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だれ?
「だれ?」
少女の言葉に、表情の無い男の目元が微かに動く。
「…………誰、と訊かれましても」
少女が一ヶ月前に越してきたこのマンションは、母親の職場から近かいことだけが利点の物件だった。
ビルに囲まれ、陽が入らないので昼間でも暗い。
夜の街で仕事をしているた母親の姿は無く、部屋の中にいるのは5才になったばかりの娘……“ここな”だけ、だった。
備え付けの旧式のエアコンが時折耳障りな異音をたて、カーテンの無い窓には一週間前からそのままの洗濯物。
シンクは惣菜のプラスチック容器、ペットボトルや飲料缶、使用済みの割り箸などが占拠している。
2LDKのその部屋は収納スペースが少なく、片づけが苦手な家主はそれを理由に引越しの荷を中途半端なまま放置し。
必要なものがあるとダンボールを漁り、目的のものを取り出すといったことを繰り返していた。
「名前を持たぬ私には、答えようがありません」
雑然とした空間に突如現れた男は、目の前に立つ薄汚れた小さな生き物……ここなの問いに、そう答えた。
正確には。
それは答えになっていないかもしれないが、名の無い男はそう答えるしかなかった。