そのよん
「対象、民間人と接触しました」
報告飛び交う第一即戦室。緊張感で物理的な殺傷力さえありそうな空気の中、沢城は強く歯噛みする。
「防衛線を突破されたか」
「第三班は全滅。Bルートより第四班が民間人の保護に向かっています」
「民間人は同校の生徒か」
「残存生徒は六名。うち一名は負傷しているとのことです」
「負傷? 対象の仕業か」
「いえ。おそらくは特雨によるものかと。AGからはお互い手をつないでいたため対象は捕捉できなかったのではないかとの報告が上がっています」
「そんな迷信などどうでもいい。情報規制はどうなっている」
「レベル3まで開示。環状線は封鎖。フタマルで完了します」
そして沢城は、ついにその問いを口にする。
「──アレは間に合ったのか」
一瞬、オペレータの声が詰まる。それは決して沢城の問いを理解できなかったわけではない。
「対象には、予定通り〝火狐〟があたっています」
『〝スリーキングス〟より〝ペスカデーロ〟へ。残存生徒六名を確保。報告どおり負傷者は一名。これより帰投する』
インカムの向こうで、姉の部隊が本部へと報告する声が聞こえた。
駆け寄ってきた三名の生徒が、負傷した生徒たちを体育館の中へ文字通り引きずり込んだ直後のことだった。
しかしまなはまだ仕掛けない。
彼我の距離は五メートル弱。余裕で手にした日本刀の間合いではあったけれど、まなは動かず、右足を前、左足を後ろに、わずかに腰を落としている。
重心を後ろ足に置き、手を左腰の長刀の柄に添えて、いつでも対応できるように臨戦態勢で敵を睨みつける。
幸い眼前の赫眼もまた、面をうつむけたまままったく動こうとはしなかった。まななどいないとでもいうように、足元の──かつては自らの右腕だった──水溜りを凝視している。
あれほど傍若無人だった彼女がなぜ今まったく微動だにしないのかはわからない。が、まなにとっては好都合だった。せめてあの生徒たちがこの学校の敷地外へ出るまではことを構えたくなかった。ダブルナンバーである彼女と自分がぶつかりあえば、こんな小さな学校などひとたまりもないだろうからだ。
雨音は次第に強さを増してゆく。
吹きすぎる風がまなの絹糸のような髪を揺らす。赫眼の足元の水溜りにかすかなさざ波が立って、
──違和感。
なんだろう、まなは思う。なにか、重要なことを見落としているように思う。それがなんなのか、考えるための時間が、だけどまなには許されていなかった。
ゆっくりと、赫眼が左手を上げ、こちらへ人差し指を向けるのが見えた。
──させるか。
地を蹴った。大きく右足を踏み込み、足首を基点に回転させつつ迅速の勢いで抜刀。
が、踏み込みが浅かった。赫眼の細い胴を狙ったつもりが、わずかに届かない。原因は右足のローファー。内側がいつのまにか焦げて欠落、紺のソックスのつま先が露出していた。
初撃のときだ。回転力と地面との摩擦で突進力を相殺したあの時。
バランスを崩した。これではヤツに届かない。だけど走り出した剣先は止まらない。
──なら、
軌道をわずかに修正。今にもこちらを指差そうとしていた赫眼の左手を、迷うことなく手首から跳ね飛ばしていた。
飛沫となって四散する赫眼の掌を宙空に捉えながら、まなは勝利を確信する。これでヤツの攻撃手段は奪った。あとは返す刀で──
まなの目の前で、赫眼の少女の指が、ぴっ、とまなの眉間を捉えていた。しかも五本。
我が目を疑った。なぜだ。初撃で右腕を飛ばした。今やヤツは両腕を失っているはずだ。なのに──
さっきの違和感の正体はこれか──まなは把握する。こいつの身体は赤い雨でできているはずなのに。赤い雨のくせに、どうしてかつての右腕だったものが、コンクリートの上で水溜りになっているのか。
気づかなければいけなかった。
そこに水溜りとなっているということは、本体同様、宙に浮いているということだ。宙に浮いているということは、それはまだ死んではいないということ。
