているのではありませんか?」
ヴリトラハンはそれに対して否定も肯定もしない。ただ、彼女に仕草で先を促した。
「一定の地域を吹き飛ばすほどのことをしたのですから、よほどの危険があると判断したのでしょう。しかし、それは本当に神界の危機なのですか?」
「最高級の機密が関わっていることは間違いない」
「私には話せない類ですか」
シュリーは、マハーシュリーだけではなく、ヴァイシュラヴァナの名を継いだことで、神界でもなかなかに上位の地位を占めるようになっている。
それでも、神界の機密の全てに触れられるわけではない。ヴリトラハンは承知していても、彼女が聞くわけにはいかないものもあるのだ。
「いいや。誰もが知っていることさ。あの書物だ」
「またかび臭いものを」
つい口に出してしまった後で彼女は顔をしかめる。その様子に、ヴリトラハンは苦笑に近い表情を見せた。
だが、それは彼女の本音であった。
ヴリトラハンの言葉通りであれば、それは神界が生まれたその日からの、すなわち最古の秘密だ。
古くさいと思うなというほうが難しい。
「古く、そして、深い秘密よな。あれが人界に伝われば、彼らに怨嗟と蔑みの目を向けられると信じている者たちは多い」
「時代錯誤に感じますね」
鼻で笑うようにして、彼女は言う。
「そもそも、あれは後に明かされることが前提のものではありませんか」
「気をつけろ。物言いが魔族のようだぞ」
からかい混じりの言葉ではあるものの、その響きはどこか真剣な調子を帯びている。
それはヴリトラハンの気遣いでもあるだろう。当然、シュリーとしても余計な疑いを招くつもりはなかったため、すぐに否定の言葉を告げた。
「あのような急進的な者たちと一緒にされるのは心外ですね。私は事を焦って、最悪の事態を招くような愚か者ではありませんよ」
「そうであってもらわねば困る」
形だけでも安堵した様子を見せる上司に軽く笑みを見せながら、彼女は続ける。
「いかにいずれは周知されることであろうと、時機というものがあります。魔族どもが背反した時代にかの秘密を持ち出せば、混乱が生じるであろうことは容易に想像出来たことです」
「そうだな。神界のほとんどもそう考えた。結局は出て行くこととなった奴らを除けば。……まあ、当時のことはいい。誰もが同じ結論に至るだろう。だが、現状については独自の意見を持っているようだな」
「ええ」
熱を込めて、しかし、慎重に彼女は頷く。魔族と同一視される危機感が、シュリーの頭を冷やしていた。
「先ほども言った通り、かの秘密は本来、時機を見て明かされるはずのものでした。ところが、魔族の前身たる急進派が急ぎすぎたせいで、穏健派でもある主流勢力は、かえって秘密の保持を強固なものとし、それはいまも続いているわけです。しかしながら、人界の状況に鑑みれば、これは過剰反応と言うべきものだと思いますね」
「過剰かな?」
「ええ、端的に言えば、怯え過ぎです。おそらく、古くから生きておられる方々にとっては、神界の分裂を招いたという事実がことに重いのでしょう。故に、人界の現状を見ずに、ただ、拒否しておられる」
「人界を見ずに……か」
かつてこの大陸に神々が降臨した時代と比べ、神々は人界への干渉を徐々に減らしつつある。
それは魔族が神界を割る以前より既定の路線であったし、なにより魔族や、崑崙相手の覇権争いの中で、それほど人界に構っていられないという事情もあった。
いまでは神聖連邦に対して助言や物資の提供を行う以外には、組織的な行動を取ってはいない。
気まぐれに人界に赴く者が時折いるにはいるが、それは所詮一時のことだ。
結局の所、彼らの主要な情報源は、いまも連絡を保つ神聖連邦ということになる。
だが、それは所詮は一国家を経た間接的なものに過ぎない。
そんな中で、四方の守護を任されたシュリーたちは、大陸の上空の巡回を務めとして行っていたし、直接的な情報収集もまたその任としていた。
彼女たちこそが、最も頻繁に人間社会に顔を出す神々なのだ。
そんなシュリーが言葉にするが故に、その言葉は重みを増した。
