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甘党と酒やけ

獅子となる

作者: 煤竹

 昔々、ここではないどこか遠くの世界の話。


 長らく続いていた国同士の争いに終止符を打ったその日、王太子から王へと成る戴冠の儀を済ませた男は夜通し続くものと思われた祝賀の席を早々に離脱して、己が妻の待つ場所へと向かった。

 後ろへ撫で付けた赤褐色の髪の上にこの国の王たる者のみが戴くことの出来る金の宝冠を乗せて、後から小走りで着いてくる者たちを振り切る勢いで廊下を走っていた。


「王よ、お待ち下され」


 老いた声が呼び止めようとするが、


「黙れ」


 この一言で切って捨てられてしまった。

 けれど老いたりと言えど王となった男の教育係として過ごした長い年月が、前を行く背中を止めなければと、老骨に鞭打って追い縋る。


「いいえ黙りません。王が落ち着きを取り戻されるまでは決して」

「俺は落ち着いている」

「ならば何故そのように急いておられるのです。王たる者、常に泰然自若として……」

「五月蝿いぞ、爺! 明日からちゃんとしてやる!」


 だから今夜は好きにさせろ!


 そう言って男は被っていた宝冠を後ろへ放り投げると、重しが無くなったと言わんばかりに走る速度を上げてあっという間に姿が見えなくなってしまった。


「ご無事ですか!」


 駆け寄る衛兵に大事ないと伝えた老人は、転びながらも落とさぬように受け止めた宝冠を胸に、体ばかり大きくなった子供のような彼の方を思い、追おうとする衛兵を呼び止めた。


 今夜限りの我が儘を見逃してやろう、と。

 悲しげに呟く老人の言葉に、誰も言葉を挟むことは無かった。








 無用な灯りの落とされたその部屋はほの暗く、男の訪いを静かに拒んでいるようにも男には思えた。

 それは部屋の外に控えていた侍女から既に奥方様は就寝されているのでとかなんとか理由を付けてこの国の王たる男を追い返そうとしたからかもしれない。職務に実直なその姿に感心はするけれど今はただ煩わしい。呼ぶまで入るなと言いつけて、男は室内へと滑り込んだのだった。