うかつだった。
後悔するもすべてが手遅れだった。さっきの一瞬で水溜りから復元させた右腕を、すでに赫眼はまなへめがけて振り下ろすところだった。
コーティングされた渡り廊下の屋根をやすやすと突き破って、それは落ちてきた。気違いじみた圧力で押し出される水の柱。しかも指の数と同じく五本が連なって、まるで巨大な瀑布を見上げているかのようだった。
間に合わない、心ではそう絶叫する傍ら、身体の方が勝手に動いていた。
踏み込みきった右足を、再度足首を基点に旋転、
帯刀していたもう一本の短刀を左の逆手で引き抜き、瀑布がごとき雨のカーテンを両断していた。
短刀は、そのひとふりでもう使い物にならなくなっていた。ぼろぼろになった刃、両脇をすり抜けて地面へと消える引き裂かれた雨のカーテン、迸る雫と残霧の狭間、無表情に輝く赫い瞳が見えた。
吐き出してしまいそうになる吐息を奥歯と共にかみ殺して、まなは躊躇することなく短刀を投げ捨てる。最初の一撃を振り抜いたまま行き場を失っていた右手をひっつかんで引き寄せると、
「がぁっ!」
振り下ろした刃は、今度こそ赫眼の身体を一刀両断していた。
左肩から右脇腹へかけて袈裟斬りに真っ二つにされた少女の上半身が、ばしゃりと音を立ててすのこの上で四散する。
同時に、膝からくずおれるようにして下半身もまたその後を追った。
大きく息をついて刀を引き戻すまなは、だけど決して気を抜こうとはしなかった。
まだ終わっていない。なにも、決着していない。
手にした刃は、復活させた古の技術により精製されたウーツ鋼と、モザイク社より技術供与された形状記憶カーボナイトを主とした複合鋼刃。無論無銘ではあるが、開発者たちはまなのコールサインからなぞらえて、〝冬御雷〟と呼称している。対0017用に開発されたまな専用の特注品だ。
だけど足りない。さっきの右腕の時と同じだ。水溜りとなってすのこを濡らす時点で、彼女はまだ死んではいない。斬り落とすだけではだめなのだ。その証拠に、ふたつの水溜りは傾斜もないこの渡り廊下を奥へ奥へとひとりでに流れてゆく。ひとつになって渦を巻く。
まなは、インカムの向こうへ呼びかける。
「姉さん」
姉は応えない。こんな時に、まだへそを曲げているのか。
「……〝火狐〟より〝スリーキングス〟へ」
『こちら〝スリーキングス〟、オーバー♪』
単純なひとでよかった、と思いつつ、まなは左手の腕時計へと目を落とす。
「一六:四三、CF起動許可申請。レベル2」
一瞬で状況を理解したように、姉の声が硬化する。
『了解。レベル2許可申請。パスワードをどうぞ』
「〝このお手てに、ちょうどいい手袋をください〟」
『オーケイ、声紋照合──クリア。CFレベル2。申請承認』
ばちりと、まなの全身が輝く。闇夜に、かすかに金色の髪が燐光を放つ。心地よい微振動が身体の芯を揺らしている。理屈ではない。いつだってまなは思う。いい意味でも悪い意味でも、これが〝力〟なのだと。
まなは、不要となった短刀のものも含めて、腰に差した二本の鞘を躊躇なく投げ捨てる。
抜刀術においてこそ真価を発揮するまなにとって鞘を捨てるなど愚の骨頂。だけど背に腹は替えられない。これから扱おうとしている刃は、到底鞘に納まるものではないからだ。
手にした日本刀を、今度は諸手で握りしめる。わずかに腰を落とし、地面すれすれまで切っ先を引き絞る。
彼我の距離はさっきの倍──十メートル弱。渦を巻くかつては少女だった水溜りが、再び元の形を成そうとしていた。
まなの唇が、とうとうその言葉を発する。
「──最終安全弁解放。カウンターフォース、起動」
両腕が、ばちりと弾けてしまったかのような感覚。手にした刃が激しく輝き、眩い白光で闇夜を切り裂いていた。
加えられているのは、気の遠くなるほどの圧力。振り絞った愛刀の切っ先、その周囲の空中元素が滅茶苦茶に加速して、アーク放電を引き起こしていた。