「人界は変わっております。少なくとも、先達たちがこの地に降り立った時とは異なります。彼らは、この現代で、苦労しながらも、いまこの時を生きております。あまりの惨めさと苦しさに、目の前にある世界を否定し、過去の栄光にすがりついていた……。そんな時代とは違うのです」
「そうかもしれんな」
ヴリトラハンは一つ頷いてからぎょろりとしたその目で彼女を見た。
「なあ、シュリー」
「はい」
「個人的に言えば、人界というのは、庇護と善導の対象であると、そう捉えている。もっと踏み込んで、共にこの大地に生きる仲間だと思う者たちの意見も理解できるつもりだ。たとえば、俺の同期のように神界を出て人界に住まうのも、悪くは無いと思う程度にはな」
「ああ……」
シュリーはヴリトラハンの言葉に何かを思い出したかのような表情になる。
「たしか、百年ほど前に神界を出て以来『転生』も拒否して体が老いるにまかせているとかいう?」
「そう。その神……いや、人物だよ。しばらく前は、どこぞの皇帝に娶られて、子ももうけたとか」
「……自らの体で出産を?」
件の人物について、色々と噂は聞いていたが、さすがに人界で子を成しているとまでは知らなかったシュリーは目を剥いて身を乗り出した。
その様子にヴリトラハンはにやりと笑みを浮かべ、大きく頷いて見せた。
「その通りだよ」
「なんと」
数年や、場合によってはもっと長く、人界に出て行く者は時折いる。
だが、肉体が劣化するまで人界に留まる者はまずいない。
いや、そこまでは一つの覚悟としてシュリーにも理解できるが、妊娠、出産となれば、その危険は計り知れない。
まして、人界は神界ほど設備が整っていないはずなのに。
「あれは酔狂な神だったからな。まあ、それはともかく」
懐かしむように言ってから、ヴリトラハンは口調を元に戻した。
「そうした……血縁とまで行かずとも、人とわかりあい、つながりを持つことを、俺はけして否定しない。だが、それはあくまでも個人的な思いだ。神界全体に通じるものではないし、ましてや、涅槃におられるご老人方には理解すら不可能だろう」
「しかし……」
「わかっているとも、シュリー。人界の人々が、いまだ大欧州の夢を見ているなどというのは妄想でしかないと」
彼女の言葉を遮って、ヴリトラハンは続けた。
「繰り返しになるがな、シュリー。彼らにとって、人界とは庇護と善導の対象ではない。制御を過てば、暴走する恐怖の対象なのだよ。なにしろ、数だけで言えば人界のほうが圧倒的に多いのだから」
「……故に、制御出来ない要素が出てくれば、吹き飛ばすしかないと?」
「そういうことになる。たとえ、それに誰が巻き込まれようと、そして、何度だろうと彼らはやるだろう」
シュリーは何度か口を開きかけ、結局、じっと黙り込んで己の中の思考に沈んだ。
「わかりました。納得はしませんが、どうしようもないということは理解しました」
しばらくして、彼女はそう言って顔を上げた。
凛とした顔をよけいに張り詰めさせながら。
「しかしながら、私にはやはり過剰かつ時代錯誤であると感じられます」
「その意見は受け止めておくとしよう」
それから、彼は四本ある腕で器用に肩をすくめた。
「いかに上が理不尽であろうと、君が曲がる必要は無いからな」
「それをあなたが言いますか」
「俺以外が言えば、これさ」
ヴリトラハンはとんとんと首の後ろを手刀で叩く。その仕草に、強い警戒の意をシュリーは感じ取っていた。
「私もあなた以外の前では口を慎むとしましょう」
「そう願うよ」
それを最後に、シュリーはヴリトラハンの部屋を辞した。
本来は打ち合わせておくことが数多くあったのだが、それは情報空間を通じてやればいいことだ。わざわざ相手のくつろげる場所に邪魔する必要は無い。
「だが、それでも」
ヴリトラハンの部屋を離れ、自分の館に向かう途中、彼女はどうしても我慢しきれずに、息を漏らす。
「これは間違っている」
歯を食いしばり、言葉を噛みちぎるかのような勢いで、彼女はそう吐き捨てるのだった。
†