「おかえりなさい」


 眠っているはずの妻から掛けられた声に思わず肩を跳ねさせた男は、そそくさと扉から離れて寝台の脇に立っている妻の元へ近付いた。


「…寝ていると聞いたが」

「今夜ばかりは寝ていられないもの」


 男は大きな体を縮こまらせながら自分を見上げ微笑む妻と視線を合わせる。

 美しくも儚く、影の薄い印象。

 かつて大輪の華を思わせたその面影は、この暗い部屋の中では見付けられないかもしれないと、男は思う。


「体はどうだ。辛くないか?」

「とても良いのよ。ほら、自分の足で立てるでしょう」


 くるりとその場で回って見せる。柔らかな素材の夜着の裾が翻り、枝のように細くなった足首を顕にする。

 もしよろけたらと構えていた男の手はしかし、杞憂に終わった。


「ね?」


 誇らしげに笑う妻の顔は、大輪の華が咲いたよう。

 ようやく男の顔に安堵の笑みが灯り、妻の手を握る。


「ああ、元気になったようだな。ノーラ」

「あなたもやっと笑ってくれたわ。カレル」


 二人で笑い合い、親愛の口付けを交わした。

 久々の甘やかな触れ合いに男は更に深くを求めたが、妻は舞う蝶のようにそれを躱してしまう。


「だめよ」

「何故だ」

「止まらなくなるもの」

「当然だろう。俺はお前に触れたくて仕方がなかった」


 男の直截な告白に、蒼白い顔色の妻が頬を染める。


「倒れた父に代わり各国へ停戦の働きかけをしていた最中(さなか)、気が気でなかった俺の思いをお前にも味わってもらいたいものだ」


 薄紅を刷いたような頬に口付けてから己の頬を寄せ、折れそうに痩せた体を抱き締めた。


「身体をこんなにして……」

「ごめんなさい」


 身動ぎを許さない男の腕がなお妻の体を拘束し、筋の浮く細い首筋に口付けた。


「これじゃあ心行くまでお前を抱けないじゃないか」

「カレルっ」

「仕方が無い。お前に合わせてゆっくりしよう」


 妻の胸の前にあるリボンを紐解けば、ふわりと直ぐに中の果実が顕となる。妻は焦りながら前を掻き合わせて男の悪戯に目を剥いた。


「だめよ、ねえ止めて」

「止めない」

「見ないで欲しいの。ねえ、カレル」

「俺は見たい。俺を求める言葉しかいらない。俺を拒まないでくれ、ノーラ」


 ―――どんなお前でも、俺は死んでしまいそうになるほどお前が愛おしいんだ。









 優しい時間を重ね、久々の共寝を楽しみながらもどこか淋しい思いを男は抱いていた。


 肉付きの薄くなった自分の身体を厭い、離れようとする妻を柔らかな束縛で腕の中へ囲い、汗の引かない肌へそっと口付けた。


「逃げるな」

「だって……」

「綺麗だ」

「そんな……嘘」


 腕の中で動揺する妻を宥めながら、口にする。


「お前は綺麗だ。何も変わらない。俺の愛するエレオノーラ」


 男は何度も何度も、肩に、背に、髪に、腕に口付けを、愛の囁きを贈った。


 愛している。これまでも、これからも、俺の愛は全てお前に捧げる。だから、だから。


 次第に男の声は潤みを帯び、妻を抱く腕を震わせた。


「だから、ノーラ……俺を、置いて、逝かないでくれ……っ」


 逝くなら共に。

 そう願い、泣く男の腕を妻は撫でた。

 胸に染み渡る男の慟哭。彼の申し出を嬉しいと感じる私はこの国の后に相応しくはないと彼女は思う。

 温かな涙が肌を濡らすのを心地好いと感じながら、妻は言った。


「だめよ」


 キッパリと否を告げられた男は頑是無い子供のように首を振る。


「お前がいくなら俺もいく。どこまでも、いつまでも」

「だめだったら」

「俺を拒まないでくれ」

「あなたを連れていきたくない」

「どうしてだ」

「あなたはこの国を治めなくてはいけない。今日、あなたは国王となったのだから」


 それにね、と嬉しげな声が続く。


「あなた、民からなんて言われているか知っている? アルギレオの獅子ですって。ふふ、かっこいいわ」


 男の腕を緩ませて身を反転させた妻は男の身体に抱き着いた。骨が浮き出る腕を精一杯伸ばし、逞しい身体に巻き付かせて、我が事のように誇らしげに語る。


「私の愛した人が、私を愛してくれる人が、そうやって皆からの信頼を集める人になっているのを聞くととても嬉しいの」

「ノーラ、俺は……」

「聞いて、カレルヴォ。あなたは王となるべくして生まれたの。血筋のことだけじゃない、あなた自身の才覚よ。……私はこの国から、あなたを奪いたくはないわ。それにね、最近はとても具合が良いの……だから今も、肌を合わせられたし。そんな私に逝く逝かないっていう心配こそ、私に失礼だと思わないの?」

「それは、すまん」


 妻はくすくすと笑い、男はしおらしく謝った。

 普段は大きくて頼り甲斐のある人なのに、一たび弱気になるとどこまでも落ち込んでしまう。そんな男を愛おしく思う妻は、「約束して」と言った。


「今後私がどうなろうと、決して後を追わないこと。国王としての責務を果たすこと。この国を、獅子の導くアルギレオ国を、争いの無い平和な国にすると、約束して」


 澄んだ眼差しが男を見つめる。それは優しくもあり、穏やかでもあり、厳しいものだった。

 妻の言わんとしていること、それらをゆっくりと噛み締めて心で味わう。


 後追いを許さず、王としての責務を果たせ。

 その言葉は、ずしりと男の心を重たくさせる。


 それは、つまり。

 彼女の死後、新たな妻を娶り子を成せ。妻が言いたいことはそういうことなのだと男は理解した。


 男がそれは嫌だと突っ撥ねることは簡単だが、妻が己以外の女を抱けとその口にしたことを思えば安易に拒絶することは赦されない。彼女も断腸の思いのはずだ。そうであって欲しい、と男は揺れる眼差しで妻の顔を見た。


