No.1 彼が私を見ている…
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
ニッコリ微笑むと、無口な彼の代わりに友人らしき男性が生二つと言う。
いつもの光景に私も復唱して席を離れる。
いつからだろう、背中に視線を感じるようになったのは…。
目の端で彼を見れば、彼もまた目の端で私を捕らえているようだった。
なんて、自意識過剰かしら…。
少し笑って ため息をつく。
名前も知らない彼は、濃紺のスーツにメタルフレームの眼鏡をかけて、少し冷たい感じがした。
年は50を回ってるだろうか、落ち着いた渋さを漂わせていて、普通なら そんな人と知り合うことなんてなかった。
人生とは思わぬことが起きるもんだと他人事のように思っていた。
来年から大学生になる息子と高校生の娘の教育費のために いよいよ私も専業主婦をやめ働き出さなければならないとなった時に小料理屋をやっている幼馴染みが一緒に働かないか?と声をかけてくれた。
夜の仕事ということで主人も少し難色を示したが彼女と一緒なら安心だと最後は折れてくれた。
お金が必要と言う切迫した懐事情も背中を押したのだろう。
引っ込みじあんな私に勤まるかと心配したが、幼馴染みの五月が上手に助けてくれるし、何より客筋が良く、毎日楽しく働かせてもらっていた。
「裕子ちゃん、俺の女になれ」
今日も私の手を離さないで常連の田中さんが口説いてきた。
「ええっと…」
いつもはイイ人なんだけど酔うとこんな感じで困った人になる。
「なかちゃん、ちゃんと役にたつもん持ってんでしょうね〜?」
カウンターの中から五月が笑う。
「俺は生涯 現役だ」
そう言って、こちらもガハハと笑う。
「なら、裕子の前にアタシが味見してやるから、そこで出して見せてみな!!」
ほれほれと菜箸を振る。
「ママは好みじゃないからな〜」
「今日の料金、三割増しだな!!」
ちょっと怒ったふりをして五月が言った。
その隙に捕まれていた手をほどいて席を離れる。
田中さんの言動には最初こそビックリして固まったが、彼自身に その気はなく挨拶がわりのようなものだと最近わかってきた。
酔いが回りすぎて困る時は五月が上手に引き離してくれる。
夜の仕事をしてみて知ったのは、そういう客が多いと言うことだ。
明るいスケベというのか、その気はないけど口説いたり ちょっかいをかけてきたり、呑み屋の席ではエッチな話が一番 罪がないらしい。
そんな中で彼は異質だと思った。
いや、夜の世界では この店の雰囲気こそが異質なのかも知れない。
なんて考えながら洗い場で汚れ物を洗っていると座敷の上座に座る彼と 目が合った。
それが気恥ずかしくて、視線を泳がせてしまう。
それでも…また彼を盗み見る。
連れの男と話をする口許には薄く笑みが浮かんでいた。
男の余裕を見せる彼は、どんな仕草も様になっていて目を奪われる。
世の中に こんな人がいるのかと思うほど、男の色気というものを振り撒いていた。
いや、その色香に酔ってるのは私だけかもしれない。
げんに五月は、田中さんに話すように彼にも絡んでいるから…。
五月と話す時、フッと吹き出す彼を可愛いと思うと同時に そんな風に笑わせる五月に嫉妬した。
それを危険だと分かっていた。
この感情のざわつきには覚えがあったから。
でも、嫉妬したと自覚があるあたり、もう手遅れなのかもしれない……。