生える草は無く、這う虫は見えず、鳥の鳴き交わす声は聞こえず、飛竜の姿はその空に無い。
それはまさに荒野であった。
全ての命が死に絶えた土地。その名をヴェスブールという。
だが、いま、その土地にいくつもの天幕が群れを成している。
百人が入っても余裕のありそうな大天幕を中心に、大小取り混ぜた天幕群が、いま、まさにその地に展開しようとしていた
その様子を眺めている二騎の騎馬がある。
一方には壮年の男が乗り、もう一方には朝の陽の光のように輝く髪と青い目を持つ女性が乗る。
だが、男の生き生きとした顔つきとは対照的に、若い女性のほうは表情という表情を無くしたかのようにも見える。その視線すら、どこかぼんやりと定まっていないようだ
そんな女性の様子に気づいているのかいないのか、男――クラウスフレート・ゲデック侯爵は、静かに天幕を指差した。
「私は、ここにヴェスブールを再建するつもりだ」
そこで、ゲデック侯爵は小さく笑う。
「とはいっても、橋をかけるつもりはない。いや、かける必要が無いのだ。あれを見たまえ」
そう言って、彼は右手側を示した。その手の先に、焼けただれた大地の上を行く水の流れがある。
だが、それは以前のヴェスブールの橋の下を通っていた河とは少々様相を異にしていた。
「例の攻撃によって、セラートの流れが変わってしまった」
そう、かつては浅いとはいえそれなりの流量のあった河は、いくつもの流れに分かれ、しかもゆっくりと進むようになってしまった。
一部は地下に潜ったものもあるのではないかとカラク=イオの調査班は推測しているが、いずれにせよ地上部分での流量が減少したのは間違いない。
「さすがに歩いて渡るのは困難だが、獣を使うか、泳ぐ技能を持つ者なら可能となるだろう。幸い、魔族は水泳の技能を持っているからな」
そこで、彼は顎をなでながら、考えるようにした。
「ともあれ、水泳技術者を育てるのは、まだ先のことだな。まずは対岸との間に綱を張り、馬や牛を使う。それに、艀も浮かべる予定だ」
その様子を思い浮かべているのだろうか。ゲデック侯爵の瞳はきらきらと輝いていた。
「なにやら南方の技術を取り込んだ、しっかりとした艀があるらしくてな。それを連ねて浮かべ、橋とするのもよいだろうと殿下は仰っておられたが……」
彼は首を一つ振って苦笑を浮かべる。
「まあ、方式はどうでもよい。大事なのは、この地に流通の拠点を設けることだ。かつてのように街を築く必要もない。商人たちには天幕を持ってきてもらえばすむことだ。いや、倉庫だけは必要か? しかし、そうなると……」
それからも、彼はこの地に築き上げられる未来図を語り続けた。
死んだ大地に再び人の営みを取り戻す計画を。
だが、もう一人の女性――旭姫とも呼ばれるローザロスビータ・ミュラー=ピュトゥは、それになんの反応も示さない。
ただ、馬の背でゆらゆらと小さく揺れているだけだ。
彼女の乗騎であるヨロイウマなどは、果たして自分の背に乗っているのが人間であるのかどうか疑うかのようなけげんな様子を見せている。
「興味が無いかね?」
直接的なそんな問いかけにも返事は無い。
ただ、ぼんやりと彼女は目を開けている。
だが、その瞳に映っているものはあるのだろうか。
あるいは、彼女の意識は、そこにあるのだろうか。
「まあ、仕方あるまい」
しばらく待っていた侯爵であったが、根負けしたかのようにため息を吐いた。
「君がショーンベルガーに発つ前に、話が出来るようになればと思っていたが、やはりなかなかに難しいものだな」
彼女の顔を真っ直ぐに見ての語りかけにも、ローザは反応するどころか、視線すらよこさない。
そんな彼女の様子に、ゲデック侯爵はもう一つため息を吐いた。
「はたして時が解決してくれるものかどうか……。さてはて」
そう言って、彼はローザの馬の手綱を取り、ゆっくりと導き始める。
完成に近づいている天幕の群れの中へと進んでいく間もずっと、ローザはなんの反応も示さなかった。
ただ馬に揺られるだけの彼女の様は、まるで魂がどこかへ行ってしまったかのようで、ひたすらに空虚であった。