相手は、赤い雨の化身。斬ってだめなら、跡形も無く蒸発させてやるだけだ。
プラズマ化した刃を、より一層引き絞る。
金色の髪の向こうで、まなの右眼が称えているのは、血よりも濃い、赫。
元の姿を取り戻した赫眼が、アンバランスな右手を、
向けられる前に地を蹴った。
右前方、だけど動きを読まれていた。着地した時にはもう、異形の少女の不釣合いなまでの人差し指がまなを完全に捕捉していた。水の瀑布を無慈悲に吐き出す〝歪み〟は、赫眼に指差されたが最後、地の果てまでも追尾してくる。逃げ場などどこにもない。が、だからこそまなは動かなかった。しゃがみ込んだ両膝に、凶悪なまでの瞬発力を溜め込んだまま、赫眼の掌が無造作に振り上げられ、即座に振り下ろされる様をただ黙って見ていた。頭上の空間が歪み、そして、
屋根をぶち抜き、人体のみを悪魔がごとき圧力ですり潰す凶悪な水の瀑布は、だけどまなの金色の髪を数本奪うだけで精一杯だった。
落ち来る水の瀑布が、虚空の歪みからまなの頭上へ至るまでコンマ一秒。それはわずかというにも憚られる一瞬だったけれど、まなが左前方へと地を蹴るには十分すぎる時間だった。
指差されたが最後、どこへ逃げようと決して逃れることのできない〝歪み〟。
だったら、そこから瀑布が吐き出されてから躱せばいい。
──いや、そんなことできるのはあんたくらいのもんだからね。
かつての無神経な姉のツッコミに一瞬鬱が入りながらも、まなはさらにギアを上げる。三度差された指。襲いくる瀑布を再び右前方へと跳んで躱した。
そこはもう、まなの間合いの中だった。
慌てたように、赫眼が左掌をまなへと突き出す。だけどまなはまったく頓着しない。そこから赫眼は掌を振り上げ、振り下ろすというふたつの動作を経なければ自分を屠れないのだから。
もとより振り上げさせるつもりもなかった。まなはぎりぎりまで引き絞った切っ先を渾身の力で跳ね上げようとして、
視界が、どうしようもなく歪んだ。
それが、眼前に突き出された赫眼の掌から放たれた特大の水柱のせいだと、自分でもどうして気づけたのかわからない。
うかつだった。掌を振り上げて、振り下ろすという挙動の多さ。躱せと言っているようなものだとたかをくくっていた。まさか、今のこの自分の油断を呼ぶためにわざわざ今まで謀ってきたとでもいうのだろうか。
──いいだろう、とまなは思う。
隠してきたのは、こちらも同じだ。
今度こそまなは躱せなかった。赫眼の掌から放たれた横殴りの瀑布に、なすすべもなく突っ込んで、そして、
それは人体限定ではあるけれども、おそらくトン単位の圧力であることは間違いなく。くらったが最後、肉はすりつぶされ、骨は砕かれ、ただ血だまりだけを残してこの世から消え去るほか路はないはずだった。
なのに。
血だまりなんてどこにもない。消え去るどころか、水滴ひとつ、まなの身体を濡らすことはできなかった。襲いくる水柱を完全に突き抜けて、まなはまったくブレることなく引き絞った刃を跳ね上げていたのだ。
まなの右眼の赫と、少女の亀裂のような赫が交叉して、
──だめ。
今をもってしてなお、まなはその時それが本当に聞こえたのかどうか自信がない。
赫い亀裂の下。幼女を思わせる小さな唇は、こう、言っていたのだ。
──誰にも、殺させない。
切っ先はもう、止められなかった。
まるで、さっきの録画映像を見ているようだった。プラズマの刃は少女の身体をやすやすと両断。直後、莫大な爆煙を残して蒸発した。
水蒸気爆発を思わせる猛烈な突風に吹っ飛ばされたまなは、渡り廊下を無茶苦茶に転がって、北校舎の非常扉にぶつかってようやく止まっていた。
視界は、多量の爆煙で一メートル先も見通せなかった。自分がどういう体勢でいるのかも一瞬わからなかった。最初に戻ってきたのは背中のひんやりとした感触。それでようやく自分が非常口の鉄扉に背中を預けて座り込んでいることに気づいた。
右眼の赫は、消えていた。燐光を放っていた髪が、いつもの金色を取り戻す。
