No.5 囁きの行方
帰りの車の中は恐ろしいくらい静かだった。
彼は何も言わず、真っ直ぐ前を見て運転している。
私も無言で外を見ていた。
…ああ。もう彼とこうやって出かける事はないんだわ。
一抹の寂しさを感じつつも これで良かったのだと納得させる。
浮気なんてする気はない、けれど男性と出かける甘美な誘惑は捨てがたい。
女友達では得られない高揚感がたまらない。
そこまで考えて、笑い出しそうになった。
私は浮気がしたいのか?
昼ドラのような?
土壇場で無理だと思ったのに?
チラリと結城さんを盗み見る。
彼とそんな関係になったらと妄想したこともある。
今日なんて独身時代に戻ったみたいに はしゃいでしまった。
もしさっき、彼が部屋を出ず口説いてきていたら私に拒めただろうか…。
こんな素敵な人と めくるめく愛の行為に堕ちていったら…。
ないわ。
だって、彼はとても素敵だけど私はただのオバチャンだもの。
シワもシミもある。
二人産んだ体は崩れに崩れて、お腹なんて三段腹よ?
こんな体、彼に見られたら死んでしまうわ。
…もう若くないんだと痛感させられたわ。
また視線を窓の外に向ける。
ちょっと間抜けな終り方だったけど、久しぶりに女になれたデートだったな。
暗がりを抜けて、車は五月の店の駐車場に停まる。
そこには見慣れた私の車がある。
「今日は色々とご迷惑おかけしました」
ペコリと頭をさげる。
「またお店の方にも顔をだしてくださいね?」
私のせいで客が減っては五月に申し訳ない。
そういう意味でも客との恋愛はご法度だなと痛感した。
…良かった。何もなくて。
ホッと息を吐くと膝に置いた私の手に結城さんの手が重なる。
え…!?
反射的に顔を上げると彼が熱い目をしていた。
「…好きだ」
低く掠れるような声が耳に届いた。
口説かれるはずないと安心していた矢先の告白に腰がくだけそうだった。
「好きだ…」
もう一度ゆっくりと囁いて、そっと近づいてくる顔。
あ……
「だめ…」
口の前で手のひらをかざすと彼の唇が触れ、押されるように私の唇に当たる。
手のひらが焼けるように熱い。
なんなの?これ…。
泣き出しそうなほど狼狽える。
「好きだ」
手の中で唇が動く。
なんて刺激だ…頭が真っ白になる。
「だめ…」
カタカタと内側から震えてきた。
怖い…。
小刻みに震える私をじっと見つめながら彼は動かない。
な、なに?何が起こるの!?
昼ドラの官能的なシーンが頭をよぎる。
車の中で淫らに絡み合う男女。
あっ!!
私、下着つけてない!!
クリーニングに出さなかったのだから当然濡れたまま。
その事に気づいたのは乾いた服が返ってきた時で 悩んだすえにビニール袋に入れて鞄にしまったのだ。
今、強引に進められたら彼にバレてしまう。
嫌だ嫌だと拒んでおきながら、その実 下着も着けずに男の車に乗って…。
「や……」
涙が溢れた。
「…ごめん」
そう言うと、結城さんが体を離した。
一度溢れた涙は なかなか止まらず、長い長い沈黙が流れた。
「裕子さんを困らせる気はない」
私が泣き止む頃、ポツリと呟いた。
「ただ、僕が君を好きなことを知ってほしかった」
私を見ないように じっと前を見ていた。
「私は浮気できる女じゃないです」
「分かってる」
「…離婚する気もないです」
愛じゃなくても情はあるのが夫婦だ。
「僕も離婚する気はないよ」
なら、どうして?
私を都合のいい女にでもする気なの?
思わず彼を見る。
「それでも君が好きなんだ…」
掠れた甘い声…、熱にうかされた目が私を捉えた。
なんて拙い告白なんだろう。
今時、中学生でも もっと洒落た事を言う。
そう思うのに…
視線をはがせない。
「好きだ…」
熱い囁きは唇をかすめていった……。