 妻の口からそう言わせてしまったのは弱い自分なのだと思えば、何と不甲斐無いことかと己を詰る。

 はらはらと零れ落ちる涙をぐっと堪え、男は小さな妻の頭に手を添えて、胸に押し当てるように抱き込んだ。


 今から嘘を言う。その表情を、妻に見せたくなかったから。


「……約束、する」


 胸が痞え、言葉にも妙な間が出来たが何とか言い終えた。

 すると言ったそばから男は心の中ではそんなものくそくらえだと切り捨てていた。己の生涯に妻は一人で良い、カレルヴォ・シュルヴェステル・アルギレオの正妃はただ一人、エレオノーラ・シュルヴィ・アルギレオだけだ。子などいらない。お前以外と子を成すことなど、考えられない。


 そんな愚かともいえる心の内を妻が見透かさないよう、男は厳重に心に蓋をする。

 心安らかに、残された時を過ごせるように。


「獅子と謳われたことを誇りに思い、その名に恥じないように勤めよう」


 嘯く男の胸の中で、妻は優しい声を発する。


「ありがとう」


 男の涙が再び零れそうになるほど、妻の声は穏やかなものだった。

















 暗鬱な空気が垂れ込める。

 国中が悲しみに暮れ、全ての民が喪に服し、誰もが天に召された魂を悼んだ。


 現王カレルヴォの唯一の妃が今日、逝去した。

 不治の病が体を蝕み、あっけないほどに短い生涯を閉じてしまった。カレルヴォ王の即位式から五日、誰もが耳を疑う訃報だった。


 国を挙げての葬送の儀には、親交の深い国々からの参列者も多い。

 その中で一際目立っていたのはアルギレオと国境を同じくするサフォーデュ国の王。その黒髪と同じ漆黒の衣装に身を包み、他を憚ることなく泣いている姿に多くの参列者の涙を誘った。


 聖歌隊により鎮魂歌が奏でられる中、硝子の棺に収められたエレオノーラ妃の前に一人佇むカレルヴォ王は、背後で泣いている悪友の声さえ聞こえておらず、ただ、眠る妻の顔をじっと見ていた。


 綺麗な化粧を施された表情は、血色の良い健康そのもののように見える。だが、よく見れば頬はこけ、皮膚が骨に張り付いているだけの細い細い、弱り切った姿だった。

 つい五日前に肌を合わせたばかりだというのに、棺の中にいる彼女は見たことの無いような姿に男は思えた。だが紛れもなく眠るこの人は俺の妻なのだと、棺の傍らに立ち静かに見下ろす男は涙を見せず、愛おしい人の最後の姿を目に焼き付ける。


 ―――約束。


 耳に蘇る妻の言葉。


 ―――約束を果たさねば。


 妻の望んだ願い。その全てを叶えることは最早出来そうにないが、獅子と呼ばれるこの身に恥じぬよう、お前のいない残りの人生を振舞おう。


 妻の棺を前に、男は新たな誓いを立てる。


 もう涙は見せない。

 悲しみや寂しさ、俺の弱い部分は全てお前に預ける。

 いつかお前の元に逝く日まで、俺の弱い心を慰めていてくれ。


 顔を上げ、厳かに振り返る。参列者が皆、男を見つめていた。

 全ての者の悲しみを受け止めた男は、自身の悲しみを一切見せず、最後まで堂々たる姿を見せつけた。








 アルギレオの獅子と呼ばれたカレルヴォ王は、エレオノーラ妃が亡くなった日から一度も泣くことは無かったという。



 妃の葬儀の日から遠い遠い、ある日を境にするまでは―――。





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