全身が痛い。あれだけ無茶苦茶に吹っ飛ばされ背中を鉄扉で殴打していても、愚直に刀を握りしめている自分に失笑が漏れた。
あたりを見回す。さっき投げ捨てた鞘は見当たらなかった。かまわず、ぎん、とコンクリートに刃を突き立てる。開発者どもが見たら発狂しそうなものだったがかまわない。支えにして立ち上がろうとして、違和感がした。
右足。そういえばそうだった、とまなは思い出す。ローファーの内側が焦げてほとんど用を為していなかった。会敵の時。いつもの対策服であればあの程度のマニューバで欠損するなどありえないのに。スクランブルが命取りだった。
──とはいえ、あれはあれでアレだからヤなんだけど。
『……な! まな!』
唐突にインカムの向こうから姉のがなり声が聞こえた。
『まな! 応答しなさい! まな!』
どうやらいつのまにか回線が不通になっていたらしい。ゆっくり立ち上がりながら、まなはインカムへと応えた。
「……こちら〝火狐〟。対策中ですよ〝スリーキングス〟」
『まな? まななのね? 無事?! ケガはない? ぽんぽん痛くない?!』
「無事です。ケガは少々。ぽんぽんは痛くありません」
「0017は?!」
前方の水蒸気はいっこうに晴れる気配がなく。数メートル先もまったく見通すことはできない。かつては、あの少女だったはずの爆煙。
肩口から脇腹へ、袈裟斬りにまっぷたつにする直前、聞こえた声を思い出す。
──だめ。
まなには、未だに判然としない。
──誰にも、殺させない。
どういう意味だったのだろう、あれは。
『まな?! ちょっとまな?!』
しまった。慌ててまなは姉へと応える。
「立ち込める水蒸気で視界がゼロです。目視は不可。確認できません。〝ひまわり〟のセンサーで捕捉できませんか?」
『上が渋って使わせてくんないのよ! 相手はダブルナンバーだっつってんのに! あの守銭奴! オールバックハゲ!』
そのオールバックハゲとやらがいったいどういう髪型なのかについて激しくツッコみながら、内心、まなはほっとしていた。
──見られてなかったんだ。
だったら、最初から避けずに吶喊していればよかったと思う。
「CF反応はありません」
改めて状況を報告する。
「ノイズがひどく、私自身損傷しているのかもしれませんが、少なくともさっきまでのCF反応は感じられません。完全に消滅しました」
正直まなは、拍子抜けしていた。
ダブルナンバーといえば、昔話だけの存在だった。
シングルナンバー──〝オリジナル〟の、いわば直系。アカシックゲートとこちら側を自由に行き来するといわれ、その力はこの世の物理法則にまったく囚われないとまで言われた本当の意味での魔物。
それにしてはあっけなさすぎると、まなは思う。所詮昔話は、昔話だったのだろうか。人から人へ、渡り歩くうちに無駄で無茶な尾ひれがついていっただけの話なのだろうか。
むせ返るような水蒸気が完全に視界を断っているけれど、関係ない。どんなに探ってもさっきまでの不気味なまでのCF反応は、かけらも感じることはできなくなっていた。
「五分ください」
インカムに向かって、事務的に言い放つ。
「水蒸気が晴れ次第、確認します」
『なに悠長なこと言ってんの!』
インカムからの声がひどいハウリングを起こしたのは、決して通信不良のせいばかりではないだろう。
「ね、姉さん、耳痛い……」
『CF反応とか目視できないとか関係ないわよ! いい?! そのむしゃぶりつきたくなるような耳たぶひんむいてよーく聞きなさい!』
胸騒ぎがした。
『雨は!』
これまでのCF反応にばかり気を取られて、完全に不意打ちだった。
『くそったれなこの雨は! まだやんでないのよ!?』
声が、頭を離れなかった。
──だめ。
それは、さっきの記憶の残滓だったのか、それとも、
──殺しちゃ、だめ。
水蒸気の煙幕の向こう──びいどろのような赫い瞳が、こちらをにらんでいた。